箱舟 -4-


 雨の降り出しそうなよどんだ灰色の空が、頭上に広がっている。誰もがもうすぐ降るであろう雨の予感に、目的地へと足を速めて歩いている。人波に、すれ違う人の肩がぶつかり、けれど、都会特有の冷たさに、言葉を交わすこともなく通り過ぎてゆく。
 志保は変装のためにかけた眼鏡を押し上げた。
 人込みは苦手だ。いつこのたくさんの人の中から、黒ずくめの人間が現われるか分からないから。いつこの人ごみの中から腕が伸ばされて、誰にも気付かれないうちに攫われてしまうか分からないから。
 人気のない夜の道も怖いけれど、同じように、人の多い昼の街も怖かった。
 特に、こんな見知らぬ街では。
 右も左も分からなくて、もしも彼らに出くわしてしまったとき、どちらに逃げればいいのかさえ分からない。助けを求める相手もいない。
(────)
 自分の考えに、ちいさく苦笑する。助けを求める相手なんて、最初からいなかったのに。最初から、ひとりきり。ずっと、ひとりで──。
 いや違う。ひとりではなかった。その腕を、差し出されたのに。

『志保』

 記憶の中の、呼ぶ声が聞こえる。大切なひとの声。大切な、大切な。
 それが、優しかった姉の声なのか、それとも新一の声なのか、志保には判別がつかない。
 ただひとつ分かるのは、どちらにしても、その差し伸べられた腕を、志保がとることはできなかったということだ。
 姉のときは、その腕を取るよりも早く姉は殺され、新一のときは、志保自身がその腕をとることなく逃げ出してしまったから。
(──私は、大丈夫。ひとりでも生きていけるから)
 まるで呪文のように心の中でそう呟いて、志保はうつむきがちになっていた顔を上げて、人波を進んだ。
 今、志保が拠点としているのは、東都からそれほど離れていない地方都市のビジネスホテルだ。阿笠博士の家を出て以来、いくつかの場所を転々としてはいるが、地域的にはそんなに動いていない。だが今日は、そこからも遠く離れた、関西よりの地方都市まで出かけていた。
 いつもは、志保が外に出ることはほとんどない。不用意に外に出て、組織の者に見つかることを恐れているからだ。だからいつもなら、近所への買い物だって、滅多に行かない。それなのに、今日はこんなに遠くまで足を運んだのは、金の工面をするためだ。
 何をするにも、金というものは必要なのだ。研究や調査に必要な金はもちろん、食費だってかかるし、今泊まっているホテルの宿泊代も払わなければいけない。
 金がないわけではないのだ。組織にいたころ、薬の開発報酬兼研究費としてかなり多額の金をもらっていたし、両親や姉の遺産もわずかながらあった。
 ただそれは、すべて銀行に預けられていた。
 組織は裏切り者の『宮野志保』を追っている。もし『宮野志保』名義の銀行口座から金が引き出されれば、すぐに分かるようになっているだろう。
 だから、今いる場所の近くで金をおろすことはできずに、こうして遠くまで足を運んだのだ。
 それでも、いつ何処で組織の者に見つかるか分からないから、一応変装をしていた。ぱっと見、男にも見える服装をして、特徴的な髪は帽子をかぶって隠した。そして──似合わない、黒ぶちの眼鏡。
 変装用として眼鏡を買おうとしたとき、思わず、ふと目に付いたこの黒ぶち眼鏡を買っていた。──かつて、彼がかけていたものにとてもよく似た。

『これをかけてると、絶対正体がバレねーんだ』

 あのとき眼鏡をかけてくれたあたたかい手のぬくもりも、優しい笑顔も、志保の心の中に大切に大切にしまわれている。幼い子供が、海で拾った貝の欠片を、おもちゃの宝石箱にしまうように。
 あんな根拠のないことを、あんなにも自信ありげにうそぶいて。けれどそれは、どんなに自分の心を救ってくれただろう。そして今も。
 あまりに周囲を気にしてビクつくような姿は、逆に注目を引きあやしく映るだろうから、志保は眼鏡をかけた顔をまっすぐ前へ向けた。うつむいていてはいけない。ひとりでも、ちゃんと歩けるようにならなければ。
 多くの人の目のある外は怖い。何かの勧誘や、チラシを配るために差し出される腕、すれ違うすべての人さえ、敵のような気がしてきてしまう。弱い心が生み出す被害妄想だと、分かっているけれど。
(大丈夫)
 そうは思うものの、早足になってしまうのは仕方のないことだった。早く銀行へ行って必要な金をおろして、今借りている部屋へ帰りたかった。

「──宮野?」

 人の多い街中、雑音や騒音ばかりがあふれているなかで、不意に、声が聞こえた。
 志保は大きく肩を震わせた。それは、呼びかけるというよりは、呟かれたようなちいさな声で、他の人にはきっと街の雑踏にまぎれて聞こえないくらいのものだったろう。けれど、神経を張り詰めさせている彼女にははっきりと聞こえた。
(────)
 背中を、冷や汗が流れる。
 こんなところに、志保を知っている者がいるとは思えない。いるとすれば──組織の者が、志保を見つけたときだ。声は斜め後ろのほうから聞こえた。けれど、怖くて振り向けなかった。もしも振り返って、黒い服に身を包んだ者がいたら、どうすればいいのだろう。
 相手が本当に黒の組織の者なら、ここで走り出しても、逃げ切れるとは思えない。どうすればいいのだろう。
(──どう、すれば)
「宮野。宮野やろ?」
 混乱する志保の耳に次に聞こえたのは、特徴的ななまりの混じった声だった。それに気付いて、志保は振り返る。
 そこには──西の名探偵と評される、服部平次がいた。
「────っ!!」
 志保は息を飲んで、その見覚えのある、浅黒い肌の青年を見つめた。幸い組織の者ではなかったけれど、こんなところで知り合いに会うなんて。迂闊だった。たしかにここは大阪ではないけれど、関西よりの、服部平次の行動範囲内だったかもしれない。
 服部平次には、元の姿に戻ったあと、新一が連絡を入れていた。事情を知っていて、なおかつ新一に強い執着を示すこの男に、連絡しないわけにはいかなかった。連絡を受けたその男は、学校も事件も放り出して、その日のうちに『工藤新一』に会いに来たほどだ。そのときに、志保も今の姿で会っていた。
 志保はきびすを返して駆け出そうとした。けれど走り出すより早く、その腕を掴まれる。
「待ちや、宮野!」
 腕を掴む力は強く、振りほどけない。いくら大人の身体に戻ったとはいえ、志保は非力だった。少なくとも、肉体的には。服部の腕力にかなわない。
「工藤が、心配しとる」
「────」
 久しぶりに他人の口から聞いたその名前に、志保の胸は締め付けられる。
(工藤、君)
 彼は、心配してくれているのだろうか。こんな自分のことを。すこしでも。──ああ、彼はとても優しいひとだから、きっと心配するだろう。優しすぎるほどの、ひとだから。
「工藤んトコ、戻りや?」
 平次の言葉に、ゆるく首を振る。赤い髪が、ちいさく揺れた。
「なんでや? おまえが一人でおるより、ジイさんちにいたほうがええことくらい、おまえだって分かるやろ?」
 それは、志保にだって分かっていた。
 組織から隠れるにも、組織を潰すために動くにも、阿笠博士のところにいて、皆で協力したほうがいいことくらい、志保にだって分かっていた。それでもあえて、あの場所を出たのは。
「私は、元組織の人間よ? あの薬を作った張本人なの。それはあなただって知っているでしょう? 組織の狙いは裏切り者の私よ。私がいなければ、きっと狙われることもなくなるわ」
 志保の口から出るのは、詭弁だった。そんなこと、彼らは気にしないだろう。むしろ、組織に狙われているのが志保ならば、なおさら彼女を守ろうとしてくれるだろう。
 本当は。──ほんとうは。
「大丈夫よ。私はひとりでも大丈夫だから。それに工藤君には、もっと守らなければいけないひとが、いるでしょう?」
 志保の脳裏によみがえるのは、長い髪の、彼の大切な幼馴染。彼は彼女を、何より大切にしていた。そう、今頃は、きっと彼女と一緒にいるだろう。会えなかった時間を埋めるように、伝えられなかった言葉を伝えて。
 本当は、その姿を見るのが、いやだった。
「──そういうことかいな」
 なにもかもを悟ったような口調で、おおげさに平次が溜息をついた。
「蘭ちゃんのこと気にしとるんやったら、見当違いやで。工藤は、蘭ちゃんのこと、振ったんやて」
「え!?」
 その言葉に驚いて、志保は驚いて目を見開いた。平次の顔を見つめれば、嘘をついているようも冗談を言っているようにも見えなかった。
 けれどにわかには信じられない。だって、そんなことがあるのだろうか。新一は、あんなにもあんなにも、蘭のことを想っていたのに。たしかにそれは傍から見て、『恋愛』というよりは『親愛』に近いようなつたないものだったけれど。それは新一が元の姿に戻ることによって、『恋愛』に発展していくと思っていた。
「──どうして」
 志保にはなにひとつ理解できなかった。そんなことは決して、ありえることではないと思っていたのに。
 もしかして、あの日、志保を抱いたことを気にしているのだろうか。変なところで生真面目な彼だから、それを気にして、蘭を振ったのだろうか。
(工藤君)
 そんなことは、彼が気にすることではないのに。あれはただの志保の身勝手なわがままで。ただの『検査』で。だから、忘れてしまってもかまわないのに。気にすることなんて、ないのに。
 志保は決して、新一のしあわせを壊したいわけではないのだ。誰より、何より、しあわせでいてほしいのだ。自分が奪ってしまった、しあわせの分まで。
 それなのに。
「私の、せいで?」
 声が震えた。声だけでなく、そのちいさな肩も。その震えは、平次に掴まれた腕まで伝わってゆく。
 新一が蘭を振ったということは、志保にとってはまるで絶望のように感じられた。『新一と蘭』という組み合わせは、決して壊れることのない、永遠の絆のように思っていた。そして、それこそが、『新一のしあわせ』の象徴のように思っていた。その、『新一のしあわせ』が、壊れてしまったのだ。
 壊してしまったのだ。志保自身が。
 その様子に、平次は呆れたように溜息をひとつついた。
「あんな、宮野。工藤が蘭ちゃん振ったんは、たしかに宮野のせいかもしれんけど、おまえが思ってることとちゃうで?」
 そんなことを言われても、志保は顔を上げられなかった。

「工藤は、おまえが好きやから、蘭ちゃん振ったんや」

「────」
 告げられた言葉が理解できずに、志保は薄茶の瞳を、その言葉を放った張本人に向けた。この男は、一体何を言っているんだろう。まるで、聞いたこともない外国語でも聞いたかのような気分だった。
(工藤君が? 好き? ──私を? だから?)
 言葉を何度のようにこねくり回して、やっと少しずつその意味を理解してくる。硬く乾いてひび割れた大地に、少しずつ水が染みてゆくように。
 そしてやっと理解した途端、驚きに目を見開く。驚きすぎて声が出なかった。間抜けにも、口を大きく開けたまま呆然としてしまう。
 この男は、一体何を言っているのだろう。
 志保は平次を探るように見つめた。この男が、嘘を言っているのではないかと。これは志保を連れ戻すための、嘘ではないかと。
 けれどそれが嘘でないことは、本当は分かっていた。平次はそんな嘘をつくようなひとではないし、第一、彼も新一が好きなのだ。こんな嘘をつくはずがない。
 かといって、平次の勘違いとも思えなかった。新一に関することで、平次を侮ってはいけない。彼は蘭とはまた違った意味で、新一をいつも見つめ、新一の考えをいちばん理解している。その彼が、新一の心情を勘違いするとは思えなかった。
 それなら──それなら。その言葉が嘘ではないなら。
 真実だと、いうのなら。
「せやから宮野、工藤んとこ戻れ。おまえかて工藤のこと、……好きなんやろ?」
「私は…………」
 もしも本当に新一も志保のことが好きだというのなら、それはいわゆる両想いというもので、想いが通じたということで、何より嬉しいはずなのに。何より喜ぶべきことのはずなのに。
 志保はまるで自分にかかわりのないブラウン管の向こうのドラマでも見ているような気分だった。現実味が、何ひとつない。
 それは平次の言葉を信じていないわけではなくて、それは絶対的にありえないと思っていたことだからということと、直接新一に会ってそのことを聞いたわけではないから実感が湧かないという理由だった。
 平次に返す言葉が何ひとつ見つからずに、志保はネジの切れたネジ巻き人形のように立ち尽くす。どうすればいいのか、何をすればいいのか、何ひとつ、思いつかなかった。
「ほら。帰るで」
 そんな彼女の様子に痺れを切らしたのか、平次が強く志保の腕を引いた。その力に、志保は我に返る。
「ちょっ、ちょっと待って服部君」
「なんや」
「帰るって……」
「工藤んとこに決まっとるやろ」
 言いながら、平次は人の波を縫って歩き出す。志保の腕をしっかりと掴んだまま。志保は引きずられるように連れて行かれる。
「待って……待ってよ!」
「だからなんや?」
「私は──私は──」
 うまい言葉が見つからない。何を言えばいいのか分からない。思うことはいろいろあるのに、そのすべてがかき混ぜられたスープのようにごっちゃになっている。
 組織に狙われている志保が帰るのは危険すぎるということや、志保さえいなければ新一は狙われないだろうことや、新一が蘭を振ったなんてにわかには信じられないとか。いろいろなことが志保の中を渦巻いて、正しい思考が出来ない。
 ただできることといえば、できるかぎり足を踏ん張って、平次に連れて行かれないように抵抗することくらいだ。
 嫌がっている風の女の腕を無理矢理引きずろうとしている男の姿は、まわりからいくばくかの注目を浴びていた。興味本位の視線が痛い。
「宮野」
 咎めるように名を呼ばれるが、それでも志保は、抵抗する力を弱めることが出来なかった。
 そのかたくなな態度に呆れたように、平次が溜息をついた。ほんのすこしだけ、引っ張る力が弱まる。それに気付いて志保が顔を上げると、平次は片手で志保を掴んだまま、もう片方の手で器用に携帯電話を取り出して、何処かへと電話をかけていた。
「──ああ工藤か? 俺や」
 平次が電話の向こうへ向かって発したその名前に、志保の肩がおおきく震える。
 逃げようととっさに腕を強く引くが、そんなことは予想していたのか、平次の腕はしっかりと志保を掴んでいる。
「──なんやそんな冷たいこと言うな。そんなこと言っとると、後悔するで? 折角、行方不明のお姫様見つけたから電話したったんに。──ああそうや。今、一緒におる。ちょい待ち。──宮野」
 電話を、差し出される。けれど志保はそれを受け取らなかった。受け取れなかったのだ。何故だか、指が震えて、腕が動かなくて。けれど、電話の向こうから、慌てたように大声で叫ばれる声が、すこし離れているというのに、それでも聞こえた。
『志保! 志保か!! おいおまえどこにいるんだ!! バカやろう勝手にいなくなりやがって!! どれだけ心配したと思ってるんだ!! おまえ無事なんだな!?』
 聞こえてくる、愛しいひとの、声。離れていたのは、まだほんの数週間だ。それなのに、ひどくなつかしく感じられる。
(くどう、くん)
 もう二度と会わないと思っていた。それでいいと思っていた。思い出だけで生きていけると。
 それなのに、こうして声を聞けば、また会いたくなってしまうのは何故だろう。
『──志保』
 電話口で怒鳴っていたはずの彼の声が、急におだやかになる。
 その声を聞き落としたくなくて、志保は思わず平次から電話を受け取ってその耳に押し当てていた。
『志保。帰って来い。おまえが何考えて出て行ったかなんて、分かってるつもりだ。でも俺は、──同情とか、そんなんじゃなくて、ただ、おまえに傍にいて欲しいんだ』
 耳に押し付けた携帯電話がかすかに震える。
 これは夢ではないのだろうか。志保に都合のいい、しあわせな夢。
『俺、おまえに、言いたいことがあるんだ』
(くどうくん、わたしは──)
 何か言葉を返したいのに、くちびるが震えて、うまく言葉が出ない。伝えたいことがあるのに、言いたいことがあるのに、何ひとつ、この体から形になって出てきてはくれない。
『だから、志保、帰って来い。──いや、迎えにいくから』
 何故だか立っていられなくて、志保はその場にうずくまった。
(わたしは)
 うずくまった拍子に不意に力がゆるんだのか、手から携帯電話が滑り落ちた。ちいさな音を立てて、アスファルトの地面に落ちる。さいわい壊れはしなかったようだ。
 志保はそれを急いで拾い上げて──電源を、切った。
 もうこれ以上、新一の声が聞こえてこないように。

(くどうくん、くどうくん、くどうくん)

 嬉しかった。彼が好きだといってくれたことが、帰って来いと言ってくれたことが。嬉しかった。今この場で大声をあげて泣いてしまいたいくらい。もういちど彼の番号にかけて、迎えに来てくれと叫んでしまいたいくらい。
 けれど、感情だけに簡単に流されるわけにはいかない。志保の中にある理性が、必死に彼女をつなぎとめていた。
 組織はまだ存在しているし、なにもかもまだ終わったわけじゃない。志保が傍にいることが、新一にとって危険であることは変わらない。
 ああ。そんなことは、新一だってよくわかっているはずだ。だけど、それでも彼は。
(迎えに行くから)
 焼きつくように、目頭が熱い。こぼれそうになる雫を、必死でこらえる。こんなところで泣いてはいけない。志保はきつく目をつぶった。喉元にせりあがる、熱い塊を抑えつけるように。この震える胸を、おさめようとするように。
(工藤君──いいえ。新一)
 どんなに嬉しくても、どんなに心細くても、今はまだ、彼と一緒にいるわけにはいかない。たとえ彼が、危険を承知でそれでも一緒にいたいと望んでくれたとしても。
 志保が傍にいれば、彼も組織に狙われる率が高くなる。彼女の巻き添えで、いつ殺されてしまうか分からない。その恐怖に、志保が耐えられない。
 志保はたくさんのものを失った。あたりまえのしあわせも、やさしかった両親も、大好きなたったひとりの姉も。もうこれ以上、なにひとつ、失いたくないから。愛した彼だけは、どうしても、失いたくないから。
 本当は、傍にいたいけれど。ずっとずっと一緒にいたいけれど。
 一度、きつく目をつぶる。後ろ髪を引く想いを、断ち切るように。あふれようとする涙を抑える。きつくくちびるを噛み締めた。
「宮野」
 うずくまったままの志保を気遣うように、平次が声をかける。
 その声に、志保は顔をあげ、足元に落ちた携帯を拾うとゆっくりと立ち上がった。
「ごめんなさい、携帯、落としてしまって。壊れていないといいんだけど」
「──宮野」
 平次はちいさく息を飲む。
 ついさっきまでと、志保の顔つきが変わっていた。その色素の薄い栗色の瞳には、強い決意の色が見える。
 そんな目をする者を、平次は知っていた。たとえば犯人が、殺人を決意するとき。たとえば探偵が、絶対に事件を解くと決意したとき。よい意味でも悪い意味でも、覚悟を決めた者の目だ。そして、そんな目をする者の意志は、容易には変えられない。
「……戻らんのか、工藤んとこに」
 彼女が何を決意したのかといえば、それはおそらく新一との決別だろうと、平次は思った。
「戻るわけにはいかないわ。西の探偵さん、あなたにだって分かるでしょう。組織の一員だった私が、彼の傍にいることがどれほど危険か」
 たとえ新一が、危険を承知で戻って来いと言ってくれたのだとしても、その言葉には甘えられない。これは志保のわがままだ。決して譲ることは出来ない。
「宮野は、それでええのか?」
 平次の問いに、志保はちいさく笑う。それは、以前彼女が幼い姿だったときよく見せていた諦めたような寂しい笑顔ではなかった。
「……諦めたわけじゃないわ。私は私のできることをする。きっと彼も、彼にできることをするわ。そして、──いつか、もういちど出逢えるかもしれないでしょう?」
 いつか。それがいつになるかなんて分からないし、一生来ないのかもしれないけれど、いつか。組織もしがらみもなくなって、もういちど出逢えたなら。
 何の保証もない未来だ。来ないかもしれない。来ない可能性のほうが高いのかもしれない。組織を潰すと言っても、組織は強大だ。ちょっとやそっとで崩れるようなものではない。それは、内部にいた志保にはよく分かっている。それに、長い時間の中で、新一に他に好きなひとができるかもしれない。あの幼馴染と心を通わせるかもしれない。
 だけど、それでもいいのだ。
 夢だけ見て生きるなんて愚かなことだと、笑いたいなら笑えばいい。けれどそれは確かに力になるのだから。
 志保の決意を、平次にも伝わったようだった。ついさっきまでは引っ張ってでも連れて行こうとする感じがあったが、今はそれが消えている。
「西の探偵さん。工藤君を──新一を、助けてあげてね。彼、すぐ無茶をするから」
「言われんでも、工藤は俺が守るわ」
 その言葉に、志保は笑った。心から、安心したように。
 きっと彼は大丈夫だろう。平次や、彼のまわりにいる彼を大切に想うひと達が、きっと彼を守ってくれる。志保は何の心配もしなくていい。ただ、組織をつぶすことに専念すればいい。
 そうと決まれば、無駄な時間を過ごしているわけにはいかない。やるべきことは、たくさんあるのだから。
「私は、もう行くわ」
「待てや宮野」
 挨拶もそこそこにきびすを返そうとする志保の腕を、平次は掴んだ。それを志保はいぶかしげに見つめる。
「おまえを無理矢理連れ帰りはせん。その代わり、交換条件や。居場所は知らせんでもいいから、ともかく生きてるっちゅうことだけは、定期的に工藤に知らせや」
「────」
「おまえが工藤を心配しとるように、あいつだっておまえを心配しとる。生きてるちゅうことだけで、いいから」
 承諾しなければ手を離さないというように、痛いほど掴まれた腕に力が込められる。
 本当は、生死だけでも知らせるべきではないと思う。たとえ細心の注意を払って連絡しても、それがもとで組織に居場所がばれてしまうかもしれない。それに、もしも志保が死んで連絡が途切れたとき、新一にも志保の死が伝わってしまうだろう。優しい新一はひどく心を痛めるだろう。生死が分からないということは、不安ではあるかもしれないけれど、同時に希望も持てる。どこかで生きているかもしれないと。
 できるなら、たとえ志保が死んだとしても、それを新一に知られたくはないのだ。哀しませたくはないのだ。
 どうせ口約束だと、この場で適当な返事をすることはしたくなかった。
「連絡は……出来ないわ」
「宮野! 工藤がおまえのことどれほど心配しとるか、おまえかて分かってるやろ!」
 志保は平次に気付かれないように、そっと自分のポケットに手を忍ばせた。
「おまえがちゃんと連絡するて約束しないんやったら……っ、うわっ!?」
 一瞬の隙を突いて、一見ちいさな香水入れのような瓶を平次に吹き付ける。平次は志保がこんな行動に出ると予想していなかったようで、避けることも出来ずに薬品をかぶってしまう。
 平次に吹き付けたのは、万が一組織に出会ってしまったときのために用心で持っていた薬だ。
「宮……野……っ!!」
 志保を掴んでいた腕から力が抜けていく。立ってもいられなくなったようで、平次は地面に膝をついた。
「大丈夫よ、ほんのすこし、力が入らなくなるだけ。量も少量だったから、すぐに回復するわ」
 それでも力を入れ志保を掴もうとする平次の腕から逃れるように、志保は一歩身を引いた。薬のせいでうまく力の入らない腕は、あっけなく地面に落とされる。
「宮野……おまえは……」
「……新一に、伝えて」
 祈るように、志保は目を閉じて、言葉を紡いだ。

「今はあなたの傍にいられないけど、でもいつか──いつかそれが許される日が来たら、必ず、あなたに逢いにいくから」

 言葉を、直接彼に届けることは出来ないけれど、それでもすこしでも込められた思いが届くように。
 地面に膝をついたままの平次を置き去りに、志保はきびすを返した。
「宮野……っ!!」
 平次の声が追ってくるけれど、振り向かず人波にまぎれる。彼が回復して追ってくる前に、遠くへと逃げなければいけない。
 遠く、遠くへと。
 人波に紛れ込むように流されれば、すぐにその姿など隠されてしまう。たとえまわりにどんなに人がいても、それはすべて他人で、ひとりきりと同じ意味合いを持つ。砂漠にひとり置き去りにされたかのような孤独がある。
 それでも。
(新一)
 今はそれも怖くない。ひとりでもきっと生きていける。それは強がりでも虚勢でも自分に言い聞かせるわけでもなく。志保のなかの、ただの真実だった。今はそう思える。
 志保はまっすぐに顔を上げた。前を見据える。無理に顔を上げるのではなく、怯えてまわりを見渡すのではなく、他から目をそらして前だけ見つめるのでもなく。ただ、まっすぐに、前を。
 そして、歩き出す。人波に逆らうわけではなく、けれど自分の足取りで。
 ちゃんと、歩ける。
 歩いていける。
(いつか)
 不確定な未来をそれでも夢見て、志保は生きていけるだろう。
 ──いつか、また出逢える日まで。


 To be continued.

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