ポロメリア <12>


 ちいさなころの記憶、というものが、コナンにはなかった。
 特に6〜7才ころより前の記憶がなかった。幼すぎて憶えていない、というわけではなく、抜け落ちていたり、つぎはぎだらけのように、記憶が途切れたり混乱していたりするのだ。
 それはのちに、『そのころに両親が亡くなったショックで記憶が曖昧になっている』のだと、大人たちに説明された。
 コナン自身は何も憶えていないが、実際『江戸川コナン』のプロフィールでは、そのころ両親が相次いで病死したことになっている。そしてそれからしばらくコナンは入院していたらしい。身体的なことでなく、精神的なことで。入院していたような記憶は、わずかに断片的にだがあった。だから多分、彼らの言うとおりなのだろう。コナンはそう納得した。
 コナンが自分ではっきりと思い出せるいちばん古い記憶は、哀や今の養父母に出逢ったあたりのころだ。
「コナンちゃん。今日から、私達があなたのおとうさんとおかあさんよ」
 目線を合わせるためにしゃがみ込んで、そう優しく言ってくれたのは、養母だった。
「コナン。私達と一緒に暮らそう」
 同じようにしゃがみこんで、その大きな手で頭を優しく撫でながら言ってくれたのは、養父だった。
 彼らが、自分のことを本当に心から想ってくれていることは、子供の本能のようなもので感じとっていた。この人達と一緒に暮らすことが正しいことだと感じとっていた。
 このひとたちが、今日から、『コナン』の両親になるのだ。
「うん……。『おとうさん』、『おかあさん』」
 コナンがすこし戸惑いながら、けれどそう呼ぶと、みるみる有希子の瞳に涙があふれた。ぼろぼろとそれは頬に幾筋も流れてゆく。
「あっ……あのっ……」
 突然のことに、コナンは戸惑う。何か悪いことを言ってしまったのかとあわてる。助けを求めるように優作を見ても、彼も涙をこぼしはしないものの、こみあげるものを必死に抑えているようだった。
「……新ちゃん……」
 知らない人の名前を呼んで、有希子はコナンを抱きしめた。そのまま肩を震わせて、さらに泣き続ける。コナンはどうすればいいのか分からずに、ただじっとしていることしかできなかった。
「有希子」
 やがて、優作がなだめるように、彼女をそっとコナンからひきはがした。
「すまないね、コナン。驚いただろう? ……ちょっと、昔のことを思い出してしまって」
 本当にすまなすそうな優作に、コナンは大丈夫というように必死で首を振った。彼らにそんな顔などさせたくなかった。
 それからのちに、そのとき有希子が呼んでいたのは、彼らの『亡くなった本当の息子』の名前だったと知った。そのときはまだ、何も知らなかったけれど。
 まだ涙ぐんでいる有希子の肩をそっと抱きながら、優作はまたコナンに優しく語りかけた。
「コナン。それから、君にもうひとり紹介しなくてはいけないんだ」
 優作は扉のほうを振り向いた。すると、すでに待っていたのだろう、コナンと同い年くらいのひとりの少女が入ってきて、ゆっくりと近づいてきた。
 肩口で切りそろえられた綺麗な赤茶の髪と、すこしきつめの大きな茶色の瞳が印象的だった。
「君と一緒に、うちで引き取ることになった『灰原哀』くんだ」
「よろしく、江戸川君」
 哀はそっとそのちいさな白い手を差しだした。コナンはすこしどきまぎしながらその手を握り返した。ちいさな手は、やわらかくてあたたかかった。
「俺のことは『コナン』でいーよ。哀」
 これから一緒に暮らすことになるのに名字で呼び合うのは他人行儀な気がして、コナンは彼女を名前で呼んだ。
 すると彼女は驚いたようにその茶色の瞳を見開いた。
 また自分が何かしてしまったのかとコナンは一瞬戸惑ったが、すぐに彼女は驚いた顔から、華が咲くような笑顔に変わった。
「ええ……そうね。よろしく、『コナン』」
 それが、工藤夫妻や哀との出逢いだった。その日から、コナンと彼らは家族になり、一緒に暮らすこととなった。
 そして、それからすぐに工藤夫妻と共にアメリカへ渡った。工藤夫妻はもともとアメリカのほうで暮らしていたらしい。
 見知らぬ外国へ行くことに不安がなかったわけではないが、好奇心もあった。知らないはずの英語は、子供ならではの能力か、すぐにできるようになり、言葉で困ることもなかった。
 新しい生活にもすぐに慣れた。しあわせだった。
 自分を迎えてくれた新しい両親は、とても優しかった。自分にも哀にも、分け隔てなく愛情を注いでくれ、何不自由ない暮らしをさせてくれた。
 ただ……。

(コナン)

 呼ばれるたびに、違和感を感じた。
 それは、名前それ自体にではなくて、呼ばれるのその名に含まれた、呼び手の感情に。
「コナンちゃん」
「コナン」
 彼らは、コナンの名を呼んでいながら、けれど、彼を呼んではいなかった。音の羅列が呼ぶのはコナンでも、その心が呼んでいるのはコナンではない。
 おそらく彼らは──なくなった本当の息子を探しているのだろう。
 自分の親類にあたるという、養父母の亡くなった本当の息子というのは自分にとても似ているらしい。だから、彼らは、自分にその面影を重ねているのだろう。

「コナン」

 呼ぶ音はその名でも、中に込められた感情は、呼んでいるのは、『コナン』ではない。 コナンを通して違う誰かを探して、呼んでいる。
 養父母は優しい。大好きだし、愛してる。
 とても感謝しているし、養父母のことを、思い出すこともできない本当の両親と同じように心から愛しているけれど。
(僕は、『コナン』なのに)
 誰も、自分を呼んでくれない。『江戸川コナン』である『自分』を、必要としてくれない。そんな気がしていた。
 それが、哀しかった。
 自分の存在を否定されているようで、自分なんて本当はいらないと言われているようで。
 だけどそれを養父母にも他の誰にも言うことはできなかった。
 きっと彼らも、悪気があってそう言っているわけではないのだ。ただ、死んだ本当の息子が愛しすぎて、知らず知らずのうちに無意識にコナンに面影を重ねてしまうのだろう。そんな彼らの切ないような想いも分かるし、それを口に出すことは『自分は必要とされていない』ということをはっきり認めることのような気がして、できなかった。
 まるで、夜の闇の中を、手探りで歩いているような気持ちだった。真っ暗すぎて、何も見えなくて、自分の姿さえ見えなくて、次の瞬間にはもしかしたら、自分は闇に溶けて消えてしまうのではないか。そして、消えたことさえ、誰も気づいてくれないのではないか。そんな気持ちだった。
 それは、コナン自身は忘れているけれど、前にも感じたことのある恐怖だった。
 彼がまだ『工藤新一』だったころ、『コナン』と呼ばれる自分に、『工藤新一』がいなくなる恐怖を感じていた。あのときと同じだった。
 記憶を失ったコナンは、今はまったく逆の状態で、同じ恐怖を感じていた。

(あのときは……がいてくれたのに)

 無意識に、そう想う。けれどそれは胸の深い深いところで、コナン自身も、そう想ったことさえ認識できない。それが誰か、思い出すこともない。
 ただ、昔、自分を助けてくれた誰かは、もういないのだということだけ、無意識に認識する。
 もう誰も、助けてくれない。だって……はいないから。もう、どこにも。
 誰も、『コナン』を呼んでくれない。
『コナン自身』を、呼んではくれない……。


「コナン」


 不意に呼ばれた名前に、コナンは顔を上げた。
 今呼ばれたその名前は、『コナン』を呼んでいた。そこに誰の影も重ねずに、彼自身を呼んでいた。
 見上げれば、心配そうな顔で、哀がのぞき込んでいた。
「どうしたの? 具合でも悪いの?」
 ふさぎこんでいるコナンを、具合でも悪いのかと心配しているらしい。そっと額にちいさな手を当てて、熱を計る。
「哀……」
「どうしたの、『コナン』」
 彼女は、『コナン』を呼んでいた。コナンの中に、『コナン』以外のなにも求めていなかった。
 それを感じたとき、抑えていた涙があふれだした。
「哀……!!」
 コナンは哀にすがりついて泣き出した。たったひとり、自分を『江戸川コナン』と認めてくれる彼女にすがった。
「ちょ、ちょっとどうしたのよコナン? コナン?」
 急に泣き出したコナンに驚きながらも、哀は優しくコナンを抱きとめた。なだめるように、ちいさな手が何度も何度もコナンの髪や背中をそっとなでる。そのあたたかさと優しさに、またコナンの瞳から涙があふれた。
 しばらくそうして泣いて、気持ちが落ち着いたころ、コナンは哀に今まで誰にも言えずにいた自分の想いを吐き出した。養父母が、自分の中に『誰か』を見ていること。それがつらいこと、苦しいこと……。
 話をぜんぶ聞いた哀は、コナンの瞳を真っ直ぐに見て、そして、はっきりと言った。
「コナン。あなたは『江戸川コナン』よ。それで、いいの」
「哀……」
 彼女がそう言ってくれたから、自分の名前を呼んでくれたから。
 だからコナンは『コナン』でいられた。

 たとえそれが作られた嘘の人格だったとしても。  コナンはこの10年、確かに『江戸川コナン』だった。『工藤新一』のままでは生きられなかった。『江戸川コナン』として、生きてきたのだ。
 コナンを『コナン』として認めてくれるひとが必要だった。
 それを認めてくれたのは……哀だった。

 かつて、平次がいたから、新一が新一でいられたように。
 哀がいたから、コナンはコナンでいられた。
 彼女が、いてくれたから……。


 To be continued.

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