箱舟 -3-


 無機質な部屋に、時計の秒針の音と、キーボードを叩く速い音だけが響く。それ以外の音は、何もない。いやあるいは、窓の外や扉の向こうから聞こえる音もあるかもしれないが、それらはなにひとつ、志保の耳へは届かなかった。
 志保の瞳は、ただ一点、ノートパソコンの画面へと向けられている。その美しい白い顔が、ディスプレイの光を映す。しなやかな指先は、まるでピアノの連弾でもしているかのように、速いリズムでキーボードを叩き続けていた。
(急がないと)
 画面の端に表示されているデジタル表示を見ながら、志保は指の動きをまた速める。
 デジタル表示された数字は、徐々に徐々に減ってゆく。これは、侵入した相手側のセキュリティを抑えておける限界を示しているのだ。数字がゼロになったら、またセキュリティが作動して、ハッキングがばれてしまうだろう。最悪、逆探知されて、この場所まで突き止められてしまう。そんなミスは犯せなかった。
 侵入したコンピューターから、目的の情報を見つけ出して、MOにダウンロードする。
 ダウンロードが終わり志保が急いで回線を切るのと、デジタル表示がゼロになり、パソコンからちいさな警告音が鳴るのは、ほぼ同時だった。
(なんとか間に合ったわね)
 あと1秒遅かったらセキュリティに引っかかっていたかもしれないが、ぎりぎりで大丈夫だったろう。今回もうまくいった。組織に関する情報を、引き出せた。
 極度の緊張から解放されて、志保は安堵に大きく息をつきながら、背もたれへと体重をかけた。画面を見続けていた目がすこし痛い。冷たいタオルでも用意したかったが、今は動くことさえ面倒だった。
 今日は、黒の組織の重要な資金源のひとつとなっている、ある企業のメインコンピューターにハッキングしたのだ。普通のコンピューターよりセキュリティが厳しかったし、もし逆探知されてしまったら、すぐに組織に志保の存在がばれてしまっただろう。そのせいで、いつもよりさらに神経も技術も使った。
 でも、そのリスクを冒しただけの成果はあったと思う。まだ詳細に分析はしていないから詳しくは分からないが、組織に関する重要な情報をハッキングできただろう。
 これでまたひとつ、組織を追い詰めるための情報が手に入った。だがまだ核心に触れるようなものはなにひとつない。もっと情報が必要だった。
(もっと、確実な情報を)
 そのためには、さらに危険を冒さなければいけない。もっと組織の中枢にかかわるようなコンピューターにハッキングしなければいけない。
 セキュリティは今までのものよりもっと厳しくなるだろう。また、こちらの居所を知られる確率も高くなる。
 それでもやらなければいけなかった。
 志保にできるのは、こんなことくらいだから。
 子供の姿だったときは、元の姿に戻れれば、もっといろいろなことができると思っていた。大きくなった分だけ、自分にできることも増えると思っていた。それなのに、実際には、子供の姿だったときと大差ない。いや、元の姿に戻った分、組織に見つかる可能性が高くなって、厄介になった。
 これならいっそ、子供の姿でいたほうがよかったのかもしれない。いや実際、このもの姿のままでいたほうがいいのではないかということは、何度も思ったことだ。
 そう思いながら、それでももとの姿に戻ったのは。
(──工藤君)
 愛しいひとの姿を、まぶたの裏に思い浮かべる。
 志保と同じく子供の姿になっていた彼も、もとの17歳の姿へと戻った。彼は今ごろどうしているだろうか。世間的に隠れていなければいけないのは彼も同じだろうが、それでもあの幼馴染に連絡して、再会を果たしているだろうか。子供の姿のときには出来なかった告白を、しているだろうか。そして彼女はそれを受け入れて。
(────)
 分かっていたことではあるのに、胸が締め付けられる。目頭が、熱くなる。無意識のうちに、志保は自分の身体を抱きしめるように、腕に手を回していた。
 たったいちどだけ。
 この肌をたどった、彼の感触を、まだ覚えている。
 たった一度だけ、この身体は、彼に抱かれた。
『志保』
 呼ばれた声が、今も耳に残る。
 聞きなれた、子供の高い声ではなく、低い男の声。彼の、本当の声。
『志保』
 その名前を、呼んでくれるとは思わなかった。せいぜい『宮野』と呼ばれるかと、思っていたのに。ただ彼に名前を呼ばれただけだというのに、何故だかひどく胸が締め付けられた。
 あの日、自分は確かに、彼に抱かれたのだ。
 それはきっと、愛ではなかったけれど。



「工藤君。薬、出来たわ」
 哀がコナンにそう告げたのは、実は、解毒剤が完成してしばらく経ってからのことだった。
 解毒剤に関しては、本当は、すでにすこし前から出来ていたのだ。慎重に慎重を重ねて、マウス実験を繰り返していたといえば聞こえはいいが、結局のところ哀は、その完成をコナンに知らせるのを先延ばしにしていたにすぎない。
 解毒剤が完成したといえば、すぐに彼は薬を飲んでもとの姿に戻ってしまうだろうから。
 彼女のもとへ、行ってしまうだろうから。
 彼は、どうしてももとの姿に戻りたいと切望していた。それで組織に見つかりやすくなることも承知で。それはすべて、あの幼馴染のためで。
 ──本当は。何度このまま、完成した解毒剤を捨ててしまおうと思ったか知れない。解毒剤は完成しなかったと、このまま騙しつづけたら。このまま子供の姿でいたら。
(そうしたら、あなたは、私の傍にいてくれる?)
 それは魅力的な誘惑だった。そうなったら、どんなにしあわせだろう。
 それでも哀は結局そうできずに、多少時間はかかったものの、正直にコナン解毒剤の完成を告げた。
 幼馴染のことだけでなく、子供の姿であることや、正体を隠して生き続けることに、彼が苦しんでいることを知っていた。でも哀のために、それを隠して笑っていることも。本当は、泣き叫びたいくらいつらいことも。
 それを知っていて、解毒剤の完成を黙っていることは、哀には出来なかった。
「本当かっ、灰原!?」
 薬の完成を告げられた彼は、子供特有の大きな瞳をさらに大きくして驚いていた。
「今度こそ大丈夫なんだろうなあ。前みたく、時間が経ったら元に戻るとか言わねーだろうな」
「大丈夫よ。マウス実験でも98%の確率で成功しているわ。信用できないのなら、私が先に飲んでもいいけど。その場合、万が一失敗だったとき、もう一度薬の開発をする人がいなくなってしまうけど。どうする?」
 コナンの言葉に、肩をすくめて答えた。
 それは、別に皮肉だったわけではない。彼が疑うのは、もっともなことだ。未完成だったあんな毒薬の解毒剤が完成するなど、奇跡に近い。
(──いっそそんな奇跡なんて、起こらなければよかったのに)
 そう思いかける思考を、静かに踏み潰す。彼には気付かれないように。
 成功は確信していた。たとえ未完成だったとしても、彼が飲めというなら飲むだろう。そして、哀が死んだら研究を続ける者がいなくなるというのは、ただの事実だ。
 判決を待つ罪人のように、哀はコナンの言葉を待った。
 いや多分、それは比喩ではなく、判決のひとつであるのだろう。アポトキシンを作り、彼の未来を奪った、哀の罪に対する。コナンは彼女を裁く権利を持っている。
「……信用してるよ」
 けれど返ってきたのはそんなぶっきらぼうな言葉で、哀はちいさく笑った。
 本当は、分かっていた気もするのだ。彼はとてもとても優しいひとだから。いっそ残酷なくらい優しいひとだから。そして、それを嬉しいと思う一方で、裁かれなかったことをつらく思ったりもするのだ。
(莫迦ね)
 それはどちらに対する想いだったのだろう。優しすぎるコナンへか。愚かな自分へか。
 結局、薬は同時に飲むことになった。そう提案したのはコナンのほうだった。彼は、哀が決して苦しむことがないように──万が一にもひとりで逝くつらさも、ひとりに遺される哀しさも味わうことがないようにと、そう配慮したのだ。背負う運命がどんなものでも、一緒であるように。
(──ほんとうに、莫迦だわ)
 本当は、コナンにだけ解毒剤を飲ませて、自分は子供の姿でいることもできた。薬の成功率は置いておくとして、哀にとっては、子供の姿のほうがメリットは多かった。もともと組織のメンバーである『宮野志保』は、多くの組織員に顔を知られている。子供の姿のままのほうが、見つかりにくいだろう。それに、哀には元の姿に戻るのを待っているひとなどいない。いっそ子供の姿のまま、阿笠博士や歩美達に囲まれて、新しい人生をはじめることだって、考えなかったわけではない。

 それでも薬を飲んだのは。
 たったひとつ。願いがあったから。

 それが愚かなことだと──意味のないことだと、分かっていたけれど。

 工藤夫妻の協力のもと米花町から『江戸川コナン』と『灰原哀』を消して、二人は解毒剤を飲み、『工藤新一』と『宮野志保』に戻った。
 解毒剤はちゃんと作用し、たいした副作用もなく、ふたりの身体はもとの年令に戻った。それは予想通りだった。そのために、何度も何度も研究と実験を重ねてきたのだ。
 だが、志保は検査のためと言って、新一をしばらく阿笠邸にとどめた。もちろん、万が一の検査のためではあったが、それ以上に、傍にいたかったのだ。
 もちろん、そんなときが永久に続くわけがない。検査だって、いつかは終わるのだ。
「工藤君。検査の結果、私もあなたも何処にも異常は見られないわ。細胞の状態も安定しているし。アポトキシンの影響は、私達の身体から、ほぼ完全に消えたと思うわ」
 薬を飲んでから2週間後、志保がそう告げると、新一は本当に嬉しそうな顔をした。
「やった!」
 それがどういう理由でかなんて分かっていた。元に戻ってからも、新一はまだあの幼馴染に連絡をとっていなかった。もしかしたら身体に異変があるかもしれない不安定な状態で、彼女の前に出たくなかったのだろう。だが、もうその心配はなくなった。新一は、彼女のもとへと帰れるのだ。それが彼をこんなにも喜ばせているのだろう。
(わかっていたわ。そんなこと)
 志保は胸の中でちいさく呟いた。
 そう。分かっていたことだ。志保は、哀として、ずっとコナンの傍にいた。彼が抱える想いを、ずっと間近で見てきた。
(だから、いちどだけでいいから)
「──よかったわね、工藤君。これで私も肩の荷がおりたわ」
「……灰原?」
 志保の言葉の中に含まれる憂いに敏感に気付いたのだろう。新一がすこし気遣うような視線を向けてきた。向けられる恋心などにはあんなにも鈍感なくせに、こういうところだけが何故か聡いのだ。
「その呼び方、そろそろやめてくれないかしら。私が転校したはずの小学生の名前で呼ばれていたら、おかしいでしょう?」
「あ、ああ、そうだな。じゃあなんて呼べばいいんだ?」
「好きに呼べばいいわ」
 新一はすこし考えるように、顎に手を添えた。推理するときのいつものくせだ。そんな姿はコナンのときと変わっていなくて、何故だか志保は安心する。
 しばらく考えたあと、彼は顔を上げて、志保を見ながらその名前を口にした。

「志保」

 その呼び名に目を見開いて驚く志保に向かって、新一はいたずらっぽく笑った。
「好きに呼んでいいんだろ?」
「──そうだけど」
「じゃあいいだろ。『志保』で」
 たしかに志保はそう言った。だがそう呼ばれるとは思っていなくて戸惑った。どう反応すればいいのか分からなかった。
 自分の気持ちを落ち着かせるように、ちいさく息を吐いた。
「……好きにすればいいわ」
 そう言った自分の声は、かすれていなかっただろうか。震えていなかっただろうか。心臓が速くなっている。
「まあともかく、解毒剤は成功だったってことだよな」
 志保の気持ちに気付くこともなく、新一はソファの上で大きく伸びをした。
(──そう。解毒剤は、成功だから)
 新一の言葉に、志保はそれを思い出す。
 解毒剤は成功した。新一は薬の呪縛から解放された。もう志保がここにいる理由はない。彼は行ってしまうだろう。彼が望んだ場所へ。──彼女のもとへ。
 その前に。一度だけでいいから。
「工藤君。水をさすようで悪いんだけど、まだひとつ、検査が残っているのよ」
 途端に新一の顔が曇る。何かまだ異常がある可能性があるのだろうかと、不安そうに眉が歪められる。そんな姿に、罪悪感が湧き上がって、志保の良心をすこしだけ痛ませる。それでも、計画を中止にするつもりはなかった。たった一度だけ、それだけだから。
「なんだ? 検査って何をすればいいんだ?」
 志保は一度小さく息を吸って、心を落ち着かせる。新一には気付かれないように。いつもの冷静な調子を保つように。

「工藤君。私を抱いてくれない?」

「────、っ、なっ」
 予想通り、言われた新一は絶句していた。返す言葉が見つからないのか、青くなったり赤くなったりなしながら、声にならないまま口を動かしている。あの『名探偵』のこんな姿など、滅多に見られるものではないだろう。
「勘違いしないでね。生殖機能が正常に働いているかのチェックよ。幼児化しているあいだ、生殖機能も止まっていたでしょう? それが正常に戻っているか知りたいのよ。データ的には何の異常も見られないけど、こういうことはメンタルな部分も大きく影響するから。幼児化の精神的影響が何かあるかもしれないでしょう」
 予定していたとおりの言葉を吐き出す。一見もっともらしいその説明を、彼が信じるように。いつもの冷静な口調を崩さないよう、気をつけながら。
 ──本当は、そんなこと、嘘だった。
 まったくの嘘というわけではない。たしかに生殖機能がとまっているかもしれない可能性はある。けれどそれも、普通の検査で分かることだった。わざわざ志保を抱く必要なんてない。それでもわざとそう言った。
 たった一度でいいから、新一に抱かれたかったから。
「だからって、おまえを抱くって、そんな」
 当然のように、戸惑った新一の反応が返ってくる。そんなことは予想していたことで、志保は畳み掛けるように言葉を続けた。
「だって私、正確なデータが知りたいし。それなら私とあなたが寝るのが一番手っ取り早いでしょう? それに、あなたが試す相手は別に蘭さんだっていいけど、もし正常に機能しなかった場合、ショックでしょう? 安心して。別に1回寝たくらいで責任取れなんて言わないし。別に処女って訳でもないし」
「そういう問題じゃないだろ……」
「あら。じゃあどういう問題? それとも蘭さんと寝たあと、その時の状況を逐一報告してくれる?」
 青くなったり赤くなったりしている新一とは対照に、志保は表情を崩さない。
「おまえ、俺のことからかってるだろ……」
「私は本気よ」
 それまで視線をさまよわせていた新一が、まっすぐに志保を見つめた。
 ゆっくりと、新一が手にしていた書類を机に置いて近づいてくるのが、スローモーションのように感じられた。
 新一が一歩また一歩と近づいてくるたび、心臓が速くなる。この音が聞こえてしまうのではないかと不安になるほどに。冷静なふりは、ちゃんと出来ているだろうか。
「志保」
 そっと手が伸ばされて、志保の頬に触れる。
 触れられた場所から稲妻でも走ったかのような衝撃が、志保の身体を駆け巡る。それでも体が震えもしなかったのは、緊張のあまり体が硬直していたからだ。
「途中でやめろとか言っても無理だからな」
「言わないわよ、そんなこと」
 そのまま、強い力で引き寄せられた。
 眩暈がするような、熱い気持ちがあふれでる。多分それは、幸福感と呼ばれるものに近いのだろう。新一に抱きしめられる腕の強さの分だけ、それは強くなる。
 強い力で後頭部を押さえられて、くちづけられた。その瞬間、体が震えた。
 ただ皮膚の表面が触れ合うだけの行為なのに。彼にとっては、検査とか欲望とかそれ以外の意味なんて持たないのに。それでも、喜びに体が震えた。ずっとずっと想い続けたひとと、触れ合えることに。
「志保。志保」
 触れ合わされるくちびるの間から、名を呼ばれた。偽りの名前ではない、本当の名前。
 志保も彼の名を呼び返そうとして、一瞬ためらう。
 彼の名前を呼んでも、いいだろうか。いつも思っていた。彼と彼の大切な幼馴染は、いつも親しげに名を呼び合っていて、それがすこしうらやましかった。今だけ。今だけなら、その名を呼んでも、許されるだろうか。
「……新一」
 ちいさな声で、その名前を呟いた。
 それが合図となったかのように、抱きかかえられて、寝室へと移動した。
 整えられたシーツの上に下ろされて、くちづけられた。くちびるを触れ合わせながら、新一の長い指が、服を剥ぎ取ってゆく。
「…………っ」
 何故だか恐怖に近い感情が湧きあがって、思わず息を詰めた。
 誰かに抱かれることは、はじめてじゃない。だから、処女のように行為に対して怯えているわけではない。ましてや、新一が怖いわけでもない。
 それなのに、どうしてこの体は、こわばってしまうのだろう。どうして、震えているのだろう。
 新一には、これは『検査』だと言ったのだ。だから、こんな態度ではいけない。もっとなんでもないことのようにふるまわなければ。
 志保は自分の意思どおりにならない体を、それでも無理矢理動かして、新一の手に促されるまま、足を開いた。
(────)
 新一の視線を感じ、羞恥に体がこわばる。開かれた足先が震える。
 今までの経験の中で、もっといやらしい格好や、屈辱的な格好をさせられたことだってある。これくらい、今更恥ずかしがるようなことではない。それなのに、どうしてこんなにいちいち反応してしまうのだろう。
 こんな態度を見て、新一はどう思うだろう。
(ああ)
 不意に、志保は気付いた。
 抱かれることが怖いのではない。
 今の志保を見て、新一がどう思うか。それが怖いのだ。
 醜い、汚れた女だと思われてはいないだろうか。
「────っ!」
 思考をさえぎるように、足に痛みが走った。不意に新一が、内腿に噛み付いたのだ。
「工藤、くっ……」
 ちいさな悲鳴が漏れる。
 すこし上体を起こして、自分の足を見る。新一がくちびるを離したあとには、わずかに血が滲むほど、きつく強く跡が残されていた。普段陽にあたることもない白い肌の上に、鮮やかな紅。
(──ああ)
 倒錯するようなしあわせを感じる。それは所有印だ。新一が付けた、新一が触れた証。この跡が消えるまでは、きっとこの体は新一を覚えているだろう。
 志保はそのまま、次の動きを待った。けれど、腿から口を離したあと、不意に新一は動きを止めてしまった。何かを考えるようにどこか遠い目をして、それ以上志保に触れようとしない。
「……くどう、くん?」
 かすれた声で、彼の名を呼んだ。
「……どうしたの? ……やっぱり、私じゃ、できない?」
 それをはっきりと言葉にすると、ほてりはじめていた体が、心と共に急速に冷えてゆくような気がした。
 志保の体にのしかかりかけたまま、動きを止めている新一を見つめた。新一の瞳には、たしかに欲望が宿っている。それでも彼は、戸惑ったように動こうとはしない。
 きっと新一は、気付いたのだろう。こんなことが、愚かなことだと。
 ──愚かなことだなんて、分かってる。
 ただそれでも、ただ一度だけのぬくもりを、求めただけ。
「……工藤君」
 志保はそっと、新一へと手を伸ばした。新一の瞳には、たしかに欲望がある。体と心は完全なイコールで結べはしないから、体だけは反応するのだろう。それを、利用してしまおう。
「いいのよ。あなたは何も悪くない。これはただの『検査』なんだから。そんな顔をすることは、ないのよ」
 心なんて、ともなわなくていい。ただ一度、触れてほしいだけ。触れたいだけ。それだけだから。
 志保はそっと新一にくちづけた。誘うように舌を絡める。そうして、新一を押し倒すように、彼に覆い被さった。
 ──どうすれば、男という生き物が欲望に溺れるかなんて、知っている。心なんてなくても、欲望だけで、体は反応するから。
 重ねられるくちびるの間から、新一が何か言おうとしていたことに気付いていた。それはきっと、制止の言葉だろう。あるいは拒絶か。どちらにしろ、志保は何も聞きたくなかった。だからさらに深くくちづけた。
 舌を深く絡めながら、新一に触れる。欲望を煽るように。手も足も、絡めるように触れ合わせる。
 やがて、シーツに落とされたままだった新一の腕が、志保の腰に回された。強い力で抱きしめられた。
 ──そうして、志保は、新一に抱かれた。
 他に何も考えられないくらい熱に浮かされて、波に翻弄されて、うわごとのようにねだる言葉と新一の名前を呼ぶだけだった。
(新一、しんいち)
 この体に、その熱を刻み付けたくて、その背中に必死にすがった。
(志保)
 何度目かに達する瞬間、耳元で、名を呼ばれた。
 声は甘くて、優しくて、まるで愛を囁くにも似た響きで。──涙がこぼれた。
 違うのに。
 これは、この行為は違うのに。
 彼は、『検査』のために、あるいは欲望のためだけに、今この体を抱いているのに。
 そんなことはちゃんと分かっている。分かっているのに。
 志保の涙をどう受け取ったのか、新一は志保のまなじりにくちづけて、こぼれる雫を舐めとってゆく。そんな行為に、また、涙があふれる。すがる腕に力をこめた。
 それから何度交わって、何度達したかなんて、覚えていない。いつのまにかに、気を失っていた。
 今までの経験の中で、ひどくされて気を失ったことは何度もある。でも今回のように、優しく甘く、眠りに落ちるように意識を飛ばしたのははじめてだった。
(────)
 そうして次に志保が目を覚ましたとき、志保は新一の腕の中にいた。
 包み込むようにその腕に抱きしめられて、ぬくもりを分け合うように素肌をぴったりと触れ合わせて。新一は安らかな寝顔で眠っていた。
(──ああ)
 泣きたいような感情が、胸の奥からせりあがってくる。目頭が熱くなる。こらえきれずに数粒、雫がシーツへと落ちた。嗚咽が漏れないよう、手で口を覆う。
 すべては、志保が望んだとおりになった。
 ただ一度でいいから、新一に抱かれたいと、そう思った。だからこれは『検査』だと、彼に嘘をついた。──彼にとっては、ただの『検査』なのに。
 こんなふうに優しく抱かれて、優しく朝を迎えられるなんて、思わなかった。
 心のどこかで望んではいたけれど、そうならないだろうとあきらめていたことが、叶ったのだ。
 だからもう、これ以上は望まない。
 望んではいけないのだ。
 朝はまだ遠い。灯りのない部屋は暗く、あたりは静まり返っている。
 志保はゆっくり体を起こした。新一を起こさないよう、そっとその腕を解く。ちいさく軋むベッドの音が、やけに大きく感じられた。
 ベッドの下に放られたままの服は、手にとってみれば、ボタンのいくつかはすでになく、端がすこし破けていた。けれど志保はそれを羽織って、そっと部屋を出た。
(私は、ここにいてはいけない)
 それは最初から分かっていたことだった。
 志保はもともと組織の一員だ。どんな状況であれ、組織が裏切り者を見逃すことはありえない。一人の例外も作らないことこそが、巨大な組織を統括するための絶対条件だ。
 けれど新一は違う。新一は組織に『関わった』だけだ。それに、高名な彼の父親の存在や、彼自身が築いてきた探偵としての名声がある。新一に手を出すことが、デメリットが大きいと知れば、組織が手を引くこともあるだろう。
 解毒剤ができ、元の姿に戻った今、志保がここにいる意味はない。
 むしろいてはいけないのだ。志保さえいなければ、新一は、組織に怯えることもなく生きていくことができるだろう。
 自室として使っていた部屋に入り、机の引出しから1枚のMOディスクを取り出す。ここを出て行くと決めたときから、前もって用意していたものだ。この中には、新一の健康状態や、アポトキシンやその解毒剤に関してのデータが入っている。これがあれば、志保がいなくても、誰かが代わりに新一を看ることができるだろう。
 さすがに破れた服のまま出て行くことはできないから、志保はクローゼットを開けて、適当な服に着替える。いちばん手前にあったVネックのシャツを無造作に羽織った。
 そのままクローゼットの扉を閉めようとして──扉の内側に備え付けられた鏡に目が止まった。
 おおきめに開かれた自分の胸元に、いくつもの紅い跡が。
「────っ」
 志保は不意に赤くなって、急いでシャツの上から、襟元の詰まった薄手のジャケットを羽織った。
 こんなことくらいで、一体何を恥ずかしがっているのだろう。こんなことくらいで。何も知らない、小娘でもないのに。
(ああ、でも)
 その紅い跡が、新一のつけたそれが自分の体にあることが、嬉しかった。それは求められた証だ。たとえそれがただの欲望だったとしても。
(だいじょうぶ。私は、ひとりで行ける)
 この体は心は、ちゃんと覚えている。彼のぬくもりを。だからきっと、ひとりでも生きてゆける。自分に言い聞かせるように、服の上から、そっとその紅い跡のある場所に触れた。
 記憶をなぞるように、そっと目を閉じて。志保はゆっくりとクローゼットの扉を閉めた。
 手早く荷物を整理する。荷物と言っても、持っていくものはノートパソコンと財布と、いくつかの小物程度だ。もともと準備もしていたので、数分もしないうちに用意は終わる。それらを持って、志保は部屋を出た。
 リビングへ行き、テーブルの上にMOを置いておく。これでもう、志保はここに用はない。もう、なにひとつ、志保がここにいる理由はない。
 自分を本当の娘のように可愛がってくれた博士に書き置きのひとつもしようかとふと考えたが、その考えはすぐに振り払う。そんなものを残しても、意味はない。
 もう一度だけ、新一の顔が見たかった。ふと、新一の部屋のほうを振り返る。けれど、何度も部屋に出入りしたりすれば、新一が目を覚ましてしまう可能性が高い。──これだけ、自分の望みを叶えたのだ。これ以上、何も望んではいけないのだ。
(さようなら、工藤君)
 心の中でそっと呟いて、志保は音を立てないように阿笠邸を出ていった。



(工藤君)
 ふと夢から覚めるように、志保は閉じていた目を開けた。再び、白い天井が視界に入る。
 彼は今、何をしているだろうか。
 あの幼馴染と、感動的な再会は果たしただろうか。
 そう思った途端、胸の奥がじわりと痛む。
(私は、ほんとうは)
 もうとっくに気付いていた。阿笠邸を出てから2週間、何度も何度も彼のことを思い出して、いやというほどに気付かされた。
 新一のためなんて、嘘だ。
 志保がいなければ新一が組織に追われることがなくなるかもしれなくても、優しい彼は志保がいなくなったことに心を痛めるだろう。それをとめられなかった自分を責めるだろう。彼はそういうひとだ。
 そう分かっていたのに志保が阿笠邸を出たのは。
 見たくなかったからだ。
 新一が蘭と再会を果たし、彼女としあわせになる姿を。見たくなかったのだ。
(工藤君。工藤君。工藤君。──新一)
 きっともう呼ぶことのない名前を、心の中で繰り返す。
 身体中にあった、彼につけられた紅い跡だって、今はもうすべてが幻だったかのように消えてしまった。
 元の姿に戻って愛しい幼馴染と幸せな日々を過ごすうちに、やがて彼の記憶の中からも、志保との行為も、志保自身のことも、幻のように消えてしまうのだろう。
 それでも。
『志保』
 志保は覚えている。優しく呼ばれた声を。触れた熱を。まだちゃんと覚えている。だから、それでよかった。
 これはきっと、くだらないことなんだろう。傍から見たら、滑稽なことだろう。幼い子供が、ガラクタを後生大事に抱えているように。
 志保は一度きつく目をつぶると、それからゆっくりと瞳を開いた。何かを振り切るように。何かを決意するように。その茶色の瞳には強い光が宿っている。
(たとえもう会えなくても。たとえもうその記憶から抹消されたとしても)
 はじめから決めていたことだ。自分にできることを、するだけだ。
 志保は姿勢を正して椅子に座りなおす。パソコンの画面はいつのまにか、スクリーンセイバーへと変わっている。マウスに触れれば、すぐに画面は元のとおりに変わり、志保の顔を淡く照らし出した。
 再び、しなやかな指がキーボードを叩きはじめる。規則的な音が部屋に満ちる。
 ひとりきりで、志保は戦い続ける。静かに静かに。ひとりきりで。
(あいしてる)
 伝えそこねた言葉を、抱えたまま。


 To be continued.

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