楽園の瑕疵 2


 甲高い音を響かせて、平次のバイクが米花中央病院の玄関前へ滑り込んだ。その後ろには新一が乗っている。昨日の今日でバイクに乗るのは新一にはつらかったが、そんなことを言っている場合でも考えている場合でもなかった。とにかくいちばん早く移動できる手段を選んだ。
 バイクが止まった途端、新一はバイクから飛び降りた。
「服部、おまえはここで待っててくれ」
 もどかしげに急いでヘルメットをはずして、平次に渡しながら言った。
 事情が事情なので、平次が信用できる人間かどうかとか、親しい知り合いであるかどうかとか、そういうことではなく、今は新一ひとりのほうがいいだろうと判断した。それは平次も同じで、分かったと短く答えた。
 平次を残し、新一は走って病院の中へ向かった。
「新一君!」
 病院のロビーに入った途端、待っていたようにそこにいた佐藤刑事に声をかけられた。いや実際、新一を待っていたのだろう。
 佐藤刑事がいるということは、事件として警察も動いているのだろう。新一は眉をひそめる。警察が動くということは、それだけ事件を人に知らせることになってしまう。
「こっちよ」
 佐藤刑事は短くそれだけ言って、新一の腕をとって歩きだした。人のいるロビーでする話ではなかった。新一も黙ってついていく。
 そのまま、病院の中でもあまり人のこない奥のほうまで連れてこられると、廊下のベンチに座っていた英理が見えた。
「英理さん…………!」
 新一は、思わず佐藤刑事から離れ、英理に駆け寄る。
 顔をあげた英理は、新一の知っている姿よりも、ひどくやつれてふけて見えた。いつものあの凛々しい姿からはかけ離れている。
「新一君……」
「蘭は……!?」
「今は……眠っているけど…………」
 英理は目の前にある病室の扉を見つめた。ネームプレートは出ていないが、おそらくこの中に蘭がいるのだろう。
「何が……何があったんですか…………」
 新一は尋ねずにはいられなかった。彼女の身に起きたことは分かっていたが、いったい何故そんなことになってしまったのか。
 英理は深くうつむいて、膝の上の両手を握りしめた。その手がかすかに震える。彼女には、それを言葉にすることなど、できないのだろう。
 代わりに佐藤刑事が、まわりに他に人はいないのに、ことさら声をひそめて新一に告げた。
「ゆうべ……蘭ちゃんは買い物に出かけて、そのあとずっと帰ってこなかったそうなの。あんまり遅いから、毛利さんも探されたみたいなんだけど、見つからなくて…………早朝、巡回中の警官が、裏路地の奥で倒れている彼女を、みつけたの…………」
「それで、犯人は……」
 佐藤刑事は、ちいさく首をふる。
「まだ、わからないの。それに、……体内から、複数の精液が検出されたわ……。見つかっても、DNA鑑定での特定は、難しいかもしれない……」
「…………!!」
 それは、強姦ではなく輪姦だったということだ。なんということだろう。もっとひどい。
 それから佐藤刑事はさらに声をひそめた。
「……もしかしたら通り魔じゃなく、計画的な……恨みによる犯行かもしれないわ…………。今、毛利さんの過去の事件の関係者を、洗いなおしてるわ…………」
「……………………っ!!」
 新一の息が詰まった。大きく目が見開かれる。
 小五郎は、世間的に探偵としてある程度名をあげている。そして、似たような事件は付近で特に起きていないことから、もしかしたら、彼が解いた事件と関係があるかもしれないと警察は考えていた。逆恨みで家族に危害を加えるというのは、よくあることだ。その線を考えて、捜査を始めていた。
(……逆恨み、──────)
 その可能性の事実に、新一のくちびるが震える。
 もしそうであるなら、それは小五郎のせいではなく、新一のせいだ。
 小五郎の名が上がったのは、コナンであったころの新一が、彼の代わりに事件を解いていたからだった。コナンが事件を解く前の小五郎は、だいたい人捜しや浮気調査程度の仕事ばかりで、そんなに人の恨みを買うような働きなどしていない。
 だとすれば、もし、これが恨みによる犯行だったというのなら。
 それは、コナンが解いた事件のせいである可能性が高い────。
 その可能性の恐怖に、新一の額から冷や汗が吹き出た。頬を流れてゆく。
(俺の、せいで──────)
 事件を解くということは、必ずしもきれいごとではない。世間からどれだけ賞賛されても、その影で泣くひとがいる。恨まれることだって、多々ある。
 新一はそれを分かっていた。分かっていて、そのリスクを覚悟で事件に立ち向かっている。それは平次や他の探偵達も同じだろう。
 それなのに、コナンのころの新一は、小五郎の名を借りて、事件を解いていた。確かに状況的に仕方なかったということもあるし、名声も小五郎のものとなったが、同時にそういうものたちまで、彼に押しかぶせてしまっていた。
 事件を解くだけ解いて、そのリスクを全部小五郎に押しつけていた。その結果が、これなのかもしれない────。
 堰が切れたように、英理はその場に嗚咽のように声を詰まらせながら泣き崩れた。愛する娘の名を呼びながら。佐藤刑事がその肩を支える。けれど、英理の悲痛な涙がとまることはなかった。
 新一は、言葉を発することも英理をなぐさめることもできずに、ただその場に立ち尽くしていた。




 佐藤刑事を廊下に残し、新一と英理は音を立てないよう、そっと病室の中に入った。
 まだ薬が効いているらしく、蘭は眠っていた。新一はその寝顔を見つめる。
 彼女にどれほどひどいことが起きたのかは、その眠る姿からでもはっきりと分かった。
 目を閉じたその顔には何度も殴られた跡があった。目元も頬も、青黒く晴れ上がっていた。そして、患者服からのぞく首元にも、点滴をするために布団から出された腕にも、鬱血だけでなく、押さえつけられた痣やおそらくはおもしろがって付けられたのであろう刃物による切り傷が、数え切れないほど無数にあった。
 同じ鬱血の跡は、今の新一の身体にもいくつもある。
 けれどそれは、愛された証だった。平次が望み、新一が望み、やさしく激しく付けられたものだった。
 けれど、蘭は違う。彼女に付けられたそれらは…………!!

『いやあああああああ!!』

 そのときの蘭の悲鳴が聞こえるようだった。
 それは彼女をどれほど傷つけただろう。どれほど苦しかっただろう。
 今は眠っているが、目を覚ました彼女はどうなるだろう。
「お願い新一君。この子を、蘭を助けてあげて」
 泣きながら、英理は新一の腕にすがった。
「この子は、あなたが好きなのよ。だから、だから……!!」
 英理が自分に何を望んでいるのかは分かっていた。
 乱暴された女性にとって、そのときの恐怖の記憶もつらいけれど、同時に、『汚れた』と思われることも、つらいことだった。世間では、キズモノと言われるのだ。なにひとつ、彼女が悪いわけでなくても。
 想いを寄せる相手に……新一に、そんなふうに思われることが、いちばんつらいだろう。
 もちろん新一はそんなふうに思わないが、それをはっきり蘭に伝えて、分からせてあげることが大事だった。蘭は何も悪くないと。汚れてなどいないと。
 そして、恐怖の記憶を乗り越えるために、支えてくれる相手も必要だった。それには新一がいちばん適任だろう。
 蘭には、新一が必要だった。だからこそ英理は、新一に真実を告げ、ここに呼んだのだ。
(…………蘭…………)
 蘭が自分を好きだということは、新一も知っていた。
 それは誰の目にも明らかなことで、英理だけでなく、まわりにいた者達は誰でも知っているだろう。
 昔は、新一もそれで悪い気はしていなかった。可愛らしい幼馴染に想いを寄せられて、嬉しくないわけがなかった。
 けれど、コナンになり、平次と出逢って、彼を愛してしまった。蘭への想いは、結局親愛でしかなかったのだと気付いてしまった。
 といっても、お互い恋人同士だったわけでも、想いを口にしたわけでもなかったので、告白されてもいないのに振ることはできない、というような状態だった。だから、蘭との関係は宙ぶらりんのままだった。
 もちろん、もし想いを告げられたなら、新一はちゃんと断るつもりでいた。新一にとって、蘭は家族のような存在で、恋愛対象ではない。
 けれど、彼女が大切な存在だということには変わりなかった。
 彼女が苦しんでいるなら、それを自分がすこしでも救うことができるなら、救ってあげたかった。
「分かっています、英理さん……。俺にできることなら、なんでもします……」
 その言葉に、また英理は言葉を詰まらせて、ぼろぼろと大粒の涙をとめどなく流した。
 新一は、今はまだ眠っている蘭に向き直った。
 痛々しい傷跡。けれどいちばん傷つけられたのは、心だ。それがどれほど深いかは、計り知れない。
「……蘭。俺が、傍にいるから。俺にできることなら、なんでもするから……」
 聞こえないと分かっていながら、新一はかすれたちいさな声で、誓うように呟いた。
 今は、そんなことしかできなかった。




 新一が無言のまま病院を出ると、平次が待っていた。
 平次は何も言わずに新一にヘルメットをかぶせた。新一も何も言わずにバイクの後ろに乗る。そのままずっと、お互い言葉はなかった。
 家に着き、玄関を入ったところで、やっと平次が口を開いた。
「大丈夫か?」
 心配そうな声に、新一はどう答えていいか分からない。大丈夫でないのは、新一ではないのだ。新一には、そんな心配されるようなことなど、なにひとつ起こっていない。
 大丈夫でないのは……。
 平次は深くうつむく新一の手を引いてリビングまで連れてくると、そっとソファに座らせた。平次はその前に膝をついて、うつむくその頬に触れた。
「……服部……。俺、しばらく蘭の傍についててやる」
 ちいさく新一は呟いた。泣いていないその瞳が、うまく焦点をあわせることもできないように遠くを見つめて揺れていた。
「ああ……わかっとる」
 新一にとって蘭が家族のように大事な存在であることは、平次も十分承知していた。
 まして、今回は事件が事件である。新一の申し出は当たり前だった。反対するつもりもなかった。
 平次は新一の頭の後ろにそっと手を回して、やさしく引き寄せた。新一は逆らわず、うながされるまま平次の肩に顔を埋める。そのあたたかさに、とまっていた涙があふれ出した。

 ゆうべ……新一が、平次に抱かれていたそのとき。
 蘭は、見知らぬ男達に輪姦されていたのだ。

 新一が、あふれるくらいしあわせだと思っていたそのとき。
 蘭は、これ以上ないくらいの恐怖と屈辱とを味あわされていたのだ。

 すべては、新一のせいかもしれないのに。

 今の新一には、痛いほど蘭の気持ちが分かった。平次に『抱かれた』新一だから。
 新一は、母譲りのその美貌から、その手の者に狙われたことがなくもなかった。探偵として、日々犯罪などに関わっていればなおさら。実際襲われかけたことだって、幾度かある。それらは運よく助けが入ったり、新一の抵抗により事なきを得てきたが、押さえつけられ奪われるかもしれない恐怖は新一にも分かっていた。
 そして、ゆうべ、新一は平次と結ばれた。愛するひとに、愛されて、やさしく、抱かれた。しあわせだった。
 痛みも、恐怖も、全部越えるくらい、しあわせだった。

 けれど蘭は。

 今なら、実感として分かる。完全に自分のこととして、身を置き換えて考えることができる。
 どんなに怖かっただろう。つらかっただろう。何度ももがき、抵抗して、助けを求めただろう。新一にも助けを求めていたかもしれない。けれど助けはこず、見知らぬ男達に何度も何度も傷つけられた。
 それは彼女の心に、深い傷として残るだろう。これからずっと、彼女を苦しめるだろう。もう彼女は、新一が平次に抱かれて感じたようなしあわせを感じることは、できないかもしれない。
 ましてそれが────新一が解いた事件のせいかもしれないのだ。
 新一のせいで、蘭はこんな目にあったのかもしれないのだ。
 そう考えると、新一は涙を止められなかった。蘭の気持ちと、自分の罪の重さに。
 泣き続ける新一を、平次はそっと、何度も何度もあやすように背中や髪をなでていた。
 新一の心の中に、かつての蘭の明るい笑顔と、今日見た病室での彼女の姿が交互に思い浮かんだ。もういちど、彼女はあの笑顔を取り戻せるだろうか。あんなふうに、笑ってくれる日が来るだろうか。
 彼女のためにできることを、何でもしようと、新一は思った。



 To be continued.

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