ポロメリア <3>



 おまえがいるから、俺は俺でいられるんだ……。



「工藤!」
 人混みから、まるで当たり前のように名前を呼ばれた。コナンはその声に顔をあげる。
 新幹線を降りた平次が手を振っていた。いつもと変わらない笑顔でこちらに歩いてくる。コナンももたれていた柱から背を離して、彼のほうへと向かう。
「迎えきてくれたんやな。ありがとな、工藤」
「工藤って呼ぶんじゃねーよ。コナンって呼べって、いつも言ってるだろ」
 高校生の平次と、小学生のコナンがそんなふうに話している様子は、端から見たら、ひどく不自然だろう。年齢の離れたふたりが対等に話しているのだから。けれど幸いなことに、すでに大量の乗客達は改札へ向かっていてホームに人影は少なく、そんなふたりを見とがめる者はいなかった。
「まったく、用もないのに毎週毎週わざわざ大阪からこっちまで遊びにくんじゃねーよ」
「用ならあるやん。工藤に会いに来たんや」
「バーロ」
 冷たく言い放ってそっぽを向く。嬉しいとか会いたかったとか、いつも素直に言えなかった。
 大阪から東京へ来るのが、まだ学生である平次にとって、どれほどの負担かちゃんと分かっている。交通費もそうだし、時間的にもつらいだろう。移動だけでどれほど疲れるかも分かっている。それでも平次は、そのデメリットをすべて押し退けて、コナンに……新一に会いに来る。
 小学生であるコナンがおいそれと大阪まで出かけられるはずもなく、会おうとすれば、平次が東京に来るしかない。
 こうして会いにきてくれた平次に、もっと違うことが言いたいのに、いつもいつもうまく言えない。
 けれど平次はいつもそんなコナンの態度も気にしない。どんなに表面では突っぱねていても、その奥の本当の気持ちはちゃんと分かっているとでもいいたげに、優しく微笑んでコナンを許してくれる。だからコナンもいつもそれに甘えてしまうのだ。
「ほな、行こか」
 平次はコナンをうながして歩き始める。
 行き先はいつも決まっていた。今は無人の工藤邸だ。
 人目のあるところや他の知り合いのいるところでは、コナンは『江戸川コナン』でい続けなければならない。けれど、他に誰もいないあの場所でなら、コナンは『工藤新一』に戻ることができる。子供の振りをすることもなく、平次とふたりで、堂々と対等に話をしたり振る舞ったりできるからだ。
 目的地に着くと、とりあえず周囲を見回してまわりに誰もいないことを確認して、コナンの持っているマスターキーで中に入る。
「あーっ、やっぱり自分ちはいいよなー」
 中に入ってドアを閉めた途端、コナンは大きく伸びをした。大きく息を吸い込む。
 今では時折しか使われない工藤邸は、庭には雑草が思いのままに伸びて、家のなかも埃っぽいにおいがしたけれど、それでもコナンにとっては楽園のような場所だった。
 ここがこんなに心地いいのは、自分が生まれ育った懐かしい家だから、というだけではなかった。確かに他人の家に住むというのは、それだけでも気を使う。けれどコナンの神経をいちばんすり減らしているのは、住む場所の違いではなくて、『工藤新一』を押し隠して、『江戸川コナン』の振りをして生きること、自分を押し殺して他人を演じ続けなければならないことだった。
 けれどここでなら、もとの自分に戻れるのだ。『江戸川コナン』の振りなどしなくていいのだ。
 リビングに入ると、やはり何処か埃っぽい感じがした。よどんだ空気のにおいがする。長く使われていないのだから仕方ないだろう。
 外からは見えない位置にある窓を薄く開けて風をいれる。本当なら全部の窓を開け放して一斉に空気の入れ替えをしたいところだが、開いた窓を外から見られて、この家の住人が帰ってきていると思われると何かと面倒なので、それはできなかった。
 それでもコナンはそれで十分満足だった。
 機嫌よく、座り慣れたソファに勢いを付けて座り込む。
「なんや工藤はほんま、事件解いとるときとここにいるときが、いちばんイキイキしとるな」
「あたりめーだ。小学生の振りしてんのだって、大変だし疲れんだぞ」
 特にまわりじゅうが『工藤新一』を知っている者ばかりだと、気を抜いたらばれてしまうのではないかと、いつも張りつめている。事件のときはもうそちらに気をとられて、そんなことも忘れてしまうのだけれど。
 ここでなら、自由だ。本当の自分に、『工藤新一』に戻れる。
 そして平次が……自分を『工藤新一』と認めてくれる大切なひとが、一緒にいてくれるのだ。
 平次の存在も、自分を解放してくれる大きな要因のひとつだと、コナンは自覚していた。
 子供を演じるのに疲れただけなら、阿笠博士のところに行けばすむことだ。博士も哀も、コナンが『工藤新一』であると、ちゃんと分かっている。そこでなら演じる必要はない。さらにどうしてもというなら、アメリカの両親のところに行ってしまえばいいのだ。
 そうであるというのに、ここでこうしているときがいちばん安らげるのは、平次が一緒にいるからだった。

(あなたは平気なの?)

 苦しげな顔で尋ねてきたのは、自分と同じ運命をたどっている少女だった。
 ひどく、苦しげだった。つらそうだった。いや、本当に苦しくてつらいのだろう。
 その気持ちはよく分かる。同じようにコナンだってつらいのだから。
 それでも。

(俺は、平気だよ)

 鏡に映るのが『自分』ではなくても、他の誰もが『自分』を認めてくれなくても。

「工藤」

 彼が、呼んでくれるから。本当の名前を。
 その瞳が、ちゃんと見つめてくれるから。本当の自分を。

(だから、平気だ)

 平次も、コナンの隣に腰掛ける。
 ここへ来る途中のコンビニで調達してきた缶コーヒーやお菓子の類を袋から取り出しながら、平次はなんでもないことのように言った。
「俺、大学な、こっちの受けようと思うとるんや」
「こっちって、東京のか? おまえが!?」
 コナンは驚いて、隣にいる平次の顔を見上げた。
 彼が大阪を離れるというのは、ひどく不思議な気がした。それほど平次と大阪というのは強く結びついている。
「なんでまた、こっちに来ることにしたんだ? まーいちおう首都だから、いい大学も多いけど、関西にだっていい大学いっぱいあるだろ?」
「こっちの大学来れば、工藤ともっとずっと一緒にいられるやろ」
 ぬけぬけとそんなことを言われて、さらにコナンは驚く。
 大学受験という人生の重要な岐路を、そんな理由で決めてしまおうというのだ。
 けれど、それを咎めたところで、平次はまたぬけぬけと『工藤と一緒におることのほうが大事や』などと本気で言うのだろう。
 そしてコナンもそれが嬉しかった。平次と一緒にいられることも、平次が自分を選んでくれたことも。
「工藤は、もとに戻ったら、大検受けるんやろ?」
 平次は何気なくコナンに尋ねた。もしもそうなら、一緒に大学に通えるかもしれないと思って。
 けれどその言葉に、コナンは深くうつむいてしまった。
 その様子に、何かあったのかと平次は不安になる。
「工藤?」
「もしかしたら……」
「ん?」
 ちいさなコナンの声を聞き逃さないようにと、平次は少し顔を近づける。黒いしなやかな髪が目の前に映る。
「……もしかしたら、身体、もう元には戻らないかもしれねえって」
「────」
 平次は言葉を失って、目の前のちいさな体を見つめた。本当は彼がこんな子供でないことを知っている。本当は自分と同じ高校生なのだ。
 彼がどんなに元に戻りたがっているか知っている。実際、この体で生きるのは、ひどくつらいだろう。
 それなのに、元に戻れないと、いうのか。
「薬の解毒剤、無理かもって灰原が」
 薬の開発者でもある少女の名が出たことで、それはかなり確率の高いことなのだろうと知る。彼女は嘘や曖昧なことは口にしない。ある程度の確信を持って、はっきりと物事を言う。そして彼女も、なんとかコナンを元に戻そうと、必死になっているはずだった。その彼女がそう言ったのなら……おそらく、コナンは元に戻れない可能性が非常に高いのだろう。そしてそれを、コナンも分かっているのだろう。
「『工藤』」
 平次は呼びかけた。
 コナンが顔をあげる。大きな瞳は泣いていない。揺らいでもいない。いっそ、無表情なほどだ。それがよけいに哀しい。
 そっと平次はその頬に手を伸ばした。
 今彼の中に渦巻いているであろう哀しみを、平次は分かってやることができない。他人の痛みを、本当に分かってやることも、代わりに引き受けることも、決してできはしない。当たり前のそんなことがひどくもどかしい。
 だからせめて、平次が持つ『真実』を、彼に告げた。

「工藤は、工藤やろ?」

 短い言葉が、けれど、コナンの心にゆっくりと染みいる。
 大丈夫と、言ってくれている。たとえこのまま、『江戸川コナン』として人生を送ることになったとしても、彼だけは『工藤新一』を認めてくれる。
 見た目とか、呼び名とか、そんなものではなくて。
 ちゃんと、『工藤新一』を。

「俺は、工藤が好きや」

 変わらずに、そう言ってくれる。

「うん……」

 不意に、瞳から涙がこぼれ落ちた。
 哀からその話を聞かされたときも、それからもずっと、うまく泣くことができなかったのに。
 今、不意に涙があふれた。
 短い腕を精いっぱい伸ばして、平次の首に回した。褐色のたくましい腕が、優しく抱きとめてくれる。

(おまえがいてくれるなら)

 もしもこの先、もとの身体に戻れなくて、『江戸川コナン』としてずっと生きていくことになったとしても。
 きっと、大丈夫。
 両親はひどく心配していた。
 二度ともとの身体に、もとの自分に戻れなくて、『江戸川コナン』として生きていかねばならなくなったとき、コナンが耐えきれないのではないかと。
 だから、彼らはコナンがアメリカに来ることを強く勧めていた。『工藤新一』を知る人の少ない地で、コナンが『工藤新一』だと知っている人に囲まれて過ごしたほうが、つらくないだろうと。
 けれどコナンはそれをはっきりと断った。

(俺は、平気だから)

 むしろ、アメリカなどに行ってしまうほうがつらいだろう。
 アメリカでは、平次もそうそうは会いにこられない。そのほうが、つらい。
 たとえ、『工藤新一』を知る人達のなかで、『江戸川コナン』として生きていかなければならないとしても。
 こうして、平次が呼んでくれるなら、認めてくれるなら。

(俺は、俺でいられる)

 他にも、自分が『工藤新一』だと知っている人達は何人かいる。両親や、阿笠博士や、哀や、気障な怪盗。
 でも、平次だけは特別だった。
 どうして特別なのか、いつから特別だったのか、そんなことはもう分からない。
 それでも、たとえば他の自分を知る人がすべていなくなったとしても、平次が呼んでくれるなら、認めてくれるなら。

 おまえがいるから。
 おまえが呼んでくれるから。認めてくれるから。

 俺は、俺でいられる。
『工藤新一』で、いられるんだ……。



 おまえがいるから……。



 To be continued.

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