風化風葬 (8)


 遠くに、喧騒が聞こえる。もともとこの周辺は繁華街の建ち並ぶ眠らない街ではあったが、今夜の様子は、いつもとはまた違った。夜の街は、異様な熱気を孕んで、白いマントをはためかす風さえ、どこか不快な重さをまとっている。
 キッドは高層ビルの屋上から光の散りばめられた地上を見下ろした。窓からもれる灯りやネオンに混じって、点滅する赤い光がいくつも見える。各所に配置されたパトカーのランプだ。再び出されたキッドの予告状に、今度こそ捕まえてやろうという中森警部の意気込みそのままに、動員されている警官の数はいつもより多いように見えた。
 また、前回前々回の警察の活躍により、もしかしたら今回キッドが捕まるのではないか──その世紀の瞬間を見られるのではないか、隠され続けたキッドの素顔を見ることができるのではないかと、つめかけた野次馬の数もいつもの倍近くにのぼっていた。
 詰め掛ける人の群れは、蟻の大群というよりも、巨大なアメーバのようだ。統一された意思もなく、うねるように増殖しながらその細い路地を埋め尽くしている。
 いつもなら、キッドの大切な『観客』である彼らを、今日は冷たく見つめる。
 キッドにとって盗みはショーでもある。キッドを追いかける警察は、舞台を盛り上げるエキストラだ。あるいは舞台装置か小道具といったところか。そして集まった野次馬が観客だ。観客がいなければ、ショーは成り立たない。だからいつもはそれなりに『観客』を楽しませるパフォーマンスも見せたりするが、今回は事情が違った。
(一体、誰が)
 キッドは注意深くあたりをうかがう。
 今回出された予告状は、キッドが出したものではなかった。
 つまり、偽物だ。
 それがどういう意図で出されたものか分からない。模倣犯か、愉快犯か、あるいは──キッドをおびきだすための罠なのか。
 それがどんな意図によるものであれ、名を騙られて、偽者を放置しておくわけにはいかない。だから彼もこうして、夜の街へと現われていた。
 偽の予告状を出したのが、模倣犯や愉快犯ならいい。先回りして、そいつを少々こらしめて、それが偽者であることを警察や野次馬に知らしめて、代わりに鮮やかに宝石のひとつも盗んで見せればいい。
(でも、もし──)
 もし罠だとすれば、偽者に制裁を加えるために現われたキッドを狙う者が何処かにいるはずだ。それも、すぐ近くに。今も、現われた本物のキッドを狙撃しようと、狙っているものがいるのかもしれない。次の瞬間には、この闇の何処かから、銃弾が飛んでくるのかもしれない。
 片耳にはめたイヤホンから流れる警察無線で現場の状況を観察しながら、キッドはいつ何処から敵が現われるのかと周囲をうかがっていた。
 そのとき。
 不意に古い鉄の扉が軋む音が、夜の中に響いた。音を遮るものの少ない屋上で、そのかすかな音は、けれど思いのほか大きく響く。
(!?)
 キッドは神経を張り詰めさせる。
 誰かが屋上へと入ってきたのだ。今まで何の気配もしなかったのに。
 あんなにも気配を消せるというのは只者ではない。一般人がたまたま屋上へ来ただけということは有り得ないだろう。キッドはそっと身構える。何かあったならすぐトランプ銃が撃てるようにと、そっと右手をスーツの胸の隠しへ忍ばせた。
 そのままゆっくりと、けれどキッドとしての優雅さは損なわずに、扉のほうへと振り返る。
 扉の向こうから現われた人影は、ゆっくりとキッドのほうへ歩み寄ってくる。薄暗い夜の中、扉の影になって見えずにいた顔が、近づくにつれ、ぼんやりと淡い光の中に浮かび上がる。
「やっぱりここにおったな」
「あなたは……」
 現われた男は、幸いにもキッドを狙う組織の者ではなかった。けれど予想しなかった人物で、快斗は違う意味でひどく驚く。
 彼のまとう雰囲気も、日に焼けた浅黒い容貌も、こんな夜の中には似合わない。合うとしても、人々の明るい笑い声が響く、人口のまばゆいばかりの光の下だろう。
 西の名探偵、と呼ばれる男が、そこにいた。
 かつて新一がキッドの逃走経路を推理して先回りしていたように、この男もその見事な推理力で、この場所を見つけたのだろう。さすがに新一と並んで西の名探偵と呼ばれるだけのことはある。それはキッドも認めざるを得ない。
 服部平次。今、工藤新一をその手に抱く、憎い男。
 その姿を見ただけで、歯軋りしたくなるほどの湧き上がる憎しみを、それでもポーカーフェイスの下にすべて隠して、キッドは平次に向かって優雅に会釈して見せた。
「こんばんわ、西の名探偵。先日に引き続き、『西の』あなたにこのような東の果てでお会いできるとは光栄ですね」
 流れるような言葉を紡ぎながら、急いで周囲に目を走らせる。この男がいるということは──新一も、どこか近くにいるのかもしれないという、淡い期待を込めて。
 視線だけ気付かれないように動かしたつもりだったが、その動きを察知されてしまったのか、それとも別の理由でか、西の探偵はキッドの心のうちを見透かすように言い放った。
「工藤なら、今日はおらんで。俺一人や」
(────っ!)
 マジシャンにとって、手の内を見られるほど屈辱で無様なことはない。おそらく服部平次がそう言ったのは偶然であろうが、キッドにとってはひどくおもしろくないことだった。
 けれどそれも顔に出すわけにはいかない。こんなことでポーカーフェイスを崩したら、それこそマジシャンの名折れだ。いつもどおりの冷静な怪盗を演じ続ける。
「本日は、東の名探偵に代わり、あなたが警察のブレーンというわけですか?」
 警察が、この男に協力を依頼するということは、十分にありえた。前回新一は捜査の途中に倒れている。だから彼の体調を気遣い、代わりにちょうど東京に来ていた服部平次に頼むということは十分考えられた。
 しかし服部平次は軽く肩をすくめるような仕草をしてみせた。
「いや。がんばっとる警部らには悪いけどな、警察のやつらは俺がここにおること誰も知らんわ」
 その言葉に、キッドは不審そうにその流麗な眉根を寄せた。
 探偵が、警察とは別に独自にキッドを追いかけるのは、よくあることだ。けれど、そう言った西の探偵の口調には、それ以外の意味も含まれているように聞こえた。一体、この男は、何故ここへ来たのか。
 白い衣装を纏うキッドとは対照的に、肌も浅黒く、着ている服も暗い色合いの服部平次は、明るい陽の下が似合うとはいえ、こうして暗い夜の中に立っていると、その闇の中に溶け込んでしまいそうだ。あるいは、明るい光の中では同時に暗い影ができるように、この男にも、そういう部分があるのかもしれない。
 その裏側の顔をのぞかせるように、西の探偵は、唇を歪ませて笑った。
「偽の予告状出したんは俺や」
(!?)
 キッドは驚いて、モノクルに隠された瞳が大きく開かれる。『敵』が偽の予告状を出すことは予想していたが、『探偵』が偽の予告状を出すとは考えていなかった。
 たとえばそれが警察もグルになった大掛かりな罠ならともかく、今回はどう考えても警察も本物と信じている。出された予告状によってどれだけの人員が動くか、どれだけの騒ぎになるかを考えれば、たとえキッドを捕まえるためだったとしても、そんなことは許されないだろう。
 それくらい、服部平次にだってわかっているはずだ。いや、警察幹部を親に持つ彼は、誰よりもそれを分かっているだろう。それなのに、悪びれる様子もなく、西の探偵は言ってのける。
「おまえに会うにはいちばん手っ取り早いと思うてな」
「──いいのですか? いくら私を捕まえるための罠だとしても、偽の予告状を出されるとは、度が過ぎているのではありませんか? もしそのことが明るみに出たら、あなたのお父上の責任問題にもなりかねませんよ」
「そうやな。こんな夜中に借り出された警察の人たちには申し訳ない限りや。せやけど、どうしてもおまえに尋きたいことがあったんや」
 服部平次の鋭い瞳が、まっすぐにキッドを射抜く。それはまさに、どんな嘘も言い逃れも許さず、犯人を追い詰め真実を暴こうとする、容赦ない探偵の瞳だった。
「怪盗キッド。おまえ、新一とどんな関係や」
 平次の言葉に、キッドは冷たく目を細める。
 何故この男がそんなことを言い出したのか。新一が、怪盗キッドに抱きしめられ不可解なことを言われたとでも言ったのだろうか。それとも──新一が、何かを思い出したのだろうか。
「……何故そのようなことを? 私と東の名探偵に、泥棒と探偵以上の特別な関係があるとお思いですか?」
「分からへん。だからおまえに聞きに来たんや。せやけど──」
 一度言葉を区切り、ちいさく息を吸い込んで、平次は言葉を続けた。
「何があろうと、あいつは俺のもんや。誰にも渡さへん」
 その、まるで恋人の浮気相手を責めるような口調に腹立たしくなる。ポーカーフェイスを保てないくらい、頭に血が上るのが分かる。
 いちばん最初、新一を手に入れたのは快斗のほうなのに。あとから入ってきたのは、こいつのほうなのに! 『俺のもの』などと、まるで自分の所有物のような顔をして!!
「……新一が、おまえのものだと? はっ。笑わせるな」
 いつもの冷静な口調も静かな声音もかなぐり捨てて、口汚く吐き捨てていた。
 あまりの怒りと悔しさに、もうキッドの口調を保っていられなかった。
「てめえは、新一の弱みに付け込んだだけだろ? 新一に親友ヅラして近づいて、都合よくあいつの気持ちをすりかえてるだけじゃねえのか」
 その言葉に、西の探偵がくやしそうに顔をゆがめて、奥歯を噛み締めるのが分かった。彼にもその自覚はあるらしい。いや──そう分かっているからこそ、新一を失いたくなくて、キッドの存在を気にするのだろう。
「そんなら、おまえはどうなんや。おまえは、新一のなんだっていうんや」
「俺は──」
 答えようとしたキッドの言葉を遮るように、間近で数度破裂音が炸裂した。
 屋上の一角が、ちいさな火花を散らしながら、コンクリの破片を弾いた。
「!?」
「なんやっ!?」
 普通の人間なら、何が起こったか分からなかっただろう。何処かで花火でもしているのかと思うかもしれない。だが、探偵も怪盗も、それがすぐに銃弾によるものであることを悟った。
 何処かから、おそらくは近くのビルから、狙撃されている!
(組織のやつかっ?!)
 偽の予告を出したのは平次でも、それに便乗してキッドを狙う者がいたのだろう。
 銃弾が飛んできた方向から狙撃者の大体の位置はわかるが、正確な位置は特定できない。急いで周囲のビルに目を走らせても、敵が何処にいるのか分からなかった。
 おそらく、間を置かずに、次の銃撃があるだろう。銃弾から逃れるために、何処かへ身を隠さねばならない。キッドは急いで周囲を見回す。けれど今、うまく隠れる場所が見つからなかった。
 広い屋上の中で、身を隠せそうな場所といえば、屋上への出入り口だ。だが、その方向には平次がいる。そちらの方向へ逃げることで、銃弾が平次にも向かってしまうことが怖かった。
 ハンググライダーで飛んで逃げるとしても、まわりはここより低いビルばかりで、逆に狙いやすくなってしまうだろう。
(どうすればっ)
 必死で頭をめぐらせる。
 闇の中でも映える白い衣装を纏うキッドの姿は、遠くからでも標的として狙撃者の目にはっきり映るだろう。早く身を隠さねばならない。でも、どうすれば。
 あせりに、一瞬判断が鈍った。
 その次の瞬間。

「……いとっ!」

(えっ……)

 幻を、見ているのではないかと思った。
 平次の背後、屋上へと続く扉から、新一が飛び出してきたのだ。思わぬ姿に、キッドの目は彼に釘付けになる。
「なっ……」
 ここに新一が現われたことに、西の名探偵も驚いているようだった。けれど、驚く平次の姿など目に入らないかのように、新一はその脇をすり抜け、怪盗の元へと駆け寄ってゆく。そしてその身体はそのままキッドの腕の中におさまる。怪盗を捕まえるためなどではない。確かに、その身体を抱きしめるために。
「しん、いち……」
 キッドは今の状況などすべて忘れて、呆然とする。
 腕の中に、新一がいる。このあいだのように、無理矢理抱き寄せたのではなく、彼から、この腕の中へ。背中に回された腕は、しっかりとマントを握り締めている。
 まるで、願っていたことが、そのまま現実になったかのように。
(しんいち──)
 何故このような状況になったのか分からない。嬉しさと同時に、不安が湧き上がる。この身体を抱きしめ返してもいいのだろうか。抱きしめようとした瞬間に、幻のように消えてしまうのではないだろうか。そんな不安が湧き上がる。
 それが幻ではないことを確かめようと、キッドは震える腕を新一の背に回そうとした。
 しかし、それより早く、渇いた弾ける音が、すぐ傍で聞こえた。
 一瞬、痙攣するように、新一の身体が跳ねる。
 鼻孔を刺激する、焦げた匂い。
 自分の眼下にある背中から、何故か、白く細い煙が一筋あがっていた。
(……え……)
 キッドは何が起きているのか、理解できずにいた。いや、理解したくなかったのだ。
 不意に白いスーツの背中に回されていた腕の力がゆるんで、新一の身体がずるりと崩れた。とっさにキッドは新一の身体を抱きとめる。
 背中に回した腕が、手袋越しにも濡れた不快な感覚を感じ取った。ぬるりと、生暖かく濡れている。
 新一の白いシャツが、その背中が、見る見る赤くなってゆく。そこに回された、白いスーツも。

 撃たれた、のだ。

「あほう! なに突っ立ってるんや!!」
 新一を抱えたままのキッドの腕を、平次がつかんで引っ張った。いつ次の攻撃がくるか分からないのだ。新一を抱えたままのキッドを引きずるようにして、平次は急いで屋上の出入り口に身を躍らせた。
 その背後で、またいくつか銃弾が、火花を散らせながら屋上のコンクリを弾く。しかし、撃たれた方向から考えて、ここへは銃弾は届かないだろう。
 だがそのまま安心するわけにはいかなかった。
「おいっ工藤っ! しっかりせい!!」
 平次は蒼白になりながらも必死で新一に呼びかけているが、キッドはただ呆然と、その血の気の失せた顔を見つめることしか出来ずにいた。喉が震えて、声など出ない。
 新一は腕の中でぐったりと目を閉じている。その背を支える白いスーツの袖は、すでに真っ赤だ。そしてそうしている間にも、赤い染みはどんどんと広がろうとしている。
「工藤! 工藤っ!!」

「……しんいち」

 引き絞るように、かすれて消えそうな声が、キッドの──快斗の、くちびるからこぼれた。震えるその声は、ちいさすぎてきっと聞こえてなどいないだろう。けれどその呼びかけに答えるかのように、新一がゆっくりと目をあけた。
 その黒曜石のような瞳は、快斗が愛したその美しい瞳は、間違いなくキッドを──快斗を映している。
「ああ……やっと、思い出した。ぜんぶ」
 途切れそうな声は、けれど囁くような優しい響きで。新一は笑っていた。優しく快斗に微笑んでいた。あの日のように。ずっと傍にいると、誓った日のように。愛していると、告げたときのように。
「俺、おまえと約束したのにな……傍にいるって……。なのに、約束やぶっちまって……ごめん、な。でも、おまえだって……悪いんだぜ……俺の記憶、消そうなんて、する……から……」
 新一は、そこまで告げると、くちびるは微笑みの形のまま、そっとそのまぶたが閉ざされる。
 ずるりと、腕の中の新一の身体が、力を無くして崩れた。
 快斗はとっさに力を込めて、身体を抱きしめる。だがその体に再び力が入ることはない。腕の中の身体は、力なく、ただ快斗の腕にぶらさがっている。背中からあふれてくる血が服を伝って、足元の階段に、ポタリポタリと、落ちる。
「……し……い、ち……」
 胸が、痛くて、痛くて。
 悲鳴さえ、あげることができない。何かが喉につかえている。ただ、涙が、あふれる。
 なんて、ことを。
 なんてことを、してしまったのだろう。
 新一が大切で、誰より大切で、守りたくて。だから、新一の記憶を消して、自分から離れたというのに。
 西の名探偵に愚かな嫉妬などをして、思い出してほしいなんて、愚かなことを思わなければ、新一はキッドのことを忘れたままだったろう。
 そうすれば、こんなふうに、撃たれることなんてなかったのに。
 大切だったのに。守りたかったのに。
 それなのに。
 新一が撃たれたのは、快斗のせいだ!!

「────っ!!!」

 声にならない悲鳴を、快斗はあげた。


 To be continued.

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