風化風葬 (2)


 目暮警部を通して、新一に、キッド捕獲のための捜査2課への協力要請がきたのは、キッドの新しい予告状が警視庁に届いてすぐのことだった。
 先日解いたある事件に関しての報告書を提出しに警視庁へ来た新一は、目暮からその話を聞かされた。
「2課の中森警部、君も知ってるだろう? 彼からの頼みでな」
 目暮は、昨日警視庁に送られてきたばかりだという予告状のコピーを新一に差し出す。新一はそれを受け取って、そこにかかれている暗号めいた文章に軽く目を通した。
「めずらしいですね、2課が外部に協力を頼むなんて」
 警視総監の子息であり、その父親から特別な権限を与えられていた白馬探に対しても敵対心剥き出しで、手を出されることを嫌がっていたことは、2課に直接かかわりのない新一でも知っていた。
 その中森が、目暮を通してとはいえ、正式に協力を頼んでくるのだ。一般人である新一に。こうしてコピーとはいえ予告状も見せてくれるのだ。こんなことは今までにはないことだった。
 けれど、警察のそうせざるを得ない状況も知っていた。
 警察、特にキッドを追っている2課に対する世間の評判はすこぶる悪い。キッドを捕まえることも追い詰めることもできずに、無能者だとか税金泥棒だとか、言われ放題になっている。これ以上キッド捕獲になんの成果もあげられずに、評判を落とすことはできないのだろう。
「どうだろう工藤君。頼まれてやってくれんか」
 目暮は中森警部にひどく同情しているようだった。また警察関係者としてもこの事態をほおっておくわけにはいかないのだろう。
 新一は予告状のコピーを無感動に眺めた。暗号めいた言葉を見ても、何も感じない。むしろ、何故か気乗りしない。いつもなら、暗号というだけで、飛びつきたくなるほど心が躍るはずなのに。
 新一の名前を出さずに協力してほしいと言われたことに抵抗を感じているわけでもない。むしろ、名前を出さずにすむのはありがたいとさえ思う。それなのに、こんなにも心が重いのは何故だろう。自分でも理由がわからない。
 本当は、断ってしまいたかった。けれど、いつも世話になっている目暮からの頼みを、無下に断ることはできない。仕方なしに、新一は了承した。
「わかりました、警部。協力します」
「そうか。ありがとう工藤君! じゃあさっそく中森警部に伝えておくよ」
 善は急げとばかりに、目暮はさっそく2課へと内線電話をかける。
 そんな目暮を尻目に、新一はふたたび手元の予告状のコピーへと目を落とした。署名のあとに描かれた、落書きのようなシルクハットをかぶりモノクルをつけた似顔絵。わけもなく、心が騒ぐ。
 けれどその正体を、新一が知ることはなかった。



 キッドの予告当夜、予告にある宝石を所有する博物館のまわりは、警察とキッド目当ての野次馬で埋めつくされて、おおきな騒ぎになっていた。警察の指示を出す声と、キッドの登場を期待してざわめく野次馬の声が途絶えることはない。パトカーの赤いランプと用意されたサーチライトが、せわしなく動きながら、夜の闇を消している。
 現場は、混乱に近い喧騒で埋め尽くされていた。
 そんな現場からすこし遠く離れたところで、新一と平次は静かにその様子を見守っていた。ここへは、ざわめきがかすかに届くだけで、夜の静寂が落ちている。
 予告日がちょうど週末だったため、東京にきていた平次も新一に同行していた。
 今回は、新一も平次も、名前を出さず影からの協力という約束だったので、現場には行かないことになっていた。現場に行けば、目ざといマスコミはすぐに歳若い探偵達の姿を見つけて、その名前を書き立てるだろう。そうしたら、警察の威信を回復させるという今回の目的を果たせなくなる。
 警備配置や予想される逃走経路はすでに事前に指示してある。なにかあったら、すぐに連絡が来るようにも段取りをつけている。現時点で新一にできることはもうない。あとは経過をこうして遠くから見守るだけだった。
「もうそろそろやな、予告時刻」
 自分の腕時計を見た平次がつぶやいた。
 きっと現場ではピリピリと空気を張り詰めさせて、警部がキッドを今か今かと青筋を立てながら待っているだろう。野次馬達も、何処から怪盗が華麗に現われるのかと、期待に胸を膨らませながら待っているに違いない。
 けれどここまではそんな空気も届かず、穏やかな時間が流れていた。
「そういえばひさしぶりやな、工藤がキッド退治にでるんは」
 ふと思い立ったように、平次が口を開いた。
 平次が東京へ来ているとき、一緒に事件現場に行くことも結構あるが、それがキッド捕獲というのはそういえばめずらしいことだった。
「ひさしぶりっていうか……別に俺はキッドを追ってるわけじゃないし。今回は目暮警部に頼まれたから協力しただけで……」
「そうか? 前は、結構追いかけてたやん」
 平次の言葉に、何かが新一の胸にひっかかる。
 追いかけていた。キッドを。そうだ。追いかけていた。
 でもそれは……。

『…………』

 何かが、何かが頭をかすめる。何かを思い出しそうになる。たしかこんなことが前にもあった。それはいつだったろう。なんだったろう。あれは……。
 新一が記憶の切れ端を掴もうとしたその瞬間、不意に聞こえた人々の声に、新一の思考はかき消される。掴みかけた記憶の切れ端を見失ってしまう。
 現場のほうから流れ聞こえるざわめきが急におおきくなっていた。聞こえる声には歓声と罵声が交じり合っている。歓声は野次馬のもので、罵声は警察のものだろう。
「お、キッドが来たみたいやな」
 ふたりの興味は、すぐにそちらのほうへ引きつけられた。その話はそのままそこで打ち切りになる。
 かすかに聞こえてくる喧騒だけでは、現場でどんな状況になっているのかはっきり知ることはできない。けれど、聞こえてくるのが歓声だけではないところをみると、警察も奮闘しているのだろう。
「捕まえられると思うか?」
「無理だろうな。でもまあ、予告の宝石くらいは守れるだろう」
 平次の問いかけに、そっけなく新一は答える。
 頭がよく、機転も利くあの怪盗のことだ。張り巡らせた罠も、見事にかいくぐってしまうだろう。その場に新一がいて、警官を手足のように指揮する権限があったなら捕えることもできたかもしれないが、こうして遠くから示唆するだけなら、宝石を守ることで精一杯だろう。
 けれどキッドから宝石を守ったというそれだけで、十分警察の面目は立つだろう。新一も、十分役目を果たしたことになる。
 キッドは捕まらない。きっと無事に逃げてゆく。
(…………)
 ──心の何処かで、安堵している。キッドが、逃げのびるだろうことに。
(なんで? 俺、なんでホッとしてるんだ?)
 新一は、自分の考えたことに戸惑う。何故そんなふうに思ってしまったのか自分でもわからない。本当なら、逃げられることをくやしがらなくてはいけないのに。何故安堵などするのか。
「おい、キッドや!」
 隣にいる平次が鋭い声をあげた。
 新一はその声に弾かれるように夜空を見上げた。その蒼い瞳は目標物をすぐにとらえる。暗い夜の中でもよく映える、上空を、風に乗って走る白い影──キッド!
 予想したとおり、警察だけでは彼を捕らえることができず、いつものようにハンググライダーで逃げてゆくところなのだろう。
(……キッド)
 空を飛ぶ影は遠い。顔の判別なんてできないくらい、遠くちいさい。
 それなのに。
 目が、合った気が、した。

『──しんいち』

 頭の中に、誰かの声が響く。誰かはわからない。でも、誰かの声が。
(…………と)
 ぐらりと頭が揺れた。足元がふらつく。体を支えていられずに、バランスを崩す。
「工藤っ!」
 倒れるより早く、平次の腕が伸びて、抱きかかえられる。
「どないしたん!? しっかりしい!」
「──なんでもない。大丈夫だ」
 心配そうに見つめてくる平次を安心させるように、微笑んで見せた。
 もうふらついてはいなかった。自分の足でしっかりと立つ。急にめまいがしただけだ。きっと、貧血か立ちくらみだろう。
 新一はもういちど空を見上げる。けれどもうすでにそこに白い影は欠片もなく、もとの通り空とビルがあるだけだった。
 キッドが過ぎ去った空を新一は見つめる。けれど、さっき頭の中に聞こえた声を、もう思い出せなかった。



「A班は東側通路をふさげ、C班は南階段へ!」
 盗聴している警察無線から、中森警部の怒鳴る声が聞こえる。続いて、柱の影に身を潜めるキッドのすぐ横を、何人かの警官が足音を響かせながら南階段へと向かって走っていった。
 快斗は軽く舌打ちをした。
 それはまさに予定していた逃走経路をふさぐ指示で、これでは予定していたルートを使うことはできないだろう。快斗はすばやく頭の中に今いる博物館の設計図と周辺の地図を描き出して、次の逃走経路の割り出しをしていた。
 今夜の警備は、いつもの警察と違って、的確で手強かった。おかげで、予告の宝石を持ち出すこともできなかった。今は宝石を盗み出すことが目的ではないから、宝石を持ち出すことができなくてもそれはそれでかまわないわけだが、『怪盗キッド』としてはその名にふさわしくない大失態だ。最近は、白馬もいなく、無能な警察ばかりだったので、少々なめすぎていたのかもしれない。
 快斗は警官の群れの目を何とかかいくぐり、博物館の隣に建つビルの屋上へと移動する。予定していた逃走経路ではなかったが、今はそこからハンググライダーで逃げるのが最善だと判断した。ビル風も手伝って、風は強い。飛ぶのには十分だった。
 いつものように空中へ飛び出し、ハンググライダーを広げる。ちょうど吹いた風をうまく捕まえて風に乗る。
「あっ! キッドが!!」
 警官か野次馬か、誰かが空を飛ぶ白い影を見つけて声をあげた。みんなの目が一斉にそちらへ向く。キッドを目にした野次馬達からは歓声が上がる。
 中森警部をはじめとする警官達は、急いでキッドを追おうとするが、飛び立ってしまったキッドをもう追うことはできない。なんらかの罵声を中森警部が叫んでいるが、それさえもう快斗の耳には遠い。
(このまま海のほうまで飛んで……そこで寺井ちゃんと合流だな)
 悠々と空を飛びながら、快斗は狂った計画の練り直しをしていた。
 そのままなにげなく下を見下ろして──快斗はすぐに、そこにいる彼の姿を見つけた。心臓がおおきく高鳴る。

(新一!)

 どんなに遠くても、たとえ100万人の人ごみの中からだって、一目で彼を見つける自信がある。間違えるはずがない。
 そこに、新一がいた。
 博物館からすこし遠く離れた路地で、彼も飛んでいる快斗を見上げていた。
 すぐに状況を理解する。今日の警備は、新一が指示していたのだろう。そう考えれば、あの手強い警備にも納得がいった。石頭の中森警部もこれ以上の失態には耐えられずに、新一に泣きついたのだろう。
 今日新一が、警備に参加しているとは知らなかった。おかげでたしかに宝石も取れないという失態をさらしてしまったが、快斗にとっては幸運でもあった。
 こうして──実際にその姿を見られるなんて。
 直接その姿を見るのはひどく久しぶりだ。『怪盗キッド』と工藤新一のあいだにかかわりがあることを、組織や他の人間に知られることが怖くて、遠くからその姿を見ることさえ戒めていたから。ずっとその姿を見るのは、メディアを通してだけだったから。
 たとえこんな状況で、ほんの一瞬でも、その姿を直接見ることができたというだけで、こんなにも嬉しい。
 けれど、見上げる新一の隣には、西の名探偵と呼ばれる男がいた。それを認めた瞬間に、何かが快斗の胸を走る。軽い痛みにも似た感情。
 そのとき不意に、新一の身体がぐらりとかしいだ。
「あっ」
 思わず声が出た。空を飛んでいる自分が助けられるわけもないのに、思わず手を差し出そうと腕が動いた。そのせいで風に乗るバランスを崩しかけ、急いで体制を立て直す。
 差し伸べることもできない快斗の腕の代わりに、すぐ隣にいた平次が、腕を差し出した。新一の身体は、すっぽりとその腕の中におさまる。そして、大丈夫だというように、新一は平次に微笑んでみせた。遠い上空からでも、その笑顔は、快斗にもはっきりと見えた。
 きれいな。きれいな。新一の、笑顔。

(新一)

 心が揺れる。心臓を握りつぶされるような痛みが胸を走る。
 新一から離れたのは、快斗自身の意思だった。すべてを忘れてくれと願ったのも、快斗だ。
 でも。
 もしも記憶があったなら、ああして新一に微笑みかけられるのは、自分だったはずだ。あの笑顔を向けられるのは、自分だったはずだ。
 ひきつるように胸が痛む。
 しあわせでいて欲しかった。笑っていて欲しかった。それが自分のためでなくても、自分の傍でなくても。
 そう願って……だから、新一の記憶を消した。
 覚悟していたはずだった。自分を忘れた新一が他の誰かに笑いかけることも、他の誰かとしあわせになることも。
 それなのに。それなのに。
 実際にその光景を目の当たりにして、覚悟してたはずの胸がうずきだす。痛み出す。

『かいと』
 たしかにその笑顔は自分に向けられていたはずだ。
 その笑顔は自分のものだったはずだ!

(新一!!)

 新一の姿は、空を飛んでゆく快斗の目からは、すぐにビルに阻まれて見えなくなる。風に乗って飛ぶ快斗は、新一からどんどんと離れてゆく。遠く、遠くへ。そうして、快斗はまた暗い夜の中に、ひとりきりだ。

『快斗。俺はずっと、おまえの傍にいるから』
『おまえはひとりじゃないから。おまえをひとりになんて、しないから』

 その約束さえ、新一の記憶から消したのは、他ならない快斗自身。
 それなのに、すべてを覚悟したはずの胸は、それでも何故こんなにも痛むのだろう。
 この頬は、どうしてこんなに凍えているのだろう。吹き付ける風が、痛いほど冷たい。

(しんいち)

 忘れられることが、こんなにもつらいなんて、思わなかった。



 To be continued.

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