海原の人魚 2


 本を預けてから数日後、新一はまた志保の家へ訪れた。
「よ。志保」
「あら。残念だけど、本はまだできあがってないわよ」
 新一の顔を見た途端、志保はそう返す。
 彼が本を持ってきてから、約束の10日は経っていない。けれど待ちきれなくなった彼が様子を見に来たのかと思ったのだ。
「わかってるよ。今日は、これおまえに持ってきたんだよ」
 新一は、志保の手を取って、その手のひらにいくつかのちいさな粒をのせる。オーロラを集めて固めたかのように、綺麗に輝く真珠だった。
「おまえ、真珠好きだろ? 綺麗なの見つけたから持ってきたんだ」
 たいていの人魚達は、海にはないめずらしさも手伝って、翡翠や柘榴石のような陸の宝石が好きだ。けれど志保はそれらよりも真珠が好きだった。新一はそれを憶えていてくれたらしい。
 志保の頬がわずかに桜色に染まる。けれどそれを新一には悟られないよううつむく。赤茶の髪が頬に落ちかかって、それを隠してしまう。
「ありがとう。本の加工のお礼としてもらっておくわ」
 大事そうに受け取った真珠を握りしめながら、けれど言葉だけはそっけなく返す。新一は別に気を悪くするふうでもなく、志保に笑いかける。
 ふと、一瞬部屋の中が翳った。窓のすぐ傍を、魚の群が通って光をさえぎったのだ。群はすぐに通り過ぎ、部屋にはまた光があふれる。けれど、その動きにいつもと違うものを感じていた。
「なんか魚達が騒いでいるな」
 新一は、窓から外を見やった。
 群れて泳ぐ鮮やかな色のちいさな魚達は、いつもよりそわそわしているように見えた。あちらへ行ったりこちらへ行ったり、落ちつきがない。
「嵐がくるみたいだから、そのせいじゃない?」
 嵐がくることを、海に住む者達は潮の流れや水圧の変化で敏感に感じとれる。今も、もうすぐ嵐がくるだろうことを、肌で感じていた。魚達もそれを感じているのだろう。
 けれど別段あわてることもない。海上にどんなおおきな嵐が来たところで、海中にいる人魚達の生活にはなんらおおきな影響はない。渦巻く波も、深い海底まではやってこない。
「嵐……か」
 新一は窓辺から上を見上げて、海面のほうを見やった。ここからでは、渦巻く波に乱反射した光が揺れているのが見えるばかりだ。
「船、沈むかな」
「そうね。こういう嵐は、前兆もなくおだやかに晴れていた空が急に荒れるタイプだから、けっこうたくさん沈むんじゃないかしら」
「そっか……」
 答える新一の声は暗い。
 多くの人魚は嵐が好きだ。嵐が来れば、船が沈むからだ。船が沈めば、船に積んであった積み荷が手にはいる。大好きな宝石や金貨が、また手にはいるのだ。
 陸上に行けない人魚にとっては、新しく宝石や金貨を手にいれようと思えば、どこかで船が沈むのを待つしかない。しかし人間達だって沈没しないよう気を付けるから、それはそうあることではない。
 けれど嵐のときは、大量に船が沈む。それだけたくさんの新しいものが、たくさん手にはいるのだ。
 そしてなにより──人間が、死ぬ。
 船から投げ出され、波に揉まれ、あるいは船ごと海底へと引き込まれ、たくさんの人間が死ぬ。
 人魚の大半は、人間を嫌っている。
 当たり前だ。同胞達を大量に殺され、自分だって身の危険にさらされているのだ。その人間が、海に翻弄され、恐怖にゆがみながら死んでいくさまは、人魚にとって心がすかっとするものだった。
 だから人魚達は嵐が好きだった。嵐が来ると、お祭りのようにはしゃぐ者もいる。
 けれど新一は、そうは思わないようだった。
 嵐に巻き込まれる船を心配し、人間が死ぬことを哀しむのだ。
 志保は、新一が、沈没した船からものをとってくるだけでなく、そこにある人間の遺体を、海底に埋めて供養してあげていることも知っている。
 優しすぎる、と思うのだ。人魚に対しても、人間に対しても。
 彼のそんな優しいところも愛しているが、その優しさが、いつか彼自身を傷つけはしないかと心配になる。彼にそう言っても、何を言っているんだと笑い飛ばされてしまうのだろうけれど。
「新一。嵐が来たら、様子を見に上へ行ってみるの?」
「ああ」
「そう……。嵐のなかだったら大丈夫とは思うけど、気を付けてね」
 嵐のまえの静けさというように、まだ海は凪いでいた。落ちてくる陽光も明るくやわらかい。けれど、これからくる嵐を予感させるかのように、いつもとはすこし違う揺らめきをしていた。
 おだやかな海に、嵐が近づいていた。



 さっきまで明るかった海が、急に暗くなった。海底に落ちてきた光が突然なくなり、見上げれば海面は空の色を映し灰色に変わっている。おそらくは、ほんの一瞬前まで快晴だった空に、嵐の暗雲が立ちこめたのだろう。
 ちょうど運悪くこの海域にいた船乗り達は、これ以上ないくらい慌てふためいているに違いない。けれど、急いで海域を出ようとする前に、帆をたたもうとする前に、激しい雨と風と高い波に襲われて、船は沈んでしまうのだ。
 嵐の海面に、新一は顔を出した。
 海上では、すでに雨と風は激しくなっていた。つぶてのように、海面から出した顔や肩に打ちつけてくる。
 他の人魚もいるかと思ったが、まわりには新一以外見あたらなかった。普段は、街から出ない人魚達だが、嵐の日は例外だった。嵐の海域では、人間達は、たとえ人魚がすぐそばにいても、捕まえる余裕などない。なにしろ沈没するかどうかというときなのだから。だから人魚は安心して顔を出せる。嵐の海域を泳ぎ回れるのだ。
 まわりに首をめぐらせると、すこし離れたところに高い波にもみくちゃにされている船が見えた。その船に、新一は近づいてみる。
 かなり大きな、豪華な船だった。客船のように金や銀の華美な装飾はないが、しっかりとした造りの荘厳な船だ。
 船の側面に、大理石を彫って作られた紋章が貼り付けてあるのが見えた。その紋章は見覚えがあった。ベイカー国の紋章だった。人間達は、それぞれ自分の国の紋章の付いた旗を船に掲げる決まりになっているが、船に直接紋章を刻むことは許されていない。それが許されるのは、その国の王の所有する船のみだ。ということは、これはどうやらベイカー国の王族の船らしい。
「マストをたたむんや!」
 ひとりの人間が、看板で他の船乗り達に指図している姿が見えた。
 たたきつける雨にびしょぬれになって、それでも声を張り上げて、きびきびと指示を出している。勇ましいともいえる、凛々しい姿だった。
「舵を西南方向に! 波に横腹向けたらあかん!」
 的確な指示を、敏速に出してゆく。船乗り達もそれにしたがって、雨や風をものともせずに働いていた。
 その様子に新一は感心する。
 船乗り達が、突然襲った大きな嵐にパニックになって、まともに動けないまま沈んでゆくのを何度も見た。突然の嵐にあった船というのは、みんなそんな感じだ。
 けれど、この船の船乗り達は、彼の言葉に励まされ、パニックになることもなく、必死に嵐に立ち向かっている。指示を出している彼には、よほどの信頼とリーダーシップがあるようだった。
(そう、そのまま西のほうを目指すんだ)
 祈るような気持ちで、新一は船を見守っていた。
 もうすこし西に進めば、風も波ももうすこしおだやかになる。そこまで行ければ、この船は助かるだろう。
 そのとき。
 突然起こった高い波が、船の側面にたたきつけた。船が大きく揺れて、大量の水をかぶる。
 バランスを崩したそのひとが、高波に押されて──落ちた!
「あっ!」
 新一はとっさに海に潜った。海に落ちたそのひとの姿を追う。
 いくら人魚とはいえ、嵐の影響で海流の激しくなっている海面付近は泳ぎにくい。気を抜けば、強い流れに押し流されてしまいそうだった。新一は力のかぎり強く尾ひれを蹴って、懸命に泳いだ。
 波にもみくちゃにされながら、暗い海の中を落ちてゆく人影。それを必死に追いかけ、必死に手を伸ばす。ひきつりそうなほど精一杯腕を伸ばし、落ちてゆくそのひとの腕を掴んだ。波から守るように引き寄せる。
(これが……にんげん)
 新一が生きている人間を直接間近で見たのは、これがはじめてだった。
(……きれいなひと)
 ためいきのように、そう想う。間近で見たそのひとの姿はとても綺麗だった。人魚の顔立ちを褒めるような綺麗さとは違う。もっと……嵐が去ったあとの澄みきった満天の星空に想うような気持ちだった。
 人魚にはない浅黒いひきしまった身体。意志の強そうな精悍な顔立ち。けれどどこかに強さに裏付けられた優しさも感じる。
 この瞳が開かれたら、どんな色なのだろう。
 思わず見とれていた新一は、ふと我に返った。見とれている場合ではなかった。人間は海のなかでは息が出来ないのだ。早く助けなければ、この瞳が開くことなど、二度となくなってしまう。
 とりあえず、そのひとに深くくちづけて、息を送り込んだ。


 急に肺に送りこまれた空気にがぼっとむせて、そのひとの瞳がうっすらと開いた。
 あらわれたのは、いつか本で読んだ、深い草原の緑のような色だった。
 その瞳の中に新一の姿が映る。その途端、新一は心臓を鷲掴みにされて握りつぶされるかのように、胸が痛んだ。鼓動が、痛いくらい速くなる。
(なに?)
 感じたことのない気持ちだった。こんな胸の痛みは知らない。
 けれど、その痛みの理由を新一が認識するよりもさきに、瞳はまた閉じられてしまった。与えられた空気にわずかに意識が戻っても、それでは全然足りないのだ。このままでは死んでしまう。
 新一はあわてて上へ向かって泳ぎだした。
 そのひとをかかえたまま、急いで海面を目指して上昇する。自分ひとりでもこの嵐の海を泳ぐのはつらいのに、もうひとりかかえて泳ぐのは、ひどく困難だった。いつもはあれだけ自由に泳げる海も、下手をすれば人魚だというのにおぼれてしまいそうだった。
 けれど必死で新一は泳いだ。海面を目指した。
 死なせたくなかったのだ。この、腕の中のひとを。どうしても助けてあげたかった。
 やっとの思いで海面から顔を出したとき、新一は肩で息をしていた。激しく動いたため、心臓は破れそうなほど早くなっている。今まで海を泳ぐのに、これほどに力を使ったことなどあっただろうか。
 新一とは裏腹に、その腕にかかえた人間は、今にも呼吸をとめそうなほど、力無くぐったりとしていた。海面まで出たのでもう窒息することはないが、手当が必要そうだった。それに、水に浸かっているだけでも人間は体力を奪われる。このままではいけない。
 さいわい、顔を出したところは船からそんなに遠く離れていなかった。
 新一は、そのひとが波をかぶらないよう注意深く海面を泳ぎながら、船に近づいた。
 船の脇には、救命用の小型ボートがあった。船から離れないようしっかりと紐でつながれている。
 傍へ泳ぎ寄り、そこにそのひとを乗せる。人間ひとりを海からあげるのは、ひどく大変だった。そのうえ相手は新一よりも大きいのだ。それでも新一は頑張ってボートに彼を乗せた。
 彼は意識がなくぐったりと横たわっていた。けれど、浅くではあるがちゃんと呼吸もしている。新一は、ボートのへりからそっと手を伸ばして、そのひとの頬に触れてみる。もういちど、瞳を開けてくれないかと願いながら。あの綺麗な草原色の瞳を見てみたかった。
「平次様!」
 不意に、上から声が落ちてきた。
 とっさに伸ばしていた腕を引っ込め、新一は急いで海の中へ潜った。海中を移動し、すこし離れたところに顔を出す。
 船乗り達が、船の上から、ボートにいる彼を見つけたようだった。急いで梯子が降ろされ、何人かが彼のもとへ駆けつける。
 助けた彼の名は、平次、というらしい。
(平次)
 その名前を胸のなかで繰り返すと、また締め付けられるように痛んだ。
 船は、いちばんひどい嵐の海域は抜けていた。ここまでくれば、もう大丈夫だろう。
 もうすこし彼の姿を見ていたかったが、嵐もおさまってきた今、あまり船の近くにいるのは危険だった。
 新一は何度も名残惜しげに振り返りながら船から離れ、やがて深く潜り、人魚の街へと帰って行った。



「ご無事ですか、平次様」
 ボートに降りたひとりが、平次の身体を軽く揺すると、そっと瞳が開かれた。
「ああ……」
 幾分ぼんやりしているようだったが、意識もしっかりしているし、呼吸も安定している。彼は大丈夫だろう。みんなが彼の無事に胸をなでおろした。
「ご無事でよかった。平次様が船から落ちたときは、もう駄目かと思いましたよ」
「運良くボートにしがみつけたんですね」
 口々に言う彼らに、平次はまだ重い頭を、それでもゆるく振った。
「いや……ちゃう」
「平次様?」
「人魚に……助けてもろたんや」
 海に落ちてからのことは、はっきりとは憶えていない。けれど、ひとつだけ鮮やかに脳裏に焼き付いた姿がある。
 暗い海のなかで、触れたくちびるから空気が送りこまれて、一瞬意識が戻った。
 そして瞳を開けたとき、目の前にいたのは、美しい人魚だった。冬のいちばん晴れた日の空を海に映したような、綺麗な蒼い瞳の人魚だった。
 その人魚が、助けてくれたのだ。
 人魚は皆一概に美しいものだと言われているが、あれほど綺麗なものは見たことがなかった。
「お礼も言えへんかったわ……」
 夢を見るようにつぶやいて、ふと、重い腕を上げて自分のくちびるに触れる。
 空気を送り込むために触れた、やわらかな人魚のくちびるの感触を思い出すと、それだけで胸が熱くなるようだった。


 To be continued.

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