風化風葬 (7)
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赤い視界。
赤く紅く染まる視界。
世界はどうしてこんなにも赤いのだろうと、新一はぼんやりと想った。世界にはもっといろいろな色があるはずなのに、どうして、今はこんなに赤ばかりなのだろう。
『新一っ!!』
耳鳴りがしているように、よく聞き取れない耳に、それでも聞こえてきた、あれは誰の叫び声だっただろう。
視界が真っ赤で、それ以外何も見えなくて。それが誰か知りたくて、首を動かそうとするのに、何故だか体が動かなかった。まるで、眠りに入る寸前のように、身体が自分のものでないような浮遊感で、身体をうまく動かせない。
『大丈夫か!? しっかりしろ! しんいちっ!』
不意に誰かに抱き起こされる。それでやっと、さっきまで頬に当たっていた硬い感触はコンクリートだったのだと気付いた。それでもまだ、頬にはなんだかヌルついた液体が張りついているようで、ひどく不快だった。
抱き上げられたことで、やっと新一の視界に赤以外の色が入ってくる。綺麗な白。月の光によく映える純白。
(あれは……、……いと?)
いや違う。だってあのとき、まだ……には出逢っていなかった。それに彼もまだ……ではなかった。だって、彼だってあのときはまだ自分と同じ8歳の子供だったのだから。
ああ、記憶が混乱している。
そうだこれは、昔の記憶だ。昔の──今から10年以上前、8歳のころの、記憶。
白い衣装をまとったあれは、魔法使いだ。いつも素敵な『魔法』を見せてくれた、大好きな魔法使い。
いつも笑顔で余裕の魔法使いが、そのときは必死の形相だった。いっそ、怖いくらいに見えた。
『新一! 新一!! 死んでは駄目だっ!』
彼がどうしてそんな顔をしているのか、新一には分からない。彼が何を叫んでいるのか、よく聞き取れなかった。
『……どうしたの?』
何を言っているのかわからなかったけれど、魔法使いは泣いているようにさえ見えた。新一は心配になる。
『どうしたの、魔法使いのおじさん。どうして泣いてるの? 何処か痛いの? 何処か怪我したの? 大丈夫?』
『……新一……』
やっと見えてきた視界は、それでもまだ歪んでいたけれど、よく見れば、魔法使いの真っ白なはずの衣装は、ところどころ赤いように見えた。あれは血ではないだろうか。この鼻にまとわりつくような重い匂いは、血ではないだろうか。やはりきっと魔法使いは怪我をしたのだ。だからこんなに痛そうな、泣きそうな顔をしているのだろう。
『魔法使いのおじさん、大丈……っっ』
急に喉から何かがこみ上げてきて、言葉が詰まる。何かが口からあふれた。重い鉄の匂い。口元を押さえて、何度も咳き込むようにそれを吐き出す。
『……あれ?』
ふと自分の手を見ると、手が真っ赤だった。何でこんなものを吐き出すのだろう。口の中が気持ち悪い。
『あれ……僕……』
何が起こっているのか、新一はよく分からない。自分のことなのに、ちゃんと考えられない。それでも必死に、何が起きたのか知ろうと記憶をめぐらせる。
確か……ああ、そうだ。
いつものように、満月の夜、魔法使いは新一に逢いにきてくれた。
でも、今日の魔法使いはいつもとどこか違っていた。喜んでいるような、困っているような、そんなふうに見えた。ずっと探していたものが、見つかったのだと言っていた。ずっと探していた、魔法の石が見つかったのだと。
探し物が見つかったのなら嬉しいのではないか、何故もっと喜ばないのだろうと、新一はすこし不思議だった。せっかく探し物が見つかったのに、何故そんな寂しそうな顔をするのだろう。
『ねえねえ、魔法の石って、どんな魔法が使えるの? どんな色しているの?』
『ああ、それはね……』
そのとき、突然、黒い服を着た人達が数人現われたのだ。
月の光を受けてあざやかな白い衣装の魔法使いと対照に、黒一色のそのひと達は、明るい月夜でも闇に溶け込んでしまいそうだった。
そのあと……どうしたのだろう。魔法使いの切羽詰ったような声と、黒服の彼らが取り出した黒光りするアレは──。そしてそれから──?
それ以上よく思い出せない。一体何があったのだろう。あの黒い服の人達は誰で、何処へ行ったのだろう。
答えを求めて魔法使いの顔を見上げると、彼はさらにつらそうな、さらに痛みをこらえるような顔をしていた。
『……新一。いい子だね。大丈夫。大丈夫だよ』
そっと抱きしめられる。今、この手は真っ赤だから、そんなふうにしたらその白い衣装が汚れてしまうのに。新一はそう思うけれど、魔法使いはそんなことなどかまいもせずに、新一を包み込む。
だんだんと、体が宙にでも浮いているような感覚になる。頭の中もかすんで、よく考えられない。
『助けるから。絶対に助けるから。君を、死なせたりしない』
魔法使いはスーツのポケットから何かを取り出した。
新一の視界はもうかすみはじめて、それがなんなのかもうよく分からない。魔法使いの顔さえもうぼやけている。その衣装の白がにじんで広がって視界を埋め尽くすかのように、もう何も見えない。
『────』
魔法使いが何か言った。
けれど新一にはもう聞こえない。もう何も見えない。
その一瞬後、意識を失う直前。
赤い紅い光に、視界が包まれたような気がした。
あれは──。
(だから、快斗。俺を殺せ。そうすれば、おまえの願いは叶うから)
「かいと……」
呟いた声が自分のものなのかどうか、新一は一瞬分からなかった。夢と現(うつつ)の境が曖昧だ。視界には見慣れた天井の幾何学模様が映っているが、まだ夢を見ているような気さえする。
「かいと」
耳に残る名を、もういちど、呟いてみる。それは多分、ひとの名前だ。知らないひとの──いや、知っている。自分は確かに、知っているはずなのだ。そのひとを。
それなのに、どうして思い出せないのだろう。どうして忘れてしまったのだろう。
どうして。
どうして。
(大丈夫。君は、俺を、忘れる)
不意に、耳の奥に声がよみがえる。優しい、哀しいほどに優しい声。あれは誰の声だろう。そう言ったあのひとは──。
(かいと?)
そんなこと、望んでいなかったのに。
どうしてそんなことを、言うの? それなら、殺してくれればよかったのに。殺して、欲しかったのに。
そうすれば。
何がどうして哀しいのか、それすら正しく思い出せないのに、新一の眦を涙が伝う。
眠りすぎて重たい身体を、新一はゆっくりと寝台の上に起こした。喉が、痛いくらいに渇いていた。けれど、そのために階下まで降りるのはひどく億劫だった。
このままもういちど眠りについてしまおうかと思ったとき、ベッドサイドに置かれたペットボトルに気付いた。
開けられていないまま置かれている、清涼飲料水のそれは、新一のために用意されたものに他ならない。そしてそれを用意してくれたのは……。
「服部?」
不意に思い出す。前に目が覚めたとき、彼がいたはずだ。大阪にいるはずの彼がどうしてここにいたのか、あのときは気にする余裕もなかったが、おそらくは志保あたりにでも言われ、自分の様子を心配して来てくれたのだろう。
「服部」
部屋に平次の姿はない。すこし大きな声で呼んでみるが、返事はない。
彼はもう帰ってしまったのだろうか。だが、彼が何も言わずに帰ってしまうとは思えない。そうだとしても、メモのひとつも残しているはずだ。
用意されていたペットボトルを手にとって、水を飲む。渇ききっていた喉に、水は甘いように感じる。一気に半分ほど飲み干すと、喉の渇きとともに、眠気もだいぶ飛んでいった。
ペットボトルをベッドサイドに戻すと、新一はベッドから立ち上がった。濡れた口元を寝巻きの袖で拭いながら、部屋を出る。
廊下にはこうこうと灯りが付いていた。カーテンを締め切ってちいさな電灯だけをつけた部屋の中では分からなかったが、廊下の窓から見える外はもう暗く、夜の様相を示していた。
廊下と同じように灯りが灯ったままのリビングへと入り、新一は人影を探して首をめぐらせる。けれど何処にも平次の姿は見つけられない。他に人の気配もしない。
やはり彼は帰ってしまったのだろうか。
平次にだって学校もあるし、探偵として事件もあるだろう。だから、ずっと東京に居続けることが出来ないことは知っている。ちゃんと分かっている。だが、寂しいと思ってしまうのは仕方のないことだ。今週は試験で来られないといっていたのに、それでもおそらくは無理をして、すこしの時間でも来てくれたことを、喜ばなければいけない。
(そういえば)
今はいつなのだろうと、不意に新一は思い出した。
ずっと眠り続けていたから、時間の感覚が分からない。今日が何日なのか、最初に眠ってから何日経っているのか、平次が来てくれたときからどれだけ眠っていたのか。
デジタルのカレンダーでもあればすぐに分かったのだろうが、あいにくとリビングにそういうものはなかった。普通の紙製のカレンダーはあるが、それでは今日が何日かは知ることが出来ない。
新一は手っ取り早く、テーブルの上に投げ出されていたリモコンをとって、テレビをつけた。ちょうどよくニュースでもやっていれば、すぐに日付が分かるだろう。そうでなくても、大体の番組を見れば、曜日くらいわかる。
何気なく付けた番組は、運良くニュース番組のようだった。何処か外から、リポーターらしい女性が、中継をしているようだ。そのうしろでは、パトカーが赤いランプをけたたましい音と共に回している様子が見える。
探偵気質が働き、新一はテレビに身を乗り出した。そこから流れる情報に食い入る。
『まもなく予告時間になろうとしています。このように、現場にはたくさんの警官と共に見物人も多数来ていまして──』
野次馬の歓声や罵声にかき消されそうなざわめきのなか、リポーターが必死になって中継している。
(────)
ドクンと、新一の心臓が鳴る。
これは。
これは──。
『先日に続いての怪盗キッドの予告に、多くの見物人がつめかけております。前回前々回と、警察はキッドから宝石を守ることに成功しておりまして、今回は必ず阻止だけでなく逮捕すると──』
テレビから聞こえる音など、もう新一の耳に入らない。新一の耳に──脳裏に響くのは、ひとつの声だけだ。
(──新一。逢いたかった)
切ないほどの声音でそう囁いたのは。
泣きたくなるほどなつかしい腕で抱きしめてきたのは。
「──快斗」
その名を、呟く。
そうだ。あれは、快斗だ。自分が忘れてしまった、大切なひと。大切な──。
まだすべてを思い出したわけではない。思い出したものはカケラばかりで、まだ何もうまくつながらない。
それでも、行かなければという想いだけが新一の心をかけめぐった。
行かなければ──キッドの──快斗の、もとに。
To be continued.
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