楽園の瑕疵 4


 事件が起こってから、数カ月が過ぎようとしていた。けれど、警察はいまだ犯人を捕まえることも、特定することさえできずにいた。
 そしてそのあいだに、同じようなレイプ事件が、2件ほど起きていた。
 小五郎への逆恨みかと思われたが、どうやらそれは関係なく、無差別な通り魔だったらしい。蘭が最初の被害者であったというだけで。警察も、捜査方針を通り魔の犯行に戻して、捜査を進めていた。
 蘭と同じ被害にあった女性が出たと聞いたとき、──新一は不謹慎にも、その事実を喜んだ。

 事件は、自分のせいではなかった────。

 相手の目的がどうであろうと、蘭の身に起きてしまったことに変わりはない。
 また、通り魔である場合、さらに被害者が増える可能性もある。実際、新たな被害者が出て、だから通り魔と分かったのだ。
 それでも、新一は、ひどいと分かっていながら、そのことを喜ばずにいられなかった。重い枷が、ひとつはずされたようだった。
 けれど、新一にからむ枷は、まだいくつもあった。




 蘭の回復は、一見順調のように見えた。
 身体的な傷はもちろん、精神的な傷も、だいぶ癒えているように見えた。事件直後のように、突然錯乱状態に陥ることも、ふさぎこむことも暴れ出すこともない。
 もちろん、まだ完全に元通りというわけではなく、昔のようなあの屈託のない笑顔はまだ見られないが、それでも、なにかにつけてちいさく笑ったり笑顔を浮かべたりするようになっていた。
 そんな娘の姿を見て、英理は、自分の判断が間違っていなかったと思った。
(よかった……蘭……)
 この蘭の回復は、新一のおかげだ。新一が傷ついた蘭を癒してくれた。
 新一に、すべての事情を話し、彼に蘭をゆだねること。それは賭けでもあった。
 英理は新一の性格をよく知っているし、新一が犯罪被害者に対してひどい態度をとるとは思わなかったが、それでも、事件が事件だけに、新一がどういう態度をとるか不安もあった。もしかしたら、それがさらに蘭を傷つけるのではないかと。
 けれどうれしいことに、それらは杞憂に終わった。新一は蘭を的確になぐさめ、蘭は快方に向かっている。
 つらいけれど、起こってしまった事実は消えない。それならば、そのなかでどうすることが蘭にとっていちばんか。英理はそれをずっと考えていた。
 このままなら、きっと大丈夫だろう。
 新一は、蘭を、軽蔑も嫌ったりもしない。それを理由に拒絶するようなこともない。だから、きっと、大丈夫。英理はそう思っていた。
 ……英理は気付いていなかった。
 新一の心が最初から蘭にないことに。
 そして、蘭の回復が表面的なものであることに。




 この数カ月のあいだ、新一は、蘭のいる英理のマンションに通うことが日課のようになっていた。この場所にこなかった日など、片手でも余るくらいだった。
 今日も新一は、お見舞いの品を持って、蘭のところへ訪れた。
 いつものように蘭と他愛ない話をして、お見舞いにと持ってきたフルーツを一緒に食べ────。
 夕方近くなり、時計を見て立ち上がりかけた新一に、鋭い声がかかる。
「新一! 何処行くの!?」
「今日はもう帰るよ」
「どうして? まだいいじゃない。私と一緒にいてよ!」
「悪いけど、また明日な。明日また来るから……」
 新一は蘭に謝って、帰ろうとドアに手をかけた。
 その背中に、蘭の叫ぶような声が投げつけられる。
「やっぱり新一、私のこと汚いと思ってるんでしょう!?」
 新一はドアから手を離して振り返る。
 涙目になった蘭が、にらむように叫んでいた。
「だから私の傍になんていたくないんでしょう!?」
「違うって……そんなこと、思っていない」
「じゃあ帰らないで! 傍にいて!!」
 蘭は新一に抱きついた。そのまま泣きじゃくりはじめる。
 この状態の蘭を突き放せば、新一が蘭を『汚い』と認めたことになってしまう。新一は仕方なく、帰ることをあきらめるしかない。こんなことも、いつものこととなっていた。
 蘭の新一への執着は、異常なまでにふくれあがっていた。新一の行動は、こうして蘭に制限されてばかりだった。どうにかして、1分でも1秒でも自分のもとへ引き留めようとする。新一が無理にでも離れてゆこうとすれば、さっきのように、事件の話を切り札のように持ち出して、新一を引き留めた。以前、約束をほったらかしにしてまで事件に行こうとする新一を、笑顔で送り出した蘭は何処にもいなかった。
 新一は、蘭が回復したら、またもとの関係に戻れると思っていた。もとの幼馴染の関係に。そして新一は平次の元に戻り、また、しあわせな日々が帰ってくると。思っていた。
 けれど、蘭の、新一への執着は日増しに強くなるばかりだった。
「傍にいて……新一…………」
「蘭……」
 自分にとりすがって泣く蘭を、あやすようにやさしく抱きしめる。
 蘭の気持ちは分かる。彼女は今、新一に肯定されることで、自分を肯定しているのだ。レイプされた自分は、けれど汚れてなどいないと。『新一が傍にいること』が、それを計る基準になってしまっているのだ。それが、この異常な執着になってあらわれている。
 分かっていた。分かっていた。
 今の蘭には自分が必要なのだということは、よく分かっていた。
 けれど同時に、新一はこの状況が耐えられなくなってきていた。




 なんとか蘭をなだめて、新一が自宅に帰ってきたのは、夜も遅くなってからだった。
 自宅の門を開けるだけでも、億劫だった。ひどく疲れていた。特に、精神的に。もうこのまま、家の中に入ったら、風呂にも入らず着替えもせず、玄関先で倒れて眠ってしまいたいくらいだった。
 けれど、また明日になったら、嫌でもなんでも、彼女のところに行かなければいけないのだ。新一が行かなければ、彼女はまた『自分を汚いと思っているのだろう』と、わめきたてるだろう。
 新一はおおきくためいきをつく。本当に、もう疲れていた。
 玄関の扉に鍵を差し込もうとして……新一は、異変に気付いた。鍵がすでに開いていた。けれど、無理にこじ開けたような形跡はない。
 この家の鍵を持っている人物は限られていた。新一本人と両親、それから何かあったときのために阿笠博士にも合鍵を渡してある。そして、もうひとり、新一が合鍵を渡したのは…………。
 祈るような、願うような気持ちで、新一はドアを開けた。
「おかえり。工藤」
 不意にかけられた声に、新一は弾かれたように顔をあげる。
「…………はっとり…………」
 そこには、ずっと逢いたくて逢えずにいた、恋人の姿があった。
 まともに顔を会わせるのも、声を聞くのも、ひどく久しぶりな気がした。いや実際、ひどく久しぶりなのだ。ずっとすれ違いばかりが続いていた。
 平次はあれからも何度も大阪から会いに来てくれていた。けれど、新一は蘭に縛られ、ほとんど時間をとれずにいた。また、平次が上京したことを何処で知るのか、平次がこちらに来るたびに、目暮達から平次に事件の協力要請がきていた。目暮達は、蘭の事件を知っている。新一が、その蘭に付き添っていることも。だから気を使って、できるかぎり新一への事件協力要請は出さないようにしていた。けれど、警察の手に負えない難事件は、こちらの都合などお構いなしに多発する。しかたなく警察はもうひとりの名探偵服部平次に頼っていた。
 新一は蘭に縛られ、平次は事件に追われる。
 ただでさえ、住む場所が遠く離れて滅多に逢えないのに、さらにそんな日々が続いて、ほとんど会うことも、まともに話すことさえできなかった。
「ここしばらく、会えへんかったな。ちゃんと飯食っとるか?」
 その浅黒いおおきなあたたかな手が伸ばされて、新一の頬に触れた。あたたかい、愛しい手。新一はそれにうっとりと目を閉じた。
「………………会いたかった」
 新一のくちびるから、想いが言葉になってこぼれ落ちた。
「俺も会いたかったわ……」
 平次は新一を引き寄せた。腕の中にきつく閉じこめる。
 平次のにおい。平次の体温。平次の腕の強さ。感じる五感のすべてが、新一に平次を伝える。
 一瞬にして、あの夜のことが、新一の脳裏によみがえった。あの、平次に抱かれた夜。あの……しあわせだった夜。

 そして次の瞬間に、思い出す。
 その同じときに、蘭は、見知らぬ男達にレイプされたのだ。

 そして自分は……蘭を、抱いた。

 いくら、精神的治療の一環のようなものといえ、蘭を抱いたことに対する平次への後ろめたさがあった。
 たとえ全部を話しても、平次は許してくれるだろうが。

 このままでいいはずがない。蘭にとっても。自分にとっても。そのことを痛感する。
 どうあっても、新一が好きなのは平次なのだ。
 蘭は確かに大切だけれど、彼女への想いは親愛でしかないのだ。蘭が望むように愛することは、どうしたってできない。
 彼女がこのまま新一に依存し続けることは不可能だ。

 なにより……つらいのだ。
 今の状況がつらいのだ。
 蘭に縛られ、平次と離れていなければならない今の状況がつらいのだ。

「服部……」
「ん? なんや?」
「俺、明日、蘭にちゃんと言う」
 新一は、平次の背中に回した腕に、すこし、力を込める。
「ちゃんと、言う。俺は、服部が好きだって。蘭のことは大切だけど、でも、そういう好きじゃないって。だから、傍にはいられないって……」
 平次に伝えるというよりは、自分への確認のため、決心のために、新一ははっきりと口に出してそう告げた。
「……ええんか……?」
 少し戸惑うように、平次は尋ね返した。
 蘭の新一への執着ぶりは、聞いて知っていた。事件後で感情が高ぶっている彼女にそんなことを告げれば、一悶着起こるのは目に見えていた。
 それに、自分達は同性同士で、世間的には認められない。軽蔑されることのほうが、あたりまえなのだ。普通のときであっても、この関係を誰かに告げることは、ひどく勇気がいる。
「だって、俺には無理だ。このまま蘭の傍にいることも、おまえと離れてることも。耐えられない……」
 ……いや、それだけではない。本当は、分かっていた。
 蘭の事件が、小五郎への逆恨みではないと──自分がコナンとして事件を解いたせいではないと知って、だからこんなことを考えだしたのだ。もし本当に新一のせいだったなら、こんなことは考えなかっただろう。責任を持って、蘭が完全に回復するまで、彼女に付き添っていただろう。
 なんて、なんて、身勝手なのだろう。
 それでも新一は、もう蘭の傍にはいられないと思った。身勝手でもなんでも、こうして平次の傍にいたかった。平次の傍にいられないことは、蘭の傍にいなければならないことは、自分が陸にあげられてしまった魚のように苦しいのだ。うまく呼吸もできないのだ。
 つらくて苦しくて────もう、耐えられないのだ。
「工藤……」
 平次は優しく、新一の髪をなでる。
 新一が蘭にそう告げることが、どれほど勇気のいることか、どれほど大変なことか、平次にも分かっていた。それでも、新一がそう言ってくれたことが、自分と一緒にいたいと言ってくれたことが、うれしかった。
「俺も、工藤とずっと一緒におりたい────」
 言葉の最後は、新一からのかみつくようなくちづけに消えた。
 あとはもう、溶けてしまいそうなほど、強く抱き合うばかりだった。




 ひさしぶりに、平次の腕の中で目を覚ました新一は、いつもよりずっと調子がよかった。いつも、朝がくるたびに、また今日も彼女のところへ行かなければならないのかと、重い気分になってばかりだったのだ。
 平次の作った朝食を食べ、平次に見送られて、そしてすこしばかり勇気づけられて、家を出る。
 今日、蘭のところへ行ったら、自分と平次の関係を告げようと、決心していた。その後一悶着あるだろうことは容易に想像できるので、英理のマンションに向かう足どりは自然重くなってしまうが、それでも、新一は前へ進み続けた。
 新一は、これで終わると思っていた。蘭は泣き叫ぶかもしれないし、英理は自分を責めるかもしれないけれど、それでも、自分は平次にもとへ戻れるのだと、思っていた。

 けれど、事態は新一の予想しなかったほうへと進んでいた。

 いつものように、新一が英理のマンションを訪ねると、英理が、新一を待ちわびていたかのように飛び出して来た。
「新一君……!」
「英理さん、どうかしたんですか?」
 英理の様子に、新一は異変をすぐに感じとった。異変……というよりも、嫌な予感。
 あのときと、英理からあの電話をもらったときと同じ感覚が、新一の中を駆け抜けた。









「蘭が……妊娠したわ」









「────────」
 目の前が暗くなって、倒れそうになる。あのときと同じだった。蘭がレイプされたと聞かされたときと。けれど今ここには支えてくれる平次はいない。新一は必死になって倒れないようにと足を踏ん張った。
 なんとか事態を把握しようと、うまく動かない頭を必死で動かす。
「それは」
 震える声を絞り出した。
「………………蘭は、あなたの子だって、言ってるわ」
「────────」
 ありえなくは、ないことだった。けれど新一が蘭を抱いたのは、事件直後に一度きりだ。それ以後は、なにもない。
 時間的に言えば、どちらの可能性も有り得た。レイプ犯の子か、新一の子か。新一の子だというのは、蘭の希望だろう。それは、英理も分かっていた。分かっていて、新一に問いかけた。

「どうすればいいかしら、新一君」

 レイプ犯と新一の、どちらの子であったとしても、選択肢は2つしかなかった。
 子供を堕ろすか。産むか。殺すか、生かすか。
 もしもそれがレイプ犯の子なら、もちろん堕ろすことになるだろう。けれどそうなったら、蘭にはレイプされたというだけでなく、妊娠し、中絶したという事実まで残る。
 もし新一の子であるなら、産むことも、まあ考えられなくはない。
 だから、ずるいと分かっていながら、英理は新一に持ちかけたのだ。どうすればいいのか、と。
 新一の手に、ひとつの命をゆだねた。
 まだ人の形をしていなかったとしても、存在を認められていなかったとしても、それは、間違いなく生命。
 それを、殺すか、生かすか。
 新一の、手に──────。

(犯人を死なせたら、殺人者とかわんねーよ)

 新一が、『いのち』に対して、どれほどの執着を持っているか知っている。だから、新一がどう答えるか分かっていて、英理は新一に告げたのだ。『どうすればいいのか』と。
 新一が否定すれば、ひとつの命が消える。その命を殺すことになる。
 もし肯定したなら────新一はその『責任』を取らなければならない。
 ひとつのいのちを、殺すか。自分の子供と認め、その責任をとるか。
 英理の問いかけは、つまりそういうことだった。
 真実はどうでもいいのだ。それがレイプ犯の子だろうと、新一の子だろうと。新一が認めるか認めないかで、その事実が決まる。そして、子供のいのちの行く末も。
 英理は最初から、新一がどう答えるか分かっていた。それがどんないきさつであろうと、誰の子供であろうと、いのちはいのち。彼は、殺人者には、なれない。
 だから。新一は。








「……それは、俺の子供です」








 そう、言うしか、なかった────。



 To be continued.

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