海原の人魚 7


 はじめは、ちょっと体がだるい、という程度の認識だった。
 けれどそれは、平次と身体を重ねた直後のことだったので、そのときのことがまだ身体に響いているのだろうと思っていた。
「大丈夫か、新一」
 ベッドにぐったりと埋もれている新一の傍にきて、平次が心配そうにその頬に触れる。
 あの夜からすでに2日が経つというのに、新一はまだ体が本調子には戻らず、ほぼ一日中寝込んでいるような状態だった。
(大丈夫)
 新一は、頬に触れる平次の手に自分の手を重ねて、微笑んで見せる。自分の具合よりも、こんなふうに心配や迷惑をかけてしまうことのほうがつらかった。
「すまんな、無理させてもうて」
 そんなふうに言われて、そのときのことをまた思い出して、恥ずかしくなって、新一はふとんを鼻先までひっぱりあげる。声が出たなら、そんなこと言うなと文句のひとつでも言うのだが、声が出ないので、ふとんから目だけを出して睨んでみる。それでも、真っ赤になった顔で、潤んだ目で睨んでみても、効果などない。新一のかわいらしい様子に、平次は頬をゆるませる。
「早うよくなってな」
 子供をあやすように、そっとふとんの上からぽんぽんと軽くたたく。
 そんな子供扱いに拗ねて、新一は鼻先までだったふとんを、頭の先まで引っ張り上げ、すっぽりともぐってしまう。
 しばらくそのままでいると、ふとんの上からそっと触れていた手の感触が不意に消えてしまった。耳を澄ましても、なんの物音もしない。平次は部屋を出て行ってしまったのだろうか。こんな自分にあきれて、帰ってしまったのだろうか。
(平次)
 急に不安になって、心細くなって、新一はけだるい身体でそれでもふとんをはねのけるように体を起こした。
(平次)
「なんや新一」
 出ない声に反応するように、すぐに声がかけられる。
(え……)
 さっきとまるで同じように、平次はベッド脇に座っていた。ただ、ふとんから手を離して、音を立てないようにして、気配を消して──新一を、試していたのだ。
 おそらくは、平次の思ったとおりの反応を返してしまったことに、新一の頬が赤くなる。こんな簡単なことに引っかかるなんて。部屋を出る足音がしたわけでもない。ドアを開け閉めする音がしたわけでもない。ただちょっと触れる手の感触がなくなっただけで。いなくなってしまったかもと、思っただけで。こんなにも過剰な反応をしてしまった。
(だって)
 声にはならない声で、言い訳をするように新一はつぶやく。
 平次は、知らないのだ。分かっていないのだ。どれほど新一が平次を想っているかなんて。ずっとずっと焦がれて、ずっとずっと想いつづけてきたのだ。命だって、賭けられるくらい。こんなことで、すぐ不安になってしまうくらい。
「堪忍。意地悪しよう思うたわけやないんよ」
 うつむいてしまった新一をなだめるように、平次はそっと新一を抱き寄せた。しばらく抱きしめたあと、新一の身体を気遣うように、そっとベッドに横たえさせる。その身体に、そっとふとんをかけてやる。
 だるい身体をいつまでも起こしておくのは新一にとってもつらく、そのままおとなしく横になる。けれど今度はふとんに隠れてはしまわない。その海の色をした澄んだ蒼い瞳でじっと平次を見上げたまま、すこし甘えるように片腕だけをふとんから出す。
 平次はその意を汲み取って、差し出された新一の手をそっと握った。
「大丈夫や。ここにおるよ」
 甘えている、という認識はある。平次には王子として仕事もあるし、ずっと自分の傍についていられるわけじゃない。平次がいなくても何不自由ないよう、新一には何人もの侍女だって控えている。
 でも、もうすこしだけでいいから、傍にいて欲しかった。
 体調の不調のせいで、すこし弱気になっているのかもしれない。
(もう、平気だから)
 あまりわがままを言って、平次を困らせたくはない。重荷に思われたり嫌われたりなどもってのほかだ。
 新一はつないだ指をほどこうとした。
 けれどそれを、強い力で平次が引き止める。絡んだ指が、強く握られる。
「ここにおるて、言うたやろ?」
(でも、仕事が)
「おまえのほうが大事や」
 言われた言葉に、途端に新一の耳まで紅く染まる。引っ込めようと力が込められていた指先が、力を無くしてぴたりと止まる。
 平次はその手を引き寄せて口元に持っていった。褐色の手に絡まる白い指先に、そっとくちづける。
「おまえは分かっとらんのや。俺がどれほどおまえのこと想ってきたか」
(平次?)
 新一は平次を見上げる。平次は白い指先にくちづけたまま、まるで祈るように目を伏せていた。その姿に、わけもなく胸が締め付けられる。
「早う、ようなってな。そしたら、連れて行きたいとこもぎょうさんあるし、一緒にやりたいこともぎょうさんあるんやからな」
(うん)
 新一はつないだ手に、すこし力を込めた。それに答えて、平次の力もすこしだけ強くなる。
 おおきな手が、そっと新一の髪をなでる。そっとそっと優しく。それにつられるように新一はそっと目を閉じた。ゆるやかな眠気が襲ってくる。それにそのまま身を任せた。
 しっかりと手をつないだまま、新一は眠りに落ちた。



 そうしてしばらく安静にしていれば回復するかと思われた新一の体調だったが、体のだるさは消えず、さらに微熱が続いて、なかなかよくならなかった。
 けれどそれも、慣れない陸の生活の疲れが今ごろ一気に出てきたのだろうと、原因についてあまり深く気にしなかった。
 けれど、熱が10日以上も続き、それでもなお一向に回復の兆しがないころ、誰もが異常に気づき始めた。
 あきらかに、新一の身体は異常をきたしていた。
「新一。大丈夫か?」
 枕もとに座って、新一の汗で濡れた前髪をかきあげながら、平次は心配そうにその顔をのぞきこんだ。触れる額は、熱のせいで熱い。あきらかに苦しげに息を吐きながら、それでも平次を安心させようと、新一は無理をして笑って見せた。
「新一……」
 平次は新一のために、何人もの医者や薬師をよんで、彼を治そうとしていてくれた。けれど病気の原因さえわからず、誰も有効的な治療を施すことはできていなかった。
(志保……)
 新一は、海にいる、薄紅色の鱗を持つ彼女を思い浮かべた。
 もともとは人魚で、薬によって人間になった新一は、普通の人間とは違う。この症状が、人間になる薬を飲んだ副作用なのだとしても、それ以外の原因だったとしても、彼女でなければ原因を知ることさえできないだろう。
 新一は重い首を動かして、窓から一面に広がる海を眺めた。
(志保に、連絡を……)
 そうは思っても、熱でまともに動くことのできない新一には、今はどうすることもできなかった。たとえば伝言を書いた紙を小瓶にでも入れて海へ流せば、きっと志保に届くだろう。けれど今の新一には、海まで行くことができない。あの庭園の入り江にさえ行けない。この身体が、まともに動いてくれないから。
「新一なんか欲しいもんあるか? 食べたいもんとか」
 平次の問いかけに、新一はゆるく首を振る。
 欲しいものなど、今はなかった。食べ物も、粥と果物をすこし口にする程度で、それ以外は身体のほうが受け付けなかった。
「そや。これ」
 平次は新一の手を取ると、その手に何かをにぎらせた。
(?)
 新一は重い腕を動かして、自分の手の中にあるそれを見た。
(!? これ……)
「庭園の入り江に、また流れついとったんや。おまえ、これ気に入ってたみたいやろ?」
 それは、志保の作った通信用の貝だった。おそらくは、志保がまた新一への連絡のために入り江に流したものだろう。
 おそらく平次は、以前これと同じ貝を拾って大事にしている新一を見て、この貝が気に入ったのだと思って持って来てくれたのだろう。それがすこしでも、新一の慰みになればいいと思って。
 思わぬ偶然に、新一は感謝する。これで、なんとか志保と連絡が取れるかもしれない。
 ふとんの中でちいさく丸まるようにしながら、そっと平次には見えないように貝を耳に当てた。
『新一。海岸で、待っているから。いつでも待ってるから』
(志保)
 貝から聞こえてきた声は、いつもの冷静な彼女の声ではなく、切羽詰っているようにも聞こえた。彼女にも、今の新一の状態が分かっているのかもしれない。姿を見たわけでもないのに異常が分かるということは、渡した血のほうに異常が発見されたということだろう。
「どないした? 新一?」
 身体を丸めた新一の様子に、具合が悪くなったのかと、平次が心配そうに声をかける。新一は急いでふとんから顔を出して、安心させるように微笑んで見せた。
(大丈夫。貝、ありがとう。嬉しい)
 お礼を告げれば、平次も微笑み返して、そっと髪をなでてくれる。
 熱にうかされるこんな苦しいときでも、平次が傍にいてくれてしあわせだった。このしあわせがいつまでも続けばいいと思っていた。でもそれは、もしかしたら、叶わないことなのかもしれない。新一は漠然とそう感じていた。



 身体の容態がすこし落ち着いて、新一が深夜の海岸に訪れることができたのは、貝を受け取ってからすでに4日経っていた。
 細くなった月はすでに夜明け近くにならないと昇らず、星明りしかない薄暗い夜だった。闇の中を、波の音を頼りに歩く。
(志保。いるのか?)
 声が出たなら呼びかけて探すことができるのに、声の出ない新一は、薄暗い中で必死に目を凝らしてその姿を探すしかない。
「新一。ここよ」
 海から声がして、そちらへ目を向ければ、手を振る影が見えた。その影が一瞬海中へ消えたかと思うと、数秒の後に、水音を響かせて、志保が岩場に身を上げた。新一は彼女のもとへ向かう。
 今夜海岸に来ると、前もって伝えていたわけではないのに、それでも海岸に来た新一をすぐに見つけたということは、志保は貝の伝言どおりに、ずっとここで待っていたのだろう。貝を受け取ってからだって、4日経っている。志保が貝を流したのはもっと前かもしれない。それでも、それから毎日彼女はこの海岸に来ていたのだろう。人間に見つかるかもしれない危険を冒しながら。それでも新一のために。
 新一は志保のいる岩場へ来ると、ほんのすこし彼女と距離をとって膝をついた。
「新一。具合悪いんでしょう? 大丈夫?」
(そんなことないよ。大丈夫だよ)
 新一は笑顔で答えるが、本当は嘘だった。身体は相変わらずだるく、まだ微熱があって、足元もふらふらしている。寝込んで動けないというほどではないが、それは具合がいいというよりも、この熱のある具合の悪い状態にすこし慣れてきたという感じだった。
 しかしそんな新一の答えに、志保は眉根を寄せる。
「嘘なんてつかないで、新一」
 志保の手が伸ばされて、そっと新一の頬に触れようとする。触れられたら、熱があることがすぐに分かってしまう。だからこそ、今日の新一は志保に抱きつかずにいたのだ。すこし離れていたのだ。触れられるわけにはいかない。
 志保の手を避けるように身を後ろに引こうとして……ぐらりと新一の視界がかしいだ。
「新一!」
 志保がとっさに身を乗り出し、腕が新一を抱きとめるように回される。新一も手を地面について支え、倒れることは免れる。それでも、頭のぐらつきはすぐにはおさまってくれなかった。額を押さえ、きつく目をつぶってやり過ごす。
 志保はそんな新一の身体をそっと自分の胸元にもたれかけさせた。
「ごめんなさい。私の薬が不完全だったから……」
(じゃあ、やっぱり)
「ええ。あなたの体の異常は、薬の副作用よ。あなたの血を調べていて、声が出ないこと以外の異常が見つかって、ずっと心配していたんだけど……」
 自分のしてしまったことを悔やむように、志保がきつく唇を噛むのが分かった。新一を抱きしめる腕にも力がこもる。それに気づいて、新一は自分に回されている腕にそっと手を重ねた。
 たとえ薬のせいで異常が出たのだとしても、それは志保のせいではない。彼女を責めるつもりなど毛頭ない。どんな副作用があるか分からないとははじめから彼女も言っていた。それを承知で新一は薬を飲んだのだ。
 それに、もともと人魚が人間になるなど、夢物語以上に夢のようなことだったのだ。それなのに新一は人間になれた。そして、人間になれたからこそ平次と結ばれることができたのだ。志保に感謝こそすれ、恨むことなど決してない。
(志保。おまえのせいじゃないよ)
「新一……」
 志保は、彼を抱きしめる腕に力を込めた。
 たとえ新一がすべてを了承して薬を飲んだとしても、志保を責めても何らおかしくはなかった。それなのに、彼は相変わらずこんなにも優しい。こんなにも愛しい彼を、絶対に、このまま失ったりはしたくない。絶対に。
「でも大丈夫よ。待ってて、もうすぐ解毒剤が完成するから」
(解毒剤?)
「まあ、もとの薬が毒だったわけでもないから、この言い方は正しいわけじゃないかもしれないけど。あの薬の効果を消す薬よ。もうすぐ完成するから」
 志保の言葉に、新一は彼女の胸から身体を起こした。
(俺、人魚に戻るってことか?)
「……そういうことになるわ」
(人魚に戻って、人間になる薬の完成を待つのか?)
「……いいえ。それは無理よ」
(なんで!?)
 新一は、出ない声を荒げた。
 せっかく人間になれたというのに、人魚に戻って、薬の完成を待てないというのなら、もう平次の傍にはいられなくなってしまう。また人魚と人間として、遠く隔てられた海の底で、彼を想って泣くことしかできない。
(なんで、なんで薬の完成を待てないんだ? 完全な薬を作るのは、無理だってことか?)
「完全な薬ができるかどうかは、まだ分からないわ。これからもっと研究していって、できるかもしれないし、できないかもしれない。でもね新一。あの薬を飲んだときの苦しみ、覚えているでしょう。遺伝子を変化させるなんて、ものすごく身体に負担がかかるのよ。何度も繰り返せば、身体のほうがもたないの。あなたの身体は、もう限界に来ている。人間から人魚に戻ることで精一杯よ。そこからもういちど人間になるのは……無理よ」
 言い聞かせるように、志保はゆっくりと言葉をつむぐ。
(…………)
 彼女の言いたいことは分かる。薬を飲んで、人魚から人間になるときのあの苦しみ。あんなことを何度も繰り返せば、身体が壊れるだろうことは、実際に経験した新一にはよく分かる。あと1回、人間から人魚に戻るくらいはなんとか耐えられるかもしれないが、それ以上は、もう無理だろう。きっと、薬の強さに耐え切れず、変化する前に死んでしまうだろう。
 今人間から人魚に戻ってしまえば、もう人間になることはできない。新一はまた人魚として生きることになる。
 そうしたら、もう平次の傍には、いられない。
(……志保。俺は人魚には戻らない。このまま人間でいる)
「新一! このままじゃあなたは……死んでしまうわ!」
 新一の腕を強くつかんで、悲鳴のように志保が声を張り上げた。
 死。
 その言葉は、実感を持って、新一の胸に落ちてくる。きっとこのままでは、おかしくなった遺伝子が正常に働かず、だんだんと弱って死んでしまうのだろう。今の具合の悪さを考えれば、そんなことは容易に想像できた。
 人魚に戻れば、それは免れるかもしれないが、代わりに、平次と別れることになる。
 死んでしまうことと、平次と離れててしまうことと。
 どちらかを選べといわれたら、そんなことはもう最初から決まっている。新一はすでに選んでいる。人間になると決めた、あのときから。あのときだって、自分の命が消えることも覚悟していた。それでも平次の傍に行きたかった。
(俺は、平次の傍にいたいんだ)
 まっすぐに志保を見つめ、新一はそう告げた。
 蒼い瞳は、薄暗い夜の中でも、心臓を貫きそうなほどにまっすぐに輝いていて、ゆるぎない強さを持っていた。
「新一……」
(ありがとな、志保。心配かけて。でも俺は、大丈夫だから)
「もう。なんであなたはそんなに莫迦なのよ……」
 こらえきれずに、志保の瞳から涙があふれた。もう何が哀しいのか、よくわからない。ただ、せつない。そんなにまで、ただひたすらに人間を想う彼が。
(志保。泣かないでくれ。俺は、平次の傍にいられて、しあわせなんだから)
 新一を抱きしめていたはずの志保は、いつのまにか代わりに彼に抱きしめられ、その胸にすがっていた。新一の胸元を濡らす涙はとまらない。そんな志保を、新一はずっと抱きしめていた。



 志保が泣きやむのを待って、新一はふらつく足取りで、また城へと帰っていった。
 その姿が海岸から見えなくなって、砂浜を歩く新一の足音も消えて、海岸にはまた寄せては返す波の音だけになる。
 新一が去ってもまだ岩場にたたずんでいた志保は、視線も動かさないまま、言葉を投げつけた。
「そこにいるんでしょう。出てくれば?」
 ざりっという砂を踏む音がして、すこし離れたところにあるおおきな岩の陰から、ゆっくりと人影が出てくる。それはあきらかに人間だった。けれど志保は逃げる様子も見せずに、その影をにらみつける。
 ゆっくりとその影が近づいてきて、薄暗い中でも、その姿形をはっきりと現してくる。その人物を、志保は以前に何度か見かけていた。最初は、新一が人間になったとき、この海岸で。そして、新一を心配して、何度か城の近くまで泳いで行ったとき、新一と一緒にいる姿を見かけた。その人物は……。
「あなたが、平次ね」
 ぞんざいに言葉を投げつける。
 志保の美貌できつくにらみつけられて、普通の人間ならたじろがずに入られないだろうに、平次はそれを軽く受け止める。
「ああ、そうや。おまえは、前にも新一が城を抜け出した夜に、ここで新一と話してた人魚やな」
「……気づいていたの」
「ああ。あいつがこっそり夜中抜け出すんで、何処行くかと思うてな。悪いとは思うけどあとつけさせてもろうたんや。まあ、あいつが人魚やろうちゅうことは、もっと前から思うとったけどな」
 おそらくそのときも、彼はこうして岩場の影から、志保と新一の様子を見ていたのだろう。けれど、志保はそれに気付けなかった。そのことに、唇を噛む。いつだって人間の気配には気をつけているつもりなのに、気付けなかったなんて。
 今日、彼がいたことに気付いたのも、新一との会話の途中で、彼が動揺して気配をうまく消せなくなったからだ。それより前は、すぐ傍にいることにさえ気付けなかった。
「まああいいわ。分かっているなら話が早いから」
 気を取り直して、志保は平次に向き直った。
 この男を、気配を消せないくらい動揺させたのは、『このままでは新一が死んでしまう』という言葉だった。この男も、新一を失いたくはないのだろう。それでいうのなら、この男は敵ではない。
 だからこそ、そのまま海に帰らずに声をかけたのだ。新一を助けるために、人魚の志保ではできないことがあった。それを、あるいはこの男なら──。
「話を聞いてたのならもう分かっていると思うけど、新一は、嵐の海であなたを助けた人魚よ。あなたに逢うために、私が作った人間になる薬を飲んでここへ来たの。でも、薬が不完全だったから、副作用がでているの。新一の体の異常はそのせいよ。このままだと新一は死んでしまうわ」
「あいつを助ける方法はあるんか?」
「今、薬の解毒剤……人魚に戻る薬を作っているわ。でも、新一はそれを飲むことを拒否しているの」
「俺に、新一に海に戻るよう説得しろちゅうことか?」
 志保はゆるく首を振る。濡れた淡い茶色の髪が、長く陸にいたせいで乾きかけ、さらさらと揺れる。
「いいえ。薬なんて、だましてでも無理にでも、どうにだって飲ませることはできるわ。……薬さえできればね」
 何かを含むような物言いに、平次の眉根が寄せられる。
「薬、できんのか?」
「できないことはないわ。ただ……『材料』が足りないの」
 平次の片眉がわずかに上がる。彼も志保の意図を汲み取った。新一を助ける薬を作るために足りない材料を用意して欲しい、ということだろう。だからこそ、この人魚はわざわざ平次に声をかけたのだ。
 もちろん、新一を助けるための協力を惜しむ気はない。新一が人魚に戻ったら、もういちど人間にはなれないことは、聞き耳を立てていた会話からうかがいしれた。新一と離れてしまうことは耐えがたいが、新一の命には代えられない。
 だが、『材料』と言った志保の言葉の中には、強いためらいを含んだ暗い何かが潜んでいた。一体何を求めているのか。
 平次は黙って志保の言葉を待った。いくばくかためらうように数秒の沈黙を落とした志保は、それから意を決したように告げた。
「人間が、ひとりいるの」
「人間、て」
「あなた王子なんでしょう? 人間をひとり、用意してくれないかしら」
「なっ……!」
 平次は言葉を失う。
 この紅い鱗を持った人魚は、人間を『材料』というのだ。まるで物のように。
「生きている、健康な……できれば新一と同じくらいの年齢の……」
 志保だって、自分がどんなにひどいことを言っているか、分かっていた。これでは、人魚を下等生物とみなし、『人魚狩り』をする人間と一緒だ。
 けれど、新一を助けるためには、なりふりかまっていられなかった。
 新一を確実に助けるためにも、解毒剤は不完全なものではいけない。解毒剤まで不完全で、人魚に戻ってもまた異常が出るなんてことはあってはならない。人間になる薬以上に慎重にならざるを得なかった。
 それには、まず人間の遺伝子情報を正確に知る必要があった。そのサンプルとしても、実際の『材料』としても、人間がひとり必要だった。
 死んでいる人間ならいくらでも手に入る。海でおぼれた人間の死体を持ってくればいい。そんなものは、海にいくらでもある。けれど、今必要なのは、生きている人間だった。生きた、健康体の、細胞として活発な活動を続けている人間。人魚である志保がそれを用意することは至難の業だった。
 だが、『王子』という地位を持つこの男なら、それも可能だろう。それを見込んでの頼みだった。
「人間ひとり用意したら……そいつは、どうなるんや?」
 平次の声が、わずかに震えている。『材料』といわれた時点で、彼もその答えは薄々わかっているのだろう。確認のようなその問いに、志保もためらいながら、それでもはっきりと答える。
「……死ぬ、と思うわ」
「…………!!」
 強く両手を握り締める。
 つまりは、この人魚は平次に、新一を助けるために、ひとをひとり殺せと言っているのだ。直接手を下すわけではないとしても、結局はそういうことだ。
 肩が震える。怒鳴りだしたいような気持ちになったが、何と怒鳴りたいのか、自分でもわからなかった。代わりに深く深呼吸を繰り返す。低くおさえた声を振り絞った。
「……どうしても、人間がひとり必要なんやな」
「ええ」
「……それがないと、新一は助からんのやな」
「ええ」
 二人のあいだに沈黙が落ちる。たえず繰り返される波の音が、いやに耳についた。
「……わかった」
 しばらくの後に、平次の声が聞こえた。その声は、もう震えてはいなかった。
 一度きつく閉じた瞳をゆっくりと開いて、目の前の人魚を見据える。深い緑の色が暗い海を映す。
「人間ひとり、必ず用意する。せやから、新一のこと、必ず助けたってや」
 志保はほっと息をつく。
 彼に断られてしまったら、新一を助ける十分な準備ができないところだった。これで、新一を助けるための『材料』はとりあえずそろうことになる。その人間に対する罪悪感はあるが、彼女にとっては新一のほうが大事だった。
「それじゃあ、選んだ人間に、この薬を飲ませて、この海岸まで連れてきて」
 志保は懐から取り出したちいさな硝子瓶を平次に渡す。中には調合された特殊な液体が入っている。
「わかった。明日……いや、明後日、連れてくる。それでええな?」
「ええ。待っているわ。お願いね」
 材料が手に入ると分かったのなら、早く薬を作る準備をすすめなければならない。志保はまた海へと戻っていった。
 海岸に残された平次は、手の中に残されたちいさな硝子瓶を振ってみると、中にある液体が揺れてかすかに水音がする。力を込めて握れば、すぐに割れてしまいそうなちいさな瓶。これが、新一の命を握っている。
「新一」
 ちいさくその名をつぶやいてみる。
 暗い中では分からなかったが、渡されたその液体は、彼の瞳に似た澄んだ蒼い液体だった。



「なあ新一。調子いいんやったら、一緒に海行かんか?」
 その日の朝、平次にそう言われ、新一はすぐに笑顔でうなずいた。
 その日もまだ身体は本調子ではなかったが、いつもよりは調子がよく、出かけられないほどではなかった。それに、ここ最近はずっと寝込んでばかりで、まともに外になど出ていない。平次と共に出かけられるのは嬉しかった。行き先が海ならなおさら。
「じゃあ馬出すから、用意してな。寒うないようにな」
(うん)
 平次は具合のあまりよくない新一を気遣いながらも、馬の前に乗せて、出かけていった。
 ふたりだけで城の外に出るのははじめてだった。馬に乗るのも、最初に陸に来た日以来だ。まるであの日のようで、新一はどきどきしながら揺れる馬の上で平次にしがみつく。
 やがてふたりは、ふたりが出逢った浜辺までやって来た。
(ここ)
「覚えとるやろ? 俺が新一と逢った場所や」
 はじめて逢ったのはあの嵐の海だが、ちゃんとに出逢ったのはこの場所だ。忘れるわけもない。時間にすれば、それはたった月のめぐりがひとまわりする程度の時間しか経っていないが、それでもそのときのことがひどく懐かしく感じられた。
 馬から降りた平次は新一の手を引いて岩場へ行き、最初に新一が海からあがって座っていたその場所に、新一を自分の膝に乗せるようにして座る。
 しばらくふたりのあいだに言葉はなかった。波の音と潮の香りがゆき過ぎる。
 すこしして、ゆっくりと平次が口を開いた。
「なあ新一。おまえ、人魚なんやろ?」
(…………)
 それに、うなずいてもいいものか、新一は迷う。
 平次がそれに気づいているだろうことは、新一も分かっている。けれど、実際に肯定してしまうことには、まだ迷いがあった。平次を信用していないわけではない。人魚だとばれたからといって、人魚狩りをするようなひとではないとちゃんと分かっている。
 ただ、人魚だと肯定してしまうことで、人間と人魚という、隔たりを感じてしまうことが怖かった。
 人間になる薬を飲んだといっても、新一は結局完全な人間にはなれなかった。結局新一は、人魚でしかないのかもしれない。決して人間とは……平次とは結ばれることの叶わない人魚。
 不意に寂しさがこみあげて、新一は平次の服をぎゅっと握った。平次がそれに気づいて、かすかに笑いながら、新一の背をなでる。
「前にも言うたやろ? 新一が人間でも人魚でも、おまえが好きやて」
 新一は、平次の胸に頬を寄せて、そのあたたかさや鼓動を感じながらそっと目を閉じる。
 この身体が、あといつまでもつのか分からない。それでも、それまでこうして平次の傍にいたかった。
 本当は、ずっと傍にいたかった。
 ずっと一緒に生きて、しあわせに。
 でもそれが叶わないのなら、ひとりで生きることよりも、ひとときでいいから傍にいたかった。
「大丈夫や、新一」
 平次は新一を抱きしめて、その髪をそっとなでた。
「おまえを愛しとる。おまえを、死なせたりせん」
(平次?)
 新一はうずめていた胸から顔を上げて、平次を見つめた。深い緑の瞳が、まっすぐに新一を見つめていた。
「おまえを愛しとる。せやけど、おまえのためでもやっぱり人殺しはできんのや。かわりに、俺の命をやるから」
(何、言ってるんだ?)
 新一には彼が何を言っているのか分からない。人殺し、なんて。俺の命をやる、なんて。志保と平次の交わした約束を知らない新一には、平次の言葉がなにひとつ理解できない。
「おまえのためやったら、死ねるわ」
(なに? それ、どういうことだ?)
 新一の問いかけに、平次は答えない。ただそっと優しく微笑みかける。
 平次は新一を膝から下ろすと、そっと自分の隣に座らせた。まるで誓いのようにそのまぶたにそっとくちづけると、新一の肩を抱いたまま、海に向かって叫ぶ。
「人魚のねーちゃん! そのへんにおるんやろ! 俺の命をやるわ! せやから絶対新一助けたってな!!」
(平次!?)
 平次が何を言っているのか、新一は理解できない。彼が話しかけているのは、志保なのだろうか。何故平次が志保を知っているのか。それに、命をやるとか、代わりに新一を助けるとか、それは一体……。
 戸惑う新一の前で、彼は懐からちいさな硝子瓶を取り出した。それに新一は見覚えがあった。よく志保が薬瓶として使っていたものだ。人間になるあの薬を入れていたのも同じ型のものだったから、見間違えるはずもない。中には見たことのない蒼い液体が入っていた。それがどういう用途のものかは分からない。それでもいやな予感に冷たい汗が頬を流れた。
 平次は瓶を口元に持っていくと、一気にそれをあおった。
(平次!!)
 新一は悲鳴を上げた。けれど声はでない。ひきつるような空気の漏れる笛のような音が響いただけだった。
 薬を飲み下した途端に急速に平次の意識が遠のいてゆく。体に力が入らない。がくりと岩の上に倒れる。
 うっすら目を開けると、暗くなってゆく視界の中で、自分の身体を揺さぶっている新一の姿が見えた。揺さぶられているのに、その感覚はもうない。
 新一は泣いていた。子供のように、泣きじゃくっていた。出ない声で、それでも必死に自分の名を呼んでいることは分かった。
 そんな顔を、させたかったわけではないのだ。笑っていてほしかった。しあわせでいてほしかった。本当はずっとずっと傍にいて、しあわせにしたかった。一緒にしあわせになりたかった。
 あの嵐の海で、ほんの一瞬その姿を見たときから、心を奪われていた。惹かれていた。愛していた。
 相手は人魚なのだから、どんなに想っても結ばれることなどないと分かっていた。もういちどその姿を目にすることさえ叶わない望みだと思っていた。それでも逢いたくて逢いたくて、何度も海岸に行った。もしかしたら、海にいるその姿を、運良く目にすることでもできるのではないかと。
 あの朝もそうだった。早駆けと称して、新一の姿を探して海を見に行っていたのだ。
 そして、岩場で新一の姿を見つけたとき、息が止まるかと思った。記憶の中の消えない人魚が、そこにいたのだから。奇跡が降ってきたのかと思った。いや、実際に奇跡が降ってきたのだ。新一が、自分の前に現われるという奇跡が。
 2本の足は持っていたけれど、新一があのときの人魚だと、平次は信じていた。そのまま海に帰られてしまうのではないかと怖くて、無理矢理城に連れてきた。
 新一が人魚だと確信したのは、夜中に抜け出した新一が、海岸で他の人魚と逢っているのを見たときだった。声の出ない新一が、筆談でその人魚に何を話したかは分からなかったけれど、もうひとりの人魚の話から、新一が、人間になって、自分に逢いに来てくれたのだと知った。その命を、かけてまで。
 嬉しかった。嬉しかった。想いを募らせていたのは、自分だけではなかったのだ。叶わないと思っていた想いが叶っていたのだ。あふれる想いをおさえきれなくて、新一を抱いた。新一も、それを受け入れてくれた。
 しあわせだった。本当にしあわせだった。
 新一を愛してる。愛してる。誰より愛してる。本当に。
 ──でも、新一のためでも、誰かを殺すことは、できなかった。
 平次の、王子としての権力を使えば、人間のひとりやふたり、用意できただろう。志保もそれを見込んで頼んだのだ。だが平次は人間として、死ぬと分かっていて、誰かを差し出すことはできなかった。
 かといって、このまま新一が死んでゆくのを黙ってみているつもりもない。
 誰かを殺すことはできないけれど。
 新一のためになら、死ねる。
 新一が、命をかけて自分に逢いに来てくれたのなら。命をかけて、傍にいることを選んでくれたのなら。
 今度は平次が、命をかけて新一を助ける番だ。
 だから、平次は自ら、志保に渡されたあの薬を飲んだ。その命をかけて、新一を助けるために。
「愛しとるよ、新一……」
 かすれた声が、うまく出たかどうか分からない。もう指一本さえも動かせない。まるで深い穴に落ちてゆくように、わずかな視界も消えてゆく。
(あいしてる)
 最後に残った意識の欠片で、ただそれだけを、強く想った。
 そして、平次の意識は闇に消えた。


 To be continued.

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