ポロメリア <2>
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日本よりも解放的で広い朝のキャンパスは、学生たちであふれ返っていた。肌の色も髪の色もさまざまな人達が入り乱れている。
けれど、そのなかでも、コナンと哀の姿は目を引いた。
もともと飛び級のふたりはまわりの学生よりも若いというだけでなく、東洋人は若く見えるという言葉どおり、実年令より低くみられることも多い。そんなふたりは、集団の中ですこし異質だった。
けれど、目を引く理由は、それだけではない。ふたりの整った顔立ちや清冽で華やかな雰囲気が、いつも人目を引いていた。
何人かの学生が、ふたりに明るく挨拶をして、コナンや哀も軽く手をあげて挨拶を返す。
「なあ哀。今度の週末、一緒に映画見に行かないか? おまえ見たがってたのあっただろ?」
教室への廊下を歩きながら、コナンは哀に言った。
「なあに、他に誘う相手もいないの?」
「うるせーよ」
コナンに誘う相手がいないなんていうのは嘘だと、哀もちゃんと分かっていた。
どの地にあっても、コナンのその見た目や内面に引かれる人間は多い。彼が一声かければ、ついてくる人間は男女問わずたくさんいるだろう。声をかけなくても、向こうからだってよってくる。
そのなかで、コナンはあえて哀を誘ってくれたのだと、哀もちゃんと分かっていた。
「もちろんコナンのおごりよね?」
首を傾げて、コナンの顔をのぞき込みながら、すこし意地悪くきいてみる。
「ちぇ。わあーったよ」
コナンも、すこし大げさに答える。
お互い照れて素直に喜ぶこともできなくて、いつもすこし冗談を交えてしまうけれど、その根底にあるものはちゃんと分かっていた。今はそれが心地よくもあった。
コナンが腕時計を見ると、始業時間が迫っていた。
「じゃあ、また後でな」
大学は同じだが、コナンは法学部に、哀は理学部に通っていた。受ける授業が違うので、当然教室も違う。
コナンが軽く手をあげて、廊下を歩いてゆく。
哀が教室に入り、ひとりで窓際の前のほうに座ると、リズが傍にやってきた。
「おはよう、アイ。相変わらずコナンと仲いいわね。やけちゃうわ」
淡い金髪の綺麗なリズは、同じ学科の友人だった。
飛び級して大学に来ている哀たちにとって、同級生はほとんど年上だったが、日本のような上下関係と違って、皆気さくに哀にもコナンにも接してくれていた。
「あら、リズだって新しい恋人と熱々なんでしょう? あのアメフト選手の人気者の彼。このあいだ、デートしてるところ見かけたわよ」
「やだ、見てたの!?」
リズは頬を染めて照れている。哀よりも年上だというのに、そんな様子はとても可愛らしい。哀は優しく微笑む。
今では、哀もこうして友人に素直に微笑めるようになっていた。昔は皮肉げな嫌な笑いかたしかできなかったというのに。
昔……『宮野志保』だったころは、組織のなかで微笑みかける相手などいなかった。『灰原哀』になったばかりのころは、まだ心が凝り固まっていて、慕ってくるちいさな友人たちにも素直に笑い返すことなどできなかった。
けれど、あれから10年が経って、時間が哀の心を溶かしてくれていた。
心を溶かしてくれたのは、もちろん時間だけではない。養父母となった工藤夫妻は、哀にも優しかった。すべてを知りながら、まるで本当の子供のように、哀に接してくれた。新しい『家族』の存在が、哀の空虚だった心を満たした。
そして、コナンの存在が、哀に穏かな笑顔を取り戻させていた。
(このまま……あなたと子供のままでいられたら……)
かつて、哀はそう願った。10年前。コナンがまだ『工藤新一』だったころ。
それは叶わない願いだと想っていた。実際、叶わない想いだった。ただ、儚い夢を見ただけだった。
けれど、叶わないと分かっていながら願った想いは、はからずしも叶うことになった。
彼の……新一が愛した彼の死によって。
新一が、『工藤新一』としての記憶を無くし、『江戸川コナン』になることによって。
今いるコナンは、かつて哀が愛した『江戸川コナン』そのままではない。『工藤新一』ではない。
それでも、コナンはコナンだ。
哀は、しあわせだった。
あのころ夢見たそのままに、コナンは自分の傍らにいる。新しい『家族』もいる。組織におびえることも、過去に縛られることもない。
普通の……何気ない、けれど無限大の幸福に包まれた日々。
それが、『間違い』の上に成り立っているものだと知っている。コナンが記憶をなくし『工藤新一』でなくなってしまったことで、今の生活があるのだと。そのせいで、工藤夫妻が今も哀しんでいることも、分かってる。
それでも、哀は願わずにはいられなかった。
ずっとこのまま、このしあわせが続くようにと……。
「そんでよーあの教授、俺のレポートにC評価つけるんだぜ?」
「まーたコナンは、教授の理論にけちでも付けたんじゃないの?」
「だってよー」
不満をもらして拗ねるコナンの姿に、哀はくすくすと笑いをもらす。
待ち合わせて一緒に帰るのも、いつものことだった。特に特別な用事がない限り、ふたりはいつも一緒だ。
友人の何人かには、ちいさい頃から一緒で、今もずっと一緒で、うっとおしくないかと尋かれたこともあるが、そんなことはまったくなかった。むしろ、離れていることのほうがおかしいとさえ想う。それほど、ずっと一緒で、なんでも分かり合えた。
哀にとって、そんな日がコナンとの間に来るとは、思ってもみなかったことだった。
けれど、あれから10年が経って、自分は彼の隣を手にいれていた。こうして、隣にいることが、当たり前で当然になっていた。
「あれ……うちの前に、誰かいるな」
不意にコナンが呟いた。哀も同じほうへ目を向ける。
工藤邸の門の前に、誰かがいた。コナンと哀は、そろって眉をひそめる。
優作は世界的に高名な小説家であるし、有希子もかつてハリウッドでも名の知れた大女優だった。追っかけやファンが家まで押し掛けてくることはたびたびあった。ストーカーまがいの者もいた。あれもそんな一人なのかもしれない。
ここらへんは治安もかなりよいし、警備もしっかりしている。たとえ不審者だったとしても、そこまで過剰になることはないが、用心するに越したことはない。
コナンと哀はその人物を観察するように見ながら、ゆっくりと近づいた。
遠目でも、それは同じ東洋人だと知れた。ラフな格好にサングラスをかけている。20代後半くらいの若い男だった。
向こうもこちらに気付いたらしく、もたれていた壁から離れた。むこうもゆっくりと近づいてくる。
門の前まできて、コナンたちとその人物は、向かい合う形になる。
「よう、久しぶりだな、名探偵」
その男は、ゆっくりとした動作で、かけていたサングラスをはずした。素顔が現われる。
「…………!」
哀は息を飲む。哀はその人物を知っていた。会うのは10年ぶりだが、忘れるはずも間違えるはずもない。しかし何故、彼がここにいるのか。
「……誰だ?」
コナンはその人物を見て眉をひそめる。
見覚えのないその人物は、けれど知り合いによく似ていた。もうずっと昔に亡くなった『新一にーちゃん』によく似ている。ひいてはそれは、コナンにも似ているということだ。けれどそんな人物に、コナンは心当たりがなかった。
「俺は黒羽快斗。……まさかおまえに、また自己紹介しなくちゃいけなくなるなんてな」
「なにしに来たのよ!」
哀の鋭い声が飛んだ。彼女がこんなふうに声を荒げるのはめずらしい。
「哀。おまえの知り合いか?」
コナンは隣にいる哀と、正面にいる快斗を見比べる。
哀とはもう10年も同じ屋根の下で暮らしている間柄だが、こんな知り合いがいるとは知らなかった。
「俺は、おまえとも知り合いだよ。新一」
快斗の言葉に、コナンは首を傾げる。
「……何いってんだ? 俺はコナンだぜ? 新一にーちゃんは、10年前に死んだんだ。確かに俺、新一にーちゃんにすげえ似てるっていわれるけど、間違うなよ」
「間違ってるのはおまえのほうだ」
何を言われているのか分からなくて、コナンは眉をひそめる。
この男は、突然なにを言っているんだろう。哀や『工藤新一』の知り合いのようだが、いくら似ているからといって、自分と『新一にーちゃん』を間違えるなんて、どこかおかしい。
けれどその男は、コナンにかまわずに言葉を続ける。
「新一。約束したよな。俺、全部が終わったら、『黒羽快斗』としておまえに会いにいくって。おまえもちゃんと言ったよな、待ってるって。10年かかってやっとパンドラ見つけて、親父殺した奴等も全部ぶっつぶして、やっと会いに来たっていうのに、おまえは俺のこと知らないっていうのか?」
「なに……言ってんだよおまえ……。だから俺は『江戸川コナン』で、『工藤新一』じゃない……」
すっと快斗の瞳が細められる。検分するようにコナンを見つめる。
「……本当にそうだって、言いきれるのか?」
(────)
急に、心臓を鷲掴みにされたように胸が痛くなる。頭の中で大太鼓を乱打されているような気がする。警報、のように。
(オレハ……オレハ……)
強く胸をおさえる。頭をおさえる。脂汗が幾筋も額を流れた。
警報が鳴っている、頭の中で。
「やめてよ黒羽君!! 彼を追いつめないで!!」
哀がかがみ込むようになったコナンを庇うように抱きしめた。
「追いつめる? 冗談だろ。俺は、こいつを解放してやりたいんだよ」
快斗は哀を押し退けるようにコナンから引き離すと、その両腕を強く掴んで、自分の目の前に引き寄せる。真っ正面から目を合わせて、叫び付けた。
「思い出せよ! おまえは『江戸川コナン』なんかじゃない、『工藤新一』だ!」
コナンは快斗の強い視線から逃れられない。頭の中で鳴り響く警報はどんどん大きくなる。このひとの話を聞いてはいけない。考えてはいけない。思い出してはいけない──。
「違う……俺は、『江戸川コナン』……」
答える声は、けれど消え入りそうに弱々しかった。
瞳が正しく焦点を合わせられずにがくがくと揺れる。身体が震え出す。
そんなコナンに、快斗は焦れたように、最後のキーワードを投げつけた。
「おまえ……服部のことも全部忘れて、それでいいのかよ!!」
(はっとり……?)
頭で鳴り響く警報が、よりいっそう強くなる。
胸がいたい。頭がいたい。
網膜の上を、おびただしい光が走るようだ。
『…………どう…………』
何かを、誰かを思い出しそうになる。
無意識のうちに、それを押しつぶそうと必死になる。
そんな名前知らない。
そんなひと知らない。
だって俺は、『江戸川コナン』だから。
しらない。
しらない。
……しらない。
がくりと、急にコナンの首が後ろにのけぞった。身体が急に力をなくして崩れ落ちる。
「コナン!」
「おいっ新一!」
快斗がコナンを掴んでいた腕に力を込めて、その身体を支える。
コナンはその大きな瞳を見開いたまま、意識を失っていた。
To be continued.
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