風化風葬 (4)


 ひとりだった。
 ずっとずっと、ひとりきりだった。明るい陽の光のしたでも、冷たい月のしたでも、一筋の光さえない闇の中でも。たった、ひとりきりで。
 怪盗キッドとなることを決め、その白い衣を纏ったときから、快斗はずっとひとりだった。
 不可解な死を遂げた、敬愛する父親。不思議な力を持つという、魔法の石。殺人さえいとわない、裏組織。そんなものを『日常』に持ってくるわけにはいかないから。まわりのひとたちを巻き込むわけにはいかないから。
 笑顔のしたにすべてを隠して、すべてをあざむいて。
 快斗はひとりになった。
 それが、自分の選んだことだから、後悔はしていなかったけれど。つらくないわけではなかった。
(誰か)
 心の奥底で、いつも叫んでいた。心の奥に封印して、それでもなお、消しきれない願い。
(誰か、傍に)
 聞こえない声は、ずっと誰にも届くことはなかった。誰かに届いて欲しいとも、思わなかった。誰も巻き込みたくはなかったから。叫びながら、けれど、誰にもこの声など届かないようにと、想っていた。
 けれど、そんな戒めさえ打ち破りそうになるほど、声に出して叫びたくなるほど、声が届けばと願ったひとがいた。たったひとりだけ。
 それはちいさな探偵だった。自分が追っている不思議な石くらい、不思議な運命をたどっていた、ちいさな子供。
 でもそれは、叶わない願いだと分かっていた。叶うはずもない。彼は探偵で、自分は怪盗なのだから。敵対することはあっても、分かりあうことも許されることも、まして傍にいてほしいなんて願いは。
 でも、あの日。あの満月の夜に。

『やっと逢えた』

 ちいさな子供はもとの姿を取り戻して、快斗の前に現われた。その美しい瞳は、何ひとつ変わらないまま。
 怪盗と、敵対するためでなく。
 真実を、届けるために。
『俺のせいで、──だから』
 父の死の真相を知って、けれど彼のせいだなんて思ったことはなかった。彼が悪いことなんてただひとつもない。同じ立場に立たされたなら、自分だって父と同じことをしただろう。
『新一のせいじゃない。新一は何も悪くない』
 それは本当に、心からの本心だった。そんなふうに、彼が自分を責めることなんてなかった。
 何度もそう繰り返す言葉に、彼はやっと涙をとめて、代わりに、誓いの言葉を快斗にくれた。
『快斗。俺はずっと、おまえの傍にいるから』
 伸ばされた腕は、優しく快斗の首に絡まった。その腕が、怪盗を捕まえるため以外に伸ばされることなんてないと思っていたのに。
『おまえはひとりじゃないから。おまえをひとりになんて、しないから』
 それは、快斗が望んでいたとおりの言葉だった。望んだままに、彼はそのとき快斗の腕の中にいて、望んだ言葉を与えて、すべてを許して。その名を。
『快斗』
 あのとき、快斗はひとりではなくなった。
 深遠の闇に一筋の光がさすように。永遠の夜にたったひとつの星を見つけたように。
『新一』
 自分よりもちいさな、その華奢な身体を抱きしめた。まるですがるように。どうかどうか、このぬくもりが消えないようにと。

 大切で。大切で。
 何より誰より愛していて。
 だから。
 傍に、置いておけなかった。
 彼から記憶を奪って、遠ざけた。
 新一が、笑っていてくれるなら、しあわせであるなら、それだけでいいと思って。

 だから──だけど──だから。



 キッドを出し抜くことができたと、それが探偵のおかげだということも忘れて警察が喜んでいたころ、再び、キッドからの予告状が届けられた。
 その予告状には、いつもどおり暗号で、盗む宝石と犯行時刻の予告とともに、次は決して失敗しないと警察をあおるような文が添えられていたのだという。
 ほぼ毎日かけられる平次からの電話で、新一はその話をした。
「それで、また俺に協力要請が来て」
『また?』
 電話越しの平次の声が、わずかに険しくなる。電話の向こうで、眉をひそめているその表情さえ分かりそうなほどだ。
 探偵に名前を出さずに協力させ、その手柄をいかにも自分のもののように振りかざす様子も、探偵に頼りすぎている、頼らなければいけない警察の現状も、身内に警察関係者を持ち、身近に感じている平次にはあまりよいものではないのだろう。同じような気持ちは、新一にも多少はある。
「でもまあ、中森警部達だって、頑張ってるんだぜ。ただ相手があのキッドじゃな」
 一度キッドを出し抜けたからといって、次にまた手玉に取られたのでは、やっと回復しかけた警察の評判も、また地に落ちてしまうだろう。概してマスコミや世間はキッド贔屓なのだし、彼の数え切れないほどの成功とたった一度の失敗なら、一度の失敗などすぐに忘れて、また彼を英雄のように誉めたたえるのだろう。
 だから、何が何でも今度の予告も阻止しなければと、中森警部をはじめとした警察の面々は息巻いているのだった。
 そのために、また新一に協力要請をしてきたのだ。
 前回は、新一の指示により、捕まえることは叶わずも、見事に予告の宝石を守りきった。それに気をよくして、また指示を、ということだった。
 頭の固い中森警部などは、探偵に力を借り続けることに難色を示しているようだったが、実際問題として新一の協力がなければキッドの阻止は難しいだろうし、彼に力を借りようと勧める声が課の中からも上からも上がっていて、承諾せざるを得なかったらしい。
『それでおまえ、またキッドんとこ行くんか?』
「ああ。一応引き受けた」
『────』
 何かが、平次の胸をかすめた。予感、のようなものかもしれない。
 あるいは、新一本人さえも気付いていない、彼の微妙な変化を感じていたのかもしれない。
『アカン、工藤。行くなや。おまえはキッドを追いかけとるわけやないんやろ? せやったら、行ったりすんな』
 今度の予告日は平日で、平次は試験前ということもあり、どうしても東京には行けなかった。当然、新一はひとりでキッド捕獲の協力に行くだろう。
 新一がひとりで事件に行くなんてめずらしいことではない。大阪の平次が一緒のほうがめずらしいのだ。このあいだだって、たまたま週末に平次が上京してきているときに、キッドの予告が重なっただけで。
 でも、どうしても、新一をひとりで、キッドに近づけたくなかった。
 何故かは分からない。ただ、平次の頭のどこかで警報が鳴るのだ。新一を、キッドに近づけてはいけないと。
(何処にも、行かんといて)
 心の中で、必死にそう願う。何故そう願うのか、不安になるのか、分からないままに。
「どうしたんだよ服部」
 いつもと違う平次の様子に、新一は戸惑う。
 同じ探偵でもある平次が、事件に向かう新一を心配することはあっても、こんなふうに止めるようなことなど今までなかった。
「別に俺、名前出さずに協力すること、そんなに気にしてねーぜ。中森警部達だって頑張ってんだしさ。それに、表立ってはないけど、目暮警部とか経由で、一応ちゃんとお礼も言われてるし。だからさ」
『ちゃう。そんなんとちゃう。そうや、なくて──』
 平次が止めるのは、警察の態度に腹を立ててのことだと思ったのだろう。新一は、警部達を擁護するように必死に言い募る。けれど、平次が止めようとするのはそんな理由ではなかった。
(おまえを、キッドに、とられてまいそうな気がする)
 それを、口に出して言うことはできなかった。
 自分でも何故そんなことを思うのか、まるで根拠のないことだったし、そう思う感情自体もあやふやなものだった。
 それに、それを口にすることで、その可能性を、新一に気付かせたくなかったのだ。
「服部。心配してくれるのはありがてーけど、俺、キッド捕獲に協力するよ。もう警部に約束しちまったしな」
 はっきりと新一はそう言い切った。
 彼がこんな口調をするとき、もうどんなに止めても自分の意思を変えないと知っている。だから、平次はもうそれ以上、止める言葉を言えなくなってしまった。
「大丈夫だって。またこのあいだみたく、遠くから指示出すだけだし。危険なことなんてね−よ」
 平次が本当に心配しているのは、そんなことではないのだが、それを伝えようとすることをあきらめた。きっと、どんなに言葉を尽くしても、うまく伝えることなどできないだろう。平次のほうも、新一のほうも、その不安がなんなのか、まだ分かっていないのだから。
 それでもせめて、平次は胸のうちの不安のひとつを、彼に吐き出した。
『工藤』
「? なんだよ」
『──愛しとる』
 電話越しの、真摯な言葉に、新一は一瞬にして耳まで真っ赤になる。
 冗談めかして言われることは、それこそこういう関係になる前からもなってからも、よくあることだが、こんなふうにひどく真剣に真摯に囁かれることはあまりない。だからどうすればいいのか分からなくて、思わず慌ててしまう。
「な、何、急に、おまえ」
『せやから、工藤。何処にも、行かんとって』
「────」
 必死に願うようなその声音に、新一は茶化してごまかそうとしていたのをやめる。
「俺が、何処に行くって言うんだよ」
 平次が何を不安に思っているのか分からない。どうしてそんなふうに思うのかも。
 それでも、そんな不安そうな声で、こんな懇願するようなことを言わせたくはなかった。そんなことをしなくても、素直じゃない自分はいつもうまく言えないけれど、たしかに彼が好きなのに。だから何処にも行かないのに。
(ずっと傍にいるから)
 そう考え、ふと、なにかが頭をかすめる。
 そう誓った相手は、あれは、誰だったろう。平次、だったろうか。いやそもそも、そんなことが、あっただろうか。あれは──。
『工藤?』
 不意に黙り込んだ新一を不審に思ったのだろう。受話器から聞こえる平次の呼び声に、新一はハッと我に返った。
 それから、また受話器越しに、いつものような憎まれ口を叩く。
「バーロ。俺は、何処にもいかねえよ。心配だってなら、おまえが来い」
『……そうやな。そうするわ。今週はちょっと無理やけど、来週、また行くわ』
「こっちに来すぎだよ。一応受験生だろーが」
『逢いたいんやから、しょうがないやろ? 早よそっちの大学受けて、そっちに住みたいわ』
「勉強しないでこっちにばっか来てて、落ちたらどうすんだよ」
 そこから先は、またいつもの会話に戻って、それ以上、キッドの話に触れることはなかった。
 不安が、すべて消えたわけではなかった。それでも、理由もわからないような曖昧な不安に、ずっと縛られていることはできなくて、うやむやなままにしてしまった。



 キッドの予告の夜。今度は新一はひとり、あるビルの屋上でその様子を見守っていた。現場からは遠く離れていて、かすかにパトカーのサイレンの音が時折聞こえてくるくらいだ。
 いまだに警察のプライドが邪魔するらしく、新一に指示のすべての権限は与えられなかった。また、侵入経路と逃走経路の予想と対策を助言するくらいのことしかさせてもらえなかった。それに、また安堵もしていた。
(キッド……)
 彼を捕まえたいのか、そうでないのか。新一自身よく分からなくなっていた。
 自分が何をどうしたいのか、どうすればいいのか。それがこんなふうに曖昧になることなんて、昔はなかったはずなのに。ちゃんと、つたないならつたないなりに、それは分かっていたはずなのに。
 最近の自分が何処かおかしいことを、新一自身も自覚していた。時折わけもなく不安になったり情緒不安定になったり。だが、何故不安になるのか、情緒不安定になるのかすら、自分で分からないのだ。
(服部)
 不意に、ここにはいない恋人のことを想った。彼がここにいてくれればよかったのに。そうすれば、彼はきつくきつく抱きしめて、わずかな不安も消してくれるのに。
 新一は自分の腕時計を見た。ぼんやりしているうちに、いつのまにか予告時間を過ぎていた。キッドはどうなっただろうか。警察は。ここからでは遠くて、現場の様子はわからない。なにかあったら、連絡は来るはずだが。
 ぼんやりと月を見上げた。彼も、この月を見ているのだろうか。この月のしたで、彼は──。
 そのとき、強い風が吹いた。思わぬ強風に、思わず顔を覆う。コートのすそがひるがえる。
 吹き付ける風の音の中に、新一は違う音色を聞き取った。鳥の羽ばたきのような、帆が風にはためくような、音。
(え、────)
 それを認識するより早く、すぐ近くでトンという軽い音と、バサリと何かがひるがえるような音がする。
(まさか)
 新一が、おそるおそる顔を上げると──そこに、キッドが、いた。
「キッド……っ!」
 満月の月明かりの下、すぐ傍に、同じビルの屋上に、真っ白な白装束の男が立っている。新一は目を見開いて、その姿を見つめた。
 何故彼が今ここにいるのか。まだ犯行予告時間からいくらも経っていない。犯行を行なってから逃げて来たにしては早すぎる。
 いや──それよりも。それよりも。

(…………)

 感じるのは、既視感。
 以前にも、同じような場所で、同じようなことが……いや違う。あのときは、こうして待っていたのは、自分だった。
 満月の夜、高層ビルの屋上で。
 あれは──あれは──。

(やっと逢えた)

 何かが、記憶の欠片が、新一の脳裏をかすめる。
 新一は思わず立ちすくむ。指先ひとつ、動かすことができない。
 追わなければいけない、捕まえなければならないはずの窃盗犯が、すぐ目の前に立っているというのに、取り押さえようと駆け出すことができなかった。
 ただ視線を、目の前の怪盗に奪われたまま。

(キッド……俺は……だから)

 何かを思い出しそうになって、新一は自分の額を強く押さえる。
 もうすぐ、もうすこしで思い出せそうなのに。バラバラになったジグソーパズルのピースが、ひとつかふたつだけしか見つからないかのように、うまく思い出せない。
 何かが、もう手を伸ばせば掴めそうなくらい近くにある気がするのに。

「──しんいち」

 不意に、名前を呼ばれた。目の前に現われてから今まで、何も動かずに、何も言わずに、ただ新一を見つめていたキッドが。
 新一の、名前を。
 何かがまた、新一の頭の中をかすめてゆく。その声を、知っている。そんなふうに優しく、その名前を呼ばれることを。
 ぐらりと、新一の視界がゆがむ。

『新一のせいじゃないよ』

『傍にいてほしい』

『しんいち。──あいしてる』

 何かが、記憶の海の底から浮かびあがろうとしている。沈めたはずの──沈められたはずの、記憶。それが、新一の中で渦巻いている。
「……キ、……ッド……」
 ゆっくりと、白い怪盗は足を踏み出した。新一に向かって。一歩一歩、ゆっくりと近づいてくる。
 目の前にいるのは捕まえるべき犯罪者だというのに、逃げることも捕まえようとすることも、なにひとつ考えつかなかった。
 キッドがすぐ目の前まで来て、そして次の瞬間、新一の目の前が白で覆われた。そして感じるゆるやかな圧迫感。
 抱きしめられているのだと理解するまでに、数秒を要した。
(え──?)
 驚くよりも先に、懐かしい、と感じる。包むように守るように抱きしめるこの腕を。
 この腕を、知っている。
「──新一。逢いたかった」
 新一は動けない。その腕の強さにではなく。抱きしめる腕のあたたかさに。なつかしさに、愛しさに。
 キッドは抱きしめていた身体をほんのすこし離すと、新一の目の前に手をかざした。
「これを、見て」
 そんなふうに促されずとも、新一の視線はキッドから外せない。その動きひとつひとつに。その白い手袋に覆われた長い指先を、じっと見つめる。
「俺が、10数えて指を鳴らしたら、おまえの封印は解ける」
(封印?)
 何を言われているのか、新一には分からない。それなのに、ただそのまま指先から視線を外せなかった。
 ゆっくりと、キッドがカウントをはじめる。

「いち、にい、さん、よん、ご──」


「何処だキッドぉぉーーーーーー!!! 逃がさんぞおーーーーー!!!!」


 何処か遠くから中森警部の怒声が飛んできて、数を数えていたキッドの声は、10を数えないうちにさえぎられる。
 現われないキッドに業を煮やしたのか、あるいは空を飛んでこのあたりに着地する姿でも目撃されたのか、中森警部が警官の群れを引き連れて、怪盗を探しに来たのだろう。
 新一は驚いて、声のするほうを振り返る。声の近さからいって、もうすぐそこまで来てるのだろう。あといくらもしないうちに、中森警部と警官の群れがここへ到着してしまうだろう。
「キッド、────」
 視線を外していた新一がもう一度キッドに視線を戻したとき、もうそこに白い怪盗の姿はなかった。
(えっ)
 新一は、驚いて屋上の端へ駆け寄る。
 すると遠くビルの谷間に、ハンググライダ−で飛んでゆくキッドが見えた。振り向いていた一瞬の間に、彼は飛んでいってしまった。行ってしまった。新一を置いて。ひとりで。ひとりきりで。
「キッドーーー!!」
 遠ざかる白い影に向かって新一は叫んだ。

(ちがう)

 そんな想いが、新一の胸を走る。遠くちいさくなってゆく影に。ついさっきまで傍にいた怪盗。抱きしめられた、あの腕。

(その名前じゃない)

 呼ばなければいけないのは、その名前じゃない。彼が、魔法使いから受け継いだその名前じゃなくて。彼の本当の名前を、知っているはずなのに。
 何度も、呼んでいたはずなのに。
(だって俺は……から)
 何かが、胸に浮かんでは消える。いくつもいくつも、記憶の欠片が。それなのに、すべてはただの欠片で、何ひとつ、分からない。
 それはとてもとても大切なことなのに。忘れてはいけないことだったのに。

 ドウシテ、オモイダセナイ。

 大きな足音を響かせながら、ドアを蹴破るように警官の群れと中森警部が屋上へと走りこんでくる。
「キッドは何処だっ!!」
 必死で周囲を見回すが、もう何処にも、白い影は見つけられない。また逃げられてしまったのかと、苦々しく舌打ちをする。
 中森の視線は屋上の端に立っている探偵に向けられる。彼は、屋上の端から下に広がる景色を見つめたまま、微動だにしない。まるで、中森達の存在になど、気付いていないかのように。
「工藤君っ! キッドは何処へ行った!? どっちへ逃げた!?」
 大股で近づいて、その肩に手をかけた。こちらを振り向かせようと。
 けれど。
 ぐらりと、屑折れるように新一の体が倒れた。力なく、剥き出しのコンクリートに細い身体が投げ出される。
「工藤君っ!? しっかりしたまえ!」
 驚いた中森が、肩を掴んで身体を起こさせる。
「工藤く──」
 呼びかけて、途中で中森は言葉を失う。
 倒れた新一は意識を失っていた。
 けれど、その閉じられた瞳から、涙があふれていた。月の光を受けて、水晶のようにさえ見える光の粒が、いくつもいくつもこぼれ落ちてゆく。
 涙はずっと、とまることがなかった。


 To be continued.

 続きを読む