遺書。 -2-


 新一と平次は、ある事件現場を訪れていた。目暮警部から協力要請が入り、現場に赴いたのだ。
 今は東西の名探偵が共にいて、平次のいなくなった関西の方では大変らしいが、逆に、関東の方では、どんな難事件もふたりの探偵が協力してあっというまに解決していた。本庁でも、このふたりを何かと頼りにしていた。
 ふたりは事件現場を歩きながら、お互いの推理を話し合っていた。
「状況からすると、犯行可能なのはあの3人だけやと思うんやけど、アリバイがな……」
「ああ。証言が本当だとすると、アリバイが成立しちまう。でも、おかしなところもあるんだよな」
「ああ。それは俺も気付いたで。あのひとの行動やろ? あとでもう一遍、検証してみるか」
「そうだな……」
「おそらく、なんらかのトリックがあるとは思うんやけど。共犯者の線も考えなあかんからな。共犯者に関しては、お前はどう思う?」
「…………」
「工藤?」
 返事がないのを不審に思って、平次は足を止める。何か事件に関するものでも見つけたのかと思ったのだ。
 けれど新一は、隣を歩いていた平次が立ち止ったことにも気付かないように、ふらふらと先へ進んで行く。その危なっかしい足取りは、まるで夢遊病者が歩いているようだ。
「…………」
 危うい足取りのまま、新一は進んでゆく。
 新一の進む先に一段下がる段差があった。けれど、それにさえ気付かないように、新一はふらふらと、けれど一直線に進んでゆく。そのまま、段差に踏み出した!
「!」
「工藤っ!」
 踏み出した先にあると思っていた地面がなく、新一の体がバランスを崩した。
 転ぶか、と思ったが、一瞬早く、平次が腕をつかんでそれを回避した。
「なにやっとんねん、お前……」
「……悪い」
 小さく謝って、新一はまっすぐに立ち直す。自分でも驚いたのだろう、わずかに呼吸が上がっていた。
「なんや、ボーッっとしおって。なんか気付いたことでもあるんか?」
「いや……マジでボーッっとしてた。悪い」
 平次は新一の言葉を疑問に思う。
 事件を目の前にして、あの新一が、ぼーっとすることなどあるのだろうか。事件に集中してそれ以外考えられなくなることはあっても、事件のことさえ考えずにぼーっとすることなど……あるのだろうか?
 それとも、事件のことさえ考えられなくなるほどの、何か重大な悩みごとでもあるのだろうか。
 最近の新一は、そんなことが多かった。呼んでも気付かなかったり、焦点の定まらない瞳で何処か遠くを見つめていたり。
「ホンマに最近のお前、ちょっとおかしいで? なんかあるんやったら、ちゃんと俺に言えや」
「しつこいぞ、何でもないって言ってるだろ。それより今は事件だろ?」
 そう言われてしまうと、それ以上何も言えなくなる。
 それに、そう言う彼はいつもの工藤新一で、いつもと何も変わらないように思う。
 けれど、それからも新一は、らしくないミスを連発した。
 目の前に転がっている証拠に気付かなかったり、犯人がふと漏らした証言を聞き逃したり。いつもの彼なら、そんなもの、すぐに見抜くはずなのに。
 平次のフォローで犯人は捕まり事件は解決したが、今日の新一は明らかに何処かおかしかった。
「なあ工藤……お前ホンマにどっか悪いんと……」
「新一君! 服部君!」
 言葉を遮られるように、名前を呼ばれた。
 振り向くと、高木刑事がこちらへと小走りに駆けてくるところだった。
「二人とも、帰るなら僕の車で送っていくけど、どうするかい?」
「あ、おおきに。ほんなら乗せてってもらえますか? それでええよな?」
 ここまでもパトカーで送ってもらったふたりは帰る足がないから、それで新一も異論があるはずはないだろうけれど、一応確認のために新一を振り返った。
「…………?」
 新一は、まるで知らない人を見るように、高木を見つめていた。
 この人は誰だろう、と思い出そうとするように、ちいさく首を傾げている。
「? 新一君?」
「なんや、高木さんがどうかしたんか?」
「たかぎ……? あ、ああそっか。うん」
 やっと納得したように、新一はうなずく。
「?」
 平次と高木は訳が分からずに、顔を見合わせる。
 明らかに、新一は何処かおかしかった。もう、ちょっとボーっとしていた、などという言い訳では説明が付かない。悩みごとがある、という理由さえ、無理がある。
(お前、どうかしたんか?)
 平次はその疑問を口に出すことが何故だかはばかられて、心の中で問いかけた。もう、それを、口に出す勇気がなかった。
 訳もない不安だけが、靄のように心にわだかまっていた。
 そして、不自然さに気付き不安を感じているのは、平次だけではなかった。



「俺、どうかしちまったのか?」
 ひとりきりの部屋で、何かに脅えるように、新一は、自分の両手を見つめる。
 自分が何処かおかしいことは、自分でも気付いていた。今まで、その事実から、目を背けていただけ。今までどおりを、装ってきただけ。
 けれど、それすら限界に来ていた。
 平次もそのことに気付いているだろう。気付かないはずがない。
「俺は……」
 足元が、崩れてゆくような不安。一瞬後に、足元にぽっかりと大きな暗い穴が開いて、そこに飲み込まれてしまうような錯覚を覚える。
「俺は、工藤新一、だ。工藤新一なんだ……!!」
 ぎゅっと、自分の体を抱きしめる。
 自分が『コナン』だったころにも感じた不安。『自分』という存在がなくなってしまうことに対する恐怖。あのころも、こうして不安に脅え、耐えていた。
 でも、あのときのほうが、ずっとずっとマシだった。
 今は……。今は……!!
「……俺は、『工藤新一』だ……!!」
 新一は叫んだつもりだったのに、かすれた小さな声しか出なかった。



 平次は志保を訪ねて、工藤邸の隣にある阿笠博士の家に一人で来ていた。
 新一と共に元の体に戻った宮野志保は、現在も阿笠博士の家に居候している。今はもう身寄りのいない彼女は他に行く場所がなかった、というのも事実だろうが、彼女は新一の傍にいたかったのではないかと、平次は考えている。
 それはともかく。新一の体を小さくした薬APTX4869の開発者でもあり、同時にその解毒剤の開発者でもある志保は、新一の医療面の管理をしている。
 彼女なら、何か知っているのではないかと思った。新一の、最近のおかしな行動の理由を。
 呼び鈴を鳴らすと、志保が玄関に出てきた。彼女は思わぬ来訪者に少し驚いたようだった。
「突然すまんな。灰原……じゃのうて、宮野。ちょう聞きたいことあるんやけど」
「そう。ちょうどよかったわ。私も、貴方に話があったから」
 その言葉に、今度は平次のほうが驚く。志保の話なんて、新一のことに決まっている。彼女は、やはり何か知っているのだろうか。
 平次は居間へと通された。阿笠博士はあいにくなのか幸いなのか、出かけていて不在だった。
 二人はソファに向かい合わせに座る。
 いそいそとお茶が出されるような雰囲気ではなかった。もっと張り詰めた、重々しいものが、二人の間を漂っていた。
「聞きたいことって、工藤君のこと、でしょう」
 前置きもなく、志保が言った。
 平次が志保に聞くことなど、新一のことに決まっているが、彼女の言葉の中に、それ以外の意味の響きも感じ取って、平次はふと身を引き締めた。
「ああ。あいつ最近おかしいんや。物忘れがひどうて、時々訳もなくボーッとして呼んでも気付かへんかったり……」
 その言葉に驚いたように軽く目を見開いた志保は、それから、ゆっくりと、大きな溜息のように息を吐いた。
「……そう、彼はもうそこまで症状が出ているのね」
「なんやと?」
 志保の言葉を聞き咎めて、平次は胃の底が冷えるような感じがした。
 彼女は『症状』と言った。それはつまり、新一がおかしな行動を取るのは悩みごとなどのためではないということだ。
「APTX4869が不完全だったように、私の作った薬も不完全だったみたい」
「な……に?」
「つまり、私達が飲んだ解毒剤は、失敗だったということよ」
 胃袋を、氷の刃で少しずつ少しずつ切られてゆくような錯覚を覚える。少しずつ少しずつ、刃が胃に沈んでゆくのだ。
 その続きを聞きたくなかった。できることなら、椅子を蹴って立ち上がって、耳をふさいで逃げ出してしまいたかった。そうできればよかった! そうできればよかった!
「……どう……失敗だったいうんや……工藤、は、どうなるんや……」
 意志とは裏腹に、途切れながら、それでもはっきりした自分の声が聞こえた。
 志保はうつ向いて、目を伏せた。睫が色素の薄い瞳に影を落とす。
「多分、命には関わらないわ。でも……彼にとっては、死ぬよりもつらいかもしれない……」
 聞きたくなかった。耳をふさいで逃げ出してしまいたかった。それで真実が遠のいてくれるなら。
 それでもこの耳は、どうして彼女の言葉を受けとめるのだろう。
 うつ向いていた志保が顔をあげて、暗い瞳で平次を見た。そして、言った。
「このままいくと……彼は、『工藤新一』では、なくなるわ……」


 To be continued.

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