箱舟 -1-


 志保が誰にも何も言わずに姿を消したのは、新一が彼女を抱いたその日のことだった。
 彼女を抱いた新一がそのまま眠って、目が覚めたときには彼女はいなくなっていた。ベッドの隣にわずかな体温だけを残して、志保は姿を消していた。
 あれから2週間が経とうとしているが、連絡も何もなく、彼女の行方は一向にわからなかった。
「哀君は……いや、志保君は、何処へ行ってしまったんじゃろうなあ」
 博士は、阿笠邸に残された、彼女のために用意されたマグカップを手にとって、ためいきのように言葉をこぼした。
 哀の保護者だった阿笠博士は、本当の娘のように彼女を大切に想っていた。
 元の姿に戻った彼女がそのまま家にいて、もし組織に見つかれば、博士自身も狙われることになるかもしれない。その危険も分かっていながら、それでも彼は志保をそのまま家族として迎えようとしていた。
 だが志保は、いなくなってしまった。博士にさえ、なにひとつ告げることもなく。
 彼女はほぼ身ひとつでここから出て行っていた。持っていったものは、いつも彼女が使っていたノートパソコンくらいではないだろうか。それ以外、何も持たずに。書き置きの代わりのように、新一の健康状態に関するデータの入ったMOが、リビングのテーブルの上にぽつんと置かれていただけだった。
 組織にさらわれたりしたのでないことだけは分かるが、だからといって心配が減るわけではなかった。一体、今何処でどうしているのか。志保を心配するあまりか、寂しさからか、博士はここ数日でめっきり老け込んだように見えた。
「博士。あいつだって、もう小学生じゃねーんだぜ。そんなに心配しなくても大丈夫だよ、きっと」
 寂しげに背を丸める博士に、新一はなぐさめの言葉をかける。いつもその歳に似合わないほど元気で明るかったこの昔馴染みの老人が、こんなふうに沈んでいる姿は見ていられなかった。
「じゃがしかし、元の姿に戻っているということは、逆に、組織に狙われて危ないのではないか?」
「だから大丈夫だって。あいつだって組織に見つかったらどうなるかくらい分かっているから、ちゃんと警戒してどっかにうまく隠れてるだろ。いっそ、俺とあいつとが一緒にいるよりは、別行動してたほうが見つかりにくいかもな」
 新一は明るく言ってのける。まるで、なんの不安もないかのように。
 そんなことはすべて、博士を安心させるためのデマカセだった。今何処にいるかは分からないが、志保が組織の脅威にさらされていることは明白だった。博士の言うとおり、小学生の姿でない今、いつ何処で組織に見つかるかわからない。けれどそんな真実を口にして、博士にさらに負担をかけるわけにはいかなかった。
「それよりちょっと休んだほうがいいんじゃねーか? ここのところ、あんま寝てないんじゃないのか、博士」
「いやワシは平気じゃよ。それよりも……」
「その顔色で何処が平気だって言うんだよ。博士が倒れたって、俺は薬だって買いに行けないんだからな。ほら、今日はもう休んだほうがいいよ」
 元の姿になってから新一は、阿笠邸に世話になっていた。
 新一も組織のブラックリストに載っているのだ。元の姿に戻ったからといって、前の生活に戻れるわけでもなかった。組織に見つからないよう、姿を隠していなければならなかった。
 身を潜めるのに、博士の家は何かと便利だった。
 人間ひとりをかくまうのは、思いのほか大変だ。まずその人間の分の食料や日用品を調達しなければいけない。もともと大家族で人数が多いならともかく、急に買い入れる品数が増えれば、すぐに誰かいることがばれてしまう。それに、その人間の存在を隠すために、行動も多少なりと不審になってしまうだろう。
 だが博士は世間では『変わり者の発明家』と評されている。その彼が多少不可解な行動をとっても、皆いつものことと思うだろう。あまり疑われる危険がなかった。
 また、阿笠邸には、驚くほどOA機器や医療機器がそろっている。もとからかなりの設備があったが、哀が暮らしていたときにさらにいろいろ増えていったらしい。それらは、黒の組織の情報を集めるために非常に役立っていた。
「そうじゃな。スマンな、新一君……。ワシは先に休ませてもらうことにするよ」
 老人は呟いて、自分の部屋へと入っていった。そうしてリビングには新一ひとりになる。
 ひとりになって、やっと新一は胸にたまっていた息を大きく吐き出した。博士の前で、新一まで不安な顔はできなかった。どんなに心の中は不安で満ちあふれていても。
 ソファの背にもたれて、天井を仰ぐ。
(志保)
 一体何処にいるのか。無事なのか。組織に脅えて、ひとりで震えていないか。
(何処にいるんだよ)
 何も言わずに、何も持たずに、ひとりで姿を消したりして。
 いつもいつもあんなに脅えていたくせに。震えていたくせに。
 彼女は組織の影にいつも脅えていた。組織の人間の気配にあんなに敏感だったのは、それだけ彼女の脅えを表していた。
 それなのに。
(あいつは莫迦だ)
 ひとりで消えたりして。自分ひとりで背負い込もうとなどして。あんなちいさな肩に。あんな細い腕で。あんな──。
 新一は思い出す。
 たったいちどだけ触れ合わせた、彼女の肌を。彼女の身体を。
 彼女が消えてしまった、あの夜のことを。



「工藤君。薬、出来たわ」
 約一ヶ月前。まるで、作っていた料理が出来たとでも言うように、こともなげに彼女がそう言ったのは、本当に突然のことだった。
 コナンはにわかには言われた言葉が理解できなくて、数秒考えてしまったほどだ。そしてやっとその言葉の意味を理解したとき、文字通りコナンは飛び上がった。
「本当かっ、灰原!?」
 薬というのは、もちろんアポトキシンの解毒剤、もとの高校生の身体に戻るための薬だ。ずっとその完成を待ち望んでいたものだ。
「今度こそ大丈夫なんだろうなあ。前みたく、時間が経ったら元に戻るとか言わねーだろうな」
 数時間、あるいは数日だけもとの身体に戻れるような試作品は今までにも出来ていた。だが、完全に元に戻る薬はまだ成功していなかった。
「大丈夫よ。マウス実験でも98%の確率で成功しているわ。信用できないのなら、私が先に飲んでもいいけど。その場合、万が一失敗だったとき、もう一度薬の開発をする人がいなくなってしまうけど。どうする?」
 哀の言葉は、別にコナンを試しているのではない。ただ純粋に、本当にそう思っているのだろう。もしコナンが先に飲めといえば、彼女はためらいなくそれを口にするのだろう。
 それが分かって、コナンは複雑な気持ちになる。何故彼女は、もっと自分を大事にしないのだろう。彼女はすべてを自分の罪としてしまって、すべての罰を受けようとしている。
 そうではないのに。そんなことしなくていいのに。
 そう思うのに、それでもコナンは、その気持ちを正しく哀に伝えられずにいる。
 謎を解き明かし、犯人を追い詰めるための言葉ならいくらでも言えるのに、本当に必要な言葉ばかりが、いつもいつもうまく出てこない。
「……信用してるよ」
 ぶっきらぼうにそれだけ言ったコナンに、どういう意味を込めてか、哀はちいさく笑った。
 だが、完成したとはいえ、解毒剤をそのまますぐ飲むわけにはいかなかった。
 薬の出来を疑っているわけではない。むしろ元に戻れると確信している。だからこそ、先に『江戸川コナン』と『灰原哀』を世間的に消しておかなければならなかった。その名前を持つ小学生はいなくなってしまうのだ。行方不明だの誘拐だのと、疑われないようにしなければいけなかった。
 優作と有希子に連絡を取って、二人の協力を得て、コナンと哀は転校手続きを取り、コナンは世話になっていた毛利家から去った。表向きは、コナンは外国で暮らす両親の元へ行き、哀も親元に帰るということになった。
 少年探偵団の三人などは、仲のよかった仲間が二人も同時にいなくなってしまうことに、声をあげて泣いていたが、それもまあ仕方のないことだった。せっかく仲良くなった彼らと隔たりが出来てしまうのは寂しいことだが、本来なら、彼らと知り合うことすらなかっただろう。この奇妙な運命の中で、たとえ短い間でも、出会え仲良くなれたことに感謝しなければならなかった。
 小学生だった生活を、そのとき出逢った人達を、多少おしみながらも、『江戸川コナン』と『灰原哀』という小学生ふたりは、書類上、米花町から消えた。
 そうして用意を整えてから、コナンと哀は解毒剤を飲んだ。
 結局のところ、ふたりで話し合った結果、薬は同時に飲むということになった。
 体細胞を急激に変化させるような薬だ。もし失敗だったなら、副作用どころの話ではなく、おそらく死んでしまうだろう。そして、もしどちらかが先に飲んで死んでしまったとしたら、それは遺されたほうに、大きな傷と痛みを残すだろう。コナンだったとしても、哀だったとしても、それはきっと、死ぬよりもつらい、耐え切れないほどの苦しみを味わうことになるだろう。
 だから、同時に飲むことにした。生きるのも死ぬのも、一緒であるように。万が一にも遺されて苦しむことがないように。──もちろん、薬は成功すると、信じていたけれど。
 いろいろな心配もあったけれど、薬を飲み、骨が焼けるのではないかと思うようなあの焼け付くような痛みのあと、無事、ふたりの身体は元の姿に戻っていた。
 しかし、元の姿に戻れたからといって、すぐに喜ぶこともできなかった。短い時間だけ元に戻ることなら、以前にもできていたのだ。問題は、それが永遠に続くかだった。それに、何かの副作用が出ないとも限らない。
 薬を飲んでから、新一は志保と共にずっと阿笠邸にとどまり、薬の効果や、なにか障害が出ていないかの検査を受けていた。毎日の健康診断、血液検査、そんなことが、約2週間近く続いた。
 だが、心配していたように身体が小学生に戻るようなことも、その他の異常が表われるようなことも、何もみられなかった。
「検査の結果、私もあなたも何処にも異常は見られないわ。細胞の状態も安定しているし。アポトキシンの影響は、私達の身体から、ほぼ完全に消えたと思うわ」
 何度目かの検査のあと、志保は検査結果のデータに目を落としながら言った。多少の副作用なども懸念していたのだが、検査の結果は良好で、何の異常も見られなかった。
 本当に、新一と志保の身体から、アポトキシンの効力は消えたのだ。
「やった!」
 新一は思わずガッツポーズを取る。
 志保の作った薬を信用していたとはいえ、やはり多少の不安もあったのだ。だが、もう心配することはない。本当に『工藤新一』に戻れたのだ。
 組織は相変わらず存在しているが、だがもう無力なだけの子供ではない。子供だからと信用してもらえず、誰かを演じながら推理をしなくてもよいのだ。事件にも組織にも、『工藤新一』として立ち向かっていける。
「──よかったわね、工藤君。これで私も肩の荷がおりたわ」
「……灰原?」
「その呼び方、そろそろやめてくれないかしら。私が転校したはずの小学生の名前で呼ばれていたら、おかしいでしょう?」
「あ、ああ、そうだな」
 元に戻ってからも、今までずっと新一は、なんとなく彼女を『灰原』と呼んでいた。だが確かに目の前にいるのは、あの小学生の少女ではない。すこしつりあがった大きな薄茶の瞳と、光に透かしたら金にも見えそうな赤茶の髪が印象的な、理知的な美しい女性だ。
「じゃあなんて呼べばいいんだ?」
「好きに呼べばいいわ」
 いつもの素っ気ない感情の読み取れない声音で言われ、新一はすこし考えた。
 今まで『灰原』と呼んでいたのだから、普通に考えるなら『宮野』と呼ぶのが妥当なところだろう。だが新一はその呼び名を選ばなかった。何故と問われても、理由など答えられない。ただなんとなく──そう呼びたかっただけだ。

「志保」

 突然呼ばれた名前に、いつもはあまり表情が顔に出ない彼女も、驚いたような顔で新一を見つめた。彼女もまさか名前で呼ばれるとは思わなかったのだろう。
「好きに呼んでいいんだろ?」
「──そうだけど」
「じゃあいいだろ。『志保』で」
 志保は何かに迷うように戸惑うようにすこし視線をさまよわせていたが、やがてあきらめたようにちいさく溜息をついた。
「……好きにすればいいわ」
 しかし考えてみれば、異性を名前で呼ぶというのは、蘭以外でははじめてだ。蘭は幼馴染だから、ちいさいころからそう呼んでいた延長だからともかくとして、なんだか不思議な感じだった。
「まあともかく、解毒剤は成功だったってことだよな」
 新一は一仕事終わったとでもいうように、大きく伸びをした。
 しかしそれをとめるように、志保が言葉を続けた。
「工藤君。水をさすようで悪いんだけど、まだひとつ、検査が残っているのよ」
 言われた言葉に、新一は伸ばしかけていた身体をすぐに引き戻して、気を引き締める。いくら元に戻ったとはいえ、薬の後遺症に対する不安は拭いきれないのだ。
「なんだ? 検査って何をすればいいんだ?」
 すこしでも気になる点があるというのなら、検査でも何でもして、異常があるならある、ないならないで明らかにしなければいけない。その検査が多少痛みや危険を伴うものであったとしても、新一はそれを受ける覚悟をしていた。
 しかし、それに返された言葉は新一の予想外のものだった。

「工藤君。私を抱いてくれない?」

「────、っ、なっ」
 言われたことが一瞬理解できずに、理解したあとは瞬時に顔を真っ赤にして、新一は酸欠の金魚のように口を動かしてしまった。一体彼女は、突然何を言い出すのか。
 その様子を見て、志保はくすりと笑う。
「勘違いしないでね。生殖機能が正常に働いているかのチェックよ。幼児化しているあいだ、生殖機能も止まっていたでしょう? それが正常に戻っているか知りたいのよ。データ的には何の異常も見られないけど、こういうことはメンタルな部分も大きく影響するから。幼児化の精神的影響が何かあるかもしれないでしょう」
 たしかに、コナンだったころ、一緒に暮らしていた蘭の風呂上り姿などを見てドキドキするようなことはあっても、それが性衝動につながったり、実際に身体的に表われたりすることはなかった。小学生だった身体にそういう性的な衝動が表われるかは別にして、精神的には17歳の男であるのだから、もっと何かを感じてもいいはずだった。けれど結局、コナンには本当の小学生が胸をときめかせ顔を赤らめる程度の感情しかなかった。
 相手が蘭だったからとか、そういうことではなくて、小学生の姿だったあいだ、ずっと性的な欲求を感じたことがなかったのだ。もともと新一の性に対する関心が薄いということを差し引いても、確かに幼児化しているあいだ、肉体的にも精神的にも生殖機能は止まっていた。
 それが、精神が身体に引きずられてのことか、実際に機能として止まっていたのか分からない。元に戻った今、それが正常に戻っているのかも。肉体的には元に戻っているはずだが、精神的にも正常に働いていなければ、正常に機能しないだろう。
「だからって、おまえを抱くって、そんな」
 その検査の必要性は分かるが、だからといって、志保の申し出は、うなずけるようなものではなかった。痛みに耐えろとか不快感に耐えろというのなら、新一はいくらでも我慢できるが、これは話が違う。
「だって私、正確なデータが知りたいし。それなら私とあなたが寝るのが一番手っ取り早いでしょう? それに、あなたが試す相手は別に蘭さんだっていいけど、もし正常に機能しなかった場合、ショックでしょう? 安心して。別に1回寝たくらいで責任取れなんて言わないし。別に処女って訳でもないし」
 志保の言葉には突っ込むところがありすぎる。ありすぎて、何処からどう言えばいいのか分からなくて、新一は頭を抱えてうなるしかできなかった。
「そういう問題じゃないだろ……」
「あら。じゃあどういう問題? それとも蘭さんと寝たあと、その時の状況を逐一報告してくれる?」
 うまい対応もできずに、ただあせったりうなったりしている新一に対して、志保は嫌になるくらい冷静だ。語られる内容とは裏腹に、医者が患者に手術の説明をするような口調が、余計に新一を追い詰める。
「おまえ、俺のことからかってるだろ……」
「私は本気よ」
 にらむように志保に視線を向ければ、色素の薄い瞳が、まっすぐに新一を見つめていた。
 手にしていた書類を机に置いて、志保が一歩、新一に近づく。
 今、この阿笠邸には新一と志保しかいない。博士は、定例の発明協会の会合に出かけてしまっているのだ。こんなときに家を空けることを博士は気にして渋っていたが、定例の会合に急に出席しなくなるのは逆に怪しまれるからと、博士を送り出したのだ。彼が帰ってくるのは明日の昼だ。ふたりしかいない静かな屋敷が、急に今までと違うもののように感じられた。
 コナンの姿のときなら、哀とふたりきりになったことなど何度もある。今日と同じように、阿笠博士が出かけていて他に誰もいない屋敷に泊まったことだって何度かある。でもそのときは、ただそれだけだった。それ以上の意味なんて、なにひとつなかった。
 コナンも哀も、子供だったから。
 けれど今は違う。新一は17歳に戻り、志保だって──。
(────)
 ああ。たしかにそこにいるのは、もう小学生の娘ではないのだと、妙に納得した。そして自分も、幼馴染の色香漂う姿を見ても顔を赤らめることしかできなかった小学生の子供ではないのだと。
 そのとき、その瞳に、引き結ばれた淡紅色のくちびるに、目の前に立つ美しい女性に感じたのは、たしかに久しく感じていなかった性的な衝動だった。
 理由なんてなく、触れたいと思う強い衝動が湧き上がる。
「志保」
 新一は、志保へと手を伸ばした。その長い指が、なめらかな頬に触れる。
 彼女は逃げるそぶりもなく、ただじっと、その動きを見守るかのように新一を見つめている。
「途中でやめろとか言っても無理だからな」
「言わないわよ、そんなこと」
 新一は志保を思いのほか強い力で抱き寄せた。
 子供の姿のときでも、自分よりも細い肩だと思っていたが、こうしてもとの姿になると、さらにその体格差がはっきりする。新一だって、高校生男子としては体格がよいほうではない。どちらかといえば華奢とさえ言われてしまうだろう。けれど志保はそれよりさらに細かった。その身体は、すっぽりと新一の胸に収まってしまう。
 その細い身体を優しく守りたいと思う気持ちと、滅茶苦茶に壊してしまいたいという気持ちがせめぎあう。
 どうすればいいのかなんて分からないまま、新一はただ思うままに志保にくちづけた。くちびるが触れ合った瞬間、細い肩が怯えたように一瞬ちいさく揺れた。それに新一は気付いたが、彼女を放すことができなかった。
 これが正しいことか正しくないことかなんてことさえ、もう分からない。ただ触れるたびに、自分の中から、理性とか自制心とか呼ばれるものが削げ落ちてゆく。あとはもう、本能のように、彼女に触れたいと思う気持ちだけだ。
「志保。志保」
 触れるくちびるのあいだから、何度も彼女の名前を呼んだ。『哀』ではない、彼女の、本当の名前。
「……新一」
 それに答えるように彼女が新一の名を呼んで、そのとき、新一はもう自分を止めることも引き返すこともできないと悟った。
 彼女を抱えて寝室まで移動したのが、最後の理性だったのかもしれない。
 シーツの上に横たえた彼女の上に覆い被さって、何度もくちづけた。くちづけながら、その輪郭を確かめるように服の上からその体に触れた。そのうち、肌と肌とをへだてる布が邪魔で、静かに脱がすのももどかしく、ほとんど引きちぎるように服を剥ぎ取っていた。
「…………っ」
 性急な動きに、志保がおびえたように息をつめるのが分かった。分かったのに、新一は優しくすることが出来なかった。そんな余裕などない。うずめた首筋から薫る甘い香りが、新一を狂わせる。
 さらされた白くしなやかな足は、こわばったまま固く閉じ合わされていた。それはそうだろう。抱かれるのが初めてではなくても、自分から誘ったことだとしても、こんなふうに乱暴に触れられれば。
 それでも、新一が触れると、それに従うようにおとなしく開かれた。かすかに、震えながら。
(志保)
 新一は、彼女の過去をすべて知っているわけではない。誰にどう抱かれたことがあるかなんて、知るはずもない。知りたいとも、思わない。
 それでも、胸の奥で焼かれるような鈍い痛みを感じるのは、嫉妬なのかもしれない。
 自分の苛立ちと欲望をぶつけるように、新一は、白い腿のやわらかな内側の肉に噛み付いた。そのまま力任せに吸う。
「────っ! 工藤、くっ……」
 痛かったのだろう。志保がちいさな悲鳴をあげた。
 唇を離せば、そこにはくっきりと紅い跡が残っていた。うっすら血さえ滲んでいる。
 それを見たとき、急に新一の頭が冷えた。
(俺は)
 こんな跡を残して、どうなるというのだろう。嫉妬なんかして。
 嫉妬なんて、する権利もないようなものなのに。これはただの『検査』で、心なんて、きっとなくて。きっと、彼女にとっては欲望ですらないのに。
 それなのに。こんな。
「……くどう、くん?」
 急に動きを止めた新一を不審に思ったのだろう。すこし不安げにかすれた声が掛けられた。
「……どうしたの? ……やっぱり、私じゃ、できない?」
 顔を上げれば、上体を腕で起こした志保と目が合った。
 何も身にまとっていない志保は、それだけで、天才芸術家が魂を込めて掘り込んだ彫像のように美しかった。いや、彫像なら、これほど人を惑わす色香は存在しないだろう。なめらかな曲線も、淡く色づく肌も。
 見つめているだけで、新一の中に、また欲望の炎が灯ってくる。
 それでも今新一の動きを止めているのは、ここに『心』がないという事実だ。
 今まで、遊びや金で、女を抱いたことがないとは言わない。心なんかなくても、女くらい抱ける。それなのに、今どうしてこの身体は止まっているんだろう。
「……工藤君」
 新一の態度をどうとったのか、志保がそっと、新一へと腕を伸ばした。指先が、頬へ触れる。
「いいのよ。あなたは何も悪くない。これはただの『検査』なんだから。そんな顔をすることは、ないのよ」
 なだめるようにその指は頬をなでて、志保はそっと新一にくちづけてきた。そのまま新一を寝台の上へ押し倒す。なめらかな志保の髪が、新一の上に覆い被さる。甘い香りに埋め尽くされる。
 違う、と言いたかった。志保が言ったことは、新一の思いとは違っている。そうではないのだ。
 けれど言葉を発する前に、再び燃え上がった強い欲望に、理性ごと言葉を奪われる。
 腕を伸ばして志保を抱きしめ返して、そこから先はもう、はっきりとは思い出せないほど、ただ、彼女に夢中になった。
 新一は、志保を抱いた。
 何度も何度も。
 それが本当にただの『検査』なら、一度で十分だったはずだ。それなのに、もっと触れたいと思う衝動を止められなくて、何度も。最後には、志保が意識を失ってしまうまで。
(志保──)
 意識をなくした志保を抱きしめたまま、新一も疲れに身を任せるように目を閉じた。傍らにあるぬくもりが、直接触れる肌が、ひどく心地よかった。
 朝が来て目が覚めたら、志保はどんな顔をするだろうか。こんなことはただの『検査』だからと、今までと何も変わらずいつもの冷静な顔をしているだろうか。それとも、やはり何か、今までとは変わっているだろうか。自分は、どんな顔をすればいいのだろうか。
 名前の呼び方が変わったように、ふたりの関係も、何か変わるのだろうか。
 そんなことを考えながら、やさしい眠りに落ちた。
 目を覚ましたら、志保に言わなければいけないことがあった。それはまだはっきりと、新一の中で明確な形にも言葉にもなっていなかったけれど。目が覚めて、志保に向き合えば、きっとそれも分かるはずだった。
 そうして、ふたりの関係がどう変わるのだとしても、変わらないとしても、そこからまた、新しい日々が、あるいは何も変わらない日々が続いていくのだと思っていた。
 そう、信じていたのに──。
 新一が目を覚ましたとき、もう志保はいなかった。いなくなってしまっていた。
「志保?」
 ベッドの傍らにはわずかなぬくもりが残るだけで、隣にいたはずの彼女の姿はなかった。
 はじめは、先に起きて朝食の準備でもしているのかと思った。あるいは、身体を重ねたことに照れて、顔を合わせづらくて先にベッドを出て行ったのかと。
 けれど、リビングまでおりて、テーブルにぽつんと置かれたMOを見たときに、新一は唐突にすべてを悟った。
 志保は、いなくなったのだと。ここから、出て行ったのだと。
 そしてもう二度と、戻ってくる気はないのだと──。
(どうして)
 その問いをすることは愚かだった。
 彼女は組織の一員だった自分を責めていた。アポトキシンの開発者である自分を誰より責めていた。まるで自分などがしあわせになってはいけないとでもいうように、その胸に十字架を刻み込んで。
 そしてまた、自分がここにいることで、まわりの者を巻き込んでしまうことを恐れていた。非情な組織は、標的者だけでなく、その関係者全員を消そうとする。その冷酷さを身をもって知っている彼女は、それをとても恐れていた。
 そんな彼女がそれでもここにいたのは、幼児化した姿では他に何処にも行けなかったということと、コナンのために解毒剤を作らなければいけないと自らに課していたためだった。
 だがもう、解毒剤は完成し、彼女自身ももう幼い姿ではなくなった。
 彼女をここに縛り付けていたものは、なくなったのだ。
 だから、志保は──。

(志保!!)

 新一は、寝起きの服のまま、阿笠邸を飛び出した。門の前に立ってまわりを見渡しても、志保の姿はカケラもない。シーツはまだ冷たく冷え切ってはいなかった。そんなに時間は経っていないはずだった。まだそんなに遠くへは。
 けれど彼女がどちらへ向かったのか、見当さえつかない。普通なら、駅かバス停にでも向かうかもしれないが、彼女がそんな足のつきやすい手段をとるとは思えなかった。それなら何処へどうやって行ったのか。新一には分からなかった。
 結局新一は闇雲に街の中を走り回ることしか出来ずに、志保を見つけ出すことは出来なかった。



 あれから2週間が過ぎようとして、けれどいまだ志保の行方はわからない。
 捜索願を出すわけにも、大々的に探すわけにもいかない。いろいろな手を尽くして精一杯探してはいるが、新一自身がその足で探しにいくことさえ出来ないのだ。新一にも組織の目は光っているから。もどかしさに身を捩りたくなる。
 ただこうして、こんなところから、彼女の無事を祈ることしか出来ない。
 彼女はいなくなってしまった。
 誰にも、何も言うことなく。
 いなく、なって──。
「志保」
 声に出して、呟いてみる。その名を呼んだのだって、まだ数えるほどだ。
 あのときもっと強く抱きしめていれば、決して腕がほどけぬほど強く抱きしめていれば、彼女はいなくならなかったのだろうか。
 この腕を抜け出した彼女の気配に、もっと早く気付いていたなら。
 何度繰り返し想っても、仮定は仮定でしかない。志保はいない。
(────)
 彼女に伝えたい言葉があった。それはまだ確かな形ではなくて、でも彼女の姿を見ればきっと分かるはずだったのに。
 言葉は伝えられないまま、いまだ新一の中で確かな形を持たない。ただその胸の奥で渦巻くだけで。
 どうしてこんなにも胸が苦しいのか、分からなかった。


 To be continued.

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