いまはもういないあなたへ
3 / Kaito Kuroba


 一保は、蘭から教えてもらったふたつの住所に連絡をいれた。
 連絡した、ふたりの相手とも、自分の名前と工藤新一の名前をだしたら、すぐに会いたいと言ってきた。急な連絡に、断られることも覚悟していたから、一保はなんだか拍子抜けしてしまった。
 ふたつの住所のうち、近くて行きやすいほうへ先に行くことにした。
『黒羽』と表札に書かれたそこは、普通のマンションの一室だった。自宅を兼ねたそこで、パソコンのプログラミングの仕事をしているのだという。
「よく来たな。『一保』」
 そう言って一保を招き入れた彼の姿を見たとき、一保は挨拶もできないほど驚いた。
 工藤新一が、実は生きていて、そこにいるのかと思った。それほど黒羽と名乗る彼は、工藤新一によく似ていた。
 一保が知るのはメディアに載っている写真の工藤新一で、彼が高校生のころの姿しか知らないが。彼がそのまま歳をとり、30代半ばになったら、きっとこんな感じだったのだろう。
「ほんとに新一にそっくりだな」
 彼は一保を見てそう言って笑ったが、彼のほうが工藤新一に似ている気がする。
 つまりは、快斗と一保も似ていると言うことだが。
「宮野は……おまえの母親は、元気か?」
「はい」
 毛利探偵事務所では、毛利小五郎も蘭も、志保の名前も一保の存在さえ知らずにいたようだった。一保は工藤新一の息子でありながら、彼とはかけはなれたところで、彼や彼の関係者となにひとつかかわらずに生きてきたのだから、それも仕方のないことだろう。おそらくは、彼を知るほとんどのひとが、彼に子供がいることすら知らないのだろう。
 けれど、この黒羽快斗という人物は、最初から、一保の存在を知っていたようだった。それほど、工藤新一や、志保とかかわりが深かったということなのだろうか。
「黒羽さんは、……父の、兄弟ですか?」
「いや、真っ赤な他人。他人のそら似」
 否定するように、空中で手をひらひらと振ってみせる。
 他人で、これだけ似ているというのも、めずらしいし、不思議だった。思わず一保はまじまじと、快斗の顔を見つめた。一保は新一の顔をメディアの写真でしか知らないが、他人というより双子だといわれたほうが納得するだろう。
 そんな一保の様子に、快斗は笑ってみせる。
「見た目だけなら確かに新一に似てるかもって思うかもしれないけど、実物知ってれば、俺なんかとは似ても似つかないって分かるよ。あんなに綺麗な生き物、他にいないから」
 不思議な、言葉の響きだった。かぎりない愛しさが込められたような優しい声音だったけれど、同時に、切なくなるような哀しさが込められていた。
 快斗は目の前に置かれたコーヒーカップに手を伸ばした。けれど、コーヒーカップを持ち上げようとした手が不自然に動いて、カップがソーサーにぶつかって、かしゃんと音を立てた。
 その不自然な動きに、一保は一瞬目をとられる。けれど、聞いてはいけないことかと思い急いで視線を手からはずそうとしたとき、先に快斗がそれに気づいた。
「ああ、これか?」
 軽く左腕を持ち上げて示してみせる。
「昔ちょっと怪我して神経やられちまってな。ちょっとだけ麻痺が残ってるんだ」
 それは昔、新一とともに組織に乗り込んだときに受けた傷だった。腕を撃たれ、すこしだが麻痺が残った。
 利き腕ではないほうにかすかな麻痺とはいえ、繊細なマジックをするには難しく、マジシャンになるという夢はそこで諦めた。今も趣味のひとつとしては続けているが。
 けれど、腕に傷を受けたことも、マジシャンになる夢を絶たれたことも、快斗にとってはつらくもなんともなかった。
 つらいのは、新一を助けられなかったこと。
 もしも新一を助けられるのなら、腕なんか両方もげたってかまわなかった。死んだってかまわなかったのだ。
 それなのに、結局彼を助けられずに、彼は死んでしまった。
 あれから15年以上経った今でも、彼のいない世界で、自分はこうして、今ものうのうと生きている。
(約束、だから)
 生きることは、新一との約束だった。だから今も快斗は生きている。
 おそらくは、彼の計算どおりに。



「もうすぐ、だな」
 快斗はパソコンに向かったまま、隣に立って画面をのぞき込んでいる新一に言った。
 何が、とは言わなかった。それは、新一も分かっているだろうから。
(もうすぐ、組織をつぶせる)
 新一の追っていた黒の組織と、快斗の追っていた組織は、実は同じだった。かかわっていたセクションが違うだけで、おおもとは同じだったのだ。
 それを知ったときに、ふたりは協力体制をとった。
 それからは、快斗と新一と、志保と、それから平次とで、協力して組織に対抗していった。
 協力者を得てからは、ひとりでキッドとして細々と宝石を集めながらのときとは比べものにならないほど、早くそして確実に組織に近づき追いつめてゆくことが出来た。
 けれど快斗にとって何より嬉しかったのは、仲間ができたことだった。
 素性や感情を隠すことなく表に出せる相手。自分のしていることや過去を知っても、否定せず受け入れてくれる相手。それが何より嬉しかった。
 そして……新一の傍にいられることが、嬉しかった。
『怪盗』と『探偵』で、決して共にあることなどできないと思っていたのに、相入れることなどできないと思っていたのに。もしかかわりを持つとしたら、捕まえる者と捕まる者としてだけだと思っていたのに。今は……こうして、仲間として傍にいる。それが嬉しかった。しあわせだった。
 快斗は、新一が好きだった。愛していた。まだ怪盗と探偵として対峙していたころから、ずっとずっと、惹かれていた。
 新一の気持ちが本当の意味で快斗に向かうことがなくても、それでよかった。
「このプログラム、本当に大丈夫だろうな」
 数字とアルファベットの羅列が流れてゆく画面を凝視したまま、新一が尋ねてきた。けれど声は、それほど疑っても心配もしていないようだった。おそらくはただの確認だろう。
「信用してよ、こんなに頑張ってるんだから」
「……信頼してるよ」
 今快斗の作っているプログラムは、もうすぐ完成しようとしていた。完成したプログラムを組織のメインコンピューターに入れることができたなら、それは組織を潰す決定打になるものだった。
 プログラムは、メインコンピューターから、そこに入っている首謀者たちの情報とこれまでの悪事を引き出し、自動的に世間に公表することになっていた。警察などに証拠を渡しても、それを潰されてしまう可能性もあるし、どこまで介入できるか疑問だった。だから、一挙に世間の目にさらしてやるのだ。そうすれば警察や公的な機関も動かざるを得なくなるし、なにより組織が活動を続けることは不可能になるだろう。もちろんそれ以外の根回しも準備もしていたが、メインはそのプログラムだった。
 けれどそのためには、組織に乗り込んで、そこのメインコンピューターにアクセスする必要があった。メインコンピューターのセキュリティは強く、快斗と新一の頭脳でも、外部から操作する事ができなかったのだ。ただ、メインコンピューターに直接アクセスしてなら、情報を操作できるプログラムが、完成しつつあった。
 そのために、直接組織の中枢に乗り込む計画がたてられていた。
 それがどれほどの危険をともなうものか分かっている。おそらく、無事では帰れないだろう。
 もちろん最初から死ぬつもりではいないけれど、万が一のことは快斗も覚悟していた。他の皆も同じだろう。
「快斗。……志保のことだけど」
 不意に新一が口を開いた。
「あいつは、連れて行かない」
 その言葉に、キーボードを叩いていた快斗の手が止まった。ディスプレイから顔をあげて、新一を見つめる。
「なんで?」
 快斗も、仲間として、志保のことはよく分かっているつもりだった。
 確かに連れて行くのは危険だが、それは彼女も分かっているだろう。
 むしろ、連れて行かないほうが、彼女にとっては残酷だ。彼女は新一を愛している。新一だけを必要としている。ひとり残されるくらいなら、彼女は死を選ぶだろう。
「確かに女の子を危険にさらすってのは、俺もやだけど。宮野の場合は……置いていくほうが残酷だよ」
 戻ってこられる保証があるわけではない。むしろ……戻ってこられない確率のほうが高い。
 それなのに置いていかれるなんて、彼女にとってはどんなにつらいだろう。
 それは自分も同じ気持ちだった。
 置いて行かれるなんて……ひとり残されるなんてごめんだった。だったら、ともに行って、ともに倒れたほうがいい。
 それでも新一はかたくなに首をふった。
「志保は、連れて行けない」
「だからなんで」
 じれるように尋ねる快斗に、ぽつりと、ちいさな声で新一は言った。
「……子供が、いるんだ。志保の、おなか……」
「なっ…………!!?」
 驚いて、声が詰まる。目をこれ以上ないくらい見開く。
 完全に予想外のことだった。
「それって、新一の、子供?」
「ああ。他に誰がいるっていうんだよ」
 悪びれもせず、新一は答える。
 平次と新一の間だけでなく、自分と新一に関係があるように、新一と志保にも関係があることは知っていたが、まさかそういうことになるとは思わなかった。
 数秒を要し、快斗はなんとか頭を整理して、もういちど新一に向き直った。それを確認して、新一はもういちど繰り返す。
「だから……志保は連れて行けない」
 確かにそれでは志保を連れていくことは出来ないだろう。
 自分達は自分の意志で覚悟を決めていくが、何のかかわりもない命まで巻き込むことは出来ない。それが、新一の子供と言うのなら、なおさら。
 志保を置いていくことに、納得せざるを得なかった。
 快斗はひとつ、おおきくためいきをつく。
「ひとつ、訊いてもいい?」
「なんだ?」
 新一の黒曜石のような瞳を、まっすぐにのぞき込んだ。それはいつも変わらず澄んでいて、見つめていると、吸い込まれそうで眩暈さえする。
「なんで子供、作ったの?」
 新一が無計画で子供を作ったとは思えなかった。とくに、組織にかかわっているこの時期に。逆にもっとも気を使うだろう。
 快斗には、何らかの意図があって、新一が志保を妊娠させたとしか思えなかった。
 新一は言葉を選ぶようにすこし首を傾げた。
「死ぬかもしれないから、何かを遺しておこうっていうわけじゃないんだ。ただ……ひどい言い方かもしれないけど。おまえや服部は、たとえば俺がいなくなっても、ひとりで生きていけるだろう? でも、志保は、ひとりでは生きていけないから」
 志保がひとりでは生きていけないというのは、その通りだろう。けれど、快斗は生きていけると決めつけるその言い方に、快斗はすこし腹立たしくなる。
「そんなことないよ。俺だって、新一がいなかったら、生きていけない」
 新一を抱き寄せて、抱きしめた。
 快斗は座ったままで、新一は立ったままだから、その腰に手を回して、ちょうど心臓の真上あたりに頬を押しつける。
 規則正しく動く鼓動が聞こえる。もしもこの音が聞こえなくなる日がきたら。そう考えるだけで、とてもとても怖い。
 昔は、新一達が仲間になるまでは、快斗はひとりだった。それでも生きていけた。それ以外を知らなかったからだ。けれど、もう知ってしまった、手にいれてしまった。
 今からそれを取り上げられて、また、同じように生きていけるとは思えなかった。
「俺は、おまえにも服部にも志保にも……生きてて欲しいんだ」
 快斗の耳に、新一の優しい声が降り注ぐ。声は優しいのに、裏腹に言葉は残酷だ。
「快斗。俺が死んでも……おまえには生きてて欲しいんだ」
 言葉が、見えない鎖のように、快斗の心に絡み付く。内に入り込んで、未来さえ、決定づける。
「ずるいよね、新一は」
 もしも新一が死んでしまって、この世界に取り残されたなら。
 服部なら、きっと何も言わなくても、ずっと新一を想いながら生きていくだろう。彼はとても強いひとだから。
 志保は、ひとりなら生きていけないだろう。新一のあとを追おうとするだろう。でも、子供がいたのでは、そうできない。子供まで殺すことはできず、子供の存在を支えに、生きていくだろう。
 そして、快斗は。
(俺が死んでも、生きてて欲しいんだ)
 快斗は、新一のその願いを叶えるために、ひとりで生きていくだろう。
 つらくても、哀しくても、その言葉のためだけに、生きていくだろう。
 なんて、用意周到なんだろう。
 自分を想う人間すべての気持ちを見透かして、操っているといっても過言ではない。
 彼が愛しているのは、自分ではない。そして志保でもない。そんなことは、最初から分かっていた。それでもただ、彼を愛しているだけだ。自分も、志保も。
 それでも、新一は、快斗も志保も大事だ、という。好きだ、という。愛している、という。それは恋愛感情ではなくて、もっと深い意味だったが。
 だから、生きて欲しいという。自分が死んでも生きろという。
 優しすぎるのも、残酷だ。
「俺の頼み、きいてくれるか?」
 胸に頭を押しつけている快斗の髪をそっと撫でながら、新一が尋いてきた。
「わかったよ、新一。もし新一が死んでも、俺は死なない。約束する」
 抱きしめる腕に力を込めて、顔を押しつけているせいですこしくぐもった声で、快斗は言った。
「でも、死ぬつもりも、死なせるつもりもないから。一緒に、皆無事に帰ってこよう」
「ああ……そうできるといいな……」
 新一は、ちいさくそう返したけれど。
 彼には、分かっていたとしか思えない。
 自分は死んでしまうと。
 名探偵の勘、とでもいうやつだったのだろうか。
 彼の用意は何一つ無駄になることなく、すべては彼の仕組んだ通りになった。
 組織は見事壊滅し……けれど新一は放たれた銃弾に、命を落とした。
 死のうとした志保は、けれど子供の存在に生きることを決意して、皆の前から姿を消した。快斗も平次も、その行方を探さなかった。不用意に動いて組織の残党に居場所をしられるようなことになって彼女や子供を危険にさらしたくなかった。
 父の復讐も遂げ、パンドラも壊し、キッドをする意味もなくなって、……そして、いちばん大切なひと失って。快斗も何度も死を考えた。何度も何度も。
 そのたびに、快斗の耳に、新一との約束がよみがえった。
(俺が死んでも、生きてて欲しいんだ)
 その言葉のためだけに、その約束のためだけに、快斗は生きていた。



 言葉を選びながら、新一のことを思い出しながら、快斗は一保に彼のことを語って聞かせた。
 話を聞きながら、一保はときおり考えるように口元に手を持っていく。そんな癖は、新一と一緒だった。一保は新一に会ったこともないはずなのに、見た目だけでなくそういうものも遺伝するのだろうか。
(新一の、命を受け継ぐ者……)
 新一は、志保を生きさせるために一保を作ったと言った。
 けれど……やっぱり、自分の命を残したくもあったのかもしれない。
 そして、その存在は、志保だけでなく、自分や、おそらくは平次にも救いになると……分かっていたのかもしれない。
 目の前に座る、新一の面影を強く残す、彼の子供──一保を見ているを、そう思う。
 新一自身はもう何処にもいなくなってしまったけれど、完全に彼が消えてしまったわけじゃない。彼の遺したものが、確かにこの世界にまだ存在する。それだけで、快斗はいくばくかの、生きる意味を見いだせる。
 彼がこの世界からいなくなって永い時が経つのに、それでも彼への想いは、いまだ色あせない。今も、こんなにもこんなにも、快斗は新一を愛している。
 それはきっと、志保も平次も、同じだろう。
 自分に語れるだけのことを語ったあと、快斗は一保に尋ねた。
「服部には、もう会った?」
「いえ、これからです」
「そっか」
 もう長いこと会っていない友人は、新一の子供に会ってどんな想いをはせるのだろうと、すこし考えた。
 工藤新一が、ただひとり、本当に愛した相手。
 そのことで、ほんのすこし憎んだことも、ねたんだこともあった。そんな想いもやがては昇華され、本当の友人として仲良くなったのだけれど。
 今度、また連絡をとって、彼のことを語りながら、酒を酌み交わしてみるのもいいかもしれない。
「一保。また、いつでもここに遊びにこいよ。いや……今度は俺が行くかな?」
 志保にも、もう会ってもいいころだろう。そう思ったからこそ、彼女も一保が工藤新一の関係者に会いに来ることを許したのだろうし。
「はい。多分母さんも、喜ぶと思います」
 そうであればいい。一保の言葉に、快斗は願いを込めて微笑み返した。
 一保は、そんな快斗の工藤新一によく似た面差しをじっと見つめた。
 快斗の語る新一のことを聞いて、やっと、メディアを通してのみだけでなく、現実に存在していた彼に、ほんのすこし触れることができたような気がした。彼が語るたび、そこにいた『工藤新一』の姿を、ほんのすこしだけ、現実感をともなって思い描くことができた。
 15年、という月日は、一体どんなもなのだろう。
 工藤新一がいなくなってから、少なくとも一保の年齢分だけの月日が過ぎている。けれど、新一のことを語る快斗の口調に、色あせたところなどひとつも見つからなかった。まるで、つい昨日のことを語るかのように、彼は語っていた。それは、快斗の記憶力がいいからという理由だけではないだろう。
 どれだけ時が経っても、色あせない想いがそこにある。
 それほどまで想われている『工藤新一』は、すごいと思った。
(会えるなら……会ってみたかった、かな……)
 そう考えて、一保は、はじめて『会いたい』という気持ちを持ったことに気付いた。今までは、ただ気になって知りたかっただけで、会いたいとかそんな気持ちは持っていなかったのだ。
 もちろんそれは、もう決して叶わないことなのだけれど。だから、そう思っても哀しいだけなのだけれど。
 それでも。 『工藤新一』に対して────自分の父親に対して、そう思えたことが、一保は嬉しかった。


 To be continued.

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