海原の人魚 5


 月のない漆黒の空の闇は、海と空の境目さえ曖昧にしていた。静かな夜に、波の音だけがやけに響く。暗闇の中で、その音だけ聞いていると、海の中に引き込まれるような錯覚におちいる。
 普段、海中で暮らす人魚達には、浜に打ち寄せる波の音を聞く機会はあまりない。いつも接している海だというのに、こういう姿はまるで別物のように感じられた。
「新一、人気もないし、この辺がいいんじゃないかしら」
「ああ」
 海中から顔を出してあたりの様子をうかがっていた新一と志保は、まわりに人間の気配がないことを確かめると、浜辺に突き出した岩場に身を上げた。
 ふたりはベイカー国の海岸まで来ていた。
 岩場にあがってそのふちに座った新一の手には、ちいさな硝子瓶がしっかりと握られている。この暗闇でははっきり見えないけれど、中には、あの人間になれる赤い液体が入っている。
 新一は、人間になるために、ここへきた。
 人間になれたら、当然海の中で呼吸はできない。だから前もってこの浜辺までやってきたのだ。
 志保は、なにかあったときのためにと、新一についてきた。海岸へ行くということは、人間に見つかる危険性も高いということだ。だから新一はついてこなくて大丈夫だと言ったのだが、彼女はかたくなに譲らずここまでついてきた。
「はい新一。人間の服よ。たぶんサイズ大きいと思うけど……」
「いいよ着られれば。それにしても人間は大変だよな。服着たり、靴履いたり……」
 人間になれたときのことを考えて、人間の服を羽織っておく。沈没した船からもってきたものだ。
 志保に人間になる薬をもらった新一だったが、志保の勧めもあって、すぐには飲まず、いろいろな準備をした。
 こうして海岸近くまで来ても人間に見つからないように、月のない夜になるまで待った。持ってきたちいさな袋には、真珠や宝石や金貨がいくつか入れてある。人魚にとってそれらに金銭的価値はないが、人間には十分にある。陸で生活していくのに、そのうち仕事を見つけるにしても、それまでの生活費はこれでまかなえるはずだった。
 この海岸へきたのも、適当に決めたわけではない。あの人間はベイカー国の船に乗っていた。しかも王族所有の船だ。迎賓船ならともかく、普通の王族所有の船に、他国の者が乗ることは少ない。だから彼はベイカー国の人間だろうと予想を付けて、ここへ来たのだ。
 できるかぎりの準備を整えて、ここまできた。
 あとはもう、実際に薬を飲むだけだった。
「じゃあ飲むな」
 新一は、そっと手の中の硝子瓶の蓋に手をかけた。
 心配そうに見つめる志保の前で、薬を一気に煽った。不思議な赤い液体が、のどを通り過ぎてゆく。味としては、むしろ甘いような柔らかな感触だった。それなのに、のどを通り胃に落ちた途端、きつい酒を飲んだときのような熱さが広がった。
「うっ」
「新一?」
 胃が焼け付くようなあまりの刺激に、新一は腹をかかえて身をかがめた。

    ドクン

 一瞬、身体全部の血管が破裂するかと思うほど、大きく心臓が揺れた。そして次の瞬間、激しい激痛が身体を襲う。
「う、うわああああああ!!!!」
 骨が溶けてしまうような、激しい痛みが全身を駆け抜けた。あまりの衝撃に、どうすることもできずに悲鳴をあげてのたうちまわった。これほどの痛みなど、経験したことがなかった。麻酔も何もなく、身体をふたつに引き裂かれ、内臓をすべて取り出されようとしているかのようだ。
「新一! 新一!」
 痛みにもがく新一を抱きしめようとする志保の声もまともに耳に入らない。
「うわあああああああああああ!!!」
 蒼い尾ひれが苦しさを表すように、何度も岩に叩きつけられる。それでも痛みは一向に引かない。もがくことしかできない。
 それがどれほど続いたのか。痛みが続く中で、いつのまにか意識を失った。



「……新一。新一」
 軽く揺すられる感覚と聞きなれた呼び声に、ゆっくりと新一の意識が浮上した。
 いつもと違って、身体が妙に重かった。体の中に水を満たされたかのように、全身がだるい。
(みず?)
 不意に理解する。こんなに身体が重く感じるのは、水の浮力がないからだ。まわりに、いつもあった優しく包んでくれる海水がないからだ。
 うっすら目を開けると、心配そうにのぞき込む志保の顔が映った。
「新一! 気が付いた?! 大丈夫!?」
 空はもうだいぶ明るくなっている。もうすぐ陽も昇るだろう。結構長い間、気を失っていたらしい。重い身体をゆっくり岩場の上に起こした。すこしぐらつく頭を手で支える。
(俺は……、!!)
 そうだ、人間になる薬を飲んだのだ!
 やっと自分の状況を思い出す。
 新一は急いで自分の尾ひれに目をやった。すると、そこにあるのは見慣れた蒼い尾ひれではなかった。
 人間と同じ、2本の足が、そこにあった。
(……あし……)
 自分の胴から伸びるそれを、新一は夢でも見ているように眺めた。つい昨日まで、そこにあったのは蒼い鱗におおわれた尾ひれだった。けれど、今は鱗もなく白い肌が2つに分かれて続いている。
 すこし力を入れてみると、足の指がぴくりと動いた。立て続けに2度3度、指や足首を動かしてみる。そのたびに、新一の意思どおりに足は動いた。尾ひれは、完全に足に変わっていた。
 新一は、人間になったのだ!!
(志保! 成功だ! 俺、人間になったんだ!!)
 新一は勢いよく顔を上げて、目の前にいる志保に向かって叫んだ。
 ……叫んだ、はずだった。それなのに、音は聞こえなかった。叫んだはずなのに、声が出ていなかった。
(……え? 俺、声……)
「新一?」
 志保も、すぐにその異常に気付いたらしい。
「声が、でないの?」
 新一は、声を出そうと必死に口を動かす。けれど、息のもれる音がするばかりで、声は出なかった。
「呼吸器を変化させるときになにか異常があったのかしら。新一、口開けてみて」
 言われて、新一は素直に口を開ける。
 志保は口のなかをのぞき込んだり喉に触れたりして、異常の原因を調べる。けれど、原因は分からなかった。
 新一は、遺伝子を変化させたのだ。遺伝子レベルでの異常なら、詳しく調べなければ分からない。ここではこれ以上は何もできないだろう。
「新一、あなたの血をすこしちょうだい。持って帰って調べるわ。他におかしなところはない?」
 志保は、血液を入れるためのちいさな瓶を取り出して新一に渡す。新一は指の先を少し切って、瓶に血をいれた。
 他におかしなところは、今のところはないようだった。身体のどこかが痛むということもない。身体をひとまわり見回してみても、一見、普通の人間の身体に見える。異常は、声が出ないということだけのようだった。
「でも、どうしましょう。声が出ないというのは結構なハンデよね。他に異常がないとも限らないし……。新一、とりあえず、しばらく海辺のどこか近くに隠れていたら? たしか近くに海に面した洞窟があったわよね。あそこなら……」
 言いかけた志保の言葉が不意に途切れる。遠くから、近づいてくる何かの音が聞こえてきたからだ。新一の耳もそれを捕らえ、音の方向に目を走らせる。
 何かが……誰かが近づいてくる!
(志保! 海へ!)
 必死に口ぶりと身ぶり手ぶりでうながす。
 今の新一はとりあえず人間の姿をしているが、志保は人魚のままだ。人間に見つかったら、どんなことをされるか分からない。
 けれど志保は、新一をひとり残していくことをためらっているようだった。それに焦れて、新一は彼女を岩場の上から海に突き落とした。岩場の高さは背丈ほどもないし、逆に海はすこし深くなっているから、怪我をするようなことはないだろう。岩場の下から水音がして、彼女が無事に海に潜ったことを知る。とりあえずこれで志保は多少は安全だろう。
 岩場にひとりになった新一は、近づいてくる音にすこし身構える。やはり、陸に上がって右も左も分からない状態で、初めて遭遇する出来事に、かすかな恐怖があった。
 近づく音はだんだんと大きくなる……。やがて、砂浜の向こうから、近づいてくる影が見えてきた。
 砂浜を走ってくるのは馬だった。本では見たことがあるが、この陸の生き物を直接見るのははじめてだった。思っていたよりもずっとおおきく、新一はすこしおびえる。逃げるべきかどうか判断に迷っているうちに、馬はもうすぐそこまでやってきた。
 馬の背には、人間が乗っていた。
 近づいてきた馬に乗った人間は、岩場にいる新一を見つけたようだった。岩場のすぐ近くで、馬を止めた。
 明るい朝陽の中、その人間の姿を見て、新一は驚きに目を見張った。
 浅黒い肌。黒い髪。引き締まった身体。草原の色の瞳。忘れるはずもない。見間違えるはずもない。
 彼だった。
 今、新一の目の前にいるのは、あの日、海で助けた、新一の心を捕らえてはなさない彼だった。
(……平次!!)
 もしも新一の声が出ていたなら、思わずその名を叫んでいただろう。
 なんということだろう。逢えるかどうかも分からないと思っていたのに、こうして陸に来てこんなにすぐに逢えるなんて!
 平次は馬から降りて、ゆっくりと岩場にいる新一のもとまで歩いてきた。彼が近づくたびに、新一の心臓は壊れそうなほどに高鳴った。頬が熱い。ともすれば、泣き出してしまいそうだ。それを必死に抑える。
 平次は膝をついて、座り込んでいる新一と同じ目の高さになると、その顔を覗き込んできた。
「なんやおまえ……人魚か?」
 その言葉に、新一の肩がびくりと震える。
 まさか、気づかれたのだろうか。自分では気づけなかったが、どこか身体におかしいところがあって、人魚だと分かってしまったのだろうか。
 けれど脅える新一とは裏腹に、平次はすぐに笑顔で自分の頭を掻いた。
「堪忍。そんなわけないよな……ちゃんと足あるもんな。あんまりおまえが綺麗やったんでな」
 人魚だと、気づかれたわけではないらしい。ほっとすると同時に、言われた台詞に新一は真っ赤になる。綺麗、と言われた。彼に。
 今までは特に意識しなかった自分の容姿を、今更ながら強く意識した。
 いくら人間にとって人魚はみな『美しい』といわれる容姿でも、もうすこし身だしなみでも整えてくればよかった。もっと髪も梳かして綺麗にそろえて……。服だって、こんなお仕着せのサイズの合わない古着などではなく、もっといいものを選べばよかった。
 急に今の自分の姿が恥ずかしくなる。新一は平次の視線を避けるように、自分の身体を腕で隠した。
「そんなん脅えんといて。なんにもせんから」
 困ったように、平次が言った。照れてちいさくなる新一の様子を脅えていると思ったらしい。
 脅えているわけではないということをどうにか伝えようと、新一は必死に首を振る。出ない声で、それでも必死にくちびるを動かす。
 その様子に、平次も新一の異常に気づいた。
「もしかして、声でんの?」
 新一はうなずく。
「そうなん。大変やな。耳は聞こえるんよな? うーん……文字、書けるか?」
 また新一はうなずいた。本好きな新一は、人間の文字も知っていた。
「俺は平次いうんよ。おまえの名前は?」
 言いながら、平次は新一に向かって浅黒いおおきな手のひらを差し出した。手に文字を書けということらしい。
 新一はその手に触れることにどきどきしながら、そこに自分の名前を指でなぞった。
「新一、か……。ええ名前やな。新一は何処から来たんや? なんでこんなとこおったん? どこか行くとこなんか? 船が難破してここに流れ着いたとかか?」
 矢次早に質問して、平次は新一が筆談で答えを返すのを待っているようだったが、新一は答えられなかった。それに答えるには、新一が人魚だとばらさなければならない。とっさには言い逃れるうまい嘘も思いつけない。
 何も答える様子のない新一をどうとったのか、平次は無理に追求してくるようなことはなかった。
「なあ新一。行くとこないんやったら、俺んとこにこんか? こう見えても俺、この国の王子なんよ」
(王子? 平次が?)
 ベイカー国の人間だろうとは思っていたが、まさか王子だとは思わなかった。けれど、それなら彼が王族の船に乗っていたことも分かる。
 いや別に、彼の身分などどうでもいいのだ。彼が王だろうと商人だろうと奴隷だろうと、そんなことはあまり関係ない。それよりも。
(一緒に、行っていいのか?)
 胸が高鳴る。こんな偶然と幸運があっていいのだろうか。すぐに彼に逢えただけでなく、一緒に連れて行ってくれるというのだ。もしかしたら、薬を飲んだ時点で死ぬかもしれないとまで思っていたのに、なんて幸運が重なるのだろう。
「どないする? 新一?」
 一緒に行きたい、と言う意思を込めて、新一は必死に平次の服の端を握った。その想いはちゃんと伝わったらしい。
「わかった。ほな、一緒に行こか」
 平次は新一の手を取って立ち上がった。新一も一緒に立ち上がろうとして、地面に足をつけ体重をかけたところでバランスを崩した。
(あっ……!)
 2本の足で地面に立ったことなどない新一は、バランスのとりかたなど分からない。岩の上に倒れそうになる。
「おっと」
 転びかけた新一を、平次が腕を伸ばして抱きとめた。おかげで新一は地面に激突することは免れる。
「どうしたん? うまく歩けんの?」
 軽々と平次は新一を抱き上げる。
(うわっ……!)
 抱き上げられたことで、新一の身体は平次に密着することになる。腕の力の強さを感じる。触れる肌から体温が伝わる。顔だって、吐息が触れそうなほど近くにある。
「新一はほんまに……人魚みたいに綺麗なや」
 その草原のような綺麗な緑の瞳に真っ直ぐに見つめられて、新一は顔を赤くしてうついてしまう。心臓が壊れてしまいそうだ。
 岩場からすこし離れたところにとめておいた馬のほうへ、新一を抱き上げたまま歩き出す。そのとき新一は、岩場の影のところにいる人魚に気づいた。志保だ。様子をうかがうように、心配そうに見つめていた。
(志保。俺は、大丈夫だから)
 平次に気付かれないよう、そっと声を出さずにくちびるを動かしてそう伝えた。もっとも、声を出したくても、今は声が出ないのだが。
 その意思は、ちゃんと志保に伝わったようだ。ただそれでも心配そうに眉をひそめてはいたが。
 平次は新一を馬に乗せ、自分もその後ろに座るとたずなをとった。
「新一、しっかりつかまっとき」
 馬に乗るのなどもちろんはじめてで、新一はどうすればいいのかなどわからない。ただ振り落とされないようにと、平次にしがみついた。
 平次の一声を合図に、馬は勢いよく浜辺を走り出した。海が遠くなる。
 こうして、生まれてはじめて新一は、海から離れていった。


 To be continued.

 続きを読む