風化風葬 (9)
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新一が『真実』を知ったのは、一度消えた怪盗キッドが、再び現われ世間をにぎわすようになってからだった。
魔法使いに最後に会った日のことを、新一ははっきり覚えていなかった。そのころの記憶は、何処か曖昧だった。そしてそれ以降、新一の前からも世間からも魔法使いは消えて。
でもその理由を知ろうとするもこと、行方を追うこともなかった。魔法使いは探していたものが見つかったと言っていたから、だからもう姿を現さなくなったのだと、思っていた。
けれど8年も経ったのちに、記憶の底に残る魔法使いと同じ姿の者が、夜の街を飛び回るようになった。
新一にはすべてが不可解だった。あれは誰なのか。あれは新一の知る魔法使いではなかった。それなら何故魔法使いと同じ格好をしているのか。魔法使いは、本当は、何処へ行ってしまったのか。
それから、魔法使いについて調べた。今現われている『怪盗キッド』のことも。
正体不明の怪盗キッドのことを調べるにはずいぶんと手間取った。さらにそのあいだに幼児化され、調べることがさらに困難になったりもしたけれど。
調べて分かった断片的な情報と、思い出した記憶から、優秀な新一の頭脳は真実を導き出した。『魔法の石』のありかも。魔法使いが誰で、どうなったかも。すべて。
そして、今の怪盗キッドは、魔法使いの息子だと知った。
パンドラは今もここにあって。彼はこれを探している。
永遠が欲しいのか、それ以外の目的か、どちらにしろ、パンドラは、彼に返さなければ。そして、償わなければ。
彼の父親が死んだのは、新一のせいなのだから。
だからあの日。
やっともとの姿に戻れて、怪盗キッドの予告があった、満月の夜。彼の逃走経路に先回りした。
『俺を殺せ、キッド。そうすれば、おまえの願いは叶うから』
殺せば、パンドラが手に入る。そして、父を殺したことの復讐もできる。そう思って告げた言葉だった。
パンドラのありかも、魔法使いの死の理由もすべて告げて。
けれど優しい腕は、新一を殺すために振り上げられはしなかった。
代わりに、優しく抱きしめられた。
『新一のせいじゃない。新一は何も悪くない』
そう言われて、涙が出た。
本当は、そう言って欲しかった。許して欲しかった。
彼のために何かしたかった。自分にできることなら何でも。
だから誓った。
『快斗。俺はずっとおまえの傍にいるから。おまえをひとりになんてしないから』
それなのに。
ある日、快斗は新一に言った。
『君は、俺を、忘れる』
そうして、忘却の暗示を掛けられて。
知っていた。それが俺のためだということを。
でも、それでも。
(快斗。俺は)
(ごめんな。俺、おまえのこと忘れちまって)
新一の言葉が、耳の奥でこだまする。
せつないほど優しいその声が、快斗の胸を切り裂いてゆく。
彼が、そんなふうに謝ることなんて、なにひとつないのに。
いちばん最初に怖くなったのは自分。いつか傷つけることが怖くて、逃げ出した。
『快斗。俺はずっと傍にいるから』
そう言ってくれる新一の記憶を消して、遠く離れて。
それなのに。記憶をなくした新一に嫉妬をして、また近づいたの。なんて愚かな自分。
その結果が。
快斗は自分の腕に抱えているそのひとを見つめる。誰よりも誰よりも愛しいひと。ずっとこの手に取り戻したいと願っていたひとは、今ここにいるけど。
青白い頬。目を閉じた顔。流れ出る血。
(しんいち)
ああ。
これはすべて、俺のせいだ。
不意に、腕の中の新一に、脇から褐色の腕が伸びた。快斗の腕から新一を奪い取ろうとする。
「なにするんだっ!!」
呆然としていた快斗は不意に我に返って、必死にその腕から新一を守るように身体をひねって腕に力を込めた。
「あほう!! 工藤はまだ死んどらん!! 病院つれてくんや!!」
平次の叫びに、急速に冷静さが戻ってくる。凍り付いていたような脳細胞たちが、弾かれたように動き始める。
確かに、呼吸は弱いけれど、まだ完全に心音が止まったわけではない。まだ生きている。生きている!!
それでも、背中から撃たれた傷は深い。出血もひどいし、弾もまだ体内にある。早く処置を施さねば、その鼓動が本当に止まってしまうのも時間の問題だろう。
快斗は自らの背に留められた白いマントを引きちぎった。白い布は、乾いた音を立てて破ける。それを止血帯代わりに新一の身体にきつく巻きつけた。その途端に新一の血を吸って、白かった布は赤黒く変わってゆく。
怪我に関する応急手当の知識くらい、快斗の頭にはあった。けれどそれは、誰かに施すためでなく、自分が怪我をしたときに自分自身で手当てするためのものだった。それを新一に施すことになるなんて、思いもしていなかった。むしろ、こんな日が来ることを、いちばん恐れていたのに。
「宮野んとこへ運ぶんや!」
快斗が手当てをしているあいだに、平次は携帯電話を取り出して、何処かへ掛けていた。おそらくは、宮野志保へ、新一が撃たれたことと、今から連れてゆくことを連絡しているのだろう。
「────」
出された名前に、快斗はわずかに戸惑いを覚える。
志保が嫌だとか、彼女の腕を信用していないということではない。
人が幼児化するなどという奇跡の薬を作り出した天才科学者は、薬学に関してだけでなく、医学にも通じていることは知っていた。けれど彼女は正式な医者ではないし、治療する設備だって病院ほど完璧には整っていないだろう。
彼女の腕に頼るより、このまま大病院へ担ぎ込んだほうが、新一が助かる確率が高いことくらいは、西の探偵にだって分かっているはずだ。
それでもこの場で平次が志保の名を出すのは、キッドのために他ならない。
もしこのキッドの格好のまま病院に行けば、当然その場で快斗は逮捕されるだろう。キッドの変装を解いて行ったとしても、弾傷のある人間が運ばれたとなれば、病院側は警察に連絡し、それから警察の捜査がはじまる。当然、運んできた快斗の身元やそのときの状況も調べられる。そうなればどうなるか。
あるいは平次は、快斗でなく、新一の身を案じたのかもしれない。下手に捜査されて、新一と怪盗キッドにつながりがあることを、世間に知られることを危惧したのかもしれない。
どちらにしろ、長く迷っている暇はなかった。新一の容態は一刻を争うのだ。
「何処へ連れて行けばいい?」
「宮野が車で迎えに来るて。とりあえず下まで降りるぞ」
こんな怪我をした新一をつれて、タクシーになど乗れない。志保が迎えにきてくれることはありがたかった。
快斗は新一の身体を傷にさわらぬよう、注意深く抱き上げた。
遠くではいまだ、キッドが現われることを待つ警官や野次馬のざわめきが絶えない。パトカーの赤い光が途絶えることはない。けれど、それらに快斗が意識を向けることはもうなかった。
撃たれた新一は、博士の車で迎えに来た志保によって、阿笠邸へ運ばれた。
駆けつけた志保は、撃たれた新一を見て青ざめていた。彼女にとっても新一は、誰よりも大切な大切なひとなのだ。決して傷ついてなど欲しくないひとなのだ。
それでも、怪我をした新一を前に取り乱したりするようなことはなく、的確な応急処置をすると、平次と快斗に指示を出して、傷にさわらぬよう車に乗せ 阿笠邸へと車を走らせた。
取り乱しても、どうにもならないことを知っているから。哀しむ以上に、やらなければいけないことだあるから。
「宮野。工藤は……!!」
「必ず助けるわ」
志保は 阿笠邸に着くなり手術をするための白衣に着替えて、新一と共に手術室へと消えていった。
阿笠邸の地下には手術室があった。ちいさな町病院程度には機材もそろっている。
彼女は黒の組織の非道さを知っている。だからあらゆる最悪の事態を想定していた。また、薬によるどんな副作用が出るとも知れず、いつどんなことが必要になるか分からない。そのために用意しておいた手術室だった。
手術の手伝いさえさせてもらえず、平次と快斗は手術室の前で心臓を徐々に握りつぶされるような気持ちで、手術が終わるのを待っていた。
そのあいだ、二人のあいだには、ひとことすら会話はなかった。ただじっと、痛いほどの重い沈黙と、秒針の刻む音だけが落ちた。
それから何時間経ったのかなんて分からない。たとえ30分だったとしても永遠にも近い時間が流れて、やっと手術は終わった。
「弾は摘出したわ。内臓はすこし傷ついていたけど、神経には傷はついていないわ。どっちにしろ、絶対安静だし油断は出来ないけれどね」
志保はそういうものの、手術室から出てきた新一の顔色はすでにだいぶよくなっていて、もう死と隣り合わせというほどではないと、二人を安心させた。
それからは3人で交代で看病して、新一の容態がやっと落ち着いたころ、平次は快斗を引き立てるようにして阿笠邸のリビングに向かい合うように座らせた。
「どういうことか、話してもらおうやないか」
平次の声は、怒りに満ちていた。
今まで、怪盗キッドの正体にも、新一との関係にも、なにひとつ触れなかった。新一の容態のほうが心配で、それどころではなかったからだ。けれどやっと新一も回復してきて、他のことも考えられるくらいに余裕が出てきた。
そうなれば、湧き上がるのは、怪盗キッドであるこの男に対する疑問と怒りだ。
すでにシルクハットもモノクルもなく、快斗の素顔は晒されている。今平次の前にいるのは、シャツとジーンズを身につけた、ただの高校生だった。
「……俺は、パンドラという石を、探してたんだ」
かすれかけた声で、怪盗キッド──快斗は、話し出した。
「パンドラは、ビックジュエルの中にあるといわれていた。月にかざすと、赤く光って見えるらしい」
「おまえが満月の夜に宝石だけ狙っとるんはそのためか」
「ああ。でもそれはただの宝石じゃなくて、それをボレー彗星にかざすと涙を流して、それを飲むと不老不死になるとか言われていた。そのせいで、ある裏組織もそれを追ってた」
裏組織という言葉に、平次が目をすがめる。ほんのすこし前まで、アポトキシンにより、新一は裏組織に狙われていた。それが一段落したと思っていたのに、またそんなものの影が、彼のまわりにまとわりついていたのかと。
「俺自身は、不死だとかそんなことに興味はない。でも、父さんがそれを追っていて、そのせいで殺された。だから、そいつらを見つけて、復讐するために、キッドになって、パンドラを探していた」
「おまえの親父さん──ちゅうのは、10年前に現われていた怪盗キッドか?」
それくらいは平次にも簡単に推理できた。目の前にいる怪盗キッドが、自分とほぼ同じ年齢であることを考えれば、10年前に現われていたキッドは彼ではありえない。そうすれば、話から考えても、キッドは代替わりしているということは見当がつく。
「ああ。10年前までは、父さんが怪盗キッドだった。10年前父さんが死んで、ずっと事故死だと思っていた。父さんがキッドだったってことも知らなかった。でも1年くらい前に、偶然なのかどうかは分からないけど、俺は父さんがキッドだったこと、そしてパンドラという石を探していたこと、裏組織に殺されたことを知った。それで、俺は父さんの復讐のためにキッドとなったんだ」
「なるほどな」
それで、怪盗キッドの、窃盗犯としては少々不可解な行動も納得がいく。
窃盗自体ではなく、探している宝石を見つけること、また、同じ石を狙う組織をあぶり出すことが目的だったのなら、盗んだ宝石を返すことも、人を傷つけないことにも納得がいく。
「怪盗キッドとなって、パンドラは見つからなかったけど、組織に関する情報はいくつか手に入ってきていた。そんなとき、新一が、俺の前に現われたんだ」
快斗はそっと目を閉じる。
今も、そのときを、鮮やかに思い出せる。
満月の夜、風の強い日、新一が目の前に立って、快斗に告げた。
『やっと逢えた』
あの日のことは、快斗の心の中に、宝石のように大事にしまわれている。
「なんでや。何で工藤が、おまえなんかに会いに行くねん」
責めるような平次の声に、快斗は閉ざしていた瞳を開けた。
わずかに伏せられた瞳が、遠くを見つめてさまよう。
「……パンドラは、ビッグジュエルの中になんてなかったんだ。いや、前はあったらしいが、今は違う場所にあった」
「どこや?」
「パンドラは、新一の心臓に、埋め込まれているんだ」
「────」
思いもしなかった事実に、平次は言葉をなくす。
パンドラという石がどういうものかはともかくとして、裏組織に狙われているようなものが、新一の体内あったという事実が、平次を驚かせた。
「そうしたのは、俺の父さんだ。10年前、すでに父さんは、パンドラを見つけていたんだ。それを、新一の体内に──」
「なんでや──」
「仕方なかったんだ。新一を助けるために」
快斗は遠くを見つめたまま呟く。
「父さんと、新一の父親は知り合いだったらしい。それで、新一とも知り合いだったらしくて……。新一が、死にかけたとき、父さんは、パンドラを使うことにしたんだ。不老不死なんて、もちろん嘘だ。でも、確かに治癒力を高めるような力はあったらしい。だから、父さんはパンドラを、瀕死の新一に埋め込んだんだ。おかげで、新一は助かった」
父がしたことを、快斗は責められない。同じ立場に立たされたなら──新一が死にかけていたなら、快斗だってきっとパンドラを使っただろう。そのせいで、新一が狙われるかもしれないとしても。失ってしまうことには耐えられない。
「組織のやつらは、父さんがパンドラを見つけたってことだけ、突き止めた。それで、父さんにパンドラを渡せと迫った。そのときすでに、パンドラは新一の体内だ。もしそれが組織にバレれば……」
快斗はそこで言葉を切る。だが平次にも、彼が言いたいことは十分に分かった。
人殺しなんてなんとも思わないようなやつらだ。当然のように、やつらは新一の身体を引き裂いて、中の目的の物を取り出すだろう。そんなことは容易に想像できた。
「だから、父さんは、パンドラのありかを吐かなかった。そのせいで、やつらに殺されたんだ」
父親が殺されたのは、パンドラを見つけていなかったからではない。
すでに見つけていたから殺されたのだ。
彼らは、殺したあと、ゆっくり探せばいいとでも思っていたのかもしれない。けれど結局組織は、パンドラが新一の体内にあることは見つけられなかった。
「だから、新一は、父さんが死んだのを自分のせいだと思っている。それで、俺に償うつもりで、俺に逢いに来たんだ」
『やっと逢えた』
あのとき、自分がパンドラを探していることは知っていただろう。だから。
『俺を殺せ、キッド。そうすれば、おまえの願いは叶うから』
殺して、その体の中にある、パンドラを。
父親が死ぬ原因となった自分に復讐を、と──。
To be continued.
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