楽園の瑕疵 1
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「……怖いんか?」
平次にそう問いかけられて、新一はちいさく首を振った。
けれど、身体がこわばるのやかすかに震えるのを、おさえることができない。そんな新一の様子は、平次にも伝わっているだろう。
明かりを落とした寝室の、柔らかな感触のシーツの上に押し倒されて。
灯のない室内は暗いけれど、満月をすこし過ぎた月の光がカーテン越しに窓から入り込んで、お互いの表情を判別できるくらいには照らし出している。
平次がそっと新一の頬に触れると、新一の身体がびくりとこわばる。
その様子に平次が困ったような顔をしたのを見て、新一はあわてたように言った。
「……ほんとはちょっと怖いけどっ……でもそれは、おまえが怖いとか、嫌だとか……そういうんじゃねえからなっ。だから……だから…………」
必死に言い募る新一が愛しくて、平次はその額にひとつくちづけを落とした。
額から、まぶたや頬や鼻に、いくつもやさしいキスを落としていく。新一を、安心させるように。
やさしいキスと、そっと髪をなでるあたたかな手に、自然に新一の身体のこわばりが解けていく。
新一は、その身体がコナンであったころから、平次のことが好きだった。
平次に好きだといわれたのも、まだコナンの姿のときだった。
キスは、何度もした。お互いの身体に触れあったこともある。それでも、身体をつなげたことはなかった。子供の身体では、どうしても無理だったのだ。
そして、組織が壊滅して、哀が解毒剤を開発して、やっと新一は元の身体に戻れた。
新一の身体で、平次と初めて過ごす夜。
「……工藤」
低いやさしい声で呼ばれて、新一は閉じていた目をあけた。
月明かりで、やさしく自分を見つめる、平次の顔がすぐ近くにあった。
「好きや……」
ささやかれるたびに、吐息が同時にくちびるをかすめる。
「ほんまに、愛しとる……」
響きが、耳を打つ。言葉が、耳から入って脳を浸食するように、じわりと広がる。
新一は、どうすればいいか分からなくてシーツの上に投げ出していた腕を、はっきりとした意志を持って、平次の首に回した。
「俺も、愛してる」
思いのほかすんなりと、あふれる想いは正しい言葉に変換されて、こぼれでた。一緒に、涙も。
平次はこぼれる涙を一粒なめとって、それから新一にくちづけた。
どうして今夜は、月夜だったのだろう。
街灯のすくない暗い道にも月光は容赦なく降り注ぎ、逃げる彼女の姿を、追跡者たちの目にはっきりと映し出していた。
逃げたいのに、早く逃げなければならないのに、足がうまく動かない。もつれて、今にも転びそうだ。悲鳴をあげたいのに、声もうまくでない。きっと、さっき、追いかけて来る男達が現われた瞬間に、吹き付けられた何かの薬品のせいだ。
「あっ!」
つまづいたわけでもないのに、膝の力がかくんと抜けて、少女は道路に転がった。
急いで起きあがろうと、力の入らない腕で上体を起こしたとき、彼女の周囲を数人の男が取り囲んだ。
「あっ……!」
「手間かけさせやがって……」
男の一人が、細い腕をつかみあげた。
力が入らなくて、得意としていたはずの空手も、何の役にも立たない。
それでも必死に暴れるが、そんなものは彼らにとって、小枝が風に揺れる程度のことでしかなかった。むしろ、そんな抵抗が嗜虐心をあおって、楽しいくらいだ。
「さっさと連れていこうぜ」
男達はやすやすと少女を抱えあげて、さらに暗い路地裏へと入って行った。
身体を切り裂かれる痛みに、新一はかすかな悲鳴をあげた。痛みと苦しさに、勝手に涙があふれる。呼吸すら、ままならない。すがりついていた平次の腕に、思わず爪を立てた。
「……大丈夫か?」
うっすら目をあけると、心配そうな平次の顔が見えた。すこし苦しげに、歪んでいる。
本来の機能ではないところに入り込むのは、新一だけでなく平次も痛いのだろうし、この状態で自分を抑え動かずにいるのは、ひどく苦しいのだろう。それでも、新一を気遣って、我慢してくれている。
平次のあたたかな大きな手が、なだめるように、新一の頬や髪をなでる。
新一は、何度か大きく呼吸を繰り返して、できるかぎり身体から力を抜こうとつとめた。
「……も、平気……」
「ほんまに?」
「ほんとに」
新一の答に、平次は気遣いながらゆっくりと動き出す。
ただの肉の固まりの触れ合いなのに、どうしてこの行為だけ特別な意味を持つのか。
新一にはわからない。おそらくは、正しく答えられる者も、この世界にそう多くはいないだろう。
それでも、多分こうして、ひとはちいさな死を与えられ、そして代わりに生の源を受け取る。ぬくもりのなか、全身で愛する相手を感じて。そうすることで、愛する相手と同化するような錯覚と安心感と満足感を得るのだ。
(あいしてる)
焼け付くような熱さと、息もできないほどの圧迫感と、切り裂かれるような痛みの中で、新一は不意に思った。
それが痛みでも苦しみでも、今自分は、むしょうにしあわせなのだ。
(あいしてる)
この気持ちを、どう伝えればいいのか、分からなかった。もどかしさに、平次の身体を引き寄せて、下唇に噛みつくようにくちづけた。
そんな新一の身体を平次はやさしく抱きとめて、その耳元に、ささやいた。
「俺も、愛しとるよ」
新一は、きつく自分の身体を平次にすり寄せた。錯覚ではなく、本当にこの身体が溶けて混ざりあってひとつのものになってしまえばいい。そう願った。
細くしなやかな手足は、複数の男達によって、地面に押さえつけられていた。圧倒的な力の差のうえ、かがされた薬のせいで、抵抗らしい抵抗はなにひとつできなかった。男達のなすがままにされていた。
服はすでに破かれたり切り裂かれたりして、身体を覆う役目は果たしていなかった。月明かりに浮かび上がる白い肌に、男達のいくつもの手や舌やその他のものが、縦横無尽に這いまわる。
口に押し込まれた異物によって、悲鳴はあげられなかった。もっとも、薬のせいで、かすれた声しか出なかったけれど。
とどまらずに流れ続ける涙に、気を止める者はいない。いたとしても、それは彼らを喜ばせるだけだった。下卑た笑い声がする。
足の間で動いていた男がやっと離れると、それを待っていた次の男がすぐに入り込んで動き出す。それももう何人目かも何度目かも分からない。
助けは、こなかった。
覆い被さる男達の身体越しに、月が見えていた。
綺麗な、月の夜だった。
新一はだらしなくソファに寝そべって、台所で楽しげに鼻歌など歌いながら朝食を作っている平次を眺めていた。意外とエプロンも料理する姿も似合うな、などと思いながら。
手伝う気はなかった。もともと料理ができないということもあるし、ゆうべのことであちこち痛む身体では、とてもじゃないが台所になど立てなかった。
本当は、こうして寝そべっているだけでも、多少痛む。
それでも、つらくはなかった。痛みだって、甘くしあわせなものだった。
「工藤、オムレツでええんやろ?」
「なんでもいーよ」
たわいないこんな会話さえ、甘く楽しい。
ふと、ほんのすこし前、ベッドで目を覚ましたときのことを思いだした。今朝は、平次の腕の中で目を覚ました。包み込むように抱きしめられて、おはようとキスをもらった。コナンのときにも、一緒に寝ておはようのキスをもらったことはあったけれど、今朝のはなんだか特別な気がした。
もちろん照れもあるけれど、しあわせや愛しさのほうが大きくて、新一も素直におはようのキスを返した。
しあわせだった。どうしてこんなにしあわせなのだろうと思うくらい、しあわせだった。しあわせが、羊水のように満たされて、そのなかに漂っているようだ。
心地よい気怠さに新一が目を閉じたとき、不意に、電話が鳴った。
夢から覚めるように、新一は痛む身体を起こして電話に向かった。平次が台所から顔を出すのを手で制して、電話に出る。
「はいもしもし、工藤です」
『……新一、君?』
受話器の向こうから、女の震えた声が聞こえた。その声に、新一は聞き覚えがあった。電話越しであるうえに、かすれてくぐもって聞き取りにくいけれど、新一はそれが誰か分かった。
「英理さんですか?」
『ええ……』
相手は、幼馴染の母親、英理だった。
彼女から電話がかかってくることなど滅多にない。それに加えて、彼女の口調と様子から、新一は敏感に何かを感じとっていた。
「何かあったんですか?」
『……蘭が…………蘭が………………』
言葉をためらうように、沈黙が流れた。新一は何も言わず、ただ、英理の言葉を待った。
やがて、英理は長い沈黙を、破った。
『 』
「────────────」
すうっと、血の気が引いた。目の前が、一瞬暗くなる。
ぐらりと後ろへ倒れかけたとき、いつのまにかすぐ後ろに来ていた平次の胸に支えられた。
心配そうな顔で、平次が新一を見ていた。相手の声が聞こえなくても、新一の様子から、何かあったのだとすぐに分かったのだろう。
大丈夫か、と、電話の相手に聞こえないように、音にせずに問いかけられる。
新一はそれで我に返った。取り落としそうになっていた受話器を、急いで握りなおした。
「……英理さん。それで、蘭は…………」
『今、米花中央病院に…………』
「……すぐ行きます」
『ええ……お願い……』
新一は震える手のまま、受話器を置いた。
うしろの平次を振り返る。
「なんや、蘭ちゃんに、なにかあったんか?」
「蘭が…………」
新一の声も無惨に震えた。
彼女の笑顔が思い浮かんだ。明るく活発で、やさしかった幼馴染の少女。
「蘭が、レイプされたって──────」
To be continued.
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