遺書。 -3-


「どういう、ことや……」
 平次は、暗い声で志保に聞き返した。
 工藤新一が、『工藤新一』でなくなるとは、どういうことなのだろう。彼は彼だ。一体何が、彼に起こっているというのか。
「コナンに戻るっちゅうことか?」
 それだったら、まだどんなにいいだろうと思って口にした言葉は、けれど、志保にゆるく首を振られて否定される。
「私の体を、色々調べたの。普通の人はAPTX4869で死んだのに、私達だけ何故幼児化したのか、その原因が分からないかと思って。そうしたら、おかしな結果が、見つかったのよ」
 何でもないことのように志保は言うが、おそらく彼女は、自分自身をまるでモルモットのように、スミからスミまで調べたのだろう。多少無茶な検査も、強行したのだろう。彼女にはそんなところがあった。自分を大切にしない、というよりも、自分を大切にする仕方が分からない、というような。
 そんな彼女を周りの者は常々心配していたが、今回はそれが異常の早期発見になったというのなら、今回ばかりは喜ぶべきなのかもしれない。服部は身勝手にもそう思った。
「私に異常が起こっているなら、もしかしたら工藤君も同じなんじゃないかって思って、彼にも検査を受けてもらおうと思っていたところだったんだけど……」
 平次の話を聞くかぎり、検査を受けるまでもなく、新一にも同じ異常が起こっているようだった。しかもそれは、志保よりも、もっと進んでいるようだ。
「……どんな」
 声が、無残なほどに震えていた。
「どんな、異常やったんや……」
 何故、今、自分がこうして言葉を発せられるのか、平次は自分でも不思議だった。
 志保はゆっくりと、言葉を吐き出した。
「……脳細胞の成長が、異常に早いの」
 そして、平次にも分かるように、言葉を選んで話しだす。
「私達の体が小さくなったとき、体細胞は退化したのに、脳細胞はほぼ元のままだったでしょう。逆に元の体に戻るときに、体細胞と一緒に脳細胞も急速に成長してしまったのよ。そして、その反動でか、脳細胞の急速な成長が止まらないみたいなの」
 平次は何も言わずに、ただ耳から入ってくる志保の言葉を頭の中で反芻する。事件のとき推理するように、それから正しい答えを導くために、頭の中でこねまわす。
 本当はそんなことしたくなかった。何も理解できないでいたかった。理解なんてしたくなかった。けれど、逃げても何もならないと分かって、頭は勝手に動いていた。
「……成長と老化は、つまり同じことよ。細胞が分裂してコピーされる段階で、元の細胞を上回れば成長と呼ばれ、下回れば老化と呼ばれる。今私達は、脳だけ、急速に成長……つまりは老化している状態なの」
 そこまで話して、いったん言葉を切る。その先は、死刑宣告と同じだった。もっと残酷だった。本当なら彼女だって口にしたくはなかった。けれど、逃げることは、できなかったし許されなかった。
 そして、志保は、最後の残酷な宣告を口にした。
「このままいくと……老人痴呆症と同じような症状が出るわ。もちろん、全く同じではないけれど」

「────!!」

 息が、止まった。
 平次は実際に銃で撃たれたことがあるが、そのとき以上の衝撃と痛みを伴って、言葉は彼を撃ち抜いた。
 志保は冷静に、少なくとも冷静であろうと努力しながら、言葉を続けた。
「まずは記憶力の低下が起こるわ。……この症状はもうかなり出ているのよね。それから、判断力理解力の低下、蓄積された記憶の消滅……」
「もういい! それ以上……言わんといてくれ……」
 耐え切れずに、平次は志保の言葉を遮った。
 専門的なことは平次には分からないが、詳しく説明されなくても、新一がどうなってしまうかは分かった。
 少し昔の、新一と出会ったときを思い出す。
 まだ新一がコナンであったとき。それでも彼が彼だと分かったのは、その理知的な強い瞳とまっすぐな心、そしてどんな謎も解く明晰な頭脳を、あのちいさな子供の中に見つけたからだった。
 それが『工藤新一』だった。
 どんなに姿が変わっても、それが失われないかぎり、平次は彼を見つける自信があった。
 けれど──。
 今、それが失われようとしているのだ。
 いや、それだけではない。記憶も、想い出も、平次の存在すら、新一の中から消えてなくなる    
 志保が言った、新一が『新一』でなくなる、という言葉の意味が、痛いほどよく分かった。彼女の言葉は的確だった。残酷なほどに。
「……とめられんのか? どうにかできんのか?」
 なんとか言葉を絞りだした。最後の望みを探して、あがいていた。
「今、治療法を探しているわ。でも……見つからないの」
 元の体に戻れただけでも、奇跡のような幸運だったのだ。APTX4869自体も未完成だったのに、さらにどういう不確定要素が働いたのか新一と志保だけ幼児化してしまったのだから。
 もちろん今出ている異常に対する治療法も探しているが、そんなものが見つかる確率は非常に低いだろう。第一、治療法が見つかったとしても、それが脳の老化に間に合うか解からない。脳細胞は一度死んでしまえばもう元には戻らないのだ。
 絶望感が、どろどろと黒くうねるように部屋を満たしていた。
「工藤にはそのこと……」
「言ってないわ。まだ」
 志保はうつむいて目を伏せて、くちびるを噛んだ。
「……言えないわ」
 言えるわけがなかった。なんて彼に言えばいいのだろう。
 APTX4869を作ったのも、その解毒剤を作ったのも志保だ。彼を幼児化してその人生を狂わせておきながら、今また、彼の人生を壊そうとしているのだ。
 しかも、彼から、『工藤新一』という存在を成り立たせる、いちばん大切なものを失わせようとしているのだ!
 それが、新一にとって、死ぬよりつらいであろうことは、簡単に想像がついた。
 彼に一体何と言えばいいのだろう。一体何と謝ればいいと言うのだろう!?
 志保にだって、同じ症状が出ている。彼女もこのままいけば遠からず、その運命を辿るだろう。けれど、自分がそうなるということよりも、彼をそうさせてしまったということのほうが、ずっとずっとつらかった。ずっとずっと苦しかった。
 彼がどんな顔でどんな言葉で自分を罵るか、責めるか。それが、怖かった。
 ──いや、彼は、きっと、志保を責めないだろう。彼は優しい人だから。いっそ誰かを憎んで恨んで責めてしまったほうが楽なのに、それでも彼は志保を許して、ひとりで苦しみを抱えるのだろう。
 それが分かっているから、なおいっそう苦しかった、つらかった。
「ごめんなさい──」
 志保の震える声に、肩に、けれど平次は慰めの言葉をかけてやることができなかった。
 あるいは、彼女は責められたかったのかもしれない。誰かに罵られたかったのかもしれない。おそらく、彼女を責めないであろう彼の代わりに。
 そう分かっていながら、それでも平次は、やっぱり志保に与えられるものは何もなかった。


 To be continued.

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