いまはもういないあなたへ
1 / Shiho Miyano


 深夜、志保はひとりパソコンに向かって、研究データの整理をしていた。
 ひとりの夜はひどく静かで、キーボードをたたく不規則な音と、時計の規則的な音だけが、部屋に響く。
 今取り組んでいるある薬の研究が、もうすぐまとまろうとしていた。無事完成し、活用されれば、多くのひとの命と苦しみを救うことが出来るだろう。
 専門である薬学は、もう志保のライフワークのようなものだった。薬と自分というのは、切っても切れない関係にあると思う。自分と彼とを狂わせ、そして出会わせることになったのも当時自分が開発に携わっていたある薬だった。その解毒剤を造ったのも志保自身だ。
 そのAPTX4869は、もうこの世に存在しない。そのデータも試作品も、すべては処分され、もう何処にもない。もういちどあれを作ることは、不可能だろう。……あるいは、志保の頭の中にあるデータと技術でなら可能かもしれないが、そんなつもりは志保にはまったくなかった。
 今は、公的な機関で、薬の開発に取り組んでいる。もちろん、病気を治すための。そして実際いくつもの成果を挙げて、多くのひとを救った。
 それはまるで、罪ほろぼしのようなものだと想う。
 運命を狂わせてしまった、今はもういない彼への。
 解毒剤を作ったと言う意味では、確かに志保は彼を救った。けれど、本当の意味で、彼を救えたのかといわれると、それにはっきりと答えることは出来ない。
 自分は、あれほどのまでに、彼に救われたというのに。
 彼がいなくなって久しい今でさえ、救われ続けているというのに。
(なにかあっても、俺が助けてやるから)
 いつかの言葉どおりに。
 データ処理が一段落して、一息ついたとき、遠慮がちにノックの音がした。志保は、扉のほうを振り返る。おそらく、ちょうどいいタイミングを待っていたのだろう。
「母さん。ちょっと……いいかな」
 ドアから、遠慮がちに一保が顔をのぞかせた。もう寝たと思っていたが、起きていたようだ。もう完全な子供とは言いきれないほど大きくなっているのだから、夜更かしをどうこう言うつもりもないが。
 彼女の一人息子がそんなことを言い出すときは、決まって、相談ごとや大切なことを打ち明けるときだった。
「ええ、いいわよ。ちょうど一段落したところだし。コーヒーでもいれるわ」
 志保は一保をともなって、資料の散乱した書斎から、リビングへと移動した。
 綺麗に整理されたリビングは、すこしだけ冷えていた。
 志保はあたたかいコーヒーをいれると、一保の分を彼の前に置き、自分も向かい側のソファに座った。コーヒーを一口すする。自分からは何も言わず、一保が言い出すのをじっと待った。
 ソファに深く座った一保は、コーヒーには手をつけず、その琥珀色の表面をじっと見つめていたが、やがて決心したように、言葉を切り出した。
「母さん。聞きたいこと、あるんだけど」
「なあに?」
「僕の、父親のこと」
 その言葉にも、志保はさして驚かない。
 いつかはきっと尋ねられることだろうと、ずっと思ってきていた。だから、思い詰めたような一保の様子に、もしかしたらと思っていたのだ。
 一保は、察しのいい物わかりのいい子で、これまで、表だって父親について何か尋ねてくることはなかった。
 志保も、彼とのことを話すには、組織のことやあの身体を小さくした薬のことにも触れなければいけなく、うまく説明する自信がなく、はっきりと話したことはなかった。ただ、一保が生まれる前に、死んでしまったとだけ告げていた。それ以上のことを、一保が尋ねてくることはなかった。
 その一保が、自分から、父親について尋ねてきたのだ。
 一保も今年、高校生になった。大人とは言えなくても、子供でもない。組織のことや薬のことなどは話せないにしても、工藤新一自身のことは話してもいい頃合だとも、思う。
「そうね……何を聞きたいの?」
「僕の父親って、工藤新一ってひと?」
 一保の口からその名が出たことに、志保は驚く。
 新一の死後、彼の子供である一保を産んでのち、志保は、かつての関係者とはほとんど連絡を絶っていた。
 新一の両親であり、一保にとっては祖父母にあたる工藤夫妻や阿笠博士とは、多少交流がある。やはり女手ひとつで子供を育てるのは大変で、金銭的な面も含めて多少援助してもらったりした。けれど、工藤夫妻や博士は志保の気持ちをくんで、表だって一保の前に現れることはなかった。代わりに、志保は、一保の写真や成長記録などを、定期的に工藤夫妻に送っている。
 工藤新一関係者とのつながりなど、それくらいだ。
 新一につながるような物も、志保は何ひとつ持っていない。写真も、手元には一枚もない。
 それなのに、それでも、一保が工藤新一にたどりついたのは、やはり、彼の中に探偵の資質が受け継がれているのかもしれない。
 あるいは、何かが彼を導いたのだろうか。
「……よく調べたわね。彼に関するものはほとんどここにないのに」
 母親のその答に、一保は、自分の父親が工藤新一なのだと確信する。
「どうやって、彼のこと知ったの?」
「中学のとき……友達が、古い雑誌に僕に似た奴が載ってるって、見せてくれたんだ。それが、工藤新一で……ほんとに似てたから、もしかしたらって、思ったんだ」
「そう。あのひと、昔は結構メディアにも出ていたものね」
 一保はメディアに多く取り上げられていた彼のことを思い出す。雑誌の中に載っていたのは、彼を褒め称え賞賛する記事と、たいていが不敵な笑みを浮かべた彼の写真ばかりだった。
 メディアで報じられる彼は、一種の理想像のように完璧に作り上げられていて、一保はそこから『工藤新一』という人格を見つけだすことが出来なかった。
「……どんな、ひとだった?」
「知りたい?」
 しばらく迷うように視線をさまよわせたあと、一保はちいさく頷いた。
 志保は、自分の息子を見つめる。
 工藤新一の遺伝子を受け継ぐ、彼の子供。
 あのころの工藤新一の年に近づいて、ますます似てきたと思う。
 志保が新一に出会ったときは、彼も志保自身も、実年令とはかけ離れた子供の姿だったけれど。
 それでも、どんな姿になっていても、子供の姿でも、もとに戻ったあとも、あの綺麗な瞳は何も変わらなかった。
「……いやなひとよ。そのうえ莫迦で」
 彼を思い出すとき、何故か、その綺麗な瞳と、笑顔ばかりが思い浮かぶ。
 嬉しいときに浮かべる笑顔だけでなく、大丈夫だと安心させるような笑顔や、苦しいときも痛いときも強がってみせる笑顔。
 どれもこれも、笑顔ばかり。
「他人の傷には敏感なくせに、自分の傷には鈍感で。自分が傷ついたら、哀しむひとがいるってこと、わからないような莫迦だったわ」
 誰かをかばって傷つくことは、彼にとって痛みでもなんでもなかった。
 彼にとって本当に痛いのは、守れずに誰かが傷ついてしまうこと。
 だから、いつもいつも、彼は傷ついてばかりいた。身体も、心も。
「ひとの心の中、簡単に見透かして、簡単に真実を暴いて。こっちはそれを隠してやっとひとりで立っているっていうのに、『大丈夫だ、なにかあったら俺が何とかしてやるから』なんて言って。自分だって、大丈夫じゃないくせに」
(おまえは、生きなきゃ駄目だ)
 それは、身勝手な、彼の遺した最後の言葉。



 組織との対立は最終局面にさしかかっており、組織の中枢に直接乗り込む計画がたてられていた。
 だから新一に、志保は、自分も一緒に行くと言った。連れて行ってくれと。
「私も一緒にいくわ。連れていって」
 足手まといにならないくらいの自信はあった。足手まといになったなら、その場で自分の頭を撃ち抜くくらいの覚悟もあった。
 けれど、新一はそんな志保に冷たく言った。
「駄目だ。おまえは残れ」
「どうして!!」
 その言葉に、思わず志保は叫んだ。
 いつものクールな自分などかなぐり捨てて。叫んだ。
「お願いよ、連れて行ってよ! 置いて行くくらいなら、いっそここで殺していって!」
 これから組織に乗り込むことが、どれほど危険なことか分かっていた。
 そして、彼が、死も覚悟していることは分かっていた。だからこそ、一緒に行きたかった。
「いやなの、もうひとりは嫌なの! ひとりになるくらいなら、死んだほうがましなの!」
 死んでしまった両親、姉、大切なひとたち。
 手にいれた大切なものを失う怖さを思い知って、だからもう誰も好きにならないと、ひとりで生きていくと心に決めていた。それなのに、新一はいとも簡単に志保の心の中に入り込んで、優しさだとかぬくもりだとかしあわせだとかを振りまいて、その心を奪っていった。
 もうひとりになんて耐えられないくらい、その腕のあたたかさにおぼれさせておいて、いまさらまたひとりにするなんて、残酷すぎる! そんなことには耐えられない!
 彼が死を覚悟で行くのなら、一緒に行って、自分も共に死にたかった。ひとりで助かることになんの意味もなかった。
「連れていって! 連れていってよ! 私をひとりにしないで!!」
「……志保」
 ぼろぼろと、涙のこぼれる頬にそっと手が触れて、頬を包み込む。
 そっと、触れるだけの優しいキスが繰り返される。
 彼はいつもそうだ。そうやって、無条件で無償の優しさをただ志保に与える。
「おまえをひとりになんてしないさ。そう約束しただろ?」
 くちびるを触れあわせながら、そっとささやかれる。
「おまえは、ひとりじゃない」
「え…………」
 言われた意味が分からずに、志保は泣き濡れた瞳で新一を見つめた。
「だからおまえは、生きなきゃ駄目だ。生きて、しあわせにならなくちゃ駄目だ」
 彼が何をいっているのか分からなかった。何か言い返そうとしたとき、急に志保の視界が暗くなった。新一が、志保の首のうしろから頚動脈を強く掴んで彼女を気絶させたのだ。
(行かないで……ひとりにしないで……あなたがいなければ、しあわせになんてなれない…………)
 意識を失う瞬間の志保の必死の言葉は、彼に届いただろうか。
 けれど、次に志保が意識を取り戻したときには、新一はいなかった。彼は、行ってしまった。ひとりで。
 必死であとを追ったけれど、間に合わなかった。
 組織に乗り込んだ新一は、みごとに組織を壊滅に追いやった。けれど同時に、彼自身も命を落としてしまった。
 一緒に組織に乗り込んだ黒羽快斗と服部平次が、自分自身も瀕死になりながらも連れて帰ってきたのは、彼の死体だった。
 彼の死に、守りきれなかった快斗や平次を責めるよりもさきに、志保は死のうとした。彼がいないのに、生きている意味などなかった。
 それをとめたのは、快斗と平次の言葉だった。
「やめろ! おなかの中の新一の子供まで殺すつもりか!?」
「え……」
 その言葉にいちばん驚いたのは、志保自身だった。
 考えてもみないことだった。確かに新一に抱かれたことはある。けれど、にわかには、その言葉が信じられなかった。
「おまえの腹ん中には、子供がおるんや! だから工藤はおまえを置いていったんや! それなのに、おまえ死ぬつもりか!?」
「うそ……」
「嘘だと思うなら、ちゃんと検査しろ。だから、死ぬな」
「だって、そんな…………」

(おまえを、ひとりになんてしないさ)

(おまえは、ひとりじゃない)

(だからおまえは、生きなきゃ駄目だ)

 新一の最後の言葉が、脳裏によみがえった。
 がくりと膝の力が抜けて、志保は、その場に座り込んだ。
 何かを探すように、視線が、自分の腹部をさまよう。まだ何も分からない。膨らんでもいないし、つわりだってない。
 それでも。
 それでもここに、いるというのだろうか。
 彼の命を継ぐ者が。
「ほんとうに…………?」
 自分を抱きしめるように、そっと、腹部に手を回した。
 不意に、目頭が熱くなった。視界がにじむ。
 堰が切れたように、志保は声をあげて泣きじゃくった。

(生きて、しあわせにならなくちゃ駄目だ)

 その言葉と、その笑顔だけが、何度も何度も志保の中によみがえってきた。
 なんども、なんども。



 そうして、それから志保は、男の子を産んだ。
 新一の血を受け継ぐ者──一保を。
 あるいはすべては、彼の計算どおりだったのではないかと思うことがある。
 彼は、志保の妊娠を知って、だから彼女を置いて行ったのではなく、彼女を置いて行くために、子供を遺したのではないかと。そのために、志保を抱いたのではないかと。

(おまえは、生きなきゃ駄目だ)

(生きて、しあわせにならなくちゃ駄目だ)

 彼はいなくなってしまったけれど、彼の残した子供は、志保の支えだった。新しい家族を得て、母親としてのしあわせも知った。死のうと思うことさえなくなった。むしろ今は、死が怖いとさえ思う。
 しあわせ、なのだと思う。今の自分は。
 彼の言葉どおりに。おそらくは、彼の、計算どおりに。
「……ずるいひとだったわ。あとを追わせてもくれなかった」
 彼が本当に愛していたのは自分ではなかった。彼が本当に愛したのは、ただひとり、西の名探偵だけだった。それなのに、新一は志保に子供を遺した。
 それが志保の生きる支えになると知っていたから。
「…………好きだった?」
「大嫌いだったわ。あんなひと」
 素直ではない母親の言葉に、一保は少し笑う。
 いつもクールな母の、あまり見たことのない一面だった。父親は、母にこんな顔をさせられるひとだったのだろう。
 志保は、組織のことや、本当の死因についてはさすがに話せなかったが、できるかぎりのことを、一保に語って聞かせた。といっても、新一とのかかわりのそのほとんどが組織がらみのことなので、出会いや一緒にいた時間のこともそんなに話せず、語ったのは、志保から見た工藤新一のことになってしまった。
 ひととおり話終えたあと、志保は引き出しから、一枚の紙を取り出して、一保に差しだした。
「もし……彼についてもっと知りたいと思うなら、ここを、訪ねてみなさい」
 毛利探偵事務所、と書かれた小さな紙を渡される。探偵事務所の宣伝チラシのようなものらしい。
「もうずっと連絡なんて取ってないから、彼らが今何処にいるか分からないけど、ここは今も同じ場所にあるみたいだから。ここに行けば、彼らの居場所も教えてくれると思うわ」
「彼ら、って…………」
「工藤新一を、よく知る人達よ」
 志保は、もうずっと会っていない、仲間と言っても差し支えない彼らのことを思い浮かべた。西の名探偵と呼ばれた服部平次と、怪盗キッドでもあった黒羽快斗。
 工藤新一を知りたいと言うのなら、彼らの存在を抜かすことは出来ない。
 彼らにもずっと連絡を取らなかったのは、工藤新一関係者と接触することで彼に子供がいることが組織の残党などに知られた場合、組織を壊滅させた張本人の工藤新一への逆恨みで、一保の身に危険がおよぶことを恐れてのことだった。
 あれからもう、15年以上経った。組織の残党の気配ももう完全に消えているし、もう、いいだろうと思う。自分と同じように工藤新一を愛していた彼らにも、一保に会わせてあげたいとも思うのだ。
「行ってらっしゃい。そして……彼らに会ってきなさい」
 一保は、手の中のちいさな紙を見つめた。
 母に、はっきり認められたとはいえ、工藤新一が父親であるということも、まだ実感がわかなかったし、母から話を聞いても、まだ工藤新一という人物についてはっきりしたイメージを持つこともできなかった。
 ただ分かるのは、母は、とてもとても、工藤新一という人物を愛していたのだろう、ということだけだった。


 To be continued.

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