ポロメリア <4>



『……どう……』



「…………」
 コナンはうっすらと目を開けた。ぼやけた視界が、だんだんとはっきりしてくる。最初に見えたのは、見慣れた自分の部屋の天井だった。
「コナン。気がついた?」
 視界の中に、見知った顔が飛び込んでくる。哀だ。ひどく心配そうな顔をしている。
 自分の置かれている状況が分からなくて、コナンはあたりを見回した。
 コナンは自分の部屋の、自分のベッドに寝ていた。ベッドの端に哀が座って、心配そうにのぞき込んでいる。窓の外はまだ明るい。
 何で自分がベッドで寝ているのか分からない。記憶が曖昧だった。
 確か、哀と一緒にいつものように学校から帰ってきて、そうだ、門の前に変な男がいて……それから?
「……あれ? 俺……」
「『貧血を起こして』倒れたのよ。門のところで」
 まるでコナンの思考を読んだかのように、哀がそう言った。
「貧血……?」
 コナンは必死に記憶をたどろうとする。けれどよく思い出せない。倒れる前後の記憶がひどく曖昧だった。門のところにいた男と何かを話していたはずだが、それもよく思い出せない。
 けれども、哀がそういうのだから、自分は『貧血で』倒れたのだろう。
「……あの男は?」
「誰?」
「あの、門のところにいた男」
「追い返したわ。『優作さんの大ファン』なんですって。だからって家まで押し掛けるなんて非常識よね」
「そっか……」
 コナンはそれを納得する。
 自分は門のところで『義父さんの追っかけと話しているうちに貧血で倒れた』のだ。
 たぶんそれで、間違いはないのだ。

(…………)

 間違いは、ないのだ。

「どうしたの? 頭とか……痛むの?」
 まだぼんやりしている感じのコナンを、哀は心配そうにのぞき込む。熱を計るようにそっとその額に触れる。
 哀の手は、すこし体温が低い気もするけれど、やわらかな優しい手だった。その心地いい感触にコナンはうっとりと目を閉じる。そうして触れられると、ひどく安心する。
「夢を……見てた」
「夢? どんな?」
「わからない。おぼえてないんだ。でも……なつかしい、夢だった気がする」
 夢の中には、誰かがいたような気がする。誰かが……自分の名を優しく呼んで、優しく抱きしめられた気がする。それが誰だったのか……どんな人だったのか……なにひとつ思い出せない。あるいは、その夢を見たこと自体、夢なのかもしれない。
 それでも……しあわせな夢だった。しあわせな……夢。
「そう……」
 哀は額から手を離して、幼子にするように、コナンの髪をそっと撫でた。
「もうすこし休んだほうがいいわ。優作さんも有希子さんも心配してる。もうすこしゆっくり休んで、夕食は皆で一緒にとりましょう」
「ああ。そうする」
 コナンは眠るために、すこし深く布団にもぐる。哀はコナンが寒くないようにと、布団の端をそっと直してやる。
「哀……」
 すこし布団にさえぎられてくぐもった声が聞こえた。
「なあに?」
「俺が眠るまででいいから……傍にいてくれないか?」
 突然のそんな申し出に、哀はすこし驚く。言った本人も言ってから照れているようで、耳が赤くなっている。
 哀はふわりと微笑むと、ベッドの端に座りなおした。コナンの髪をもういちどそっと梳く。
「傍にいるわ。ずっと……ずっと……」
 安心したように微笑んで、コナンはそっと目を閉じた。
 その愛しい寝顔の口元から、安らかな寝息がもれてくるまで──もれてきてもずっと、哀はその髪をそっとそっとなでていた。



 哀がコナンの部屋を出ると、廊下に有希子がいた。もうずいぶん前から、ずっとそこにいたらしい。
 それでも彼女が部屋の中に入ってこなかったわけは、一目で分かった。彼女は目のふちを赤くしていた。涙はこぼれてはいないが、その大きな瞳は濡れて揺れている。こんな姿をコナンには見せられなくて、部屋に入ってこなかったのだろう。
「有希子さん……」
「ああ、ごめんなさい、哀ちゃん……。大丈夫よ……」
 有希子は、あるいは目を覚ましたコナンが、『工藤新一』の記憶を取り戻しているのではと期待していたのだろう。けれど結局コナンは『コナン』のままで。それが有希子を哀しませているのだろう。
 こんな有希子の姿は、哀の心を痛ませる。けれど哀にはどうしてやることもできなかった。
 有希子は自分の『娘』である哀にこれ以上心配をかけないようにと、急いで涙を拭って、もとの笑顔を見せようとする。
「ごめんなさいね。なんだか感傷的になっちゃって」
 有希子のそんな気遣いに哀は甘えて、なにもなかったことにするしかできない。
「有希子さん、彼は……?」
「下に……優作の書斎に。優作と一緒にいるわ」
 哀は眉をひそめた。
「ちょっと下に行って、彼と話してきます」
「ええ、わかったわ。私は新ちゃんについているわね」
 有希子は今でも、本人の前以外では『新ちゃん』と呼ぶ。まるでかたくなに。
 無理にでもそうする母親のせつないほどの想いに、哀の胸はまた痛むけれど、どうすることもできずに、ただちいさく微笑む。
「……よろしくお願いします」
 そうして哀は階下に、有希子はコナンの部屋へと入っていった。



 快斗は、工藤邸の優作の書斎にいた。
 書斎といってもかなりの広さを持つそこにはテーブルとソファがあり、快斗はそのひとつに腰掛けていた。
 向かい側に座る優作に目をやる。彼が何を考えているのか、さっぱり分からなかった。
 門の前で倒れたコナンを部屋まで運んだあと、快斗を追い返そうとした哀を止めたのは優作だった。優作にとめられてしまえば、哀も無理矢理快斗を追い返すことはできない。
 そしてそのまま快斗はこの書斎に招かれた。
 最初は、いろいろなことを尋かれるだろうと思っていた。あるいは責められるだろうと。そのために、ここに招かれたのだと思った。
 けれど、優作は何も言わなかった。
 快斗に名前を尋ねただけで、あとは何も尋かない。何も言わない。
 コナン……新一との関係も、何故会いに来たのかも、何も。
 うっすらと微笑んでいるように見える優作の顔からは何も読みとれない。すごいポーカーフェイスだ。
 沈黙にたまりかねて、さきに快斗が口を開いた。
「……どうして何も尋かないんですか?」
「尋くことがないからだよ」
 あっさりと、短い答えが返る。
 尋くことがないというのは、すべてを知っているからなのか、それともどうでもいいことだからなのか、それさえ判断がつかない。
 軽いノックがして、扉が開いた。哀が書斎に入ってくる。
 そこにいる快斗の姿を認めた途端、視線がきつくなる。
「あいつは?」
 快斗はそんな哀の様子にもかまわずに、座っていたソファから半分腰を浮かしかけて、彼のことを尋ねた。
「一度起きたけど、また眠ったわ。今は有希子さんが傍についているわ」
「よかった。急に倒れるから驚いたぜ」
 心から安心したように、快斗は胸をなでおろす。立ち上がりかけていた姿勢から、再びソファに深く腰を落とす。
 それとは反対に、優作がソファから立ち上がった。
「哀君。それから黒羽君。ふたりで積もる話もあるだろうし、ここでゆっくり話すといい。私はリビングにいるよ」
「優作さん……」
 哀がなにか言いかけるの軽く手で制して、なにかを伝えるように優作は軽く哀の肩に手を置いた。それだけで、哀はなにも言えなくなってしまう。
 優作はひとり書斎を出ていく。
 あとには、哀と快斗だけが残された。
 また書斎に沈黙が落ちる。けれどそれも長くは続かず、哀は数歩快斗のほうへ詰め寄ると言葉を発した。
「あなたのせいよ」
 鋭く、哀は快斗をにらみつける。
「あなたが思い出させようとするから……あのひとの名前なんか出すから……!!」
 服部平次は、今のコナンにとっては鬼門だ。思い出そうとすれば、ああいうふうに拒否反応が起こる。だから今まで、その名前は決して出さないようにしていたのに。
 10年も経って突然現れて、詳しい事情も知らないくせに、不用意なことをしてくれたものだと思う。
 憤る哀を、快斗は冷たい瞳で見つめる。
「10年前、服部が死んだことは、俺も知ってた。結構テレビとかでもやってたからな」
 平次が死んだのは、快斗が父親を殺した組織との本格的な対決を決意して、『日常』や『黒羽快斗』を捨てて、日本を離れたあとのことだった。
『西の高校生探偵』として名を知られていた平次の死は、当時ちょっとしたニュースになった。さらに、その直後に『東の高校生探偵工藤新一』の死亡も伝えられたせいで、マスコミは東西の名探偵の相次ぐ死を興味本位の憶測をいろいろ交えて大々的に報じた。だからそのとき国外にいた快斗にも、その情報は伝わった。
 その後コナンと哀が、『一人息子を亡くした』工藤夫妻に引き取られてアメリカに渡ったということも、人づてに聞いて知っていた。
 けれど、コナンが『工藤新一』としての記憶をなくしていることまでは知らなかった。知ったのは、つい最近だ。組織を潰して、コナンに会いに行く準備のために彼を調べているときに、異変に気付いた。
「何があったんだ?」
「見ての通りよ。彼は自分で記憶を閉ざしてしまったのよ。10年前……服部平次が死んでしまったとき、その事実に耐えきれずに」

 あの日……10年前のあの日。
 服部平次が、コナンの目の前で死んでしまったあの日。
『工藤新一』は、いなくなってしまった。
 誰よりも愛し、必要としていた者の死に耐えきれずに、自分で自分の記憶を閉ざしてしまった。
 そうして残ったのは──『江戸川コナン』だった。

「だからって、それをほっといたのか? 10年も!」
 思わず声が荒くなる。
 10年前、平次が死んだというニュースを聞いた時点で、快斗も、コナンがどれほど哀しむか分かっていた。そして次いで報じられた『工藤新一』の死──。それが、彼がもとの体に戻れなかったということだと分かった。
 コナンは今どんなにつらいだろう。どんなに苦しいだろう。うまく泣くこともできない彼は大丈夫だろうかと、快斗はずっと心配していた。
 本当なら、飛んで行って慰めてやりたかった。けれど、組織との本格的な抗争に足を踏み入れてしまった快斗には、それはできないことだった。傍にもいてやれないことを、ひどく悔やんだ。
 けれど、哀や工藤夫妻など、コナンが『工藤新一』であることを知る彼らを信じて──彼らがきっとコナンを慰めて助けてくれるだろうと信じて、自分を抑えていたのだ。
 それなのに──彼らは、あんなふうに『江戸川コナン』になってしまった彼を、そのままほおっておいたのだ。10年も!
「しかたないでしょう。さっきのように、無理に思い出させようとすれば、拒否反応が起こるわ。精神崩壊だって起こりうるのよ。それなのに、無理になんて思い出させられないでしょう?」
 確かに彼女の言い分も分からなくはないのだ。
 彼女も、父親である工藤優作氏も、医者としても優秀な腕を持っている。その彼らがそう判断したのだ。彼に思い出させるのは本当に危険なんだろう。それに、10年も彼の『間違い』に付き合うのは、物理的にも精神的にも並大抵の苦労ではない。
 彼らは彼らなりに、コナンの……新一のことを想って、精一杯のことをしたのかもしれない。
 それでも、快斗は言わずにはいられなかった。コナンが『工藤新一』の記憶をなくしていることを甘受している彼女に。
「あいつが『コナン』のままで……本当にそれでいいと思ってんのかよ」
「それを選んだのは彼自身だし、それで彼がしあわせなら、かまわないと思っているわ」
「偽善者」
 鋭く、快斗は言葉を吐き捨てた。
 それに、哀は目を細め、眉をひそめて快斗を見返す。
「あいつのしあわせってなんだよ! おまえは、この状況がおまえにとってしあわせだから、それを壊したくないだけだろ!?」
 あざけるように、侮蔑の色をこめた瞳で、赤茶の髪の少女を見つめた。
「今のコナンはおまえを慕ってる。かつての……服部と会う前の、新一と蘭ちゃんみたいに、コナンは幼なじみのおまえのことを好きでいる。このままいけばコナンはおまえのものになるだろう。だけど、コナンが『新一』に戻れば、そうはならない。新一は服部のものだから。あいつが死んでようとなんだろうと、それは変わらない。だからおまえは、コナンを……新一を取られたくなくて、だからあいつの記憶を戻したくないだけだろう!?」

「…………っ!!」

 快斗の言葉に、侮蔑の込められたその視線に、哀はなにも言い返せずにくちびるを噛む。
 そのとおりだった。
 コナンに思い出させることが危険ということももちろん本当だが。
 ……それ以上に、哀は、コナンに、思い出してほしくなかったのだ。
 今ここにいるのが、自分が愛したそのままの『工藤新一』でなくても、彼は今、自分と淡い恋に落ちている。かつて、服部平次と出会う前に、彼が毛利蘭に感じていたような、親愛の情をすこし濃くしたような感情を抱いている。
 それは、本当の意味での恋愛感情ではない。それでも、このままなら、やがて、哀とコナンは結ばれるだろう。服部平次と出会わなかったなら、新一と蘭がそうなっていたように。

 新一のため、コナンのためというのは、ただの口実だ。

 哀は、コナンを取られたくないのだ。このしあわせを壊したくないのだ。
 だから、コナンに記憶を取り戻して欲しくなかった。
 そうすれば、自分はずっと彼と一緒にいられるから。彼との未来が望めるから。
 そのことで優作や有希子が心を痛めていても、それでも、哀はコナンが記憶を取り戻さないことを望んでいた。
 もしもコナンに記憶を取り戻すすべがあったとしても、あるいは哀は、それをやらなかったかもしれない。
「おまえはただ、おまえのエゴで新一を縛ってるだけだろ!?」
「……そうよ」
 哀は、噛みしめていたくちびるをほどいて、うつむいていた顔をあげて、快斗をにらみつけた。
「私は、コナンに思い出してほしくない。どうして思い出さなくちゃいけないの!? 今のままでいいじゃない」
「いいわけないだろ! あんな状態で! あいつは……!!」
 そのまま激しい言い争いになりかけた、そのとき。



「うわあああああああああ!!」



 快斗と哀は、はっとして動きを止める。

 聞こえてきたのは。
 二階からかすかに響いてきた、コナンの悲鳴だった。


 To be continued.

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