ポロメリア <11>


 気温も湿度も高く、じめじめとした陽気は、ロサンゼルスの気候に慣れたコナンには、ひどく不快なものだった。肌がべとつくようで気落ち悪い。
 けれど同時に、それがどこか懐かしかった。昔は……日本で暮らしていた頃は、それが当たりまえだった。
 通りがかった花屋で、気まぐれに花を買った。名前なんか知らない、目に付いた白い花を、そこにあるだけぜんぶ。
「彼女への贈りものですか?」
 花屋の店員は、花を綺麗に包み、リボンをかけながら笑顔で尋ねてきた。持って歩くのが大変なくらいの花束に、こんな包装までさせたら、きっと誰でもそう思うだろう。
 その質問に、コナンも笑顔で応える。
「ええ。恋人への贈りものです。残念ながら、直接渡すことはできなくて、墓前に供えるだけになってしまいますけど」
「え……」
 コナンの答えに、店員の表情が一瞬で曇る。余計なことを言ってしまったと、心底すまなさげな顔になる。
「すいません……余計なこと言うてもうて……」
「いいんですよ。もう、10年も前のことですし」
 どう見ても、20才を越えているとは思えない彼のその言葉に、店員は内心首をひねる。10年前というと、一体彼はいくつなのだろうかと。けれど尋ねてまたさらに墓穴を掘ると困るので、その疑問はそのまま飲み込んだ。人にはそれぞれ事情があるのだ。あまり他人が首をつっこんでいいものでもない。
「これ、どうぞ」
 包装し終えた花束を、店員は差し出す。墓前へ供えるというには少々派手で不釣り合いなそれを、彼は笑顔で受け取った。
「ありがとうございました〜」
 大きな花束は、大きすぎて持ち歩くのも大変だったし、なにより目立ってしまって困った。コナンの見た目だけでも人目を引くのに、花のせいでさらに注目を浴びてしまう。
 でもまあ、目的地までそんなに距離があるわけでもないし、自分にできることといえばこれくらいしかないので、そのまま持って歩いた。
 おおきな寺の門をくぐって、さらに奥へ進むと、墓地があった。
 場所までは分からないので、寺の住職に尋ねると、住職はすぐに答えてくれた。これだけ数がある中で、すぐに場所を答えられるというのは、有名人だった彼のもとを訪れる人間は思いのほか多いのだろう。コナンは礼を言って、教えてもらったその場所に向かう。
 いくつも並んだ、同じような形の石の中で、目的のそれはすぐに見つけることができた。彼の家の名前が刻まれた、それ。

「服部……」

 明るい灰色の、方形の石を見つめる。無機質な石は綺麗に磨かれ、ただ静かにそこにある。
 近づいて、その側面を見れば、彼の名前が刻んである。コナンは手を伸ばして、その名前にそっと、触れる。懐かしい名前。
 ここに、眠っている。
 誰よりも愛し、誰よりも必要とした彼は。
『工藤』
 どんなときでも、そう呼んで、微笑んでくれた彼は。
 コナンは、すべてを思い出していた。
 なくしていた、『工藤新一』の記憶、すべてを。
 眠っている哀を置いてロスを出た時点では、まだすべてを思い出していたわけではなかった。ぜんぶ思い出したのは、日本に着いてからだった。
 衝動に突き動かされるようにロスを出たコナンは、いくらかの現金とカードとパスポートだけを持って空港に向かった。そして、いちばん早く乗れる日本行きの飛行機に、飛び乗った。
 降り立ったのは成田空港だった。何処に行く、という明確な目的があったわけではない。ただ、自分のあやふやな記憶を頼りに、その記憶にある場所を歩けば、もっと何かはっきり思い出せるのではないかと思っていたのだ。
 はじめは、米花町に行くつもりだった。そこが、自分の記憶の中で、いちばん繰り返し思い出される地名だったから。断片的な記憶の中で、自分がかつてそこに住んでいたことは思い出していた。
 けれど──成田から米花町に向かうため、いったん東京駅に出たとき──。
 コナンは、不意に思い出したのだ。

『工藤。迎えにきてくれたんやな。会いたかったで』

 新幹線から降りたプラットホームで、どんな人混みの中からでもすぐに自分の姿を見つけて、そう言って笑う平次の姿を。
 コナンは不意にはっきりと思い出した。
 そう。自分は何度も、この場所に足を運んでいた。大阪から、自分に会いにきてくれた、彼を迎えに来るために。
 そして。
『またすぐ会いに来るからな』
 そう言って帰ってゆく彼を、何度も送りにきた。


(──はっとり──)


 突然、自分の中でせきとめていた何かが、タガがはずれてあふれだすように。さまざまな情景が、コナンの中にはっきりと思い浮かんだ。
 彼と──服部平次と一緒に過ごした、そのすべてのときが、よみがえってきた。

『工藤』

 かつての姿を失って、誰も自分を認めてくれなかったとき。
 それでも彼は、すぐに自分を見つけてくれた。その名前で呼んでくれた。認めてくれた。愛してくれた。
 ──そして、自分も、彼を、愛してた。


(服部)


 記憶にのまれたようにしばらくその場に立ち尽くしていたコナンは、やがて、弾かれたように動きだした。米花町行きをやめ、大阪行きのチケットをとって、新幹線に乗り込んだ。
 東京から大阪へ向かう新幹線のなかで、ばらばらだった記憶のピースはすべてつながって、コナンはすべてを思い出した。
 平次のことも。
 自分が『工藤新一』だったことも。
 薬によって幼児化したことも。
 ──平次が死んだときのことも。
 すべて。
 そうして大阪に着いたコナンは、その足で、平次のいる場所へ──眠るこの場所へと足を向けたのだった。彼に逢うために。
 コナンは持っていた花束を、そっと墓前に置く。綺麗に包装された大きな花束は、純日本風の墓石にひどく不釣り合いで、似合っていなかった。アメリカ暮らしが長くなって、向こうの形に慣れていたコナンには、こんな花束が墓前に供えるのに似合わないということまで忘れていた。
 それほど長く、コナンはすべてを忘れて『江戸川コナン』として生きていたのだ。
 その事実に、ちいさく笑う。
「なあ服部。俺……あのころと同じ年齢になったんだぜ?」
 無機質な、四角い石に話しかけてみる。
「あれからもう10年も経ってる。俺、10年間ずっとおまえのこと忘れてた。おまえのいないこの世界が、つらくて──」
 どんなときでも新一を見つけ、その名前を呼んでくれた彼は、もういない。
 この灰色の石の下で、ちいさな白いかけらになっている。でもそれは、工藤新一の愛した『服部平次』ではない。
 残るのはただ──。
「新一」
 不意に呼ばれて、コナンは声のほうに振り向いた。
 すこし離れたところに、見知った影が立っていた。今度はそれを誰だといぶかしむことはない。今はちゃんと、彼が誰か分かる。
「快斗……」
 コナンは彼の名を呼ぶ。はっきりと。彼の名前を。まっすぐに、彼を見つめて。
 快斗はゆっくりと歩み寄って、コナンの隣に並んだ。
「思いだしたんだな」
「ああ」
 コナンは瞳をわずかに伏せてうなずく。
「あのときおまえの言った通りだ。俺、逃げていたんだ。服部の死から。服部がもういないことを認めることから」
 服部の死を認めたくなくて記憶を閉ざし続けるコナンに、思い出させるきっかけを与えたのは、快斗の言葉だった。
 あのとき、錯乱するコナンを頬が腫れるほど強く殴って快斗が叫んだ台詞は、彼の中に深く根付いた。
(『工藤新一』、それが、服部が認めた、愛したおまえだろう?)
(おまえも、服部のことが好きだったんだろう?)
(それなのに、全部忘れて……なくして……それでいいのかよ?)
 自分でも認識できないほど深く、コナンの無意識のうちで、その言葉は何度も繰り返された。それは、コナンの奥深くに封じられていた『工藤新一』への問いかけだった。そしてずっとその答えを探していた。
 何度も繰り返されたその問いの、『工藤新一』の答えは……。
「……俺、服部を忘れたら駄目だったんだ。それは『服部平次』の存在を否定するのと一緒だ。俺を認めてくれた、愛してくれたあいつを」
 ふたりが過ごした時間を。
 ふたりがつちかった想いを。
 愛した彼を。
 愛された自分を。
 忘れることは、それらすべてを否定することと同じだった。
 彼はもうこの世界の何処にもいない。残るのはただ、想いだけで。愛し愛された想い出だけで。それをなくしてしまったら、もうなにも残らない。
 つらくても哀しくても、いつか想い出に変わるとしても、忘れては、いけなかった。なくしてはいけなかった。
「そんなことにも、気づけなかった」
 コナンはまっすぐに、目の前の方形の石に向き合う。
「ごめんな、服部。でも、もう忘れないから。ちゃんと覚えているから。愛したおまえのことも、おまえが愛してくれた俺のことも──」
 灰色の石はただ静かにコナンの告白を受けとめる。
「それから、快斗のことも──」
 自分の隣に立つ快斗を見上げる。
 快斗のことも。快斗との約束も。それもぜんぶ思い出していた。
 彼は大切な仲間だった。似ているといわれる見た目以上に、自分達はひどく似ていた。
 10年前の満月の夜、彼と最後に会った日。約束を交わした。これから、自分の名前も居場所も捨てて、ひとりきりの戦いに向かう彼と。
 だから約束を果たすため、コナンはまっすぐに快斗に向き合った。彼をまっすぐに見つめて、微笑んで。

「おかえり、『快斗』」

 それは、快斗がずっとずっと待っていた言葉だった。
 その言葉で、やっと快斗は戻ってこられる。
 たとえ待っていてくれるひとも帰る場所も、なにひとつなかったとしても。
 彼がそう呼んでくれるから、快斗はやっと『自分』に還れる。
 すべてのしがらみを終えて、『怪盗キッド』を終えて。やっと『黒羽快斗』に。

「ただいま、新一……」

 快斗は腕を伸ばして、新一に抱きつく。快斗のほうが背も高く肩幅も広いから、コナンは彼の胸に抱きしめられる形になる。
 それをコナンは振り払うような真似はしない。そのまま快斗の背中に腕を回して、ゆるく抱きしめる。
「ごめんな、快斗。俺、おまえのこと忘れちまってて」
 快斗には、ひどいことをしてしまったと思う。
 彼はこの10年間、ひとりでずっと戦って、そしてやっと自分に会いに来たというのに。自分は彼のことも彼との約束も、すべて忘れて、会いに来た彼を拒絶したのだ。
 彼にとって自分の存在が、どんなに必要だったか、ちゃんと知っていたのに。
 忘れられていると知ったとき、彼はどんなに傷ついただろう。拒絶されたとき、どんなにショックを受けただろう。
「新一。もういいよ。もういいんだ」
「快斗……」
「新一はちゃんと思い出してくれたから。俺のことを呼んでくれたから」
 それだけで。どんないきさつでも、なにがあっても、こうして彼は自分を思い出してくれた。呼んでくれた。それだけで、もういいのだ。すべては報われる。
 快斗はコナンにすがりつくように、抱きしめる腕に力をこめた。
(……かいと)
 その、腕の強さに、コナンは、快斗がどれほど自分を必要としていたのか、改めて思い知らされる。
 いや、ひどいことをしてしまったのは、快斗だけではない。
 たとえば、両親。コナンは、彼らは養父母なのだと信じこんでいた。彼らに10年も、自分の偽の記憶に付き合わせてしまった。彼らがいったいどんな想いで、10年も養父母のふりをしていたのか。
『義父さん』
『義母さん』
 そう呼ぶたびに、哀しげな寂しげな顔をしていた。何もかもを本当に忘れていた自分は、ただ、彼らが亡くなった『本当の息子』を思い出して、その影を自分に重ねているのだろうと思っていた。
 帰ったら、彼らにもちゃんとに謝らなくてはいけない。
(──それから)
 抱きしめてくる快斗のぬくもりに、コナンは、つい昨日感じたもうひとつのぬくもりを思い出す。
 思い出すきっかけとなったのは快斗の言葉だったが、思い出す決意をさせたのは……。

『コナン』

 泣きながら、何度も何度も、自分へと腕を伸ばしてきた少女。
 すがるように。必死につなぎとめようとするように。
(哀……)
 コナンは、ここから遠く、海を隔てた向こうで自分の帰りを待っているだろう少女に、想いをはせた。


 To be continued.

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