遺書。 -1-


 ゆるやかな陽射しの差し込む工藤邸のキッチンで。
「あれ、紅茶の缶、何処に置いたっけ?」
 戸棚を開けて、新一はその中をのぞき込みながら首を傾げた。いつも紅茶の缶が置いてある場所に、なかったのだ。
「何ボケかましとんねん。自分でそっちのテーブルの上にさっき出したやろ」
 リビングからその様子を見ていた平次は呆れたように、テーブルを指差す。そこには、小さな紅茶の缶が置かれている。
「あ? あ、そっか」
 新一はテーブルまで戻って、お茶を入れる準備を続ける。すぐに、紅茶のよい香りが漂ってくる。
 ティーセットを持った新一がリビングに戻ってきて、当然のように平次の隣に座る。
「お前、ストレートでいいんだよな?」
「ああ。おおきに」
 平次の前にカップを置き、新一は自分のカップにミルクをつぎたして、ミルクティを作る。
 紅茶を飲みながら、平次はテレビを見て、新一はその隣で読みかけの小説を読む。
 ほんの少し触れ合う肩から伝わるぬくもりが、お互いの存在をの認識させて、なんとなく安心する。
 おだやかな、時間。
 少し前までは、こんなふうな時間など、得ることができなかった。
 新一は『コナン』となっていて、黒の組織からも追われていて。自分の正体がばれないように、周りのひとたちを巻き込まないようにと、気の休まるときなんてなかった。
 でも、哀の作った薬でこうして元の体に戻って、組織も壊滅して。ようやく、元のような、穏やかな生活が戻ってきた。
 元のような生活の中で、昔と違うのは、新一が高校をやめたことと、傍らに服部平次がいることだ。
 コナンになっているときの休学が長引いて留年は決定的だったので、見切りを付けて、高校を自主退学していた。大学には行くつもりだったが、大験を受ければいいと思っている。
 そして、何故か服部も、同じく「大験を受けるから」という理由で大阪の高校を自主退学して、工藤邸に転がり込んできた。
 その大胆不敵な行動に、周囲の者は呆れ果てたが、平次はそんなことを気にしなかった。
『だって、工藤をひとりにはしとけないやん』
 当たり前のように、そんなことを言って。まるで昔からそうだったみたいに、するりと、新一の生活の中に入ってきた。
 それから、こうして、ふたりでの、穏やかな生活が続いていた。
 平次の見ていたテレビがコマーシャルに入って、そこに映されたサッカーシューズに平次は見覚えがあった。あんまり物に執着しない新一が、珍しく、スポーツショップで熱心に見入っていたモデルのものだった。
「な、工藤。これ、お前が欲しがっとったシューズやないか?」
 平次は新一に声をかける。
 けれど、隣からはなんの反応もない。
 いつも、小説を読んでいるときでも、声をかければ何らかの反応が返ってきた。それは、『うるさい』という冷たい声であったり、生返事であったりもするのだけれど、なんの反応もないということはなかった。
「工藤?」
 不審に思って、平次はテレビから、隣の新一へ視線を移す。
 寝ているのかとも思ったが、新一は起きていた。起きて、小説に目を落としていた。
 けれどその横顔は、小説に見入っているというよりは、何処かもっと遠くを見ているような、焦点の合っていないような印象があった。
(工藤?)
 何故だか、急に、平次の中に不安が込み上げる。訳もなく。
「おい、工藤」
 平次は新一の肩に手を置いて、その体を揺さぶった。
「? なんだ?」
 ふと夢から覚めたように、新一が平次の方を向く。
 その顔はいつもと変わらない。読書を邪魔されて少し不機嫌になったような顔で見つめてくる。
「……なんでもないんやけど」
 損ねてしまった新一の機嫌を取るように、そっと肩から手を離す。
 なんとなくムキになって呼んでしまったが、もともとそう大した用事があるわけでもないのだ。ただ、コマーシャルに、以前欲しがっていたサッカーシューズが映った、というだけだ。第一そのコマーシャルはとっくに流れ終わっている。
「変な奴」
 訳の分からない平次の行動に、そう冷たい評価をして、新一は小さく伸びをした。
「ああ。喉かわいたな。お茶でも入れようか?」
「へ?」
 平次はまぬけな声を出してしまう。
「お前の目の前に、茶ならもうあるやろ」
 目の前のテーブルを指差す。そこには、多少冷めてしまっているが、紅茶の注がれたカップが並んでいる。
「え? ……ほんとだ」
 新一は、今気付いたというように、それを見やる。彼にしてはおかしなミスだ。
「お前、何か悩みごとでもあるん? それとも、どっか具合悪いんか?」
 平次は熱を計るように、新一の額に触れる。
「なんだよ。病人扱いすんなよ。俺はもう子供じゃないんだからな」
 その子供に対するような仕草に、新一はすねたように、額に置かれた手を払う。
「せやな」
 新一の集中力というものはすごい。特に推理をしている最中などは、事件に関しては何でも見透かすくせに、その他のことが何も見えなくなるのだ。そんなとき、彼は、食事どころか睡眠まで忘れることもあって、周りの者を呆れさせたり心配させたりしていた。
 もちろんそれは推理だけのことではなくて、たとえば本を読んでいるときや、何か考え事をしているときにも同様となる。
 だから、今のことも、小説に熱中するあまり、自分でついさっきいれたお茶のことも忘れてしまったのだろうと平次は判断した。
 そのときはまだ、そのことを、深く考えなどしなかった。


 コナンの姿から、新一に戻って。やっと、戻れて。
 傍らには大切なひとがいて。
 しあわせで。
 だから忍び寄る影の足音にまだ気付けなかった。
 あるいは。
 気付きたくなかったのかもしれない。
 しあわせ、だったから。


 To be continued.

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