海原の人魚 1
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東の海の人魚達が暮らす海域は、人間にとっては魔の海域と言われ、決して近づくことのできない場所だった。海流が激しく、また潮が複雑に入り組んでいるため、そこに入ってしまった船は舵がとれず波にのまれ沈没してしまうのだ。
海面付近ではそれほどに荒れていても、ほんのすこし深く潜れば、そこは潮の流れもゆるかな、綺麗な珊瑚と数多くの魚達がいる、おだやかな海が広がっている。人魚達はその場所に集まって暮らしていた。
水のヴェールを通して落とされる陽の光は、独特の美しい模様を生み出して、そこにいる人魚達と、彼らの住む珊瑚や貝で出来た家を、さらに美しく照らし出していた。
新一は、淡い蒼の鱗に覆われた尾ひれをなめらかに動かして、器用に珊瑚のあいだをすり抜けながら泳いでいた。その美しい姿に、魚達さえも目を奪われたかのように、泳ぎを一瞬とめて彼を振り返る。
彼が向かっているのは、街のはずれにある『海の魔女』のところだった。
「おーい。志保。いるかー?」
真っ白な貝と真珠のみで出来たちいさな家に、彼は身を滑り込ませた。
「なあに、新一?」
すぐに中にいたひとりの人魚が出迎える。
ここにひとりで住んでいるのは、薄紅色の鱗を持つ、『海の魔女』と呼ばれる志保だった。
「わりーんだけど、またこれ、加工してくれねーか?」
新一は、両手にかかえていた物を差しだした。それは、地上で人間が使う数冊の本だった。
陸上に行くことのできない人魚達は、沈没した船から、人間達の使っていたいろいろなものを持ってくることがよくある。それはたいてい積んであった金貨や、人間達が身につけていた宝石だった。といっても、人魚達にとってそれは金銭的価値でなく、めずらしいということと綺麗ということだけで、欲しがるのだが。
新一も、沈没した船から、人間達の使っていたものを持ってくることがよくあった。ただ、彼の興味は、宝石でも金貨でもなく『本』だった。人間の知識や物語が書かれた本が、大好きなのだ。
けれど本は、そのままでは水の中で、すぐに溶けてぼろぼろになってしまう。だからいつも志保に水の中でも大丈夫なように加工してもらうのだ。海の魔女といわれる彼女にしか出来ないことだった。
街のはずれにひとり住む志保は、ほかの人魚達から『海の魔女』と呼ばれるが、それは悪い意味ではない。
彼女は、人間でいうところの『科学』に精通していた。科学分野であまり文明発達のなかった人魚達のなかでは、非常にめずらしく貴重な存在だった。
そんな彼女はその知識で、薬を作って病気を治したり、生活に役立つものを作り出したりしていた。本を水に耐えられるように加工する技術もそのひとつだ。だから、みんな尊敬の意を込めて、彼女を『海の魔女』と呼んでいた。
志保は新一から差し出された本を一冊手にとって、わずかに眉をしかめた。
「新一、また外に出ていっていたの?」
新一が持ってきた本は、まだ新しいものだった。けれどこの海域で、最近船が沈んだとは聞いていない。となれば、ここから外の海域に出て、そこで沈んでいた船から持ってきたのだろう。
人魚達は、基本的に、この海域から出てはいけないことになっている。
正式な決まりがあるわけではないが、親は子供に外に出ないよう教えるし、外に出ようとする者がいたらまわりは引き留める。
それは人魚達の安全のためだった。人間から、身を守るための。
人間達のあいだでは、人魚の肉を食べると病が治るとか、寿命が10年伸びると言われていた。はては不老不死になるという話まで信じられているところもある。たしかに人魚達の寿命は人間の3倍くらい長いのだが、その肉を食べたところで効用などない。まったくのデマだ。
けれど人間達はそれを信じて、『人魚狩り』をするのだ。
また、人魚は一概に、人間にとって『美形』といわれる顔立ちをしていた。「人魚のよう」といえば、美しさを褒め称える最高の形容詞なほどだ。そのため、珍しさも手伝って、見せものにしたり慰みものにするために、人魚を捕まえることもあった。
今いるこの海域は、人間達にとっては魔の海域で近づけない。近づけば船は沈没する。 だから人魚達にとって安全な場所だった。だからこそこうしてここに街を作って住んでいるのだ。
けれど外の海域は違う。いつ人間に捕まってしまうか分からない。実際、外に出て帰ってこなかった人魚達だって、たくさんいる。
だから、みんな、外の海域に出ることを禁じていた。
それなのに、好奇心旺盛な新一などは、いつも危険を省みずに外に出てしまうのだ。
「北の海域の話を聞いた? 最近また人魚狩りで大量に捕まって殺されたって話だわ。私達だって狙われているのは同じなのよ。気を付けないと。それなのにそんな簡単に外に出たりして……」
「わーってるよ。でも……人間だって、そんな悪い奴ばっかじゃねーと思うんだ……」
新一はうつむいて、ちいさくつぶやく。
彼は、直接人間とかかわったことはない。せいぜい海面で遠くから船の上にいる人間を眺めるか、沈没した船に乗っていた死んだ人間を見たくらいだ。あとは本で得た知識でしか人間を知らない。
それでも、人間に対する憧れにも似た想いを捨てきれなかった。
人魚の中にもよいひとと悪いひとがいるように、人間も、自分達を捕まえて殺す悪い人間もいるかもしれないが、理解してくれるよい人間もいるのではないかと信じているのだ。
そんな新一の姿に、志保はちいさくためいきをつく。
「……そうね。人間も、悪いひとばかりではないわ。人間同士では、いいひともたくさんいるのかもしれない。でもね、私達人魚にとっては、大半は悪いひとなのよ」
その言葉は、ひどく哀しげだ。そのなかには、何かが含まれている。それを新一は敏感に感じとっていた。おそらくは、過去の哀しい出来事を思い出しているのだろう。
彼女は、生まれたときからこの海域にいる人魚ではなかった。数年前にここにやってきて住むようになったのだ。どうやら前にいた海域で、何かがあったらしい。
行くあてもなく流れてきたような志保を、この街の人魚達はあたたかく迎え入れた。けれど彼女がここに来たばかりのころは、ひどく傷ついていて、笑いかたさえ忘れてしまっているような状態だった。ほかの人魚とも交流を持たず、ひとりでこの家に閉じこもって、ただひたすらに何かの研究をしていた。
そんな志保に、新一は無神経ともいえる強引さで近づいて、親しくなった。はじめは新一を遠ざけようとしていた彼女も、やがては新一や他の人魚達にも心を開くようになり、今ではこうして『海の魔女』として頼りにされるまでになったのだが。
やはり、消せない傷は、いまだ彼女の心に残っているらしい。
ここに来る前に、彼女に何があったのか、新一は詳しいことはなにも知らない。無理に尋こうとも思わない。ただ、それはどうやら人間がらみのことのようだった。
「結局人間は、私達人魚を同等の知能を持つ種だと認めていないのよ。そうでなければ、狩りなんて出来るはずないわ。人間個人個人がどうという問題じゃなくてね、彼らにとって私達は、家畜や野の獣と同じなの。そりゃあたまには、ちゃんと私達を認めてくれるひともいるけれど。……個は集団にはかなわないわ」
志保の言葉には、重みがある。それは実際を知っているからこその重みだ。人間に直接かかわったことのない新一の言葉などとは比べようもない。
新一は何も言えなくなって、本をかかえたまま、うつむいてしまった。
「もう。新一、そんな顔しないでよ」
暗くなってしまった雰囲気を消そうとするように、志保は尾ひれを振って、うつむく新一の顔に弱い水流を当てる。
「うわ、なにすんだよ」
新一もおかえしとばかりに尾ひれを振って、志保のほうへ水を押し出す。笑いながら、それにまたやり返す。
ひとしきりはしゃいでふざけあって、さっきの暗い空気が全部消えてなくなったころ、志保はまたいつもの調子で新一に手を差し出した。
「その本、加工するんでしょ?」
「ああ。悪いな、志保。頼む」
新一は手に持っていた本を志保に渡した。受け取ったそれを、志保は貝の箱の中にしまう。
「いつくらいにできあがる?」
「そうね、数が多いから、全部できあがるのは……10日後くらいかしら?」
「そんなにかかるのか?」
それは、せっかく手にいれた本を、10日後まで読めないということだ。
前に頼んだときは、もっと早くできあがってきたはずなのに。
「しかたないでしょう。研究の合間にやるんだから。今ちょうど、おもしろい結果がでているところで、そんなには時間がさけないのよ」
志保は、ここに来たときからやっている何かの研究を今も続けていた。昔のように、まわりとの交流を絶つほどそれにかかりきりになることはないが、その研究をやめる気はないらしい。
「そっか。それならしかたないよな」
何を研究しているかは知らないが、彼女がそれをどれほど真剣に熱心にやっているかは知っている。だから新一はおとなしく引き下がった。
「じゃあそのころ取りに来るよ」
「ええ」
「それじゃ志保。またな」
新一は蒼い尾ひれをひるがえして、身を返した。
その後ろ姿を、志保は呼び止める。
「新一!」
「ん?」
振り返ると、心配そうな不安そうな志保の瞳とぶつかった。
「本当に、気を付けてね。人間には」
「…………」
志保は、本当に不安そうだった。いつも冷静な彼女が、ここまで感情を顔に表わすのもめずらしい。それほど、新一の身を案じてくれている。
「わかってる。大丈夫だよ、俺は。人間に捕まるようなへまなんてしねーし。な?」
「……そうね。ごめんなさい、引き留めちゃって」
「いや、心配してくれて、ありがとな」
新一は志保の頬に親愛のキスをひとつ落とすと、笑顔で手を振って、しなやかに蒼い尾ひれを動かして去って行った。
志保は、まだキスの感触の残る頬を片手でおさえて、彼が去って行った扉のほうを見つめた。今はもう、彼のたてたちいさな空気の泡がぽつりぽつりと残るだけだ。
自分の大切なひとが、人間のせいで不幸になるのはもう嫌だった。
たしかに新一は、頭もいいし運動神経もいいから、そう簡単に人間に捕まるようなことはないだろう。本当に危険だと思う海域には行かないだろうし、ある程度の危険から逃れるすべも身につけている。
けれど志保の不安は消えなかった。
彼女は知っていた。人魚が人間にかかわって不幸になるのは、捕まることだけではないと。
「……おねえちゃん……」
いまはもういない、そのひとを思い出す。
彼女も、新一と同じように、人間に憧れを持つ人魚だった。人間とも仲良くなれるのではと、信じていた。そして……。
脳裏に浮かんだことを追い払うように、志保は頭を振った。
そして彼女は部屋の奥に戻り、新一が来たことで中断されていた研究の実験を再開した。
いくつか混ぜられた薬品から、赤い液体がすこしずつ抽出され、ちいさな硝子瓶の中にたまってゆく。それは珊瑚の赤とも石榴石の赤とも違う、不思議な色だった。
志保は赤い液体のたまってゆく硝子瓶にそっと触れながら、遠い昔を思い出すようにわずかに瞳を伏せた。
「もし、この薬が完成したら……」
ちいさなつぶやきは、ゆるやかな潮の流れに掻き消されて、誰にも届くことはなかった。
To be continued.
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