海原の人魚 4


 あの嵐の日から、もう月の満ち欠けが一周するくらいの時間が経った。志保が新一に自分の過去を話してからからだって、月の形が鏡に映したように反対の形になるくらいの時間が経っている。それなのに、新一があの人間のことを忘れ、元のような元気を取り戻す様子はまるでなかった。
 いつも元気に泳ぎ回り、外の海域にまでたびたび出ていくほどだった彼は、最近では、家の中に閉じこもりがちになっていた。
 そんな様子をまわりの人魚達はなにかあったのかとひどく心配していた。もしかして悪い病気かなにかで具合が悪いのではないかと。まさか新一が人間に恋わずらいをしているなどとは、志保以外、誰も気づいていなかった。
「新一。いるんでしょう。入るわよ」
 淡い色の珊瑚で飾られた新一の家に、返事を待たずに志保は入った。
 新一は、部屋のすみに置かれた寝台の上に寝転がっていた。志保が入ってきたとたん、新一は寝返りを打って壁のほうを向いてしまう。彼女を拒絶しているわけではなくて、今の自分の顔を見られたくないのだろう。泣き濡れた情けない顔を。
 部屋の中央に置かれた大きめのテーブルには、無造作に本が数冊積み上げられている。このあいだ、志保が加工をした新しい本だ。けれど、本には読まれた跡がまったくない。おそらく本を受け取ってからここに放置して、そのままなのだろう。
 新一の本好きは筋金入りで、新しい本を前にすれば寝食を忘れることなどいつものことだった。それが、今度はその本のほうを忘れるというのだから、もうどうしようもない。末期症状だった。
 志保はそっと寝台に近づいて、その端に腰掛けた。幼子をあやすように、そっと新一の髪を梳く。
「新一。ちゃんと食事はとっているの? ちゃんと寝てる?」
 彼の蒼い尾ひれは、どこか艶をなくしてしまっている。顔を見なくても、彼がまともな生活をしていないことなどはっきり見てとれた。
「ほかのみんなも心配しているわ。食事と睡眠だけでも、ちゃんとしないと。このままじゃ、倒れてしまうわ。どうせ、ここしばらく寝てないんでしょう? このまますこし眠りなさい。起きたら何か食べて……」
 新一は、ちいさな子供のように首を振る。眠ることを、怖がるように。
「新一?」
「……夢を見るんだ。……あのひとの、夢……」
 かすかな、震える声が、志保の耳に届く。
 あのひと、というのは、もちろん新一が助けたという人間のことだろう。夢の内容がどんなものかはわからない。それでも、眠るたびにあの人間の夢を見て、新一の心は揺らされるのだろう。
 そして、消せない想いが、また新一に夢を見せる。
「忘れようと思ったんだ。忘れなくちゃいけないって、ちゃんと分かってるんだ。だけど……っ!!」
 志保のほうに背を向けたまま、新一は寝台の上で膝をかかえるようにちいさくなる。その肩が、かすかに震えている。こんな新一の姿など、見たことがなかった。彼は、いつも真っ直ぐで、困るくらい好奇心旺盛で、すこし自信家なくらい元気で、輝く瞳をしていたというのに。
 新一も、あの人間のことを忘れようとしたのだろう。けれど、忘れようとしても、忘れられなかったのだろう。どうしても。どうしても。
 そうだろうことは分かっていた。心など、たとえ自分のものであれ、考えたとおりにどうこうできるようなものではない。忘れようと思って忘れられるくらいなら、志保の姉だって、あんなに苦しむことなどなかった。死ぬようなことになどならなかった。
(……新一……)
 志保が新一に姉の話をしたのは、その人間のことを忘れてほしいと願うのと同時に、彼の気持ちを試す意味もあった。人間に恋をすることがどういうことか分かっても、それでもなお消せないほどの、本当の想いなのかどうか。
「新一。そんなに、その人間が好き?」
 志保はそっと問い掛けた。
 こちらを振り向かないまま、それでも新一はちいさくはっきりとうなづいた。
「それは、命をかけられるくらい? 他のすべてを捨てられるくらい?」
「志保……?」
 急にされたその質問の意図がわからずに、いぶかしんで、新一はゆっくりと志保を振り返った。その瞳は、かすかに赤く腫れている。
 新一のそんな顔は、志保の胸を痛ませる。彼には、笑っていてほしいのだ。しあわせでいてほしいのだ。たとえそれが、自分のためでなくても。自分の傍ではなくても。姉のように、泣き暮らしたまま、哀しい結末などむかえさせたくない。
 だから……。
 志保は、新一の前にちいさな硝子瓶を差しだした。中には不思議な赤色をした液体が入っている。新一はそれがなにかわからずに、首をかしげてそれをのぞきこんだ。
「なんだ、これ?」
「これは……」
 志保はそこでいちど言葉を区切って、それからゆっくりと、言った。


「人間になる薬、よ」


「えっ……!!」
 驚いて、新一は志保を見上げた。
 彼女が嘘をつくとは思えない。ましてそんなことで新一をからかうとも思わない。けれど、人間になるなど、そんなことが可能なのだろうか。いやそもそも、なぜそんなものを彼女が持っているのだろうか。
 言葉よりも雄弁に語るいぶかしげな新一の視線に、志保はすこし笑って、それから自分の手の中にある、ちいさな硝子瓶を見つめた。
「私はね、お姉ちゃんが死んでから、ずっとその研究をしてきたの。人魚が、人間になる研究を。……もしおねえちゃんが人間だったなら……人間になれたなら……あんなことにはならなかった。きっと、恋人としあわせになれた。もしも人魚が人間になれたなら……そう思って、この研究をはじめたの」
 瓶の中では、血の色にも似た液体が揺れている。まるで、あの日海を染めた姉の血のように。
「もちろんそれは、夢物語のような、莫迦な話だったわ。第一お姉ちゃんはすでに死んでいて、たとえその方法が見つかったって、もうどうにもできないんだから。それでも私は、はっきりいえば自己満足のために、自分を慰めるために、この研究を続けていたの。まさか、実際に使うような日がくるなんて、思ってもいなかったけど」
 本当に、この薬ができるとも思っていなかったし、まさか使う日が来るとは思わなかった。人間に恋をするような人魚が姉以外にいるとは思わなかったし、人間になりたいと願う人魚がいるとも思わなかった。
 それなのに、この薬の完成のめどが立つと同時に、使うかもしれない状況になるとは。しかもそれが、新一だとは。
 まるで、運命かなにかに仕組まれたようだと、志保は内心苦笑する。
「本当に、本当にこの薬を飲めば、人間になれるのか!?」
 新一は寝台から飛び起きるように志保に詰め寄った。
「ええ。人間と人魚は、進化の過程で別れた、いわば亜種よ。遺伝子もとても似ているの。実際私達と人間のおおきな違いといえば、この尾ひれと呼吸器くらいでしょう? この薬は、遺伝子に作用して、人魚の遺伝子を人間に近く変化させるものなの」
 なされる説明は理論的で、それが気休めや夢物語ではなく、はっきりとした現実性をともなったものだと分かる。人間になる、ということも、不可能ではないのだ。
 もしも人間になれたなら。
 新一の心に希望の灯がともる。
 人魚と人間では、決して叶うことのない想い。けれど、人間になれるのなら。
(……平次!!)
 彼と結ばれることも、ありうるかもしれない。
 新一は、思わず飛びつくように、硝子瓶の蓋を開けようとした。それを一気に飲み干そうと。けれど、志保はその手に自分の手を重ねて、それをとめる。
「待って新一」
「志保!」
 止められて苛つく新一に、志保は真っ直ぐに向き合って、視線を重ねる。その瞳の強さに、新一は動きをとめられる。
「新一。落ちついて。よく聞いて。そして、よく考えて」
 言い聞かせるように、志保はゆっくりと話しだす。
「この薬は、まだ試薬だわ。理論上は出来ているはずだけど、もちろん臨床実験なんてしていないから、本当に成功するか分からない。どんな副作用があるかも分からないの。もしかしたら、……死んでしまう可能性もあるのよ」
 重ねられた手の、握る力がかすかに強くなる。
「それだけじゃないわ。人間になったら、もう海にはいられない。ここでは暮らせないのよ。陸に行ったとしても、その人間にうまく会えるかどうかも分からない。この海が広いように、人間の住む陸だって広いのよ」
 言われる言葉に、新一の苛つきやあせりは、波のように引いていた。新一も真っ直ぐに、志保を見詰め返す。
「新一。よおく考えて。本当に、この薬を飲んでいいのか。人間になっていいのか」
 新一だって、馬鹿ではない。志保に言われたその意味が分らないわけではない。人間になれるかもしれないという可能性に、他のすべてを忘れかけていたが、実際はそれだけではすまないのだ。
 かならず平次に会えるという保証もない。かならず人間になれる保証さえないのだ。すべては可能性ばかり。
 もしも望みどおり人間になれたとしても、新一がその代償に払うものは、おおきいだろう。
 人間になったなら、あたりまえだが、いやでも陸で暮らすしかない。人間に混じって、一緒に生活することになるだろう。人魚は基本的に『働く』ということがないが、陸で人間として生きるなら、『働く』ことも必要になる。
 人魚は争いを好まないが、人間は違う。同族同士でさえ、殺し合いの争いをすることさえあるのだ。憎悪や嫉妬といった、人魚にはあまりない感情を、人間はたくさん持っているのだ。そのなかで、暮らしていくことになるのだ。
 海と陸とでは、なにもかも勝手が違うのだ。そのうえひとりきりで、頼れる身内も仲間もいない。そんななかで生きていかなければならないのだ。
 それでも、人間になりたいと思うのか。
(俺は……)
 新一は、きつく目をつぶる。
 脳裏に、あの嵐の日がよみがえる。あの日出逢った、平次の姿を思い出す。
 ほんの一瞬の出会いだった。言葉さえ、交わしていない。それなのに、思い出すだけで、こんなにも苦しい。こんなにも……愛しい。
 人間として生きることは、本当に大変だろう。否、人間になれるかどうかさえ、分からない。
 ……それでも。
 どんな苦労をしたとしても。どんな結果になろうとも。もし……死んでしまったとしても。
 もしもほんのすこしでも可能性があるのなら。
 新一は、きつく閉じていた目を開けた。まぶたの下から、綺麗な蒼い瞳が現われる。そこには、強い決意の輝きが宿っていた。
「……志保。俺は、あのひとに会いたい。だから、この薬をくれ」
 志保は大きくためいきをついた。
 新一がそう答えるだろうことは、最初から予想していた。姉の話をして、それでも彼が人間を忘れられなかった時点で、答えは決まっていたようなものだ。
 新一が好きだ。本当は陸へなどやりたくない。
 それでも、あんなふうに、新一が叶わぬ恋に泣き伏せる姿は見ていたくなかった。新一の想いを叶えてあげられる可能性があるなら、助けてあげたかった。何もできずに、ただ泣き暮らす姉を見ているだけだった、あのときの繰り返しはしたくなかった。
「わかったわ。新一。この薬を、あなたにあげる」
「志保! ありがとう!!」
 新一は、ここしばらく見せなかった全開の笑顔を見せて、志保を抱きしめた。
 薬を飲んで、それだけですべてうまくいくとは思わない。それはわかっている。それでも、わずかでも可能性ができたことが本当にうれしかった。
(……平次)
 新一は、陸にいる、姿と名前しか知らない想い人に思いをはせた。


 To be continued.

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