風化風葬 (10)


『俺を殺せ、キッド。そうすれば、おまえの願いは叶うから』
 あの日、そう告げた新一は、驚く快斗に自分が知る限りのことを話した。8年前に会った魔法使いのこと、魔法の石のこと、魔法使いが消えてしまった日のこと。隠すことも嘘をつくこともなく、すべてを。
 その話を聞いて、快斗にも、父の死の真相がだいぶ見えてきた。
 知った父の死の真相は意外なものだった。パンドラがかかわっていることは明白だったが、それに東の名探偵がかかわっていたなんて、思いもしなかった。ましてや、本当は、すでにパンドラを見つけていたなんて。そしてそれが、──この、目の前の人物の中にあるなんて。
『俺を殺せ、キッド』
 繰り返しそう告げる彼に、父を死なせた怒りなどなかった。彼が悪いことなんてひとつもない。
『新一のせいじゃない。新一は何も悪くない』
 謝りながら泣きじゃくる新一を抱きしめた。元の姿に戻っても、自分よりちいさな身体は、この腕の中にすっぽりと収まった。
 この身体を抱くことができる日なんて、来るはずがないと思っていたのに。そのときまるで夢のように、新一は快斗の腕の中にいて。
『愛してる』
 思わずそう告げていた。ずっと秘めていた想いを。本当なら、一生この胸に秘めていくはずだった想いを。
 拒絶されるかと思っていたその想いを、新一は受け入れていてくれた。そっとその腕を快斗へと伸ばしてくれた。あるいはそれは、新一の罪悪感からだったのかもしれないけれど。それでも、よかった。
『俺はおまえの傍にいるから』
 しあわせだった。
 新一がそばにいてくれて。
 怖いくらいしあわせで。
 ──そう。怖くなったのだ。
 怖いくらいしあわせで、怖くなって、だから快斗は。



「それで、工藤はおまえと一緒にいたんやな」
「──ああ」
 話を聞いていた平次の眉間には深いしわが刻まれている。
 夢物語のような、いっそ冗談でも言われているのかと思ってしまうほどの快斗の話を、それでも理解しようと必死になっているのだろう。確かに、嘘のような話だが、目の前の怪盗が嘘などついていないことは分かっていた。
 それにその話を考えれば、いろいろな辻褄が合う。志保が言っていた『新一が探していた相手』というのはこの怪盗のことなのだろう。そして新一がメディアに出なくなったのも、この怪盗が一緒にいたからなのだろう。新一がメディアに出ることで、何か怪盗の不利になることを恐れたのだろう。
 それだけ新一にとってこの怪盗が大切だったのだと認識させられて、平次は心の中で砂を噛む。だが今は、すべての謎を知るほうが先決だった。
「それで──それからどないしたんや。おまえと工藤が、一緒にいるようになってから」
「うん。新一は、ずっと俺の傍にいてくれた。俺はそれでしあわせだった。すごくすごく。──だけど俺は、怖くなったんだ」
 自分の罪を告白するかのように、快斗は深くうつむいたまま平次に告げた。
「あいつが、俺の傍に──『怪盗キッド』の傍にいることに。怖くなって、だから俺は、新一の記憶から、俺に関すること、キッドに関すること、パンドラに関することを消して、あいつから離れたんだ」



 快斗と新一はずっと一緒にいた。もちろん、怪盗キッドと東の名探偵がつながっているなんて知られるわけにはいかないから、ひっそりと、誰にも知られないようにだったけれど。
 新一は、快斗の傍にいた。その誓いどおりに。その願いどおりに。
 怪盗キッドの正体が黒羽快斗であることは、組織のほうだって分かっているはずだった。彼らは8年前に現われていたキッドの正体を知っているのだ。それなら、すこし考えれば彼らにだって今のキッドの正体など分かるはずだった。
(もしも)
 もしも、新一の存在が、組織にばれたら。
 怪盗キッドが唯一心を預け、愛している存在がいると、それが新一であるとばれたなら。
 彼らはためらわず、標的を新一へと変えるだろう。それが彼らの残忍な常套手段だった。
 いや。それならまだいいのかもしれない。
 彼らがまだ自分に本格的に攻撃を仕掛けてこないように、快斗と新一につながりがあることが分かっても、新一にすぐに直接攻撃がいくとは限らなかった。まして新一は世間的に高名な探偵だ。両親の地位の高さもある。簡単に手を出すとは思えない。
 それよりも、怖いことは。
 快斗の『関係者』として狙われるのではなく、新一自身が『標的者』として狙われること。

(もしも、パンドラのありかが、知られたら)

 パンドラが、新一の中にあると、知られたら。
 実際のところ、パンドラに、彼らが望むほどの効力はなかった。10年前死にかけた新一をわずかな力で救いはしたが、その後も効力があったようには思えない。結局、『永遠の命』も『不老不死』も、ただのおとぎ話でしかないのだ。
 だが、永遠をもたらす魔法の石と信じて疑わない組織は、それを伝えたところで信じはしないだろう。信じるとしても、それは新一を切り裂いてパンドラを取り出し、その効力についての実験を散々繰り返したあとだろう。
 だから。

 パンドラのありかは、誰にも知られてはいけない。
 絶対に。
 それが、新一を守るすべ。

 ──けれどもしもこのまま新一が快斗の傍にいて、組織が新一のことを調べだしたなら。
 もしかしたら、盗一との接点を見つけてしまうかもしれない。幼いころの新一が、キッドであった盗一に会っていたということが、知られてしまうかもしれない。
 そうしたら、──パンドラのありかに、気付く者が現われるかもしれない。
 その可能性に気付いて、不意に怖くなった。
 今の新一の置かれた状況の危うさに。
 快斗の傍にいることが、パンドラを抱える新一にとって、どれほど危険か。
 新一がただの探偵なら、快斗の想い人というだけなら、いくらでも守るすべがあるかもしれない。でも、新一は、新一自身が『標的』になりえるのだ。それも、組織が何より最優先で狙うような『標的』に。そうなったとき、快斗は新一を守れるだろうか。

『快斗、俺は、ずっとおまえの傍にいるから』
 自分に向けてくれる愛しい笑顔。
『おまえをひとりになんてしないから』
 抱きしめてくれる、愛しい腕。

(しんいち! しんいち!! しんいち!!!)

 もしも、その笑顔が、消えてしまったから。
 彼が、この世界から、消えてしまったら。

 怖くて怖くて怖くて。
 彼を守りたくて。

 だから快斗は、新一に暗示をかけた。

『君は、俺を、忘れる』

 快斗のことも、怪盗キッドのことも、魔法使いのことも、魔法の石のことも。
 すべてすべて忘れて。
 そしてまた、探偵として、怪盗キッドとは関係のない世界で、生きていて。

 そう願った。
 そう願ったのに──。



 それから先を快斗が語らなくても、平次には分かった。そこから先なら、平次もかかわっている。
 記憶を消されて不安定になっている新一の傍に、ずっといたのだから。
 新一が失っていたのはこの怪盗の記憶だった。そして、自分はそこにつけ込んで、新一を手に入れただけ。
 嫌な思いが湧きあがる。結局自分は、この男の身代わりだったのかと。この男の『代用品』だったのかと。
 記憶のない新一は、もちろんそんなことなど意識していないだろう。ただ、心に開いてしまった空洞を、どうにか埋めようと差し出された手を掴んだだけで。それでも、それで平次の気持ちが救われるわけではなかった。
「それでおまえは、これからどうするつもりや」
 きつい口調で、平次が吐き捨てる。
 平次は、新一を手放すつもりなど毛頭ない。ましてこいつのせいで新一は大怪我を負ったのだ。そしてこいつの傍にいれば、これからもそんなことが起こるかもしれない。──いや、この怪盗自身が恐れたように、新一が狙われるようになってしまったら。
「おまえ、自分の立場分かってるんやろ。せやったら──」
「うん。分かってる。分かってるよ服部。よく──分かった」
 きつい口調の平次の言葉は、力ない快斗の言葉にさえぎられる。
「もう、いいんだ」
 快斗はゆるく首を振る。力なく、くせのある髪が揺れる。
 平次に言われなくても、快斗がいちばんよく分かっていた。今までは、分かっているようで実は分かっていなかったのかもしれない。甘く見ていたのかもしれない。でも、今はもう違う。本当に、わかった。
 彼が撃たれて、本当に、自分のせいで命を落としかけて。
 こんなことにやって、やっと分かるなんて、自分の頭脳は大概にも莫迦だとおもうけれど。
 新一が、快斗のそばにいることが、どれほど危険か。新一が傍にいてくれないことよりも、新一が傷ついたり死んだりすることのほうがどれほどつらいことか。
 快斗は、どれほど新一の傍にいてはいけない存在か。
 ちゃんと、分かったから。

 もう、迷いはない。

 忘れてしまえばいい。
 新一の記憶の中から、カケラも残さずすべて消して。もう二度と、思い出して欲しいなんて願わないから。
 そうして、キッドなんかとも、パンドラとも、まったく関係のない遠いところで、しあわせに生きていて。
 自分でない誰かに微笑んでいい。自分でない誰かを愛していい。自分でない誰かと、しあわせになって。

 もう一度、魔法を。
 今度は、決して解けない魔法をかけるから。
 もう二度と、魔法を解きはしないから。
 快斗はそっと席を立つと、ゆっくりと、新一の眠っている部屋へと向かった。
 平次はそれを、ただ無言で見守る。快斗が何をするつもりか、分かっていたから。そしてそれをする快斗が、本当はどんなにつらいか。同じように新一を愛する者として、彼の立場を考えると、同情さえする。
 快斗は、そっと新一の病室に入る。新一は静かに眠っていた。その細い腕には何本ものチューブが刺さっている。常よりさらに細くなった腕も頬のラインも酷く痛々しい。
 傍には志保が付き添っていた。彼女は入ってきた快斗に視線を向けて、けれど何も言わない。あるいは彼女にも、分かっているのかもしれない。快斗が何をするつもりか。
 快斗はちいさく笑って、そっと新一の傍へと歩み寄った。
 近寄っても、新一は目覚めない。落ち着いたとはいえ、いまだ怪我の容態は重いのだ。
 もう二度と、新一をこんな目に合わせないために。
 快斗はそっと、その指の長い綺麗な手を、閉ざされたままの新一のまぶたの上にかざした。
 できるなら、もう一度だけその瞳を見たかった。その瞳に、まっすぐに自分を映して欲しかった。けれどもうそんなことは、望まない。快斗には、そんなことを望む権利などないから。
「──新一。もう二度と、この魔法は解けないから。もう二度と、君は思い出したりしないから」
 それは魔法の呪文ではなく、自分への誓いだったかもしれない。
 意識のない新一に、それでも声は届いて、魔法はかかるだろう。いや、怪我をして意識がないというのは、眠っているのとはすこし違う、特殊な状態だ。通常より、暗示にもかかりやすいだろう。
 新一のまぶたの上にかざした手の上に、いくつもいくつも水滴が落ちる。
 そして快斗は魔法をかける。
 もう二度と解けない、最後の魔法を。


「君は、俺を、忘れる」



 To be continued.

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