海原の人魚 3


 数日まえの嵐など嘘のように、海は今日もおだやかにたゆたっていた。
 ここのところ、いつもより人魚達の暮らす街はにぎやかだった。
 このあいだの嵐の日、新一の行った海域では船は沈まなかったが、他の場所ではかなりの数の船が沈んでいた。おかげで人魚達は、思い思いに、新しい宝石や金貨を手に入れることができていた。
 ひさしぶりに新しくたくさん手に入れられたその『戦利品』を、おたがい自慢し合ったり、身を飾ったりして、人魚達はそれぞれに楽しんでいた。
 そんななかで、新一はひとり喧騒から離れ、珊瑚の森のはずれにいた。
 岩礁のふちに腰掛け、なにかを憂れうように長いまつげを伏せがちにしたまま、何度も深いためいきをこぼす。ときどきなにかを探すように視線は海面へ向けられ、そして、それから手のひらに握られたちいさな翡翠に目を落とすのだった。
 その翡翠は、他の人魚がこのあいだの嵐のとき、沈んだ船から持ってきたものだ。もとは耳飾りの一部だったようだが、今は金具からはずれて宝石だけになっている。『戦利品』を自慢げに見せびらかすその人魚が持っていたこの翡翠に新一は惹かれ、その人魚に頼んで、譲ってもらったのだ。いつもは宝石になど見向きもしない新一のめずらしいその頼みに、その人魚は驚きながらもこころよくそれを新一にくれた。
 新一は、宝石になど興味はない。それは今も変わらない。それなのにその翡翠が欲しくなったのは……ほんのすこし、似ていたからだ。あのひとの、瞳の色に。
「平次」
 ちいさく、声に出してつぶやいてみる。
 それだけで、胸が締め付けられるように痛んだ。
 あの嵐の海で出逢った人間。浅黒い肌。均整のとれたたくましい身体。意志の強そうな精悍な顔立ち。そして──深い緑の瞳。
 苦しいような、泣きたくなるような、胸の奥が熱くなるような、不思議な気持ちだった。他のことがなにも考えられなくなる。彼のことばかり考えてしまう。
 こんな気持ちははじめてだった。どうすればいいのか、なにひとつわからない。ただ胸が苦しくて苦しくて……こうして彼を想いながらためいきを付くことしかできなかった。
「新一」
 不意に呼ばれて、振り向くと、志保が薄紅色の尾ひれを揺らしながら、こちらへ泳いでくるところだった。
「志保……」
「ほらこれ。できたわよ。新一、取りに来ないんだもの」
 志保は新一の膝に数冊の本を乗せる。彼に加工を頼まれていたものだ。
 約束の10日は過ぎたのに、新一が本を取りに来ることはなかった。今までそんなことは一度もなかった。本ができるのを待ちきれず、早く来ることはあっても、期日を過ぎてもこないなんて。
 彼が大好きな本をないがしろにするなんて、ただごとではなかった。
 だから、様子見もかねて本を届けに来たのだ。
 数日前から彼の様子がおかしいことは知っていた。けれどちいさな子供でもないのだから、すぐに口出しすることもないかと思って見守っていたのだ。それなのに、新一の様子がもとに戻る気配などなかった。
「あ、ああ……忘れてた。ありがとな、志保」
 本を渡されたというのに、新一は本を開くこともなく、またなにか考えるようにためいきをついた。
 これはいよいよおおごとだった。大好きな本を前に、彼がそれを読もうともしないなんて。
「もう。どうしたのよ、新一」
 志保は新一隣に腰をおろし、彼の顔をのぞきこんだ。
「なにかあったの?」
「……なんでも、ない」
 心配そうな志保の瞳からほんのすこし視線をはずして、新一はちいさな声で答えた。
 嵐の海で、人間を助けたとは言えなかった。人魚達は人間が嫌いだから、それを助けたとなれば、怒るようなことはないにしても、あまりいい顔はしないだろう。
 新一は黙ったまま、ちいさな子供のように、手のなかの翡翠を転がすようにしてもてあそぶ。それを見て、志保はゆっくりと口を開いた。
「新一、このあいだの嵐のとき……海に落ちた人間を、助けたんですって?」
 びくりと、新一の肩が震える。
 何故志保がそれを知っているのかと、新一は驚いて彼女を見つめた。
 志保が、この海域から出ることは滅多にない。それは嵐のときであってもおなじことだった。あのとき、まわりに他の人魚はいないと思っていたが、あとから来ていたのか、誰か他の人魚が見ていたのだろう。そして志保はその話を聞いたのだろう。
「原因は、それ?」
 彼女の声は優しく、新一を責めているふうではなかった。迷子のちいさな子供に話しかけるような、優しい響きだった。見つめる瞳も、包み込むように優しい。
 だから新一は、思わず、胸にたまった想いを吐き出すようにつぶやいていた。
「……苦しいんだ」
 想いを言葉にすると、まるでそれが実際の質量を持つかのように、次から次へと新一の中からあふれだそうとする。その苦しさに、新一は、翡翠をもったままの手を胸に強く押しつける。
「あのひとのことを想うと、胸が痛いくらい苦しくなる。あのひとのことばかり考えてしまう。他のことがなにも考えられない……」
「あなたが助けたっていう人間のこと?」
「うん……」
 志保は、新一の様子がおかしかった原因を、はっきりと悟っていた。いや、この新一を見て、わからないほうがおかしいだろう。

 新一は、恋をしたのだ。
 嵐の海で助けた、その人間に。

(なんてこと……)
 新一が人間を助けたという話を聞いてから、もしかしたらとは思っていたが、まさか本当に当たってしまうとは。志保は頭をかかえてうなりだしたい気分だった。
 志保は新一の髪にそっと触れ、優しくあやすようになでながら、言い聞かせるように話した。
「新一。そんな想い、忘れてしまいなさい。人間なんかに恋しても、つらいだけよ。人間が私達にどんな仕打ちをしてるか、知っているでしょう?」
 けれど新一は、かたくなな子供のように首を振った。
「あのひとは、違う……。あのひとはきっと、悪いひとじゃない……」
 それはまったく根拠のないことだった。ただそうであって欲しいという、新一の願いに過ぎない。それでも新一はそう信じていた。
 志保の胸のなかで、今の状況と過去が重なって見える。まるで過去の再現のようだ。
『志保。あのひとは、悪いひとではないわ。私……あのひとが好きなの』
 あのとき、こんなふうに恋をするせつない瞳をしていたのは、大好きな姉だった。
 昔の哀しい思い出がよみがえってくる。哀しい……哀しい思い出。
「そうね。もしかしたら、あなたが恋したそのひとは、人魚狩りなんてしないかもしれない。優しい、いいひとかもしれない。でもね、私達は人魚。相手は人間。生きる場所が違うのよ。ずっと一緒にいることなんて出来ないし、一緒に生きることも出来ない」
 我知らずのうちに、冷たい口調でそんな言葉を吐き捨ているように言っていた。
「志保……?」
 急に変わった志保の声音に、戸惑ったように新一は彼女を見つめた。それは、昔、彼女がこの海域に来たばかりのころの口調と同じだった。親しくなってからはそんな口調を聞くことなどなくなっていたのに。
 爆発しそうになる感情を抑えようとするように、志保は大きく深呼吸を繰り返した。新一を責めたいわけではないのだ。ただ、分かってもらいたいのだ。人間に恋などすればどうなるのか。もう、大切なひとを人間に傷つけられるのは嫌だから。
「……私のおねえちゃんもね、人間に恋をしたわ」
 ゆっくりと、感情を抑えた声で、志保は話しだした。
 それに新一は少なからず驚く。今まで、彼女が昔のことや自分の家族のことなどを語ることはなかった。それは彼女の胸にある傷に触れることのようで、ずっと避けていた。
 それを、今、志保自身が語りだしたのだ。
「私がいた南の海域では、ここよりも人魚狩りが盛んだったわ。こういう安全に暮らせる場所もなくて、私達は光も届かないような暗い深い海の底か、岩場の影に身をひそめるようにして暮らしていたわ」
 繰り出される言葉は、いっそなんの感情も感じられない。ただの言葉の羅列のようだ。そうしなければ、語れないのだろう。感情など込めたら、とても言葉にすることなどできないのだろう。
 志保の瞳は新一を見ずに、わずかに伏せられ、自分の薄紅色の尾ひれの上をさまよう。
「私には、姉がいたわ。おねえちゃんは、私のたったひとりの家族だった」
 語りながら、嫌でも遠い日をまざまざと思い出す。痛みをともなって。
 志保の両親は、彼女が物心つくころにはすでに他界していた。人間に捕まったわけではなく、流行り病で死んだのだという。
 親がいなくても、仲間意識の強い人魚達のあいだでは、皆が何不自由なく育ててくれる。人間のように親のない子だと差別されたりすることもない。実際志保も、まわりの大人の人魚達に、大切に愛されて育てられた。
 それでも、志保にとって、血の繋がったたったひとりの肉親である姉は特別な存在だった。誰よりも愛していた。
 そんな、志保と同じ薄紅色の綺麗な尾ひれを持つ彼女も、新一のように好奇心旺盛で、人間が危険なものだと分かっていながら、それでも人間の近くへ泳いでいったりしていた。
「ある日おねえちゃんは、不注意で、魚捕りの罠につかまってしまったの。逃げようとしたり、罠を壊そうとしたんだけど駄目で……。おねえちゃん自身も、もう駄目だって思ったみたい。絶対漁師に捕まって殺されるって。人魚は高く売れるから、助けてくれるわけないって。でも、その罠をかけたのはまだ若い人間の男だったんだけど、その漁師は、罠にかかっているのが人魚だって知ったら、おねえちゃんを逃がしてくれたの。人魚を捕まえて売れば、驚くくらいの大金が手にはいるのに、そのひとは、惜しげもなくおねえちゃんを逃がしたの。気を付けろよ、もう捕まらないようになって、笑って」
 それは、にわかには信じられない事実だった。人間はいつも、お金のために何人もの仲間を捕らえて殺していた。それなのに、逃がしてくれる人間がいるなんて。
 自分達人魚のことを、理解してくれる人間もいるかもしれないとは思っていたが、それは儚い希望のようなもので、叶わない夢を見るようなもので、実際にそんな人間に出逢えるなんて、思っていなかったのだ。
「おねえちゃんはそのひとに恋をしたわ。そしてそのひとも、おねえちゃんを好きになってくれた」
 実際にはいるはずがないと思っていた優しい人間に出逢って、志保の姉がそのひとに惹かれるのは簡単だった。夢見ていた王子様が目の前に現れたようなものなのだから。
 また、その人間の男が彼女に惹かれるのも、当然のようなことだった。人魚を獲物ではなく同等のものとして見れば、それはどんな人間の女も適わないほどの美貌を持っているのだ。見たこともないほど美しい女に想いを寄せられて、心を動かされない男は少ないだろう。
 想いが通じ合ったふたりは、一見しあわせそうだった。
 そう。一見。
 たしかにしあわせでもあったのだろう。けれど、不幸でもあった。ふたりを、海が隔てていたから。
「そのひとが船で海の上にきて、おねえちゃんも海面まで上がって、そうやってふたりは逢っていたわ、いつも。でも結局、逢えるのは短い時間だけ。そして、決して結ばれることは叶わない。人間は陸で、人魚は海でしか生きられないから。一緒には生きられない。だからおねえちゃんはいつも泣いてた。どうしてずっと一緒にいられないんだろうって。こんなに好きなのにって。……たとえ想いが通じたって、結局どうにもならない。苦しいだけなのよ」
 語られる志保の言葉に、新一は握りしめていた手をそっと開いて、中の翡翠を見つめた。本で見た、雨の月を過ぎた夏の草原のような緑。それは、海にはないものだ。
 新一は、自分の想いにばかり気を取られて、現実を考えていなかった。ただ『好き』という気持ちだけで、他に何も考えていなかった。
 けれど、志保の言う通りなのだ。どんなに想っても、たとえ想いが通じても、生きる場所が違うのだ。新一は人魚で、平次は人間なのだから。
 志保の姉の気持ちが、哀しいほど分かる。好きなら、傍にいたいと思うのが当たり前だ。一緒に生きていきたいと思うものだ。人間同士や人魚同士の恋人の場合でも、離れて暮らさなければいけない例はあるだろう。けれどそれとは根本的に意味が違うのだ。人魚と人間の恋というのは、もっと根本的に隔てられてしまっているのだ。
「それから……おねえさんはどうなったんだ?」
 話の流れや様子から、あまりいい結末ではないことは予想できていた。けれど、わずかな希望も含めて、彼女とその人間の恋人がどうなったのか知りたかった。
「……おねえちゃんは」
 そのさきを言葉にすることを決心するかのように、志保は一度、きつく目をつぶった。言葉にすると、その情景が、今でもまざまざとよみがえる。
「おねえちゃんとそのひとがいつも決まった時間に逢っていることが、他の漁師に気付かれたの。ある日いつものように約束の場所へおねえちゃんが行くと、待っていたのは恋人ではなく、人魚を捕まえる罠だった。お金に目のくらんだ他の漁師が、おねえちゃんの恋人を騙して足止めして、そのあいだにおねえちゃんを捕まえたの。……おねえちゃんは捕まって、海面が、おねえちゃんの血で、真っ赤に……」
「!?」
 それまで、感情を抑えたままだった志保の声が、かすかに震えて途切れた。
 もうそれ以上言葉にすることができない。思い出すだけで、哀しみと憎しみで心が切り裂かれそうになる。
 新一は、志保の肩を抱き寄せて、自分の胸に抱き込んだ。
「ごめん。ごめん、志保……」
 かすかに震えるその肩を、うなだれて揺れるその髪を、何度も何度もそっとなでる。
 志保は大切なたったひとりの家族を人間に殺されて、哀しみに暮れて、その海域を出てきたのだろう。
 本当は思いだしたくもないだろう過去を、彼女に話させてしまった。
 それは、新一のせいだ。
 志保は新一のためを想って、新一に人間に恋をすることがどういうことか分からせるために、あえて、つらい過去を話してくれたのだ。
 彼女の自分を想ってくれる深い気持ちと、今過去を話したことで再び負った彼女の痛みを考えると、胸が締め付けられる。
「お願いよ新一。人間のことなんて忘れて。私はもう、大切なひとが人間のことで苦しんだり傷ついたりするのは嫌なの」
「志保……」
 新一の胸に深く顔をうずめながら、泣き声のような声で志保が言う。新一は抱きしめる腕に力を込めた。
 志保の、言うとおりなのだ。
 人魚と人間。決して相容れない。どんなに想っても、結ばれることは叶わない。
 たとえば志保の姉が、人間に捕まることがなかったとしても、結局、人間の恋人とは結ばれないままだったろう。どう考えても、しあわせな結末など有り得ない。無理をしていれば、志保の姉のような、最悪の結末さえあるのだ。
 忘れなければならないのだ。あの人間のことは。どんなに想っても、結ばれることも叶わない。自分は人魚で、彼は人間で。忘れてしまうのが、いちばんいいのだ。
 そう思うのに。頭ではちゃんと理解しているのに。
(……平次……)
 心の中に沸き上がる想いは、簡単には消えてくれなかった。
 忘れなければと思うのに、消して減ることのないこの海の水のように、新一の胸の苦しさと平次への想いは、胸の中に渦巻いていた。


 To be continued.

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