遺書。 -5-
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新一は、志保の勧めもあって、一度精密検査などを受けた。
結果は誰もが分かっているとおりで、結局それを再確認しただけだった。
「ごめんなさい。謝ってすむことじゃないって分かっているけど、私……」
こうべを垂れる志保に、新一は笑いかけた。
「志保のせいじゃないさ。お前が、気にすることない」
それは、彼女が予想したとおりの答えで、だからこそ、なおさら胸が痛んだ。
新一は、入院することを拒否した。入院しても治療策はないのだ。確かに、身の回りの世話はしてもらえるだろう。けれど、それも新一は拒んで、結局自宅にいることになった。
平次は傍にいることしか出来なかった。
一見、前と何ら変わらない生活が繰り返されていた。
それでも、生活の所々に、病状の進行が現われていた。すぐ物をなくしたり、何処に置いたか忘れたり、……。
暗い影は、所々に姿を見せていた。
「海に行きたい」
ある日突然、新一はそんなことを言いだした。
「前に、お前と行ったじゃん。あそこ行きたい」
何処の海のことを言っているか、平次にはすぐに分かった。
事件で訪れたり、皆と海水浴に行った場所はたくさんある。けれど新一が言っているのはそのどれでもないと分かっていた。
それは、昔、ふたりで行った海。ふたりの想い出の場所。
「ええよ……連れてったる」
どんな些細な願いでもわがままでも、すべて叶えてやりたかった。
バイクの後ろに新一を乗せて、平次は海に向かった。
しばらく走って、目的の場所に着く。
季節はずれの、誰もいない海。前に来たときは晴れていて、輝く世界が広がっていたが、今日はどんよりと灰色をした雲の下に、鈍い色の海が横たわっていた。
ふたりで、海岸に降り立つ。砂を踏む、不思議な感覚がする。
「なつかしいな」
「せやな」
そこは、想い出の、場所だった。
まだ新一がコナンだったころ。平次はコナンを連れ出して、この海に来た。
そのとき彼はひどく落ち込んでいた。ちょうど哀しい事件にかかわったということもあるし、ずっと子供でいる自分に疲れたからでもあった。色々な要素が重なって、コナンは精神的にひどくまいっていた。それでも、周囲の人間に心配かけまいと強がる姿が、痛ましかった。
だから平次は、ほとんど無理矢理、さらうように、コナンをこの海に連れ出していた。
あの頃は秋の終わりで、やっぱりここに他に人はいなかった。
もう波は冷たかったけれど、ふたりで波打ち際で莫迦みたいにはしゃいで、それから砂浜に座って、色々なことを話した。事件のこと、学校のこと、普段の生活のこと、何でもないこと。ただそれだけなのに、コナンは驚くほど心が軽くなっていた。
そして、告げ合った。想いを。この場所で。
ここが、ふたりの、はじまりの場所。大切な、想い出の、場所……。
新一は砂浜をゆっくりと歩いていく。そのすぐ後ろを、平次はついてゆく。
前を歩く背中が、小さく見える。哀しいほどに。
「俺、お前のことも忘れちまうのかな……」
ちいさな声が、波の音の間に聞こえた。
「お前が誰だか分からなくなって、お前との想い出もぜんぶなくして……」
「…………」
いずれは、そうなってしまうのだろう。砂時計の砂がこぼれ落ちるように、新一の中から、すべては消えてしまうのだろう。あの日の想い出も、今日のことも、平次自身のことさえも。すべて。
「……忘れたくないな……」
哀しい響きが、平次の耳を痛ませる。
新一が震えているのが分かった。それが寒さによるものなどではないことなど分かっていながら、平次は新一を抱き寄せて、あたためるように抱きしめた。
新一はおとなしくされるがままになって、平次の胸に頭を押しつけるようにもたれた。
「ひとは死んだら、何処に行くんだろうな」
新一は、不意にそんなことを口にした。
人の生死には嫌と言うほど関わってきたのに、今更ながらにそんなことを思った。
天国だとか地獄だとか、そういうものが本当にあったとしてもなかったとしても、それに関して何の実感も感慨も浮かばなかった。
でも、もし、本当に魂とか呼ばれるものがあって、望んだ場所に行けるのだとしたら。
「俺は、この海に還りたいな……」
「海?」
新一が何を言いたいのか分からずに、平次は聞き返す。
「知ってるか? 生物は皆、海から生まれたんだぜ」
腕の中で、新一がちいさく笑う。
「だから、俺は、海に還りたい。この海に」
抱きしめられたまま首を巡らせて、海を見つめる。
「この場所に還って、ずっと、想い出を夢見るんだ」
新一らしくない、弱気な言葉だった。
まるで、自分の死を暗示するような……。
不意に平次は不安にかられて、抱きしめる腕に力を込めた。
それに気付いて、新一が笑う。
「……俺が自殺なんてするわけねーだろ」
そう、彼は自殺なんてしない。そんなことできない。
それは、今まで彼が他者の罪を暴いたことに対する罰のように、彼は死ぬよりもつらいことがあっても、自ら命を断つことはしないだろう。
死ぬより、つらいことが、あっても。
そんな彼を見ているのがつらかった。つらかった。胸が切り裂かれそうになる。
彼はこれから、壊れてゆく自分を、どんな想いで見つめるのだろう。
そしてやがては、自分が壊れていくことにさえ、気付けなくなってしまうのだろう。
平次は、新一を抱きしめる腕に力を込めた。
今はまだ、ここに『新一』はいる。けれど、それはいつまでだろう。いつまで、彼は『工藤新一』でいられるのだろう。
やがて、『工藤新一』はいなくなって、この美しい器だけが残って。
(そのとき、俺はどうするんやろ。どうなってまうんやろ……)
その答えは分かっているような気もしたけれど、はっきりと見つけだすことが出来なかった。
未来は、ただ、この重く立ち込めた曇り空のように、暗く淀んでいた。
To be continued.
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