箱舟 -2-


 志保の行方はわからないまま、更に数日が過ぎていた。心配は、日に日に溶けない雪のように降り募ってゆくが、彼女の行方に関する情報はなにひとつ分からないままだった。
 新一は、博士と向かい合わせに座って夕食をとっていた。
 志保がいなくなってから、ずっと食事は博士と二人きりだ。火が消えたような、という表現がまさにぴったりの、重い雰囲気の食卓だった。楽しい会話を交わそうとしても、話題がない。ふと気付けば、また志保の心配を口にして、また場を重くしてしまうような状態だった。
 阿笠邸の一階は、フロアほぼ全部を使ってリビングもダイニングも兼ねたような広い造りになっているが、のびやかさを感じさせるそこが、今はただ寒々しいだけのように感じられた。
 会話の代わりのように、つけっぱなしテレビからは、ニュースが垂れ流されている。きつい感じのアナウンサーが、あまり感情のこもらない声で、淡々とニュースを繰り返していた。
 最近のニュースはあまり明るいものがない。今日のトップニュースも、政治家の汚職発覚と、ある殺人事件の容疑者と見られる男が家族ともども自動車ごと崖から転落し死亡したというニュースだった。警察は、容疑者が、一家心中を図ったものとみて捜査を進めているらしい。
(組織がらみの事件かもしれない)
 新一は、ふとそう思った。
 別に、この事件の中に、組織に関する情報があったわけではない。なんの根拠もないことだ。ただの、殺人事件と一家心中なのかもしれない。
 それなのにそう思ったのは、容疑者の関係者がみんな死んでいるからだ。
 かつて関わったいくつかの事件から、彼らの残忍さはよく承知していた。以前にも、組織に関わっていた政治家は、家族ごと消されている。そして結局あの事件は迷宮入りのままだ。それが、彼らのやり方だ。
 それほど残忍な組織が、彼女を見逃すことはありえない。裏切り者に制裁を加えるため、執拗に追ってくるだろう。
(志保)
 また彼女への心配が、重なってゆく。
 だがそれを言葉に出すことはしなかった。言葉にすれば、また博士に心配の種を増やすだけだ。言葉にしたところで、彼女が見つかるわけでも救われるわけでもない。
「そういえば、新一」
「え?」
 不意に言われた阿笠博士の声に、新一は現実に引き戻される。
「まだ蘭君に、元に戻ったことを報告しておらんのじゃな」
「あ、ああ……」
 突然出されたその名に新一は少し戸惑う。
 新一が幼児化した姿から元に戻って、すでに2週間以上が経とうとしている。けれど今も、元に戻ったことは両親と平次にだけ報告して、他には知らせずに、ずっと工藤新一は『行方不明』のままだった。蘭にさえ、戻ったことを知らせていなかった。
 正確に言うなら、蘭は新一が幼児化していたなどと知らないのだから、『元に戻った』ではなく『帰ってきた』と報告しなければならない。だがどちらにしろ、まだ何も彼女に連絡していなかった。
 コナンの姿で、世話になっていた毛利探偵事務所を去るときに見送ってくれた姿を見たのが最後だ。電話もしていないから、声さえ聞いていない。
(蘭に連絡……か)
 本当は、元の姿に戻れたなら、真っ先に彼女に報告するつもりでいた。蘭がどれだけ心配しながら待っていてくれるか、コナンとして傍で見ていてよく分かっている。そんな彼女に連絡するのは、義務だと思う。
 ただ、薬を飲んでからしばらくは、まだ連絡せずにいた。まだ完全に元に戻れたと確証がもてたわけではない、どんな副作用があるかも分からないという中途半端なときに連絡したくなかったからだ。
 だが検査がすべて終わって、その確証が持てるようになるのと同時に、志保がいなくなってしまった。それからはずっと志保の行方にばかり気をとられて、蘭へ連絡することなど忘れてしまっていた。
「買い物の途中で偶然行き会ってな。ワシに新一から連絡がないかと尋いてきたぞ。連絡しなくていいのか?」
「……まだ組織が潰れたわけでもないからな。まだ前みたく普通に会えるわけでもないし」
 いいわけのように、蘭に連絡をしないもっともな理由を並べてみる。
 確かにまだ組織は健在していて、ブラックリストに載っているはずの『工藤新一』の姿をノコノコとさらすわけにはいかない。ましてそんな自分が万が一にも蘭と一緒にいるところを目撃されれば、組織の魔の手は蘭へと向かうだろう。だからそれを心配して連絡しない。もっともで、誰もが納得する理由だった。
 だがそれはいいわけに過ぎないと分かっていた。姿を見せなくても、電話はできる。それさえしないのは何故だ。連絡することさえ忘れていたのは。
 姿を見せなくても、今までのように電話をかけるだけでも、それだけでも、蘭はどれほど安心するだろう。どれほど喜ぶだろう。自分のことを心配しながらずっと待っていてくれる彼女に、何も連絡しないというのはひどい仕打ちだ。
 けれど、そう分かっていながら、蘭に連絡する気にはなれなかった。
(どうして、蘭に知らせずにいるんだろう)
 別に、志保を抱いたことにうしろめたさを感じているわけではない。
 他の女を抱いたからといって、蘭にうしろめたさを感じるほど、蘭との仲は進展していない。せいぜい、家族に知られてバツの悪い思いをするようなものだ。
 それなら何故、彼女に連絡する気になれないのだろう。
(志保)
 思い浮かぶのは、志保のことばかりだ。そのことばかりが、新一の胸を占める。
 狙われているのは、彼女も同じなのだ。いや、組織を裏切った人間だからこそ、志保のほうが危険だろう。彼女が何処へ行ったかは分からないが、きっとここにいたほうが安全だっただろうに。組織に対抗するにしても、ここにいれば、味方もいるのに。ここにいたなら、守って、やれるのに。
 たったひとりで。
 どうして気付かなかったのだろう。気付いてやれなかったのだろう。解毒剤が出来たら、彼女がいなくなってしまう事態は、十分考えられたはずだ。
 彼女は他の誰かを巻き込むことをひどく恐れていたから。すべてを自分のせいだと、自分を責めていたから。何も言わずに、自分ひとりで背負い込もうとするから。
 どうしてあのとき、もっと強く抱きしめておかなかったのだろう。
 強く強く抱きしめて、離さずにいれば。
「……蘭へは、時期を見て、連絡するから」
 そんなひとことで、新一はその話題を終わらせた。博士もそうかとだけ言って、また食事をはじめる。
 元の姿に戻れたら、大抵のことは、元通りになるのだと思っていた。もちろん組織の目があるからすぐに日常生活に戻れると思っていたわけではないけれど、それ以外のことは、元に戻るのだと。
 そう思っていたのに。
 何か大きく変わってしまったものがあることに、新一も気付き始めていた。



「工藤。コレ、組織に関すると思われる警察内部の資料や」
 平次が、鞄から取り出したファイルを新一に差し出す。
「悪いな」
 新一はそれを受け取って、パラパラと中を見る。
 詳しく見なくても、それが詳細に集められたデータだということが分かる。そして、警察内部でも極秘である情報も混じっていることも。これだけの情報を集めるのは平次でも苦労しただろう。あるいは、多少の無茶もしたのかもしれない。明るみに出たら、許されないようなことも。
 平次は休日を利用して東京へ来ていた。もちろん、阿笠邸にいる新一に逢うために。
 コナンが新一だったと知っている平次には、元に戻れたことを知らせていた。
 表向き、コナンは両親のいる外国へ行ったことになっている。皆にはそれで十分だが、平次にはそれが新一に戻ったのだとすぐ分かるだろう。それなのに姿も見せず、何も知らせずにいると、騒がれて事態が大きくなりそうなので、彼にはちゃんと前もって知らせていた。
 新一の体が戻ったということは、見つかれば確実に組織に狙われる。だからもう、組織を潰すしかない。新一は本格的に組織に立ち向かう準備をすすめていた。
 平次はそれに協力してくれている。大阪府警本部長子息の立場を利用して、組織の情報を集めてくれる。動けない新一の代わりに目となり足となり動いてくれる。それだってかなり危険なことだが、平次は自ら進んで、協力してくれていた。表立っては動けない新一にとって、平次の存在はとても助けになっていた。
「調べれば調べるだけ、ろくな組織やないって分かるな。しかも、分かってるのだって、そのほんの一部なんやろうし」
「ああ……」
 そんなことは新一にも分かっていた。どんなに調べても調べても、まだ底が見えず、裏の黒い部分が次から次へと続いている。組織の巨大さも残忍さもその影響力の大きさも、想像以上のものだった。
 改めてそれを口にされると、それを再認識して、不安がつのる。自分に降りかかる危険にではなく、志保は大丈夫なのだろうかと。
 新一には、庇護がある。それがどれほど組織に効力があるかはともかくとして、高名な両親の存在も、名探偵としての地位もある。こうして助けてくれる仲間もいる。この場所におとなしく隠れているならば、組織に見つかる可能性だって低いだろう。
 でも志保は。なにひとつ持たずに。
 彼女は組織の一員だったのだから、もちろんそれがどれほどの規模で、どれほどの力を持っているのか、新一以上に知っているだろう。
 それでも、ひとりきりで。何も言わずに。
「工藤。それとな。俺以外にも、警察内部のデータバンクに誰か入ったみたいなんや。どうも、組織に関する情報を持って行ってるみたいなんやけど」
「──それは……」
 平次の言葉に、新一はファイルから顔を上げる。
「足跡はキレイに消されてもうてて、何処から誰が入ったんかはまったく分からへんのやけど」
「────」
(志保)
 彼女の名が思い浮かんだ。おそらくは、彼女だろう。警察内部のコンピューターに入っていけるような技術を持つものは、早々いないだろう。平次だって、父親の権利を勝手に利用して、なんとかコンピューターに潜っているのだ。
 ひとりで戦っているのだ。彼女はひとりきりで。
 自分にはこうして、助けてくれる仲間がいる。平次や阿笠博士や両親や。
 それなのに、志保は、ひとりで。
(何処に、いるんだよ)
「──大事なんやな」
 新一の顔を見つめていた平次が、不意に呟いた。脈絡のない言葉に、新一は首をかしげる。
「? なにが?」
「工藤は姉ちゃん一筋や思うてあきらめとったんやけど、いやまあ結果は同じなんやろけど、なんや2回振られた気分や」
「何言ってんだおまえ」
「いや、おまえは何で俺がこないに協力するんかわかっとらんのやろなーちゅうことや」
「? なんでって、おまえも探偵だからだろ?」
 ただの『友達』のため、というのでは、平次の行動が説明つかないことくらいはわかる。『友達』程度のために、組織にかかわって、警察のトップシークレット情報を盗んでくるなんて、リスクがありすぎる。
 だから平次の行動は、『探偵』として、関わった事件を投げ出すことができない、組織を放っておくことができないという使命感や正義感から来るものだと思っていた。
 その新一の言葉に、平次はがっくりとうなだれる。
「……いやまあ、分かってはいたんやけどな……」
 平次の言葉の意味がなにひとつ分からなくて、新一は首を傾げるしかない。自分の解釈は間違っていたのだろうかと、新一は疑問に思う。
 友人や知人にこんな態度をとられることは、たびたびあることだった。自分ではあまり自覚していないが、どうも他人の心の機微を読み取るということが、極端にできていないときがあるらしい。これが事件現場だというのなら、もういろいろなことが見透かせるのに、日常ではそれがうまく働かない。
 新一自身も多少はそれを自覚してはいるのだが、どうにも改善できない。というよりも、新一自身は自分が他人の心を正確に読み取れているかどうか、その判断からしてできないのだ。
『新一、相変わらずだね』
『まあ〜ったく。新一君てば、相変わらずの推理バカなんだから』
 蘭や園子に、そんな風に呆れるように言われて、やっと、自分は間違っていたのだろうかと、気付けるようなものなのだ。
 いつもいつも、誰の気持ちも分かってあげられない。
『私を抱いてくれない?』
 あのとき、新一はちゃんと彼女の気持ちを読み取れていただろうか。
 いや、読み取れていなかったのだ。読み取れていたなら、彼女がそのあと消えようとしていることくらい、気付けたはずだ。
 何も気付けずに──そして、志保は、いなくなって。
「工藤。大丈夫か?」
 不意に掛けられる平次の声に、新一は我に返った。いつのまにか、平次の存在も忘れて思考に沈みかけていたらしい。
「あ、ああ。悪い。この資料、サンキュな」
 新一はなんでもないかのように取り繕おうとするが、平次はそんな新一の様子をすこし見つめたあと、まるでコナンだったときのように、その大きな褐色の手を新一の頭にのせた。
「大丈夫や、工藤。あのねーちゃんなら、きっと無事や」
 まるで新一の思考を読みでもしたかのように、平次が言った。新一はすこし驚いたまなざして、親友ともいえる西の探偵を見つめた。
 推理力もさることながら、西の探偵は、ちょっとした仕草や表情から、他人の心を読み取り、そして気遣う能力に長けていた。それは新一が子供の姿であったときも同じで、彼のそんなところに何度も救われた。
 もしも自分にも、彼の半分でも、他人の心を読み取る力があったなら、彼女は──。
「工藤」
 またうつむいて、ふがいない自分自身に落ち込んでゆく新一をあやすように、平次は何度も何度も優しく頭をなでる。
 いつもなら、子供扱いするなと怒鳴りだして暴れるところだが、今はそんな気分にもならずに大人しくされるがままになっていた。あたたかな平次の手が心地いい。それに、すべてが癒される気がする。
「ありがとな、服部」
 いつもよりほんのすこしだけ素直になって、新一は服部にそう告げた。それは、組織の情報収集に協力してくれることだけでなく、すべてことを込めて。
「ええんよ工藤。おまえはおまえの思うとおりに生きればいいんやから」
 言われた言葉の意味が分からずに、新一は顔を上げて平次を見た。優しい瞳が、新一を見つめていた。
(思うとおりに)
 平次の言葉を、心の中で繰り返す。
 どうして彼がそんなことを言い出したのか分からない。自分は思う通りに生きているはずだ。コナンであったときも両親の反対を押し切ってずっと日本にいたし、今だって周囲の心配を押し切って組織を追っている。いつだって、思う通りに。
 ──何故平次がそんなことを言い出したのか、わからなかったけれど。
 胸の奥が、痛むように熱くなった。
「──ああ」
 ちいさく、それだけ返事を返す。
 きっと、何があっても、平次は新一の味方でいてくれるのだろう。新一を許してくれるのだろう。無償で差し伸べられているあたたかな腕。
(思うとおりに)
 生きられているだろうか。今の自分は。ちゃんと、望みどおりに。
 いや、それよりも先に。自分は何を望んでいるのだろう。何を思っているんだろう。
 コナンであったころは、それははっきりしていた。
 元の姿に戻ること。組織を潰すこと。大切な幼馴染のもとへ戻ること。探偵になること。
 だが今はどうだろう。今は──?
(──志保)
 新一には、今自分が何を望んでいるのか、自分自身ですらよく分からなかった。ただ、いなくなってしまった彼女のことだけが、繰り返し心に浮かんだ。
 それが何故なのか、まだはっきりと気付くことができなかった。



 まだ満月に満たない月が、西の空に淡く引っかかっている。薄雲も張っているから、月の光はそんなに強くない。真夜中というほどではないけれど、普通の人の帰宅時間もとっくに過ぎて、出歩くにはすこし遅い時間だ。
 新一はそっと阿笠邸の玄関を出た。注意深くあたりに気を配るが、おかしな気配も殺気もどこからも感じられない。それを確認して、新一は歩き出した。
 新一が向かうのは、すぐ隣の自分の家だ。
 先日平次が持ってきてくれた資料の中に、興味深いものがあったのだ。それについてもうすこし詳しく調べたかった。そしてそれに関連した資料が、自分の家の書斎にあったことを思い出したのだ。
 いつもなら、外に出る用事は阿笠博士に頼んでいる。けれど工藤邸の書斎には膨大な数の書籍や資料が並び、とてもではないが、博士に扱えるものではなかった。博士ではきっと目当ての資料を見つけることさえできないだろう。だから、新一自身が取りに行くしかなかった。
 しかし、取りに行くといっても、場所はすぐ隣だ。街の図書館まで出かけるのとはわけが違う。出歩く時間だって、阿笠邸の玄関から工藤邸の玄関まで、時間にすれば1分にも満たないだろう。そこまで警戒することもないだろうと、新一が自分で取りにいくことにしたのだ。
 だからといって、真昼間に堂々と出入りすることはできない。あんまり真夜中に、無人のはずの工藤邸に出入りするのは逆にあやしい。ということで、こんな中途半端な時間に新一は久しぶりに工藤邸の門をくぐっていた。
(……たしか、父さんがファイリングしてた資料に……、右端の本棚だったと思うんだけど……)
 いくら記憶力のよい新一でも、膨大な資料のどこに何があるかすべて覚えているわけではない。だから、必死で記憶を探りながら、以前見たはずの資料の場所を必死に思い返していた。
 そんなことを考えていて、すこし注意力が散漫になっていた。だから、声を掛けられるまで、彼女の存在に気付けなかった。
「新一っ!」
 不意に、背後から大きな声が掛けられる。
 新一はびっくりして振り返る。
 振り向くと、いつのまにいたのか、蘭が門のところにいた。
「新一……」
 向こうも、そこに新一がいたことに驚いているようで、その場に立ちすくんでいた。門柱を掴んだ手がかすかに震えている。
 おそらくは、遅い買い物か何かに出かけ、工藤邸の前を通って、偶然真一の姿を見つけたのだろう。
 蘭の姿を見るのはひどく久しぶりだった。もう1ヶ月以上はその姿を見ていなかった。元の姿に戻る前、コナンとして会ったのが最後だ。
「蘭……」
 驚きが徐々に解けたのだろう。耐え切れなくなっったように、蘭が新一へと駆け寄ってくる。
「新一、新一! もう、心配したんだから! 戻ってるなら何で連絡くれないの!?」
「──ごめん」
 新一は、素直に謝ることしかできない。彼女がどれほど新一を心配していてくれたか、十分分かっている。つい先日だって、その話を博士から聞いたばかりだ。それなのに、新一は連絡せずにいた。
 とりあえず、蘭を促して玄関の中へ入る。こんな外では組織に見つかってしまうかもしれないからだ。
 玄関に入った途端、蘭はぽろぽろと涙をこぼした。
「心配してたんだから、私、私……」
 こらえきれなくなったのか、蘭は新一に抱きつくように、その胸に顔を伏せた。
 新一の腕に、その長い髪が触れる。
 不意に、新一は思った。
(──もっと、やわらかかった)
 蘭の黒髪は、彼女の自慢のひとつだけあって、つややかでなめらかだ。一房掴んで手を離したなら、さらさらと綺麗に流れてゆくだろう。
 けれど、あの赤茶の髪は、触れてみると意外とくせっ毛で猫毛でやわらかかった。シーツの上に散らばった赤茶の髪は、激しい動きにすこしもつれて、白い肌に張り付いていた。
(もっと、肩も細くて)
 空手をやっているせいか、蘭の肩はしっかりした骨格をしている。筋肉だって、肩にも背にも腕にもしっかりとついている。
 彼女の肩は、本当に細かった。華奢という表現は、なるほどこういうものかと思うほどに。すこしでも力をこめたら折れてしまうのではないかと不安になって、けれど力をゆるめたら消えてしまいそうで。どうすればいいのか戸惑いながら、それでも力を押さえきれずに抱いていた。
(もっと、色も白くて)
 蘭だって年頃の女の子だから、多少は日焼けを気にしたりするのだろうが、元気に外に出かける肌は、うっすらと色をつけている。
 いつも部屋にこもりがちだったせいか、彼女の肌は透き通るように白かった。その、いっそ青白いとも思えるような肌が、触れるたびに淡く桜色に色づいて。すこし強く吸えば、すぐにはっきりとした紅色の跡が残って。
(志保)
 すべてを比べている。
 ずっと志保のことばかり考えている。
 今、この腕の中にいるのは蘭なのに。志保ではないのに。ずっと、会いたいと思っていたのは、蘭であったはずなのに。
(──ああ)
 不意に、新一は気付いた。やっと、というべきか。
 うしろめたさは蘭に対してじゃない。志保に対してだ。
 そして、自分に対して。
 どうしてそんな簡単なことに、ずっと気付けずにいたのだろう。こんな、簡単なことだったのに。これでは、名探偵の癖に鈍すぎると、園子にバカにされても反論しようがない。
(俺は、志保が)
 自分の胸に顔をうずめている蘭の肩をそっとつかんで、自分の胸から引き剥がした。
「新一……?」
 その腕の強さに、蘭が、不審げに新一を呼ぶ。
「──蘭。俺は」
 蘭はだまって新一を見上げている。その目は、安堵と期待に満ちている。おそらくは、このまま愛の告白でもはじまると思っているのかもしれない。昔なら、そうだったろう。きっとここで、彼女に愛を誓っていただろう。でも、今は。大事な幼馴染を傷つけることにはためらいがある。でもそれでも。
「俺はおまえのこと、幼馴染として大事に思ってる。すごく大切だ。でも違うんだ」
 蘭に対する『好き』も『大切』も、気持ちの大きさとしてはとても大きい。でも違うのだ。彼女が新一に向ける気持ちと、新一が彼女に向ける気持ちとは、種類が違ってしまっている。それらが重なることはありえない。
 彼女の望みに、答えられはしない。
「だから──だから」
「どうして」
 新一の言葉を、蘭がさえぎる。
「なんで、新一。私ずっと待ってたんだよ。新一が帰ってくるの、ずっと待ってたんだよ」
 それはちゃんと知っている。コナンとして、誰よりもそれを傍で見ていた。
 帰らない新一を不安に思って泣く姿も、無茶をしているのではないかと心配する姿も、それでも想い続けてくれたけなげさも。
「──好きなやつがいるんだ。いなくなってるあいだに出逢ったやつで……そいつを、愛しているんだ」
「────っ!!」
 蘭が、息を詰まらせたのが分かった。
 ずっと『待っていた』蘭に、そのあいだに好きな相手ができたと告げるのは、どんなに残酷なことか分かっていた。もともと付き合っていたわけでもないし、はっきりした約束だったわけではないが、曖昧な約束をしたのも、思わせぶりな態度をとったのも新一だ。
 それを信じて『待っていた』彼女に、こんなことを告げるのは最低だ。
 でも、蘭をだまし続けるほうが苦しいし、なにより──志保を、助けに行きたかった。
「ひどい。ひどいよ、新一っ……!!」
 きびすを返して駆けてゆく幼馴染の姿を、新一はただ見送ることしか出来ない。
 だって、新一はもう志保を選んだのだから。追いかける権利はもはやない。
(志保)
 どうしてもっと早く気付かなかったのだろう。
 気付けていれば、離しはしなかったのに。
 いや──今からでも、まだ遅くはないはずだ。
(迎えに行くから)
 もう、ひとりで怯えさせたりしない。
(必ず、迎えに行くから)
 なにひとつ、言っていない。
 まだなにひとつ、はじまってさえいないのだ。
(志保)
 そうして、もういちど出逢ったら、伝えるのだ。
 ──愛している、と。
 だからずっと、一緒にいよう、と。


 To be continued.

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