遺書。 -4-


 茫然自失のまま、平次は阿笠邸を後にした。すぐ隣の、工藤邸へ帰る。
 本当は帰りたくなかった。そこには新一がいる。今は新一の顔を見たくなかった。今、新一の前に立って、何も知らない彼に普通の顔でいつものように接する自信がなかった。
 それでも帰らないわけにはいかなかった。新一がどんな状態であるか知った今、彼を一人にしておけなかった。
「……ただいま」
 努めていつも通りの声を出そうとする。いつもと変わらぬ態度をとろうと必死になる。
 新一はリビングでテレビを見ていた。その横を、何気なく通ろうとする。
「遅かったな。何処に行ってたんだ?」
「いや、ちょっとな。そこのコンビニや。ちょお立ち読みしてもうて……」
 平次は嘘で言葉を濁そうとする。
 けれど、後ろから、はっきりとした新一の声が飛んだ。
「志保のところだろ?」
(!?)
 ハッとして、新一を振り向く。
 真剣な瞳が、平次を射抜くように見つめていた。
「工、藤……」
 新一はソファから立ち上がって、大股で平次のもとまで歩み寄る。
 そして、大声で平次に詰め寄った。
「お前、志保のところに行って来たんだろ! 俺が最近おかしいから、話聞きに行ったんだろ!? 何か話、聞いたんだろ!?」
 そうだ。彼だって、自分がおかしいことくらい、気付いていたはずだ。聡い彼が気付かないはずがない。
 平次は、新一を甘く見ていた。それを後悔した。
「俺に起こっているのことなら、あいつには分かっているはずだ。志保は、何て言ってた?」
 志保は現在新一の主治医だ。また、これが薬の副作用なら、同じ症状が彼女にも出ているはずだ。彼女なら何か知っていると平次が思ったように、新一もまた、同じことを確信していた。
 まっすぐに、黒曜石のような瞳が、平次に向けられた。
「俺に、何が、起こっているんだ?」
「…………っ」
 真実を、告げるべきか、隠し通すべきか。
 平次は迷う。
 どうすることが、彼にとっていちばんいいことか、まだ判断しきれていなかった。もう少し時間があったなら、きっと答えを出せていただろう。けれど、その事実をさっき志保から聞いたばかりで、混乱した頭で、どうすればいいのか判断がつかなかった。
「……言わない気か?」
「…………」
 平次は、何も答えられなかった。
 まっすぐに見つめる新一の視線が痛い。それから逃げるように、顔を伏せた。
「じゃあ、俺が言う」
 平次の態度に焦れて、新一が言った。
 その言葉に驚いて、弾かれたように、平次は新一を見た。
 そこにいる新一は、推理をして犯人を追い詰めるときのような顔をしていた。
 自分の答えを信じて、けれど、それによって傷つく人がいることを分かっているから、痛みをこらえているような、哀しげな顔。犯人を追い詰めるとき、彼はいつもそんな顔をしていた。
 ゆっくりと、新一は口を開く。いつもと変わらない凛とした声が響く。
「……脳細胞の異常代謝による、アルツハイマー症に似た症状。……違うか?」
「…………工藤」
 推理と、知識と、そして自分で調べて、彼はその答えに辿り着いたのだろう。彼の明晰な頭脳は、そんなことまで見抜いてしまったのだろう。
「……合ってるんだな」
 くちびるを歪めて、新一は笑う。そんな彼など、見たことがなかった。
 平次は、さっき問われたときに自分が答えなかったことを、死ぬほど後悔した。自分が答えなかったために、彼はそれを自分で口にせざるを得なくなったのだ。
「俺、は………」
「工藤……!」
 平次は新一を抱き寄せた。新一はそのままじっとしている。なだめるように、何度も何度も髪を撫でる。
「宮野が今、解決策探しとる……。そうなるとは限らん……」
「そんなの、慰めにしかならねえって、お前だって分かってるんだろ?」
 腕の中の新一が、諦めたようにちいさく笑うのが分かった。
 彼はもうすべて分かっているのだ。分かってしまったのだ。事件の謎を解くように、彼は自分の身に起きている謎を解いたのだ。それはどれほどつらいことだろう。
 平次は、骨がきしみそうなほど、新一を強く掻きいだく。
「俺は、お前がどんなことになっても、お前が好きや」
 それだけが、今の平次の真実だった。
 どんなことがあっても、この気持ちだけは消えない。それだけが。
「……違う」
 けれど新一は、両手を突っ張って、自分から平次を引きはがした。
「違う! それはもう俺じゃない! 俺の形をした別の人間だ! それはもう……『工藤新一』じゃない!」
 我がままを言う子供のように大きくかぶりを振りながら、新一は叫んだ。
「それは俺じゃない! 俺は俺でいたいんだ! 俺は、工藤新一でいたいんだ!!」
「────」
 平次は言葉を詰まらせる。
 同じ叫びを、平次は前にも聞いたことがあった。
 それは、新一が、まだコナンであったときに。
 哀の作った解毒剤の試薬ができて、コナンは、死ぬかもしれないと分かっていたのに、それでもためらうことなくそれを口にした。
 あとでその話を聞いたとき、平次は激怒した。もっと自分の体を大事にしろ、と。今回はうまく死なずにすんだが、もしかしたら、死んでいたかもしれないのだ。
 もちろん、試薬を試すにしても、それを試す対象はコナンか哀しかいなかったわけだから、彼が薬を飲んだのは仕方のないことだったのだけれど。
 それでも平次はコナンを怒った。もしも彼が死んでいたら、という恐怖に、そんな無茶をした彼を怒らずにいられなかった。
 そのときに、彼は言ったのだ。

『俺は工藤新一なんだ! 工藤新一に戻りたいんだ! 一生この体でいるくらいなら、死んだほうがマシだ!!』

 あのとき、平次は初めてコナンの──新一の気持ちを知った。
 それまで平次は、彼は小学校へ行ったり友達と遊んだり、それなりに子供の生活を楽しんでいるのかと思っていたのだ。
 元に戻りたいと思うのは当たり前でも、それほど切羽詰まっているようには見えなかった。いや、見ていなかったのだ。
 けれど、それは皆、彼の演技であったのだ。
 組織に見つからないための。事情を知る人達を心配させないための。彼の優しく哀しい演技。
 それを、平次は、気付いてやれていなかった。
 いくら頭脳が同じでも、ここにいるのは『江戸川コナン』で、『工藤新一』ではなかった。ただの小生意気な、ちいさな子供だった。たとえ体が元に戻らないままあと10年が経って、もとの17歳の年令に追い付いたとしても、それはやはり『工藤新一』ではない。本当の自分ではない。
 本当の自分は、『工藤新一』は、何処にも、イナクナッテシマウ……。
 自分を見失いそうになりながら、それでも強がって、一人で震えている彼に、平次はずっと気付かずにいたのだ。
 コナンが、無理にでも事件に首を突っ込んでそれを解決していたのは、自分を確認するためだった。
 表立って名乗ることが出来なくても、その頭脳で事件を推理し解決することで、コナンは『工藤新一』を確認していた。
 それこそが、彼を支えていたものだった。

(鏡を見るたびぞっとする。あなたは平気なの?)

 平気なわけがなかった。いつだって発狂しそうだった。
 それをせめて、推理することで、中身は変わっていないと『工藤新一』のままだと確認することで耐えていたのだ。
 けれど、今度は、それが、消える。
 それが消えて、それらすべてがなくなって、外側だけが残って。

 ──それはもう『工藤新一』じゃない。

「それはもう……俺じゃないよ。お前が見つけてくれた、愛してくれた俺じゃ、ないよ……」

 新一は笑った。
 本当は、泣きたかったのかもしれない。けれど、瞳は凍り付いたように、涙を流すことが出来なかった。
 代わりに、ぎこちなく、くちびるが笑いの形を作った。何でかは分からない。本当は泣き叫ぼうとして泣けずに終わったから、そんなふうに見える形になったのかもしれない。
「──すまん、工藤。すまん──」
 もう一度、平次は新一を抱きしめた。
 新一の代わりのように、平次は泣いていた。
 痛いくらい、息が出来ないくらい、強く強く抱きしめられて、その背にしがみつくように抱き返しながら、それでも新一は泣けずにいた。
 その綺麗な綺麗な瞳は、涙でにじまされることもなく、現実から目を逸らされることもなく、ただまっすぐに、もうすぐ来る終わりを、見つめて、いた──。


 To be continued.

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