遺書。 -6-
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すこしずつすこしずつ、新一は壊れていった。
『工藤新一』でありたいと願い続けた彼は、それでも、少しずつ少しずつ自分を失っていった。
それをとめることは誰にもできなくて。
平次は、日に日に壊れてゆく新一を、ずっと傍らで見守っていた。
「工藤……」
呼びかける平次の顔を、新一は首を傾げて見つめる。
それが誰なのか分からない、どうして呼ばれるのか分からない、というように。
あるいは、呼びかけられているのが自分だという認識さえないのかもしれない。ただ、目の前にあるシラナイモノに興味を覚えて、反応しているだけで。
いつもこんなふうというわけではない。正気でいるときも、もとの通りの『工藤新一』のときもある。今はまだ。
けれど、その時間も、だんだんと短くなってきている。やがては──その時間はなくなってしまうのだろう。
『それはもう俺じゃない。俺の形をした別の人間だ』
それなら、ここにいるのは、誰なのだろう。
工藤新一。確かにそう呼ばれたひと。
でも、『彼』は、いない。
たとえ子供になっても、姿が代わっても、きっと、その強い輝きを持った瞳があれば、新一を見つけだせると思っていた。
けれど、今ここにいる彼には、その瞳の輝きはない。
あるのは、空白と無邪気さ。彼を形成していたモノは、今、彼の中にナイ。
新一は床に座り込んで、本のページを破って遊んでいた。それは、彼が大事にしていた本だ。絶版になってしまったものを、やっと捜し当てたのだと、いつもいつも大事そうに、何度も何度も繰り返し読んでいた。その本を読んでいるときだけは、平次さえも邪魔できなくて、平次はその本に嫉妬さえしたものだ。
それを、彼は今、無邪気に破って遊んでいる。
今ここにいる彼にとって、それは、意味のないものだから。
「工藤、それ、お前が大事にしとった本やろ。やめや」
言っても、新一は本を破くのが楽しいのか、一向にやめない。いや、平次の言葉を理解していないだけかもしれない。
平次が本を取り上げると、新一は怒って、平次に飛び掛かる。めちゃくちゃに暴れて、平次の腕がゆるんだ隙に本を取り戻すと、また破って遊び始める。
彼にとって、それは本ではなくて、破って遊ぶおもちゃなのだ。
大事なはずのものを、大事と思わなくなる。
それがなんであるかも、分からなくなる。
今の新一は、平次が誰であるかも、分かっていない。
『……忘れたくないな……』
彼は、そう言ってくれたのに。
彼の意志には関係なく、彼はすべてをなくしていく。
感情も、思考力も、記憶も、想い出も。すべて、なくしていく……。
今はまだ、時折、『工藤新一』に戻ることもある。ふと、夢から覚めたように、もとの『工藤新一』になることがあった。
けれど、それすら、彼を苦しめる時間でしかない。自分が自分でなくなる恐怖に脅える時間にしかならない。
時折もとの自分を取り戻す彼は、そのとき、自分の姿を振り返って驚愕する。
自分の記憶から抜け落ちたその時間に、一体自分が何をしていたか。周りの惨状を見て理解する。
そして、実感するのだ。もう、自分が自分でなくなってきていることを。
涙も流さずに、声も出さずに、新一は独りで泣き叫ぶ。壊れていく自分に、その恐怖に、哀しみに。
それを、平次はどうすることも出来ないのだ。慰めることすら出来ないのだ。だって、何を言えるというのか。何と慰めればいいというのか。
『俺は俺でいたいんだ! 俺は、工藤新一でいたいんだ!』
そう叫んだ彼は、今ここにいない。
いるのは、見知らぬ誰か。
ここにいるのは彼ではなくて。
またひとときだけ彼に戻るときも時折あるかもしれないけれど、それは彼自身を苦しめるだけで。
そして、そんなわずかに残った彼すら、もうすぐ消えてなくなってしまう。
彼が自分を愛してくれた、その想いも。
一緒に過ごした、想い出も。
ぜんぶぜんぶ、消える。
ゼンブ キエテ
「もうええよ、工藤……」
そっと、その髪に手を触れる。やわらかな髪の感触。そんなものは何ひとつ変わっていない。彼のままだ。でも、ここにいるのは平次の愛した『工藤新一』ではない。
彼が、そうありたいと望んだ自分ではない。
平次は、ふと、笑った。優しく、目の前にいる彼に微笑みかけた。
「お前は、お前でおったらええ。東の名探偵、工藤新一でおればいい」
白く細い首に、手を延ばす。
何度、この首にくちづけただろう。何度、優しく触れただろう。
その場所に、両手を回す。細い首は、大きな平次の両手で綺麗に一周出来そうだった。
「…………?」
何をされているのか分からない新一は動かずにいる。その無邪気さに苦笑して、平次は強く手に力を込める。首を絞める。
苦しさに、新一は小さくもがくが、首にかかる手を払いのけるほどではない。
平次はきつく目をつぶる。腕に、力を込める。
「…………っ!!」
力に押されて、新一の体が後ろに倒れる。床に横たわる形になった新一の上に馬乗りになって、それでもなお、平次は首を絞める力をゆるめなかった。
「はっ……り…………」
声が、した。
声に、ハッと、閉じていた目を開いて新一を見る。
新一は、はっきりと、平次を見ていた。
焦点の合わない虚ろな瞳などではなく。
そこには、東の名探偵と呼ばれた、あの『工藤新一』がいた。
思わず力をゆるめようとしたその手に、そっと新一の手が重なる。続きを、促すように。
「……工藤」
「……ごめ……ん、な……。……でも」
彼は、ふわりと、微笑む。
今、首を絞められているとは思えないほど。今、死の瀬戸際にいるとは思えないほど。きれいに、微笑んだ。
「……ありがとう……」
首を絞められているというのに。うまく息も出来ないだろうに。それでもその言葉だけ、はっきりと、途切れることもなく、聞こえた。
その微笑みの形のまま、新一はゆっくりと瞳を閉じる。ぱたりと、平次の手に添えられていた手が力をなくして下に落ちる。
絞めている首から、その呼吸と鼓動がだんだんと弱くなって消えていくのが、嫌になるほどはっきりと伝わっていた。それでも力はゆるめない。
新一の最後の言葉と笑顔が、呪文のように、平次の力をゆるめさせなかった。
その体から、力が完全に消えてなくなっても、平次はその首を絞めていた。
「……工藤。くどう」
ぱたぱたと、もう瞳が開くことのないその白い顔に、いくつも涙が落ちてはその肌を滑って落ちる。
彼を見ているのがつらかった。自分が自分でなくなっていくことに、彼が苦しむ姿をもう見ていられなかった。
彼の望みを叶えてあげたかった。自分でありたいと望んだ彼の願いを、叶えてあげたかった。
そして、彼が彼でなくなっていくことに、耐えられなかった。彼が自分への想いも、自分との想い出も、すべてなくしてしまうことが、許せなかった。
だから。……だから。
世界でいちばん大切な、愛するひとを。
平次は、殺した。
携帯を取り出して、暗記している番号を押す。最近はかけることのなかった番号を、それでもまだちゃんと覚えていた。
『はい、もしもし。目暮ですが……』
ほんの数コールで、相手は電話に出た。
「警部ですか? 服部です」
『服部君か、久しぶりだな。……工藤君に、何かあったのかね?』
目暮の声音が、ひそめるように代わる。
目暮にも、新一のことは伝えられていた。こんな急に、平次から連絡が入るとは、新一に何かあったとしか考えられなかった。
けれど、続く言葉は、目暮の予想を、はるかに上回っていた。
「工藤を、殺しました」
静かに、穏やかに、告げられる言葉。
『え、────』
目暮は、言葉の意味を掴みかねているようだった。ためらう沈黙が分かる。
だから平次は、もう一度繰り返した。
「工藤を、殺しました」
『服、部……く、ん……』
嘘だろう、とは、尋ねられなかった。彼がそんな嘘を言うはずもないし、それは真実だと、その口調から伝わってきた。
目暮の電話を持つ手が震えた。カタカタという音が、いやに大きく響いた。
「今、工藤の家です。来てください」
『……分かった。すぐ行く』
目暮の震えた答える声を聞いて、平次は電話を切った。
役目を終えた携帯電話を、勢いを付けて壁に向かって放り投げる。壁にぶつかって砕ける鈍い音がしたけれど、そんなものにはもう用はなかった。
一仕事終えたように、平次は大きく息を吐き出した。
傍らに横たわっている新一を見つめる。
眠っているような、死に顔。その顔は本当におだやかだ。そして、『工藤新一』の顔、だった。
彼は、彼のまま死んだ。それが、せめてもの救いだった。
あと10分もしないうちに、目暮達はここへ到着するだろう。そうしたら、自分は捕まって、そして新一は……。
(人は死んだら、何処へ行くんだろうな)
不意に、新一の声が、耳元で聞こえた。記憶の中の、彼の声。
(俺は、この海に還りたいな)
あの海で、彼が言った言葉。
(この場所に還って、ずっと、想い出を夢見るんだ)
海を見つめて、つらい姿なんて誰にもさらさなかった彼が、ただ一度だけ言った弱音。あるいは、儚い願い。
「……ええよ、工藤……。俺が、還したる。あの海に、お前を」
平次は、そっと新一に語りかけた。
もう動かない新一を抱き上げて外へ運ぶ。人は死んだら重くなるというけれど、彼は相変らず軽かった。
急がなければいけなかった。早くしなければ、目暮達が来てしまう。
平次は新一をバイクの後ろに座らせると、自分も前に座って、その体を自分の背中にもたれかけさせた。力なく下げられた両手を自分の腹の前で交差させて、紐できつく縛る。
「しっかり掴まっとき」
そんなことはもう意味がないのに、それでも、いつものように新一に語りかけてみる。
「行くで」
ヘルメットも被らないまま平次はバイクを発進させた。直後、バックミラーに、角を曲がってくる見知った車を見た。その運転席にいるのは高木刑事だ。通報を受けた彼らが到着したのだ。けれどかまわずに、バイクのスピードを上げた。
「…………────!!」
バイクに気付いた高木が、窓から身を乗り出して何か叫んだが、そのときにはもうバイクは声も届かないほど遠くへ走り去っていた。
ふたりを乗せたバイクは、追いかける高木達に捕まることもなく、海まで辿り着いた。
あのときと同じ、誰もいない海。
「着いたで。海やで、工藤」
自分の腹のところでひとつに括っていた腕を、解いてやる。けれど腕はすとんと下には下がらなかった。死後硬直が、始まりかけているのだ。
それでもまだやわらかい新一の体を抱き上げて、平次は砂浜へ降りる。
「お前は、ここへ還りたかったんやろ?」
海から吹く風が、髪を揺らす。風に揺らされて新一の長い睫が震える様は、その問を肯定してうなずいているように錯覚させる。
砂浜の先に、少し岩場の突き出た場所があった。砂浜が途切れて低い崖のようになっている。その下はすぐ海だ。
あそこなら、新一を、海へ還せる。
平次はそこへ向かって行った。
岩場の淵に立って、下をのぞく。海は少し深くなっていて、打ち寄せる波が、渦巻いていた。
「ここが、ええかな……」
腕の中の、もう動かない新一に、そっとくちづける。
髪に額にまぶたに鼻に頬にくちびるに。最後のキス。
やさしくも甘くもやわらかくもあたたかくもなくて、冷たくて哀しい、最後のキス。
「還りや、工藤。お前が望んだ場所へ。お前のままで」
そっと耳元でささやいて。
崖の先に腕を差し出して、そっと、力を抜く。
ずるりと、腕から滑り落ちるように、新一の体は落ちた。
海へ向かって。
まるでスローモーションのように。
まるで羽ばたくように落ちてゆく。
遠く下方で、バシャンと、水音。
彼が、海に還った、音。
「工藤……」
海は、蒼くて。青くて。
冬の弱い陽射しに、それでも輝いて。
あの日と同じように。あの日のままに。
だから。
この場所で、この場所に還って、いつまでも、夢を見ればいい。
しあわせな、しあわせな、夢を。
しあわせな、夢だけを。
海を見つめる平次の耳に、走ってくる車の音が聞こえた。それは、平次のすぐ後ろまで来て、ブレーキ音を響かせて急停車する。
「服部君!」
車から、高木刑事と佐藤刑事が飛び出してくる。
平次はゆっくりと振り返った。その顔は、意外なほどに穏やかだった。
高木は、平次がひとりきりであることに、目を見張る。さっきバイクで走り出した彼は、新一を連れていたはずだ。正確には新一の、……死体、を。それを、何処へやったのか。何処へ。
「……新一君、は?」
震える声で尋ねる。
平次は、海を指差す。蒼い青い海。
「海に」
佐藤刑事が、ヒッと、息を飲む音が聞こえた。
これ以上ないくらい、高木が目を見開いた。
「あいつを、海に、還してやったんや。この海に」
自分のしたことを、正当化するつもりもない。狂っていると言われてもかまわない。
ただ、そうしたかったのだ。新一を、海へ還してやりたかったのだ。
たとえそれを誰に責められようと。犯罪者として裁かれようと。
そっと、平次はその両手首を差し出した。
手錠をかけられるために。
To be continued.
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