ポロメリア <10>
|
食事の乗ったトレイを持って、哀はコナンの部屋をノックした。
「コナン。食事持ってきたわ。入るわよ」
言いおいて、返事を待たずにドアを開ける。返事を待ったところで、返事が返らないことのほうが多いからだ。
部屋の中は、ちゃんと電気が付けられ、明るく照らし出されている。それでも、どこか暗い印象を持たずにはいられなかった。いや、暗い、とはすこし違うのかもしれない。空虚、というのが正しいのかもしれない。
部屋の主は、洋服のまま、ベッドの上に座り込んでいた。入ってきた哀の姿に、うつむいていた顔をわずかにあげる。
「ああ哀。悪いな。サンキュ」
明るく答えてくれるけれど、その笑顔はやはりどこかぎこちない。
「別にかまわないわ、これくらい。でも、有希子さんがすごく心配してるわ。優作さんも」
「ああ。分かってる。分かってるんだ。でも……」
そこで言葉を途切れさせて、コナンはまた何かを考えるようにうつむいた。
ここ数日、彼はずっとこんな調子だった。快斗が訪ねてきた日から。
いちど錯乱状態に陥ったコナンが次に目覚めたとき、暴れたり自失するようなことはなかった。あれから快斗はコナンに会いにきていない。けれどその日から、ずっと何かを考えるように、何かを思い出そうとするかのように、彼は部屋に閉じこもってずっと物思いにふけっている。学校も休み、食事を取りにリビングへ来ることさえない。
哀は、食事の乗ったトレイをテーブルの上に置きながら、コナンには分からないようにちいさくためいきをついた。
今日は週末だ。本当なら、哀はコナンと一緒に映画に行くはずだった。だがその予定はキャンセルになってしまった。快斗のせいで。ああ、これはただの八つ当たりだと分かっている。
きっかけは、確かに快斗だったろう。けれど、今こうしてコナンが部屋に閉じこもってまで物思いにふけっているのは……、彼自身も、思いだそうとする気持ちがあるからだ。 本当に思い出したくないのなら、また、自己暗示をかけてすべてを閉じこえてしまえばいいのだ。
それでもコナンは、すこしずつでも自分のなくした記憶を取り戻そうとし、思い出したくないと願う自分自身と、内部で戦っているのだろう。
優作と有希子も、コナンが思い出そうとしていることに気付いている。だからその経過を息を飲んで見守ってる。思い出すことを、望みながら。
その横で、哀はひとり、コナンの記憶が戻らないことを願っていた。
「コナン。ねえ、今日の食事、私が作ったのよ。食べてみて」
できるかぎりの明るい声で、哀はコナンを振り返った。
「ああ……」
けれどコナンは生返事のまま、何かを思い出そうとするかのように強く額をおさえた。
『………………』
ぜんぶを思いだしたわけじゃない。けれどコナンは何かを断片的に思い出しきていた。ジグソーパズルのピースのようにバラバラなそれは、まだうまくつながらない。すべてを正しく理解することはできない。
それでも……『何か』に気付きはじめていた。
「なあ哀……おまえは、知ってるんだろう? 俺が知らない……忘れていることを……」
「…………!!」
哀は、胸元で、強く手を握りしめた。
(……やめて。思い出さないで……)
震えそうになる手を、必死に押し止める。
笑って、冗談に紛らわせようとする。
「何言ってるの、コナン。そんなこと……」
「俺は、何かを思いだしかけてる……いろんな記憶が、断片的に思い浮かぶ……。そのなかには、おまえのことも、ある……あの、黒羽っていう男のことも……。俺は……おまえや、あいつを、『知って』いるんだな…………」
うつむいていたコナンがゆっくり顔をあげて、その瞳がまっすぐに哀を捕らえた。その瞳を見て、哀は息を飲んだ。
(……『工藤』君……)
そこにあるのは、あの『工藤新一』の瞳だった。至上の宝石のように輝き、まっすぐに強く輝く、あの『名探偵工藤新一』の瞳だった。
自分が愛し、快斗が愛し、そして──彼が愛した、あの瞳だった。
「哀……。俺は……」
「やめて! 思い出さないで!」
たまらなくなって、叫ぶようにコナンの声をさえぎった。聞きたくなかった。見たくなかった。
哀はコナンの元へ駆け寄って、彼の腕にすがりついた。額を彼の胸に強く押しつけるように身を寄せる。
「思い出さないで! このままでいてよ! お願いだから……!!」
「……哀」
無理なことを言っていると、自分でも分かっていた。快斗が言っていたとおり、これは自分のエゴだ。江戸川コナンを手放したくない自分の。
分かっていた、そんなこと。それでも願わずにはいられなかった。コナンに『コナン』のままでいてほしいと。自分を好きなままでいてほしいと。
「お願い……コナンのままでいてよ……このまま……私とずっと一緒にいて……」
哀は自分のくちびるを、コナンのくちびるに押しつけた。
「哀……!!」
驚いたコナンが身を引こうとするのを許さずに、なおもくちびるを追いかける。
コナンに乗りかかるように、身体を重ねた。押されて、ふたりの体はベッドに倒れ込む。やわらかなベッドが、高くきしんだ音をたてた。
哀はなおもコナンにキスし続ける。触れ合わせるだけだったくちびるに、かみつくように歯を立て、舌を潜り込ませる。
「おいっ哀……!」
コナンの制止する声など、哀は聞かない。さらに深く舌をもぐりこませ、細い腕をきつく彼の体に絡めるだけだ。
コナンが『コナン』のままでいてくれるなら、自分の傍にいてくれるなら、手段はなんでもよかった。体を使うことくらい、なんでもなかった。
……いや、これは手段でもなんでもなくて、ただ、哀がそうしたかっただけだ。
こうして、コナンに触れて、自分も触れられたかった。それだけだ。
「コナン……コナン……」
むさぼるように触れ合わせるくちびるの合間に、何度もその名前を呼ぶ。その名前だけを。
はじめは哀をとめようとしていたコナンだったが、やがて、その抵抗がやんだ。おとなしくそのキスを受けとめる。
「…………」
やがて、されるがままだったコナンが、くちびるを少し開いて深くくちづけを受ける。自らの意志で舌を差し出し、深くお互いの舌を絡ませ合う。
コナンの腕がゆっくりと持ち上げられ、哀の背中に回った。ラインをたどるように何度か手を這わせたあと、その腕はきつく哀を抱きしめた。くちびるを離さないまま、勢いを付けて身体の位置を入れ替える。哀を自分の身体の下に引き込む。しなやかな指先が、哀の服のボタンにかかる。
(……コナン……)
素肌に触れる手の感触と、首筋に触れるくちびるの感触に、哀は目を閉じてただ身をまかせた。
たとえばそれが、コナンにとって、ただそういうことに興味があったからという安易な理由でも、かまわなかった。誘われたから、応えただけという、心のともなわないものだったとしても。
コナンの指先が、くちびるが、自分の体に触れる。
それは、ずっと哀が望んでいたことだった。あるいはいつかはそういう日がくるかもしれないと思っていたことだった。けれどそれはこんな形ではなかった。それはもっと、ふたりの気持ちが近づいて、寄り添って、そうしてなされることだと思っていた。
コナンをつなぎとめるものがほしかった。けれどそれも本当はこんなものではなくて。たとえば平次と新一のあいだにあったような、見えなくても手にとることはできなくても、確かにそこにある、強い絆だった。
今このとき、こんなことしかできない自分が、みじめだった。
こぼれる哀の涙を、コナンは痛みによるものだと思ったらしい。動きをとめて、なだめるように何度も優しくくちづけながら、そっと髪や頬をなでてくる。
そんな優しさが、うれしくて、痛かった。
いっそ滅茶苦茶に傷つけるようにひどく抱いて、すべてを壊してしまってほしかった。この体も、この心も。すべて粉々にして、もう元になんて戻らないくらい。そのほうが、きっとずっと、楽でしあわせだった。
もう何も考えたくなくて、ただ彼を感じてだけいたくて。哀は先をうながすように、コナンの背中に腕を回してゆるく自分の体を動かした。
その意図を汲み取ったのか、コナンが再び動き出す。今度はさっきよりもすこし激しく。けれどやはり哀を気遣いながら。そんな気遣いなど、必要ないのに。いらないのに。
いちど終わるたびに、どちらかが誘って、また求めて、それを何度か繰り返した。
何度目かのその行為のとき、コナンは哀の耳元にくちびるを寄せて、何かささやいた。
「────」
けれど、意識の溶けかけていた哀は、なんと言われたのか、正しく聞き取ることができなかった。
そのまままた意識と共に体を溶かされ──そのまま気を失った。
目を覚ましたときに感じたのは、慣れた自分のベッドではない違和感と、体中を満たす倦怠感で、哀は一瞬状況が理解できなかった。
次の瞬間、そこがコナンの部屋であることと、ゆうべのことを思い出して、寝ぼけていた頭が一気に覚醒する。
「──コナン?」
まわりを見渡す。隣には誰もいなかった。そして部屋にも誰もいない。手を伸ばしてシーツを探っても、室温と同じぬくもりで、ずいぶん前から哀がひとりだったことを知らしめる。
急いで体を起こそうとすると、体がわずかに痛んだ。昨日のことは、夢でもなんでもなかった。それは、シーツからはみでた腕や腹についた鬱血の跡でもわかる。
それなら、コナンは何処へ行ったのだろうか。
こんな朝に、目が覚める前にいなくなって──。
(──コナン)
予感が、哀の脳裏をかすめた。
ベッドを飛び出そうとして、素肌のままであることを思いだし、急いでまわりを見回した。昨日脱ぎ散らかした自分の服が、綺麗にたたまれてベッドサイドに置いてあった。急いでそれらを身につけて、哀は部屋を飛びだした。
「コナン!?」
廊下を横切り、階段を駆け下りる。階下にコナンがいることを願いながら。
たとえば、先に目を覚ました彼が照れくさくて気まずくて、部屋を抜け出していたというのなら、どんなにいいだろうと願いながら。
「コナンっ!」
哀は一階のリビングに駆け込んだ。そこにコナンの姿を探す。けれど彼はいなかった。
代わりにリビングにはひとり優作がいた。
ひとり掛けのおおきなソファに足を組んで座り、普段は吸わない葉巻を吸っていた。
「哀君……」
優作はゆっくりと、哀のほうを向く。
その瞳は、ひどく複雑な色をしていた。きっと聡い彼は、ゆうべあったことを知っているのだろう。見えるその感情の中に怒りや嫌悪はない。それは哀にとって救いだった。
「優作さん、コナンは!?」
挨拶もせずに、哀は尋ねた。彼は知ってるはずだ。コナンの行方を。
「出かけて行ったよ」
「何処へ……」
優作は葉巻をおおきく吸い込む。それからゆっくりと煙を吐いた。たよりなく揺れて消えてゆくそれを、目で追う。哀と視線を合わせない。
「パスポートを、持って行った」
「…………!!」
その言葉に息を飲む。
それだけで、哀にはコナンが向かった先の検討がついた。いや、最初から、予想していた。
向かった先は……おそらく、日本、だ。
彼は、思い出したのだ。
あるいは、全部は思い出していないのかもしれない。けれど、なくした『何か』を思い出そうとし、そのために日本へ向かったのだろう。
すべてを思い出し、確認するために。
かの地で、きっと彼は、すべてを思い出すだろう。
もともと、記憶をなくしていたのは自己暗示なのだ。自らの意志で思い出そうとすれば、それはすぐに取り戻せるだろう。
『江戸川コナン』は、『工藤新一』に還る──。
かくりと膝の力が抜けて、哀はその場に座り込んだ。
張りつめていた何かが、自分を支えていた何かが、ぷつりと切れたようだった。
「そうですか……」
自分でも驚くほど乾いた声がくちびるからもれた。
結局、体などで彼をつなぎとめることなどできない。そんなことは、最初から分かっていたことだった。
(コナン──いいえ、工藤君)
彼は、『工藤新一』の記憶を取り戻すだろう。もとの彼に、戻るだろう。名探偵で、あの強く美しい瞳を持ち、そして服部平次を愛していた、あの『工藤新一』に。
──それで、いいのだ。
今までが『間違い』だったのだ。すべてが正しい形に戻るだけなのだ。もう有希子も優作も哀しまない。コナンの『嘘』に付き合って、哀しい演技をすることもない。快斗だって喜ぶだろう。
誰も何も、つらいことも哀しいこともない。それは、喜ぶべきうれしいことなのだ。
ただ、自分は、夢を見ただけなのだ。しあわせな夢を──。
分かっているはずだった。夢はいつか覚めると。しあわせは長く続かないと。そんなこと、組織にいたときに、嫌というほど知り尽くしたはずだった。
それなのに、2度目の人生があまりにしあわせだったから……『家族』がいて、『コナン』がいて、自分が夢見たそのままがあたりまえのようにこの手にあったから……。
分かっているはずなのに、夢を見てしまったのだ。『しあわせな夢』が永遠に続く夢を──。
そして、今、夢から覚めたのだ。それだけの、ことなのだ。
「哀ちゃん……」
いつから傍にいたのか、気遣うように、有希子が声をかける。
優作が、眉根を寄せてつらそうな顔をする。
こんなうれしいはずのときに、どうして彼らがそんな顔をするのか分からなかった。もっと喜べばいいのに。10年も待ち続けた息子が、やっと帰って来るのだから。
哀は愛する養父母に笑ってみせようとした。彼らを安心させるように。
けれどその笑顔は哀しいほどに歪んで、その瞳から涙があふれていることに、哀自身気付いていなかった。
To be continued.
続きを読む