楽園の瑕疵 3


 新一は、彼女と同じ名前の花とお見舞いの品をかかえて、あるマンションを訪れた。
 すっきりとした外観の、高層マンションの最上階に近い一室。そこは、本来英理がひとりで住んでいる場所だったが、病院を退院した蘭は今そこに引き取られていた。
 事件が事件だけに、女親の元のほうがいいだろうという配慮でもあったし、小五郎への逆恨みなら彼の元にいないほうがよいだろうということでもあった。
 小五郎は、ひとり娘の身に起こってしまった出来事に、大声で泣きながら自分を責め、罵っていた。自分が”眠りの小五郎”などと呼ばれていい気になって事件を解いていたせいでこんなことになってしまったと。皮膚が破れ血が出るほどに、何度も壁や床を殴りつけて泣いていた。
 新一は、何も言えなかった。
 本当はそれは小五郎のせいではない。事件を解いていたのは小五郎ではない。コナンであった新一だ。だから責められるべきは、本当は新一だった。
 それでも……新一は、何も言えなかった。
 自分がコナンだったなどと言っても信じてもらえないだろうということもあったし、……なにより、怖かったのだ。自分の罪を認めることが。自分の罪を白日の元にさらすことが。
 小五郎は警察とともに、必死になって犯人を探している。
 新一はその捜査にはあまり加わらず、蘭の回復のほうに重点を置いていた。
 ここ数日通い詰めて、来慣れた英理の部屋を訪れる。
「新一君……いらっしゃい」
 新一を、英理が出迎える。
 ここ数日で、英理はひどくやつれていた。それでも、すこしでも暗くならないようにと、濃いめに化粧をして、赤い口紅をひいた姿が、ひどく不釣り合いで似合っていなかった。
 英理は、もともといつもうすく口紅をひく程度で、そんなに化粧をしないひとだった。歳を重ねても、素顔と、内面から出る輝きで、そんなものを必要とはしていなかったのに。白すぎる肌と赤すぎるくちびるが、いっそ不気味なほどだった。
「こんにちは。……蘭は?」
「今は、起きてるみたいだけど……」
 英理は部屋の中を振り返った。
 室内は、まるで他に誰もいないかのように静まり返っている。蘭の姿はリビングにはない。彼女はずっと、寝室に閉じこもりきりなのだ。病院を出てここへ来てから、ずっとそこから出ようとはしない。
 彼女の身体の傷自体は、殴られた傷や、切りつけられた傷がほとんどで、それはだいぶ回復してきている。けれど、心の傷は…………。
 そのとき新一はすでに帰っていていなかったのだが、病院で目を覚ましたときの彼女の錯乱はすごかったのだという。現在の状況と過去との区別がつかないかのように、泣き叫び助けを求めながら、暴れたのだという。
 それからも、鎮静剤と睡眠薬を打たれ深く眠っているときはまだいいが、眠りが浅くなると必ず夢を見るらしく、ひどくうなされ、悲鳴をあげて飛び起き、助けを求めて泣き叫んでいた。しばらく経って、多少そんな状態も落ちついてきたが、根本的なところは今も変わらない。
 あれから毎日病院へも、英理のマンションへ移ってからも、蘭の見舞いに来ている新一も、何度もその場面に遭遇している。夢を見て飛び起きるのはもちろんのこと、起きているときでも襲われたときのことがフラッシュバックのようによみがえるのか、突然悲鳴をあげて、暴れ回るのだ。突然、悲鳴をあげながら自分の腕をかきむしりはじめることもあった。血が出るほど強く、何度も何度も自分の腕や身体を、まるで汚れた部分をそぎ落とそうとするかのようにかきむしるのだ。
 時間が経ち、最初のころよりはだいぶ落ちついてきたとはいえ、今でもそんなことがたびたびある。いや──逆に、落ちつく時間ができてしまったことが、彼女に更なる苦しみを与えていた。
「蘭。俺だ。入るぞ」
 軽いノックのあと、言いおいて新一は寝室のドアを開けた。
 蘭は部屋の角に身を縮めるようにしながら、自分の身体を強く抱きしめていた。錯乱して暴れてはいないが、傍目にも分かるほど身体が震えていた。
 彼女は今でも、男性を極端に怖がる。病院の医師や、話を聞きにきた刑事を見ただけで、恐怖でパニックになるほどだった。
 けれど、新一に対しては、そういうことはほとんどなかった。もともとの信頼と好意が、そうさせているのかもしれない。
「ケーキ買ってきたんだ。おまえ、ここのケーキ好きだったろ?」
 できるかぎりいつものように明るく話しかける。
「おまえ、ミルフィーユとチョコレートケーキと、どっちがいい?」
 持ってきた箱からケーキを取り出し、皿に乗せながら尋ねる。けれど蘭は何も答えない。部屋の隅で、新一と顔を合わせないよう深くうつむいたまま、ちいさくなって震えている。
 新一はおびえさせないようゆっくり近づくと、目線を合わせるように彼女の前に膝をついた。
「ほら、うまそうだろ?」
 ケーキを差し出す新一の手を、蘭が振り払った。手がはじかれて鋭い音がする。ケーキが飛ばされて、床に落ちてつぶれる。
「蘭っ……!」
「やめてよ……ほおっておいてよ…………!!」
 かすれた悲鳴のような声が上がった。
 錯乱して泣き叫ぶ声や助けを求める声やうなされる声以外の、意志を持った蘭の声を聞くのは、ずいぶん久しぶりだった。
「私なんて…………私なんて…………!!」
 蘭は震えながら、ますます身体をちいさくするように、自分を抱きしめる腕に力を込めた。
「やめてよ……私なんて、もうどうだっていいじゃない……こんな……こんな私なんて……!!」
 恐怖の記憶に捕らわれているときもつらいだろうが、こうして錯乱状態が落ちつき正気に戻る時間も、また彼女を苦しめていた。
 自分の状態を、理性で認識してしまうのだ。自分はレイプされたのだと。襲われた自分を、蘭は蔑んでいた。自分はもう汚れたと。
「蘭……!!」
 新一は蘭の肩を強く掴む。うつむく蘭の顔をあげさせ、まっすぐに視線を合わせた。
「どうでもよくない。蘭は蘭だ。なにも、変わらない……」
「嘘! うそつき! 新一だって、私のこと本当は汚いと思っているくせに!」
 蘭は大きくかぶりを振る。乱れた長い髪が、ばさばさと揺れた。
「思っていない! それは蘭のせいじゃない」
 新一の言葉に、蘭がキッと顔をあげた。きつい瞳で、新一をにらみつける。
「じゃあ、私を抱ける?! 私のこと、まだ好きだって言える!?」
「────────っ」
「ほら! やっぱり新一だって、私のこと汚いと思ってる!!」
 肩に置かれていた新一の手を振り払って、また蘭は自分を抱きしめるように壁際に身を寄せた。顔を背けて、嗚咽をもらして、泣いている。
(────蘭…………)
 新一が蘭を抱く対象としないのは、事件のせいではない。新一には、他に愛する人がいるから。……平次を愛しているから。だからだ。
 それでも、今の精神状態の蘭に、それは通用しなかった。『他に好きなひとがいる』と告げたところで、それは『自分がレイプされたから、自分を嫌いになって、他のひとを好きになった』と解釈するのだろう。
「私なんて……、……!!」
 悲鳴のような声が、蘭から漏れる。
 このままでは、彼女は自分で自分を傷つけてゆくばかりだ。自分をおとしめて、さらに傷ついてゆくだけだ。彼女は何も悪くないのに、恐怖の記憶だけでなく、そんなことまで彼女を傷つけて苦しめる。

(──────────────────)

 新一は、蘭を引き寄せて、くちづけた。かみつくように、深くくちびるをあわせる。
 突然のことに、何が起こったのか、一瞬蘭は理解していないようだった。それから、状況を把握して、かすかに震え出す。それでも暴れだしはしなかった。身体が動かないだけかもしれないが。
 くちびるをそっと離すと、閉じられもせず大きく見開かれた蘭の瞳があった。
 彼女を自分の胸に抱き寄せて、その耳もとにそっとささやいた。
「……抱けるよ……蘭は、綺麗なままだ…………」
 蘭を助けたかった。
 家族のように大事な彼女が、これ以上傷つくのを見ていたくなかった。救う方法があるなら、何でもしてあげたかった。新一が抱くことで、彼女の傷が癒えるのなら、それでよかった。
 呆然としているような蘭の腕をそっと引いて、すぐ脇にあるベッドにそっと彼女を横たえた。そのうえに、体重をかけないよう気遣いながら覆いかぶさった。
 くちづけながらゆっくり服をはだけると、そこかしこに傷が見えた。
 鬱血だけでなく、押さえつけられたのだろう手の跡や、殴られた跡、わざと付けられたのであろう切り傷など、まだ消えずに至る所にあった。それから、自分でかきむしってできたのであろう、まだ新しい傷口。新一は、丁寧にそれを拭うように、くちびるで触れた。
 触れるたびに、やはりあのときの恐怖がよみがえるのだろう、蘭が震えるのが分かった。それでも抵抗する素振りはない。抵抗しそうになるのを、必死で抑えているようにも見えた。
 不意に新一は、平次に抱かれたときを思いだした。あのときの自分も、こんなふうに震えていた。そんな自分にひどくやさしく触れてきた、大きな褐色の手。触れられるたび、持っていた恐怖が消えて、しあわせにすりかわった。
 あんなふうに、抱ければいいと思った。あんなふうにやさしく。すべての恐怖を消すように。それで、蘭の傷を癒せればいいと思った。
 新一は、平次が自分にどんなふうに触れたか思い出しながら、それを真似るように蘭に触れた。
『工藤……愛しとる……』
 蘭を抱きながら、新一は、ずっと平次のことを思い出していた。平次に抱かれたときのことを。
 ただ震えながら、声ひとつあげずに新一にされるがままになっていた蘭は、貫かれたときにはじめて新一の名を呼びながら泣きだした。何度も何度も新一の名を呼びながら、すがるようにその背中に腕を回してしがみついてきた。哀しみや、苦しみを吐き出すように。
 新一は、すこしでもそれを受けとめようと、蘭を強く抱きしめた。




 抱いたあとも新一はずっと彼女を抱きしめて、何度もその耳元にささやいた。
 蘭は何も悪くないと。何も変わらないと。
 蘭はずっと泣きながら、新一にしがみついていた。
 泣きつかれたのか眠ってしまった蘭の衣服を整えて、新一が寝室を出るとリビングで英理が待っていた。
 壁は防音だったとしても扉は完全な防音でもないし、部屋の中で何があったか彼女も分かっているだろう。新一がどういう対応をすればいいのか困っていると、英理が先に動いた。
「コーヒーでも、いれるわね」
 何も言わずにいてくれる彼女のその心遣いに感謝する。
 あたたかいコーヒーを前にして、やっと新一は人心地がついたような気がした。言ってしまうなら、さっきまではただ無我夢中で、ただ必死だった。蘭を助けようと、ただそれだけだった。
 思えば、突発的に蘭を抱いてしまったが、一歩間違えばさらに傷を広げるだけだった。冷静に考えると、ずいぶん危ないことをしてしまったものだ。けれど、結果的には、そう悪くはなかったのだろう。たとえ少しでも、蘭は新一に抱かれながら、哀しみや苦しみを中にためずに吐き出していた。それは、苦しみから逃れる第一歩だ。あとは、彼女は何も悪くないという想いが、彼女にもすこしでも伝わっていればいいのだが。
「ありがとう、新一君……」
 不意に英理に言われ、幾分ぼんやりしていた新一はふと我に返った。
 それが、蘭を抱いたことに対する礼だと理解するのに、数秒を要した。
「これからもあの子のこと、お願いね……」
 英理は、新一も蘭のことが好きなのだと思いこんでいる。だから、新一が変わらずに蘭を愛している証明として、蘭を抱いたのだと思っているのだろう。
 すっと、新一は胃の底が冷えてゆくような感覚を味わった。
(違う────)
 英理の言葉に、自分が何故蘭を抱いたか、今はっきりとその理由を理解してしまった。自覚してしまった。
 違う。違うのだ。
 確かに新一は、蘭を助けたいと願った。その理由の半分は、蘭が新一にとって大切なひとだからだ。でももう半分は。
 自分の罪を、消したいだけだった。
 自分が解いた事件のせいで、蘭が襲われたのかもしれないと思うと、つらかった。苦しかった。だから、蘭の傷を癒すことで、その罪を消そうとしていたのだ。
 英理がそんなふうにお礼を言うように、蘭が好きだから抱いたわけではなかった。蘭のためですらなかった。ただ自分の罪を消したいための『治療』として、自分は蘭を抱いただけだった。今、そのことをはっきり自覚してしまった。
『これからも』なんて、存在しない。蘭が元気になったなら、自分の罪が消えたなら、新一はすぐさま平次の元へ帰るつもりだった。
 自分は、そんなひどいことを考えていたのだ────。
 いつから自分は、こんなひどい人間になってしまったのだろう。こんな、利己的で勝手な人間に。
 新一には、分からなかった。



 To be continued.

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