風化風葬 (3)


 月明かりを受けて、淡い光でも放つように、鮮やかにひるがえる白い衣装。
 それはあのひとと──魔法使いと同じ姿。
 とてもとても大好きだった。
 そして、自分のせいでいなくなってしまったひと。

『俺は、いつかおまえに殺されるために、生きてきた』
『俺を殺せ、キッド。そうすれば、おまえの願いは叶うから』

 ずっと、それが、自分が彼にできることであり、償いだと思っていた。
 でも、優しい彼が望んだのは、そんなことではなかった。
 だから。

『ずっと傍にいるから』
『おまえをひとりになんて、しないから』

 祈るように誓った。
 それが、自分のただひとつの願いであり、できることでもあった。

 それなのに。彼は。

『大丈夫。君は、俺を、忘れるから』

 違う違う違う。
 望んでいたのは、そんなことではないのに。
 そんなことではないのに。

 それなら、殺してくれればよかったのに。
 殺してくれれば。
 そうすれば。

 あなたをひとりにしないですんだのに。
 あなたを忘れずにすんだのに。



 不意に目を覚ました。
 新一のぼやけた視界に入るのは、しわくちゃに波打った白いシーツ。そして慣れた自分のベッドの感触。部屋はすでに明るくて、閉ざされた薄いカーテン越しに陽射しがさしている。
 目元がやけに熱くて、肌を濡らす感覚で、自分が泣いているのだと気付いた。
(……ゆめ)
 夢を、見ていた。
 けれど、目を覚ましたのはほんの数秒前のことなのに、どんな夢を見ていたのか思い出せない。泣いているのだから、哀しい夢だったのだろう。夢の内容はかすむようにおぼろげで覚えていないのに、哀しい気持ちだけが胸の中に残っていた。
 無意識のように手を伸ばす。救いを求めるように、そこにあるはずのぬくもりを求めて。
 けれど手は何も掴まず、空を切って、白いシーツの上に落ちる。
「はっとり?」
 ベッドのうえには、自分ひとりだけだった。首をすこし巡らせてみても、部屋にも他に人はいない。いるはずの、平次がいない。
 急に不安になって、新一はベッドから飛び起きた。
 覚えていない夢の内容と、今ある現実が重なる。さっき見た夢も、誰かがいなくなってしまう夢だったような気がする。大切な誰かが、いなくなってしまう夢。夢からは覚めたというのに、現実でも、いなくなってしまうのだろうか。また、失ってしまうのだろうか。大切なひとを。
 新一は部屋を飛び出した。スリッパも履かずに階段をかけおりて、足音を響かせながらリビングへ駆け込む。
 と。
「お、工藤起きたんか? おはようさん」
 足音を聞きつけて、平次がキッチンから顔を出した。手には菜箸が握られたままだ。キッチンのほうからは、おいしそうな匂いがかすかに流れてくる。
「飯できてから起こそう思うとったんやけどな。もうちょい待っとり。もうすぐ飯できるさかい」
 あたりまえのようにそこにある光景に、新一は立ちすくむ。
 平次は、いた。ちゃんとここに。いなくなったりしていない。
「工藤?」
 立ち尽くしたままの新一に、平次も不思議に思ったのだろう。首をかしげて近づいてくる。そして新一のまぶたが泣いていたかのようにかすかに赤いことに気付く。
「どないした……うわっ」
 新一は、ほとんど体当たりするように平次に抱きついた。
「くく、工藤?」
 多少よろめきながらも、平次はしっかりと抱きとめる。
 その行為がいきなりだったことよりも、新一がそんなことをするということのほうが、驚きが大きい。
「どうしたん? 寂しかったん?」
 その答えはない。代わりに、ぎゅと、背中に回された新一の腕が、すこし強く平次の服を掴む。
「そか。ごめんな、ひとりにしてもうて。大丈夫や、俺は何処も行かへんよ。ずっと工藤と一緒や」
 なだめるようにそっと髪をなでてやると、ますます背中に回された腕の力が強くなる。平次の胸に強く額を押し付けるようにしているせいでその表情は見えないが、新一の肩がかすかに震えている。もしかしたら、泣いているのかもしれない。
「だいじょうぶや。俺はずっと工藤の傍におる」
「はっとり……」
 なんでこんなに不安になるのか、新一自身にも分からない。それでも時折、何故だかむしょうに不安になるのだ。またひとりになるのではないかと。また置いていかれてしまうのではないかと。
 ああ、こんな表現をすることすら、おかしいのだ。だって『また』なんて、そんな経験は過去に存在しないのに。……そう、存在しないのに。
 わからない。ただ、むしょうに不安なのだ。
 平次はそんな新一が落ち着くまで、ずっと優しく抱きしめていた。



「くどう〜飯できたで〜。工藤〜……お?」
 一応落ち着いた新一を、キッチンが見えるソファに座らせて、平次は料理を再開していたのだが、朝食が出来上がって再びリビングをのぞくと、ソファにいた新一は、いつのまにか眠ってしまっていた。
「また寝てもうたんかい」
 平次はその寝顔を覗き込む。
 3人掛けのソファはゆったりと大きく、足を伸ばしても寝られるくらいの広さがある。それなのに新一は、ちいさくまるまるようにして眠っていた。かすかにまぶたが赤くなった寝顔は、まるでちいさな子供のようだ。
 こんな新一の姿は、以前では想像もつかなかった。こんなふうに無防備に眠る姿も、あんなふうに泣きながら抱きつくような姿も。
 新一は時折、こんなふうに情緒不安定になる。子供のようにひとりを怖がって泣いたり、置いていかれることを嫌がって駄々をこねたりする。もちろんそんな姿は、平次のような本当に親しい相手にしか決して見せないが。
 以前は、こんなことはなかった。以前はそんな弱みを見せるほど親しくなかったということではなく、こんなふうになること自体なかったように思う。
 それなら、それはいつからだろう。新一が、情緒不安定になるようになったのは。
 平次はふと記憶を思い返す。
(あれは──)
 そうだ。たしか、新一があの薬の呪縛から逃れて元の身体に戻って、しばらくしたころだ。
 それがきっかけとなって、平次は新一と『恋人』として付き合うようになったのだから、間違いない。
 もともと、平次はずっと新一のことが好きだった。新一がコナンであったころから、すでに自分の想いを自覚していた。冗談と本気を織り交ぜながら、その想いは告げていた。はっきりとした告白でなかったとしても、その想いは新一にばれていただろう。
 同性からのそんな感情に、新一が嫌悪を持つことはなかったけれど、ずっと『親友』というふたりのスタンスは変わらなかった。
 それに平次がもどかしさを感じなかったわけでもないが、それを無理に変えようとも思わなかった。想いは相変わらず伝えていたし、新一がもし振り向いてくれたらという期待もしていたが、無理に捻じ曲げる気も無理強いする気もなかった。『親友』という立場もそれはそれで満足だったし、新一の気持ちが大事だったからだ。
 それが変わったのは──そう、こんなふうに、新一が情緒不安定になってからだ。
 ある時期から、新一は時折情緒不安定になった。
 表面的には平静を装っていても、何処かおかしいことを、平次はすぐに見抜いた。
 普段は、いつもと何も変わらず、知的で冷静で意地っ張りな新一なのに、時折、まるで何か大切なものをなくしてしまった子供のように、ひどく不安がるのだ。まるで、心の何処か一部をなくしてしまったかのように。
 今も新一の主治医として彼を診ている志保は、それを彼がコナンであったことの影響ではないかと言った。
『工藤君は江戸川コナンでいた時間が長いから、それもまた、ひとつの人格になりつつあったんじゃないかしら。それが元の身体に戻って、形成されつつあった人格の行き場がなくなって──』
 平次もその仮説に納得した。なにしろ、幼児化するなどという前代未聞の体験をしたのだ。情緒不安定にもなるだろう、と。
 あまり人に弱みを見せようとしない新一に、平次は辛抱強く接した。東京と大阪という距離はあったが、できるかぎり新一の傍にいて、彼が不安定になったとき、そっと支えてあげた。
 もともと『親友』として強い信頼関係もあり、またコナンであったころにも新一は平次にいろいろ助けられていた。そんな平次の、押し付けではない優しさに、新一はだんだんと平次に心を開いてゆき──依存するようになった。まるで、なくした心の一部を、平次で埋めようとするかのように。
 そのとき、ふたりの関係は、『親友』から『恋人』へと変わった。
 だが、平次は最近思うのだ。
 彼がこんなふうに情緒不安定になるのは、本当に幼児化していたことの影響なのだろうか。本当は違うのではないだろうか。心理学の専門家でもないからはっきりと理論付けて言うことはできないけれど、新一の傍にいる者として、漠然と違うように感じる。
 ひとりにされることを脅える新一の様子は、幼児化の影響とは結びつかないように思う。
 それならどんな理由があるのかと問われても、平次には考えもつかないが。
 いや、結局のところ、その原因が何であるかは、平次にとって直接的な問題ではないのだ。
 ──ただ、不安なのだ。
 平次が新一を手に入れたのは、弱みに付け込んだようなものだ。情緒不安定な彼の心に、付け入ったようなものだ。
 だから、たとえばもし、彼がなくした何かを取り戻したとき、こんなふうに情緒不安定になるようなことがなくなったとき、新一は自分から離れていってしまうのではないかと。不安なのだ。
 いつ新一が離れていってしまうか、いつも脅えている。
 新一はさっき、平次がいなくなってしまったのではないかと脅え泣いた。けれど、本当にいなくなってしまうことを脅えているのは、平次のほうだ。
 平次はそっと身をかがめて、新一の髪をそっとかきあげると、そのすこし赤くなったまぶたにくちづけた。新一はかすかに身じろぐが、起きる様子はない。
「……俺は何処にも行かんから。ずっとおまえの傍におるから。おまえも、何処にも行かんといて。俺の傍におって。工藤」
 眠る新一にそっと語りかけた。誓うように。祈るように。そっと。



 ブラインドの隙間から陽射しが入り込んで、朝が来たことを告げている。
 快斗は簡素なベッドに腰掛けたまま、イライラと自分の前髪を掴んだ。
 ゆうべ、仕事のあと、キッドとしての仕事のために偽名で借りているマンションの一室に快斗は戻ってきたが、結局一睡もできなかった。身体は、いつになく機敏に動いた警察のせいでいつも以上に疲れているのに、苛ついて高まった神経が、眠らせてくれなかった。
「くそっ!」
 脱いだ白いスーツのジャケットを、床にたたきつけるように放り投げる。
 ゆうべの予告は大失敗だった。テレビをつければ、きっと得意満面の中森警部あたりが、さも自分の手柄のように、キッドの失敗を語っているだろう。
 だが、今、快斗をいらだたせているのはそんなことではなかった。
 ゆうべの失敗などどうでもいい。いやたしかにゆうべの失敗はキッドとしては恥じるに値するが、今はそんなことすらどうでもよかった。
 ただ思い出すのは──愛しい新一の姿と、一緒にいた西の名探偵と呼ばれる男。
 あのとき感じた胸の痛みは、いつしか苛立ちに変わっていた。それなのに、胸の痛みも治まらない。まるで傷口が膿むように、快斗の心を侵蝕していく。
 何度も何度も、脳裏に同じ光景が繰り返される。
 倒れかけた新一に伸ばされた褐色の腕。抱きかかえられた身体は、簡単にその胸におさまっていた。まるで、そこにそうあるべき場所のように。そして──新一が平次に向けた、あの笑顔。
 ほんの一瞬見ただけだったが、それだけでもあのふたりの関係は容易に分かった。
 実は人見知りの激しい新一は、愛想笑いは誰にでも向けるが、本当の笑顔は心を開いた人間にしか向けない。あんな笑顔を──あんな綺麗な心からの笑顔を平次に向けるということは、つまりはそういうことだ。新一は平次に心を開き、受け入れている。それは、倒れかけた身体を抱きこまれて、何の抵抗もせずそのまま身をゆだねていたことからもうかがいしれた。
(どうして!)
 どうしてそんなことになっているのか。
 西の名探偵が新一に想いを寄せていることなど、昔から知っていた。けれど新一がそれを受け入れることはなかった。彼らはずっと『親友』のままだった。
 けれど、今の新一は違う。
 平次の気持ちを受け入れ、そしてまた自分の気持ちもゆだねている。
 どうしてこんなことになってしまったんだろう。
 かつて、彼はたしかに、自分の隣にいたのに。

『俺を殺せ、キッド』

 そんなことは望んでいない。
 絶対に守る。誰からも、何からも。
 そのために。

『ずっと傍にいるから』

 その約束が、反故になっても。
 その笑顔が誰かのものになっても。
 だから。

『君は、俺を、忘れる』

 ──否。
 頭の何処かで、思っていたのだ。
 たとえすべてを忘れてしまっても、それでも新一は自分を好きでいてくれるのではないかと。想っていてくれるのではないかと。いまもまだ、新一のすべては、自分のものであると。
 そんな都合のいい、夢のようなことを考えていたのだ。
 そんなこと、あるわけないのに。知らない人間を想うなんてありえないのに。記憶が閉ざされているかぎり、そんなこと無理に決まっているのに。
 今の新一には、快斗の記憶がないから。
 今の新一は──服部平次のもの。

『快斗』

 あのときたしかに、彼は自分のものだったのに。
 消された記憶が、同時に、それさえなかったことにした。
 彼の記憶があったなら……否、もしも、彼が記憶を取り戻したなら、彼は、この手に戻ってくるだろうか。あの微笑みも、その身体も、その心も、ぜんぶ、この手に。

(思い出して)
(思い出さないで)
(どうか思い出して)
(どうか思い出さないで)
(どうか、どうか、どうか……)

 心が真っ二つに切り裂かれそうなほど、正反対の感情がせめぎあう。
 制御できない想いが悲鳴をあげる。
 ──ほんとうに、のぞむことは……?

(……しんいち……)



 To be continued.

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