風化風葬 (6)


 快斗はぼんやりと床に座り込んで壁に背を預けていた。
 もうどれほどずっとそうしているだろう。けれど、固い床に座りつづけた足の痛みさえ感じない。痛みなんて感じる余裕もないくらいに、ただひとりのことに意識を捕らわれているから。
 あれから──新一に逢ったあの夜から、ずっとずっと、彼のことを考えていた。
 ひさしぶりに、間近で見た新一の姿。ひさしぶりに抱きしめた、彼の身体。
 快斗は、自分の手を見つめた。この腕には、まだ感触が残っている。新一を抱きしめた、感触が。
 本当は、あんな手袋越しなどではなくて、直に彼に触れたかった。あの白い肌のなめらかさを、感じたかった。
(新一)
 ひどく驚いた顔をしていた。そのおおきな美しい瞳を驚きに見開いて。そうだろう。急に、『知らない』怪盗に訳のわからないことを言われて、抱きしめられて。抱きしめたその身体が、こわばっていたのに気付いていた。

『いち、にい、さん、よん、ご──』

 10を数える前に遮られたカウント。
 あのとき中森警部が来なければ、新一の記憶の封印を解いていただろう。この激情のままに。
 カウントは途中で遮られ、新一の記憶が戻ることはなかったが、それがよかったのか悪かったのか、快斗には分からない。
(俺は──)
 あのとき、警部にカウントを遮られて、新一の意識がそちらにそらされた一瞬に、不意に、快斗にまた迷いが生まれたのだ。いや、思い出したというべきか。新一が記憶を取り戻すということが、どういうことか。
 それを思い出した瞬間に、快斗の全身に恐怖が駆け抜けた。新一を『失う』その恐怖。
 だから、後ろを振り返った新一がまたこちらに向くよりも早く、そこから逃げていた。
(もし、新一が、記憶を取り戻したら)
 新一の記憶を戻してしまおうと──思い出してもらいたいと、願った。その気持ちは本当だ。今も、願っている。
 でも──迷うのだ。
 きっと。記憶が戻れば、新一は快斗のもとに戻るだろう。この腕の中に、帰ってくるだろう。
 たとえば、あの西の名探偵が引きとめたとしても、それを振り切ってでも、きっと。それは、希望的観測というわけではない。ただの事実だ。
 もしも、新一が平次を心から愛していたとしても、快斗よりも愛していたとしても。きっと、彼は、快斗のもとへ来る。
『俺は、いつかおまえに殺されるために、生きてきた』
 それが、彼の償いだから。彼は、盗一の死を、自分のせいだと思っているから。
 新一が快斗のもとへ戻るとき、その理由は愛ではないのかもしれない。後ろめたさや罪悪感なのかもしれない。彼の心の傷に付け込んで、彼を縛り付けるだけかもしれない。
 そうだとしても、どんな理由でもかまわない。快斗は新一に傍にいて欲しい。

 でも。

 新一が、快斗の傍にいるのは危険なのだ。
 快斗が『怪盗キッドだから』というだけではない。
 彼がキッドの傍にいることで、パンドラの本当のありかが裏組織などにばれる可能性が高くなる。
 もしそうなったら──。

(しんいち──)

 だから、新一は、快斗の傍にいてはいけないのだ。
『俺はずっと、快斗の傍にいるから』
 新一は、そう誓ってくれた。それこそが、なによりも快斗の願ったことだった。
 けれどそれは、叶えてはいけない願いなのだ。
 だからこそ、快斗は新一の中から自分に関する記憶を消して、遠ざけた。彼に、キッドともパンドラとも関係ない、光の中で、生きていてほしくて。

(しあわせで、いて)

 そう願った。
 彼がしあわせであるなら、それでいいと。
 そう、思ったのに──。

『快斗』

 あの日、快斗に向けられていた笑顔は、もう存在しない。
 代わりに、彼はあの西の名探偵に笑いかける。
 そのことが、快斗の胸を締め付ける。息も出来ないくらいの痛みを与える。そんな事態も、覚悟していたはずなのに。

(どうして──)

 どうして、こんなふうに出逢ってしまったのだろう。
 ただの、怪盗と探偵、というだけなら、まだ救いはあったのに。傍にいる方法も、あったのに。
 パンドラ、が。
「なんでだよ、父さん……」
 今はもういない、かの人に向かって呟く。
 それは、意味のないことだと知っている。
 父がパンドラを追っていた理由はいまだ分からないが、あれは、仕方のないことだったのだと。『そのとき』の父の決断は、正しかったのだと。分かっている。そうしなければ、新一は死んでいたのだ。そうであったなら、快斗は彼と、出会うことさえ出来なかった。
(新一)
 ただ、彼を愛している。
 だから、傍にいてほしい。
 だから、しあわせでいてほしい。
 そのふたつは、同時には叶わない願いなのだ。

「しんいち──」

 快斗の、切ないほどの呼び声は、誰にも届かない。
 それが愛しい彼に届いてほしいのかそうでないのか、快斗自身にも分からなかった。



 平次は眠っている新一の髪をそっとなでる。もっとなめらかだったはずの髪は、今は何処か艶をなくして平次の指に絡まる。
 大切な何かを思い出せないと泣いていた新一は、泣きながら再び眠ってしまった。そしてあれから丸一日は経とうとしているが、まだ目覚めない。
 平次はずっと、新一の傍らに付き添っていた。
 聞き取れないかすかな寝言を言うことや、時折眉がひそめられるようなことはあるけれど、それ以上のおおきな変化はなかった。
 そして、新一はずっと眠り続ける。そこにいる平次を見ることもなく。
「工藤」
 何度呼んでみても、新一は目覚めない。自分を起こす王子は、平次ではないと、拒絶するかのように。
 またさっきのように強く揺さぶっておおきな声で呼べば、目を覚ますのかもしれない。でも、それでは何の解決にもならないだろうと分かっていた。起きても、またすぐにこうして眠ってしまうのだろう。
 静かな部屋の中に、トントンと、階段を上がってくる軽い音が伝わってきた。平次は視線だけを扉のほうへ向ける。音の軽さからいって、女性だろう。足音を聞き分けられるわけではないけれど、こんなふうに工藤邸を訪れるのは、自分に電話をくれた彼女だろうと推測する。
 平次が来ていることも新一が眠っていることもすでに分かっていたのだろう、ノックもせずに部屋のドアが静かに開けられ、その向こうにいたのは、予想通りに志保だった。
「どう、様子は」
 いつもと変わらない静かな口調で志保が尋ねる。
「眠りっぱなしや。俺が来たとき一回起きたんやけど、また眠ってもうた。それからほぼ丸一日寝とる」
「一種の睡眠障害ね」
 志保が分かっていたようにこともなげに言うところをみると、これは前から出ている症状なのだろう。
 志保は眠っている新一に近づくと、手馴れた様子で眠っている新一の脈をとったり熱を計ったりしてゆく。彼女はいつもこうして定期的に新一の様子を看ていてくれたのだろう。眠っている彼は、きっと知らないだろうけれど。
「睡眠障害……か。過眠症ちゅうやつか?」
 こういうことは、心理的作用がおおきく働く。一般的には、極度のストレス状態に陥ったときや現実のつらいことから逃げたいときに、そういう症状が出るという。
 新一も、だからこんなにも眠るのだろうか。
『夢を見たのに、覚えていないんだ』
 泣いていた新一の姿を思い出す。泣きながら、何かを思い出そうと、必死になっていた彼。
 新一の場合は、現実から逃げるというよりも、眠ることで、なくした記憶を探しているのではないだろうか。
 夢でなら覚えていると言っていた。だから、彼は必死で、夢を見て、思い出そうとしているのではないだろうか。なくしてしまった、何かを。
『俺、思い出さなくちゃいけないのに』
 眠ることで、こんなにも必死に、何かを、探しているのだ。きっと。
「──工藤、記憶の一部がないみたいなんや」
 不意に言われたその言葉に、志保の片眉が上がる。彼女はそれを知らなかったらしい。
「記憶の一部がない?」
「ああ。それが、この情緒不安定のホントの原因らしい。おまえ、なんや知っとるか?」
 普段、東京と大阪に離れて暮らしている平次と違って、志保はいつも傍にいる。そして、新一の身体を心配する意味でも、新一を想うが故の意味でも、彼女は新一をよく見ている。
 また、新一と志保……コナンと哀は、言ってしまえば運命共同体のようなものだった。平次とは違う意味で、新一に近しい人間だ。平次には話せないことも、彼女になら何か言っているかもしれなかった。
 そう期待して尋ねたのだが、彼女の返事は素っ気無いものだった。
「知らないわ。記憶の一部がないなんて、はじめて聞いたもの」
「そか。でもなんか心当たりでも、気になることでもないか。なんでもええんや」
 志保は口元に指をあてて、しばらく考えるようなそぶりをする。そんな様子は、どこか新一に似ていた。
 ややあって、ゆっくりと、彼女は口を開いた。
「……誰かを探してるって」
「え?」
「昔、工藤君が、そう言ったの。子供の姿で、組織に追われていつもいつも脅えて暮らしていたころ、私もあなたも死んでいたほうが楽だったかもねって言ったら、彼、どうしても死ねないって。誰かを探していて、そのひとを見つけるまでは、絶対死ねないって」
 そのときのことを思い出すかのように、志保の薄茶の瞳が遠くを見つめる。
 そう言ったときの彼の表情は、今思い出すだけでも切なくなるような、寂しげな哀しげなものだった。いつも強くあった彼の、あんな顔を見たのは、あのときだけだった。

「誰かのために死ぬことも、誰かに殺されることもできない。自分の命は、そのひとのものだからって」

「──なんや、それ」
「知らないわ。私もそれ以上聞かなかったし、工藤君もそれ以上言わなかったから。この話が、今回のことに関係してるかも分からないわ」
 ただ、あのとき見せた彼の哀しげで切なげな表情が、今の様子に何処か通じるものを感じたのだ。不安そうに寂しそうに、何かを探す、その顔が。
「私に言えるのはこれだけね。それ以上は、何も分からないわ」
 どうしてそのときもっと深く追及しなかったんだと、平次は他人に深く入り込もうとしない志保の性格をすこし恨めしく思う。──本当は、志保が悪いわけではないことも、分かっているけれど。きっと深く追求したところで、そのとき新一が答えるとも思わないけれど。
(探してるヤツ?)
 それは、平次の聞いたことのない話だった。そんな相手がいるなど知らなかった。新一がコナンだったあのころ、探しているといえば、例の黒の組織で、それ以外に探している人物がいたなんて、気付かなかった。
 新一が探していたというのが、キッドのことなのだろうか。
 けれど志保の話からも、新一の様子からも、怪盗を捕まえるために探していたというふうではない。
(工藤の命は、そいつのモン?)
 新一に問いただしても、彼には記憶がないのだから、話を聞くのは無理だろう。
 いやそもそも、彼に思い出してほしくはないのだ。下手に話を振って、思い出すきっかけになりでもしたら困る。
 だとすると、真実を知っているのは──知ってる可能性があるのは──。

「いっぺん、キッドに逢うてみる必要があるみたいやな」

 新一の寝顔を見つめたまま、平次は低くちいさい声で、呟いた。
 新一を手放す気などさらさらないが、彼がこんなふうになる原因は、突き止めなければならない。新一を、失くさないためにも。
 新一の探していた相手がキッドなのだろうと、彼とのあいだに何かあって、それを新一は忘れてしまっているのだろうと、ほぼ確信的に平次は悟っていた。
 国際的犯罪者と新一のあいだに一体何があったのか。
『思い出せないんだ。それは俺にとってすごくすごくたいせつなものだったのに』
『自分の命は、そのひとのものだからって』
 彼にそこまで言わせるほどのその秘密を知るのは、怖いような気もした。
 もしそこに、自分など到底敵わない、入り込む余地もないような強い絆を見つけてしまったら──。その『代用品』である自分は、新一の心の隙につけいっただけの自分は──。
 今が過去の上に成り立って、過去を変えることは消して出来ないだけに、その力も存在も、とてもおおきい。切れない絆も消せない傷も、たしかにあるのだ。
(──アカン。こんな弱気じゃアカンな)
 マイナス方向へ走りそうになる自分の思考を、平次は押しとどめる。
 そこにどんなことがあろうと、新一を想うこの気持ちは変わらないのだ。そして自分達には『今』と『未来』がある。
「工藤」
 平次は眠っている新一の頬をそっとなでる。眠ったままの新一は平次を見ない。失った過去の夢を、ただ必死に追いかけたまま。そこにあの白い怪盗がいるのか。今、眠りながら彼のことを想っているのか──。
「工藤、何処にも行かんとって」
 もう祈りの言葉のようになってしまったそれを、繰り返す。平次の願いは、それだけなのだ。
 そのためにも、平次は新一が忘れている記憶と、あの怪盗との関係を、必ず見つけ出そうと心に決めた。


 To be continued.

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