風化風葬 (1)


 夜の冷えた空気の中に、かすかに金木犀の香りがする。かすかに甘く、冴えた香り。彼に、すこし似ている。そんなふとしたことで、また彼を思い出す。
(新一)
 キッドはそっと目を閉じて、彼の姿を思い出す。
 彼には、夜が似合うと思う。自分のことを『月下の貴公子』などという奴もいるけれど、彼のほうがよっぽど月光を浴びて輝く。
 はじめて逢ったときも、こんな満月の夜だった。月明かりの下の美しい姿に、一瞬、降り注ぐ月光が実体を持って人の形になったのかとさえ思った。
『やっと逢えた』
 風に揺れるしなやかな髪。月明かりでさらに白く透き通って見える肌。今まで盗んだどんな宝石よりも美しい、おおきな瞳。幼い姿は何度か見ていたが、本来の彼を間近で見たのは、それがはじめてだった。
 今でもあざやかに思い出せる。忘れることなんて決してない。なにひとつ。その言葉もしぐさも。瞳の色さえ。
 たとえ彼がすべてを忘れてしまっても。
「いたぞ、キッドだ!!」
 何処からともなく、叫び声があがる。その途端に夜空を走るサーチライト。まるでスポットライトのように、高層ビルの屋上にいるキッドの姿をそのまぶしすぎる光の中に捕らえる。警官の群れが、一斉に押し寄せてくる。
 いくぶんぼんやりしすぎていたようだ。もちろんこの程度でつかまるはずもないが、長居も無用だ。盗んだ宝石は、すでに逃げる前に、美術館の館長のポケットにカードと共に忍ばせておいた。気づくのも、時間の問題だろう。
 キッドはまるでためらいもなく、屋上の端から飛び出した。それを見て、追いかけてきていた警官たちがあっと息を飲んだ。おそらくハンググライダーで飛び立つつもりだろうことは、何度も繰り返された追いかけっこで分かっているが、それでも息を飲まずにはいられない。彼は本当になんの躊躇いもなく、超高層ビルの屋上から飛び降りるから。
 数秒の後に、バサリと音がして、キッドの背にハンググライダーが広げられる。うまく風を捕まえて、ビルの立ち並ぶ狭い街の空を悠々と飛び去ってゆく。それを誰も追いかけられない。
 その姿が遠くなってゆくのを、ただ見つめることしかできなかった。



「また逃げられたか!! 怪盗キッドめ!!」
 遠ざかってゆく白い影を見ながら、くやしそうに、中森警部は地団駄を踏む。最近の警察は、キッドにいいように手玉に取られて、予告どおりに獲物を取られては、やすやすと逃げられてばかりだった。
 その有様を、世間やマスコミは、キッドへの賞賛を高めると共に、警察の無能さへ冷たい目を向けていた。
 すこしまえまでは、民間人の、しかも高校生が探偵などと気取って、何度か現場に来たことがあった。そのときは、捕まえることはできなくても、なかなかにキッドを追い詰めることができていたというのに。彼らがいなくなった途端、警察だけではキッドに指先ひとつかすることさえできずにいる。これでは警察の威信も何もない。
「くそう……」
 民間人の、しかも子供に力を借りるなどということは、中森にとって非常に不本意である。けれど、このままでは警察に無能者のレッテルが貼られるだけだ。背は腹に代えられない、ということもある。
「……おい、あれはなんと言ったか……あの、高校生で探偵とか言っている……」
「白馬警視総監のご子息ですか?」
 中森のぼやきに、近くにいた刑事が答える。
「いや違う。普段は1課のほうによく協力をしている……」
「ああ、工藤君ですね。工藤新一君」
 言われて、中森はやっとその名前を思い出す。
 普段は1課に協力しているその探偵は、公式非公式を含めて以前に何度かキッド捕獲に乗り出しているはずだった。2課との正式な協力体制であったわけではないので詳しいことは知らないが、そのどれも、捕まえることは叶わずも、キッドの逃走経路に先回りし追い詰めて、無事に盗品を取り返すことができていたはずだ。それは、彼の実力だ。中森も認めざるを得ない。
 確かに白馬探もキッド捕獲に対してそれなりの成果を見せているが、あの鼻持ちならない警視総監のご子息に協力をあおぐのは、中森としては耐えがたい。第一そのお坊ちゃんは、今現在英国にいて、キッド捕獲には加われない。
 だが、あの礼儀正しそうな工藤新一になら、協力を求めることも、どうしてもいやだというわけではない。彼なら協力を頼んでも、どこぞのお坊ちゃんのように、警察が無能だと馬鹿にしたり嫌味を言ったりすることはないだろう。また、最近マスコミに極力出ないようにしている彼なら、キッド捕獲をマスコミに自分の手柄のように吹聴することはないだろう。表立って名前は出さずに協力してくれるかもしれない。
「その工藤君は、……キッド捕獲に加わる気はないのかね」
「そうですねえ、以前はすこし顔を出していましたけど、最近は全然見かけませんね。現場に来ていいかという要請もありませんし。1課の協力のほうで忙しいんじゃないですか? 最近は世の中物騒ですし」
「そうか……」
 中森は、1課の目暮を思い出す。同じ叩き上げ組の警部として、目暮とは腹を割って話せる仲だ。その目暮が信頼を置いているという点でも、それだけで新一の評価は高い。一度目暮に彼のことを聞いてみるのもいいかもしれない。そして可能なら、キッド捕獲の協力要請のことを頼んでみよう。中森は、そう思った。



 翌日の新聞の一面は、大々的にゆうべのキッドの事件を取り扱っていた。
”怪盗キッド、あざやかに宝石を略奪!!”
”月下の貴公子現わる!!”
 快斗は朝食のトーストをかじりながら、興味なさそうにそれらの文字を一瞥した。おおきな見出しの隣には、同じように大きく写真が載っている。ハンググライダーで飛び去る姿をどこからか撮ったのだろう。飛び去る姿は遠くて、ちいさな白い影のようにしか見えない。そのちいさな姿をさらに拡大して載せてあるから、画像は悪く、とてもではないがそれが誰か判別できるようなものではない。
 どこかであの連中も、この記事を見ているのだろうか。あの、組織の連中も。
 父を殺し、パンドラを手に入れようと今も裏で活動を続けている、あの裏組織。彼らがこの記事を見たなら、まだ怪盗キッドはパンドラを探していると、きっとそう思ってくれるだろう。
 本当は、もうパンドラを探す必要はない。
 今繰り返しているこの盗みはフェイクだ。同じようにパンドラを探している組織の目をあざむくための。今もパンドラは見つかっていないと、そう思わせるための。

『俺を殺せ、キッド』

 そんなことはしない。できるわけがない。
 そして誰にも、させはしない。
 だから。
 パンドラが、何処にあるか、決して知られてはいけない。決して。

 快斗は一面の自分の記事になどそれ以上目もくれずに、他の情報を求めて新聞を開いた。そして、新聞を開いた手は、中にあるちいさな記事を見つけて思わずとまる。
 キッドに一面を取られてしまったせいで、2面3面の事件欄に比較的ちいさく取り上げられている記事。
”名探偵工藤新一、またも事件を解決!”
 ちいさく載った不鮮明な写真は、それでも確かに彼の姿を映していた。
(新一)
 記事を読むと、いかに彼があざやかに見事にある殺人事件を解決したのかが、新聞にあるまじき熱い口調で語られていた。この記事を書いた記者は、新一のファンなのかもしれない。
 この文面では、事件のことが主で、新一個人のことはあまり分からない。それでも、元気そうだということだけはわかった。彼は元気で、今までと何も変わらず、探偵をしている。気障な怪盗の起こす窃盗事件などにはひとかけらの興味も示さず、他の事件に夢中になっている。──それで、いい。
 傍にはいられないけれど、一緒にいることも、言葉を交わすことすらできないけれど、自分はこうして遠くから、メディアを通してだけれど、彼が元気であることを知ることができる。それだけで、十分だ。
 彼がしあわせであるなら、笑っていてくれるなら、それだけで、快斗は生きていける。たったひとりでも。どんなにつらい世界でも。
『俺を殺せ、キッド』
 そんなことはさせない。そんなことは決して。必ず守るから。
(大丈夫。君は、俺を、忘れる)



 新一は、新聞を開いて、そこにある自分の姿にためいきをついた。
 事件は外部に漏らさぬようにしていたし、警察もマスコミをシャットアウトしていたはずなのに、何処からともなくかぎつけて、こんな隠し撮りまがいの写真と記事を載せられてしまった。
 以前は、メディアに出ることが目的だったから、事件のたびに取材にも応じていたし、写真も撮らせていたけれど、今はもうその必要もなくなって、極力メディアに出ないようにしているというのに。一度高まってしまった名声というものは、なかなか消えてはくれない。もちろんそれは、以前と変わらぬ実績があるからこそ消えないのだが。
「なんや工藤。新聞見てためいきなんぞついて。お。これ、昨日の事件か?」
 脇から顔を出した平次が、目ざとくそこに載っている新一の記事を見つけた。
 大阪に住んでいる平次が、こうして連休のたびに東京へ来ることは、ほとんどあたりまえのようになっていた。事件や剣道の試合など、特に何もないかぎり、彼は東京へやってくる。新一に逢いに。
 たいていは連休前日の夜に来る。昨日の事件に関しては、目暮に呼び出されたのがまだ昼間のうちだったので、事件に出向いたのは新一ひとりだった。そしてそんなに夜も深くなる前に事件は新一の手により解決し、大阪から到着した平次と合流した。
「キッドに一面とられてもうてくやしいんか?」
「バーロ。くやしくなんかねーよ。いっそキッドに感謝したいくらいだぜ。俺の記事がこの大きさですんだのは、キッドのおかげだろうからな」
 もしもゆうべキッドの事件がなかったなら、一面は新一が飾っていたかもしれない。一面でなくとも、すくなくとも、今よりもっとおおきく取り上げられることだけは必至だったろう。
「工藤なんでそないにマスコミ嫌いになったんや? 前は、むちゃくちゃ出てたやん?」
 平次は今の新一のマスコミの嫌いように首をかしげる。以前の新一は嬉々としてメディアに出ているように見えた。実際、平次だって、マスコミに大々的に取り上げられる『工藤新一』に興味を持って、わざわざ大阪から出てきたのだから。
 それなのに、今の新一は、極力メディアに出ないようにとしている。そうなったのは、いつからだろう。コナンであったころにメディアに出られなかったのは仕方ないとしても、工藤新一に戻った今は、またメディアに出るかと思っていたのに。
「別に……。特に意味なんてねーよ」
「ま、そやな。無理してマスコミ出んでもな。こないな気障な怪盗やあるまいし」
 そっけない新一の返事に、それでも平次は特に深く追求しない。
 黒の組織は一応つぶれたとはいえ、残党がいる可能性もある。『江戸川コナン』が『工藤新一』の幼児化した姿だったとはばれていないはずだが、何処でその事実が知られるか分からない。それがばれれば、新一に追っ手がかかることは明白だった。だからそれを危惧して新一がマスコミに顔を出さないようにするのは、想像に難くない。
 また、コナンであったときに多くの事件にかかわった彼は、面白半分で事件にかかわるようなことはなくなった。それも、マスコミを遠ざける要因の一つなのだろう。平次はそう判断した。
 新一は一面におおきくある、怪盗キッドの記事を見つめた。
 不鮮明な写真では、彼の顔かたちはおろか、マントとシルクハットの区別さえ難しい。

『…………』

 ふと、なにかが頭をかすめる。
 真っ白な……あれは……。

『大丈夫。君は……』

 あれは……。

「くどうーー。そんな記事ばっか見てんと、俺も見てやー」
 身体を折り曲げ、平次が、新聞と新一のあいだに顔を出す。
 物思いにふけっていたところに急に平次のアップが現われて、新一は驚いて現実に引き戻される。
「わっ。なんだよテメー」
 新一はまるで邪険に、現われた頭を押しのける。おまけに、まるで蛾でも飛んできたかのように、新聞を振って追い払おうとするそぶりさえする。あまりに邪険な扱いに、平次は大げさに肩を落としてみせる。
「ゆうべはあんなにかわいかったっちゅうのに、朝になるとこれやもんなー。滅多に逢えん恋人との久しぶりの朝やっちゅーのに」
「〜〜そういうこと言うなって言ってるだろ! 莫迦!」
 新一は真っ赤になりながら、手近にあったクッションを投げつける。それは見事に平次の顔面に命中し、小気味よい音を立てる。
「く〜ど〜う〜〜」
 クッションがずり落ちていった下から、低く震えた声がする。ちょっとやりすぎてしまったかと、新一は思わず逃げる体制をとる。
「そういうことするやつには……おしおきやーー!!」
「えっうわっ、ちょっ……」
 平次はすばやく新一を抱きかかえると、目といわず鼻といわず頬といわず、顔中に軽いキスを繰り返す。
 くすぐったさと恥ずかしさに、新一はそこから逃れようと身をよじる。
「なにすんだよ、おい」
 それでも本気で抵抗してはいない。声も顔も笑っている。キスの雨はやまない。それが長いキスに変わるまで。
 ふたりでじゃれあっているあいだに、手にあったはずの新聞はいつのまにか床に落ちて、けれどもうその存在に気を止めることはなかった。
 新一は思い出さない。
 マスコミに出ない本当のわけも。
 頭をかすめる、そのひとのことも。


『大丈夫。君は、俺を、忘れるから』



 To be continued.

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