ポロメリア <1>


 日本で6月といえば、梅雨を迎えじめじめとした空気に気持ちの悪い日が続くところだが、気候の安定したロサンゼルスでは、さわやかに晴れた日が続いていた。
 コナンと哀は、現在、ロサンゼルスで工藤夫妻とともに暮らしていた。
 高級住宅が並ぶこの地域にある工藤夫妻の住む家は、邸宅といっても差し支えないほど大きかった。もともとアメリカの家の造りが日本に比べて大きいうえに、さらに豪華に造られた屋敷は、この地域のなかでも格段の大きさと広さを誇っている。
「おい、哀。早くしろよ。置いてくぞ」
 広い玄関ホールから、コナンが奥に向かって呼びかけた。
 今日はめずらしく、コナンは用意が終わっているというのに、哀はまだ玄関まで出てきていなかった。
 コナンの呼びかけに、哀が廊下に顔だけ出して答える。
「待って、コナン。すぐ行くから」
 まだ身支度が終わっていないらしい。またすぐに顔を引っ込めて、何やらぱたぱたとしている音がする。
 化粧だの髪型だの、年頃の女の子というものはいろいろあるらしい。学校へ行くだけなのに、毎日毎日何をそんなに手をかけなければならないのか、コナンは理解できない。そんなに飾りたてなくても、そのままで十分魅力的であるということは、なんとなく照れくさくて口に出せずにいるけれど。
 今年17になるふたりは、飛び級して、アメリカのある大学に共に通っていた。けれど、ともに学校に行くことは、ジュニアスクールのころのからの変わらない習慣だった。
 哀を待ちながら、コナンは玄関横の壁にある、大きな鏡に目をとめた。身長よりも大きなその鏡に、自分の全身が映っている。
 このあいだ、後頭部の寝癖に気付かずにいて、哀に笑われたことを思いだした。ざっと上から下まで、自分の姿を見渡して、おかしいところがないかを確かめる。ラフなシャツにジーンズ。服装は別になにも問題ない。さいわい今日は寝癖もついていないようだった。
 そのまま、なんとなく、鏡の中の自分の姿を見つめる。
 コナンの身体は、今年17になる男にしては線が細いといえば細いが、ひよわということではない。もちろん、アメリカの民族的に体格のいい同い年の少年達から比べれば、小柄といえないこともないが、すらりとした、バランスのとれた身体だ。ちいさいころは、身体が弱くて、よく熱を出したり偏頭痛に悩まされたりしたものだが、今ではそんなこともなくなった。
 顔つきは、残念なことに男らしいとはいえない。女顔といいきるわけではないが、評価としては『藤峰有希子』に似ていると評される。あるいは、『工藤新一』に似てきた、といわれる。最近は、特に。まあこのふたりとコナンは親類なのだから、似ていてもなんらおかしくはないのだが。
(…………)
 ふと、わけもなく、奇妙な感覚がコナンのなかを通り過ぎる。
 鏡の中の自分の姿に、違和感を感じる、とでもいうのだろうか。
 既視感を感じるような、何かを思い出しそうになるような、不思議な感覚。最近、そんなふうに感じることが何故か多かった。
(俺は、『新一にーちゃん』に『似ている』?)
 そう言われるのは、別に嫌でもない。まだ自分が幼いころに亡くなった『新一にーちゃん』のことは、正直よく覚えていないけれど、嫌いではない。
 ただ……人にそう言われるたび、自分でそう思うたび、なにか奇妙な違和感を覚えてしまうのだ。なにかがずれているような、間違っているような。それがなにかは、分からないのだけれど。
(俺は……)
「ごめんなさい、待たせて」
 身支度を整えた哀が玄関まで出てきた。そのせいで、コナンの思考はそこでさえぎられる。
「おせーぞ、哀」
「なによ、いつもは私が待たされるんだから、たまにはいいじゃない」
 いつものように、憎まれ口を叩き合う。こんなことは、いつものことだった。
 哀はすこし腰をかがめて靴を履く。タイトのロングスカートには膝までのスリットが入っていて、そこから綺麗なふくらはぎがのぞいていた。
 その白い足に、コナンは思わず目を奪われる。
 このおさななじみは、年頃になってさらに魅力を増した。10年同じ屋根の下で暮らしていて、いろんな姿を見慣れているはずのコナンでさえ、ふと目を奪われてしまうことがある。
 そう思うのはなにもコナンだけではなく、かなり多くの者が哀に想いを寄せ告白したりしているらしいが、彼女はそれらには興味がないらしく、それを片っ端から断っている。そのことに、かすかな安堵を覚えたりもするのだ。
「? なあに?」
 見つめるコナンの視線に気付いて、哀が問いかける。
「なんでもねーよ」
 照れて、コナンは哀から目をそらす。その様子に哀はちいさくクスリと笑う。そんなコナンが、愛しくてたまらない。
「ふたりとも、忘れものはない?」
 奥から、有希子が玄関まで出てきた。
 ふたりの優しい『母親』である有希子は、もうかなりの歳になるはずだが、相変わらず若々しく美しい。
 こうしてふたりが一緒に学校へ行くのも、それを有希子が見送るのも、昔からずっと変わらない習慣だった。
「行ってらっしゃい、コナンちゃん。哀ちゃん。気を付けてね」
「いってきます、有希子さん」
「いってきます、かあさん」
 ふたりは声をそろえて返事を返す。そして並んで出かけて行った。
 いつもと、なにも変わらない朝だった。



 有希子が玄関からリビングに戻ると、庭に面した大きな窓から、並んで何かを話しながら楽しそうに歩いてゆくコナンと哀の姿が見えた。
 ふたりとも、しあわせそうに笑っている。その愛らしい姿に、誰がみてもお似合いのカップルだと思うだろう。実際、有希子もそう思う。
 10年前にも、似たような光景をよく目にした。
 コナンが、まだ『工藤新一』であったころ。彼は、あのころは蘭とともに、あんなふうに学校に通っていた。
『いってきます、母さん』
 同じように挨拶をして、同じように家を出ていっていた。まるでデ・ジャ・ヴのように、あのころと同じだ。
 けれど、今は……。
 考えて、不意に有希子の目頭が熱くなった。こぼれそうになる涙を、必死で抑える。
「有希子。どうしたんだ?」
 妻の様子に気付いて、優作が声をかけた。
「いいえ……なんでもないの」
 無理に有希子は笑ってみせるが、目の縁がほんのすこし赤くなっていることを、聡い優作が見逃すはずもない。
 そして、こんなふうに有希子の心を痛ませることといえば……。
「新一のことか……」
 ためいきのように、優作は言葉を吐き出した。
 彼も、妻の視線の先を追って、窓の外に目をやる。並んで歩くコナンと哀の姿を目にして、彼もわずかに眉根を寄せた。
 あれから10年が経って、もうだいぶ慣れたと思っているけれど、それでもそのことは、今でも優作と有希子の心を痛めていた。考えるたび、哀しくなる。
 本当なら、新一は今年で27になるはずだった。けれど、『江戸川コナン』になり、10年の月日が経った。彼は今、人生で2度目の17才を迎えている。
 APTXの解毒剤は、結局完成しなかった。組織は壊滅し、身を隠して生きる必要はなくなったけれど、もとの身体に戻ることはできなかった。ふたりは『江戸川コナン』と『灰原哀』として生きることを余儀なくされた。
 いや。彼の身体がちいさくなってしまったことは、大きな問題ではないのだ。どんな姿であれ、彼は彼であり、大切な息子だ。そのことは決して変わらない。
 つらいのは……哀しいのは……。

 身体的な意味でなく、本当に、工藤新一が『江戸川コナン』になってしまったこと。

 10年前のあの日、『工藤新一』は消えてしまった。
 彼が……新一が愛していた彼がこの世界からいなくなったときに。

 今のコナンは、自分がかつて『工藤新一』だったことを知らない。なにも覚えていない。生まれたときから自分は『江戸川コナン』だったと思いこんでいる。
 かつて、自分が作った偽の『江戸川コナン』の経歴を、そのまま自分だと信じている。新一としての記憶は、なにひとつ無いのだ。
 新一としての記憶のないコナンは、当然、新一のころに優作や有希子と過ごした親子の記憶も、すべてない。
 だから、優作のことも有希子のことも、本当の両親だと思っていない。身よりのない自分と哀を引き取ってくれた、親類の養父母だと思っているのだ。
 コナンは有希子を「かあさん」と呼ぶ。けれどそれは以前のように「母さん」と呼んでいるわけではない。「義母さん」と呼んでいるのだ。同じように優作のことも「義父さん」と。
 それが、つらかった。身を引き裂かれるように、つらかった。
 自分の子供が、自分のことを忘れてしまい、別人になってしまったのだ。親として、こんなに哀しいことが、あるだろうか。
 本当なら、コナンの肩を掴んで揺さぶって言ってしまいたかった。おまえは工藤新一だと。私達の本当の息子だと。
 そうできたなら、どんなによかっただろう。
 けれど、できなかった。そんなことをしたら、コナンの精神が耐えきれずに壊れてしまう危険性があったからだ。実際に一度、無理に思い出させようとしたときに、彼の精神が崩壊しかけた。
 だから、優作も有希子も、コナンの養父母のふりをし続けなければならなかった。
 コナン自身が、いつか、自分の力で意志で『工藤新一』を取り戻す日を、待っていることしかできなかった。
 そして待ち続けて、もう10年になる。それでも、いまだコナンが『工藤新一』の記憶を取り戻す気配はなかった。彼はいまだに自分を『江戸川コナン』だと信じている。
「……あれから……10年よ。小さくなる前の新ちゃんと、同じ年齢になったわ。それでもまだ駄目なのかしら」
 優作に抱きしめられながら、有希子は呟いた。次から次へと涙があふれてくる。
「どうしてもどうしても、新ちゃんは帰ってきてくれないのかしら……!」
「有希子……」
 なだめるように、優作は妻を抱きしめた。
 有希子の気持ちは痛いほど分かる。優作だって同じように、コナンに養父として接せられるたび、身を切られるような痛みと哀しみを感じる。そこにいるのは、彼の息子であっても、息子ではないのだ。
 それでも、同じように、新一の気持ちも分かるのだ。
 自分の人格や記憶すべてを捨てざるを得なかった、新一の哀しみも。

『俺は、あいつがいるから、俺でいられるんだ』

 10年前、新一はそう言っていた。
 あのつらい状況のなかで、それでもまっすぐに立っていた。笑っていた。決して倒れることなどなかった。彼の存在を支えにして。彼が、いたから。
 深い深い、絆だった。
 親である彼らでさえ、そのあいだに入り込むことなどできない強い絆だった。
 彼がいるなら、新一も大丈夫だと思った。だから優作も安心して、新一をまかせていた。実際、その考えは間違っていなかった。彼がいたとき、新一は自分の足でまっすぐに立っていた。
 けれど、その彼がいなくなってしまって、新一は『工藤新一』でいられなくなってしまった。自分を保つことさえできず、自分の人格や記憶さえ、なくしてしまった。
 それほどに、必要としていたのだ。
 それほどに、愛していたのだ。
 彼を……服部平次を。
 そのただひとりを失ったら、もう、まっすぐに歩けないくらい。
「有希子。私達はいつまでも見守ろうと、決めただろう? たとえ……新一が、一生自分の記憶を取り戻すことがなくても、コナンのままだったとしても……」
 それだけが、優作と有希子にできることだった。
 養父母のふりをして、コナンの『間違い』に付き合おうと。彼が『江戸川コナン』のままでいるなら──そのことを望むなら、それに付き合おうと。何度も話あって、考えて考えて、出した答だった。
「……そうね、優作。ごめんなさい。私もちゃんと分かってるはずなのに……」
 有希子は涙を拭って、無理に笑顔を作る。
「あのこは、今、生きている。生きて、私達の傍で笑っている。それだけで、十分よね……」
 それは、自分に言い聞かせる言葉だった。
 新一が、親である自分達のことを忘れてしまっていても、『新一』の人格をなくして『コナン』になってしまっても。
 それが新一のしあわせなら、それを守ろうと決めたのだ。
「ああ。そうだな。そのとおりだ」
 優作はそんな妻の額にやさしくキスをして、彼女をいっそう強く抱きしめた。


 To be continued.

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