いまはもういないあなたへ
4 / Heiji Hattori


 一保が、服部平次と会う日までは、毛利蘭や黒羽快斗に会った日から、すこし間を置いてのことだった。
 それは、先方が忙しくて都合がつかなかったことと、住んでいる場所のせいだった。
 毛利探偵事務所は米花市というところにあった。黒羽快斗のマンションも、米花市ではないものの、そのすぐ隣の街にあった。
 米花市というのは、かつて、工藤新一が住んでいた街なのだという。
 一保は母とともに、その米花市から電車で一時間半くらいの、首都をすこし離れた街に住んでいた。
 服部平次が住んでいるのは、米花市からも一保が住んでいる街からも離れた、ちいさな街だった。かつて『西の名探偵』と呼ばれたように、平次の故郷は関西だが、そこからも遠く離れている。
 服部平次という名は、蘭に教えてもらう前から、すでに知っていた。一保が工藤新一のことを調べているときから、その名前を何度か目にしていたからだ。『東の名探偵』と呼ばれた工藤新一に対して、『西の名探偵』として、同じようにメディアに取り上げられていた。
 彼もまた、工藤新一がメディアに消えたのと同じころに、メディアから消えていた。彼の場合は、行方が分からなかったなどというわけではなくて、ただ単にメディアに名や顔を出すことを自ら控えるようになったらしい。
 一保は、平次に会うまでのすこしあいた期間に、いろいろなことを考えた。
 母から聞いたことや、快斗や蘭の話を、自分の中で何度も反芻した。メディアを通しての彼でなく、実際の工藤新一の姿を見つけようとした。
 前よりは、だいぶ工藤新一という人物を、現実にいたひととして考えられるようになってきた。それでも、まだ『自分の父親』だと実感できるほどではなかった。
 服部平次は、今、探偵として仕事をしているのだという。それでも、かつてのように『西の名探偵』とメディアなどに取り上げられることはない。ひっそりと、表舞台には立たずに活躍しているらしい。
 一保が訪ねたのは、服部探偵事務所、とちいさく書かれた表札がドアの脇に貼ってあるだけの、普通の事務所のように見える場所だった。一見したところでは、探偵事務所とは思えない。
 前に尋ねた毛利探偵事務所などは、規模はちいさいながらも自己主張するように、窓に大きく名前を貼り付けていたが、ここはそんなこともなかった。
「よう来たな」
 人懐こい、太陽を思い浮かばせるような笑顔で、平次は一保を招き入れた。
「ほんま、工藤にそっくりやな。黒羽に電話で聞いとったけど驚いたわ」
 どうやら、一保が快斗のところを訪ねたあとに、連絡がいっていたらしい。一体どんなことを言われたのだろうと、一保はすこし首を傾げた。
「服部さんと父は、友人だったんですか?」
 同じころに活躍していた東の名探偵と西の名探偵が知り合いでも、なんらおかしくはなかった。
 ただ、一保が持つ工藤新一のイメージと、この服部平次という人のイメージはかけ離れていて、そんなふたりが仲の良い友人になれるものなのか、ちょっと疑問だったのだ。
 だから口にした質問だったが、返ってきた答は、一保の予想しないものだった。
「いや、恋人やった」
 軽く言われた台詞に、目を見張る。
 最初は冗談を言われているのかと思ったが、平次の真剣な眼差しに、そうではないとすぐに分かった。
「軽蔑するか?」
 お茶を飲むか?と尋くように、簡単に、平次は尋ねてきた。
 一保は、少し考えた後、首を横に振った。
 実際のところ、一保はそういうものに対して嫌悪も差別心もなかったが、それは、心が広いとか、理解しているからではなくて、そういうものは一保にとってまったく違う世界のことで、考えたこともなければ好き嫌いを感じるようなことでもなかったからだった。
 今目の前にいる人物が同性を好きだ、といわれても、実感も何もわかないのだ。たとえば『私、実は宇宙人なんです』と言われて、『ああそうですか』と返すようなものだ。
「あ、せやけど、灰原……宮野とは、別にフタマタとか、そんなんちゃうで」
 一保の態度をどうとったのか、平次はフォローをいれるように言った。
「なんちゅうか……工藤は、宮野に、何かを遺してやりたかったんやと思う」
 瞳が、どこか遠くを見つめる。おそらくは、彼がいた、そのころをおもいだしているのだろう。
「おかしな言い方かもしれへんけど……俺や、黒羽なんかは、工藤がいなくなっても、ひとりで生きていける奴やった。あいつが残した、形のないもんだけで、生きていけた。せやけど宮野は……ひとりでは生きていけんと、思うたんやろうな。実際、そうなんやろうけど。だから、あいつは、そういうこと全部考えて、いろんなもん、遺してったんや」
「服部さんは……何を、遺してもらったんですか?」
 工藤新一の、恋人だったと言う。その彼は、一体何を遺してもらったんだろう。
 どちらかというと、ただの興味で一保は尋ねた。
 志保に子供を、快斗に約束を残したのなら、恋人であった彼には一体どんなすごいものを、遺したのだろうと。
 けれど、その答はひどく意外なものだった。
「俺には、なにひとつ、遺さんかったよ」
 おだやかに笑いながら、平次はそう言った。
「遺ったとすれば……想い出とか記憶とか……そういうもんやな」
 分からなくて、一保は眉をひそめた。
 本当に恋人だと言うのなら、彼にこそ、何かを、いちばん大切な何かを遺すべきであり、遺したいと想うものではないのだろうか。
 その考えははっきり顔に出ていたようで、平次はすこし笑って、ちいさく言った。
「あいつは、そういうやつやから」



「服部。ごめん、俺、おまえに何も遺せない」
 新一が、平次にそう言ったのは、今まさに、組織に乗り込んで行こうというそのときだった。
 彼が、死を覚悟している……というよりも、死を予感していることは、平次も知っていた。そのために、新一が志保に子供を遺したことも、快斗に約束を遺したことも。
 保険をかけるのは、悪いことではない。組織に乗り込んで生きて帰れる保証は、新一だけでなく、平次も快斗も同じようにないのだから。そう思って、新一が、志保や快斗に死を暗示させるような言葉を遺したことにも、何も言わなかった。自分だって、死ぬことも想定して、部屋の整理くらいはしてきたのだから。新一の行動も、それと同じようなことだと思っていた。
 けれど、違ったのだ。新一のそれは、そんな曖昧なものではなかった。
 それは、その言葉を聞いたとき、本能的にわかった。
 新一のそれは、保険などではない。本当の、遺言だった。
「工藤…………」
 知らず、声が震えた。
「ごめんな、服部」
「……なんでや……」
 それが、何に対す疑問なのか、平次自身にも分からなかった。新一が自分が死ぬと確信していることか、それとも、平次には何も遺せないと言ったことなのか。
 新一は、それを後者と受け取ったらしい。
「俺は…………たとえば俺が死んでも、志保や快斗や服部には生きていてほしい。生きて、しあわせになってほしい。その気持ちは、本当なんだ。でも、服部だけは……おまえだけは、心のどこかで、一緒に死んでくれたらって思ってた」
 心のどこかで、一緒に死んで欲しいと、離れたくないと想っていた。
 生きていてくれとそう告げることが、そのための何かを遺すことが、できなかった。
「ごめんな。だから俺、おまえに何も遺せなかった」
 平次はくちびるを噛みしめた。
 何故謝るのだろう。何故謝ったりなどするのだろう。
 一緒に死んでくれと、新一がひとこと言えば、平次はためらいなく自分の喉を掻き切るのに、自分のこめかみに銃口を押しつけるのに。
 言えばいいのに。言っていいのに。
 どうして、それを言わずに、代わりに謝ったりするのだろう。
 平次はそれを言葉にできずに、けれど視線にすべての想いを込めて新一を見つめた。新一にも、それで平次の心は伝わっただろう。
 新一は、すこし困ったように笑うと、その視線から逃げるようにうつむいて、ちいさく言った。
「もしも俺が死んだら、俺のこと、忘れていいから」
 平次は驚いて、目を見開いた。
 新一が顔をあげて、まっすぐに平次を見つめる。きれいな、黒曜石の瞳。
「俺のことなんか忘れて、他の誰かを好きになって、そいつとしあわせになったって、全然かまわない。俺のこと、最悪な奴だったって憎んでもいい。嫌ってもいい。でも」
 新一は笑った。きれいに。

「でも、俺と出会ったことだけは、後悔しないでほしい」

「────────」
「俺と出会わなければよかったって、思うくらいなら、俺のこと、忘れてくれ。おまえの記憶からぜんぶ、ひとかけらも残さず、俺のこと、消してくれ」
 それだけが望みだと、新一は笑う。
 胸が、痛かった。どうして、そんなことを言うのか。どうして。
「なんで、そんなこと言うんや……。宮野に子供遺して、黒羽に約束遺すのに、なんで、俺にだけ、忘れてもいいなんて言うんや……」
 片手で、新一を抱き寄せた。その頭を、自分の肩口に押しつける。
 言えばいいのだ。何も遺せないのなら、遺せなかったのなら、その望みのまま、一緒に死んでくれと。
 それなのに、新一はそれすら望まない。
 なにひとつ、遺さない。
 ただ、せつないちいさな望みだけ、告げて。
 どうして。
 平次は何を言えばいいのか分からなくて、すこし迷ったあと、新一の耳元に、ひとつ告げた。

「……おまえと出逢ったことは、俺の人生の中で、いちばんの幸運や」

 肩口に顔を埋めたままの新一がそのときどんな顔をしたか、平次には見えなかった。それでも、その細い腕がそっと平次の背中に回って、すこし強く、抱きしめられた。

 そして、平次のもとには、なにひとつ遺らなかった。

 新一は撃たれて死に、志保はおなかの子供とともに何処かへ去り、快斗との連絡もなんとはなしに途切れた。
 ……いや。志保にも快斗にも連絡をとらずにいたのは、ただ、新一に何かを遺された彼らがうらやましくて、そんな彼らを見るのがつらかったからだ。

『俺のこと忘れていいから』

 忘れられるはずがなかった。たとえば記憶喪失になって、彼の顔も名前もすべて忘れたとしても、この想いだけは消えることもなく残るだろう。
 いっそ、彼が言った通り、嫌いになったり憎んだり、できればよかったのかもしれない。そうすれば、彼のいないこの世界でも、もっと簡単に、しあわせに生きていけただろう。

『でも、俺と出会ったことだけは、後悔しないでほしい』

(──────────後悔なんて)
 なにをどう、後悔すればいいのかすら、分からない。

(おまえと出逢ったことは、俺の人生の中で、いちばんの幸運や)

 彼はもういないけれど。
 この世界の何処にもいないけれど。

(愛しとるよ)

 ただ、それだけ。



「服部さんは……」
 平次が新一との思い出話を語っている途中、不意に一保が言った。
「服部さんは……今でも父のこと……工藤新一のこと、好きなんですか?」
 おかしな尋きかただとは思ったが、一保は尋ねてみずにいられなかった。
 それは、単なる好奇心だった。下世話な興味本位といってもいい。
 平次は一保の目から見ても魅力的な人間に見えた。見た目が整っているということだけでなく、明るい雰囲気や快活なしゃべり方が、彼の人柄そのものを現わして、ひとを惹きつける。彼を慕う人間──特に女性は多いだろうと、容易に想像できた。
 その彼が、『工藤新一の恋人だった』とはっきり言ったことと、まだ独身でいることからの、ただの下世話な質問だった。
 けれどその問いに、平次は真剣な様子で、はっきりと一保に答えた。
「愛しとる」
 一瞬、一保は言葉を失う。その、平次の真剣さに。

「俺は、今でも、工藤を、愛しとる」

(このひとは)
 一保は思う。やっと、さっき彼が工藤新一と恋人だったと言った言葉が、実感を持って飲み込めた。
(なんて顔で、工藤新一のことを、語るんだろう)
 母親である志保も、前に会った蘭も快斗も、その口調や表情から、工藤新一を好きだったのだろうと容易に感じられた。そして今も、工藤新一を大切に想っているのだろうと。
 けれど、今目の前にいるこのひとの感情は、それよりもっと強いものだった。
 ある意味、志保も蘭も快斗も、『工藤新一』を思い出に変えている。それぞれの形で想いを昇華して、その気持ちを持ち続けている。

 けれど、このひとは。このひとの想いは。

 なにひとつ、変わっていない。
 おそらくは、工藤新一が生きていたときと、なにひとつ。

 不思議なほどすとんと、服部平次と工藤新一が恋人同士だったという事実は、実感を持って一保の胸に納まった。まるで、晴れた空の色が蒼かったのだと、今気付いたように。
「工藤新一って……」
 ふと、一保の口から言葉が漏れた。
「僕にとって、現実感のない存在だったんです。なんていうか……彼が本当にこの世界に生きていたのか、信じられなかったっていうか……」
 彼を知る手段は、メディアばかりだった。メディアの彼は非の打ち所のない完璧な人間で、現実感のないおとぎばなしの登場人物のようだった。
 彼は本当は実在していなくて、誰かが作った架空の人物だったと言われたら、それを信じてしまいそうだった。
「でも……いたんですね。ちゃんと、『工藤新一』は」
 一保の言葉に、平次は笑った。生まれてはじめて外の景色を見てそれに目を奪われる雛鳥を、見守るかのように。
「ああ。おったよ。工藤は」
 なにひとつ、この手の中に遺るものがなかったとしても。
 他のすべての人の記憶から、彼が思い出に変わってやがて消え去ったとしても。
 それでも、ここには、今も。

「俺は、工藤を、ずっと愛しとる……」

 やっと一保は、自分が何故こんなにも『工藤新一』を追いかけていたのか、分かったような気がした。
 彼がどんなひとだったか知りたかったというよりも、彼は本当に生きていたのだと、実感したかったのだ。彼は確かにこの世界に生きていたひとなのだと。
 メディアを通した彼はいつも現実感がなくて、そんな彼から繋がるという自分の存在すら、曖昧な気がしたのだ。
 だから、探したかった。彼が、実際にこの世界に生きていたのだという証が。だから、彼がどんなひとだったか、どんなふうに生きていたか、知りたかったのだ。
 そして、ここに、彼が生きていたときとなにひとつ変わらないものが存在していた。
 形はないけれど。見ることも触れることもできないけれど。
 それでもたしかに、存在する、想い。

 確かに彼は、ここにいたのだ。
 そして今も。

「すごいひとだったんですね、工藤新一って。それほど服部さんを惚れさせるんだから」
「当たり前や。俺が、これほど惚れる奴なんやからな」
 お互い言って、顔を見合わせ、思わずお互い吹き出した。



 彼はもう何処にもいないけれど。
 それでも確かに、ここにいたのだ。


 To be continued.

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