ポロメリア <5>


 コナンはぼんやりと月を見上げていた。綺麗な満月が中空に昇っていた。明るい月明かりが、電灯など付けなくても、そこにあるものを淡く映し出す。
 もう日付が変わろうというかなり遅い時間だったが、小学生のコナンがまだ起きていることを咎める者はここにはいない。
 今日は博士の家に泊まると嘘をついて、自分の家に──工藤邸に泊まっていた。そうする理由は簡単だった。服部平次が、来ているから。
(静か、だな……)
 耳をすましても、かすかな葉ずれの音しか聞こえない。遠くで車の走る音が聞こえたり、犬の吠える声が聞こえるくらいだ。
 つい最近まで、満月の夜は、いつも街のどこかが騒がしかった。たいてい満月の夜には決まって白い怪盗が現われて、警察との追いかけっこをやっていたから。予告状の出ている日はもちろん、予告のない日でも、どこかに現われるのではないかと、たくさんの警官やパトカーが夜の街を騒がせていた。
 けれどその喧噪も、今ではこうしておさまっていた。
 怪盗キッドが、現われなくなったから。
 この数カ月、かの怪盗は、まったく世間に姿を見せていなかった。予告状もない。
 警察でもマスコミでも世間でも、そのことについてさまざまな憶測がされていた。警察を油断させるフェイクではないかとか。実は警察が逮捕したが、怪盗が世間では英雄扱いされていることを考慮して秘密にしているのではないかとか。かつて現われてから最近再び姿を見せるまでに8年のブランクがあったことから、再び休眠期間に入ったのではないかとか。
 それでも、すべてはただの憶測で、誰も真実は知らなかった。
 ──コナンを、のぞいては。
「工藤。そんな薄着でそんなとこおると、風邪ひくで?」
 不意に、うしろから抱きしめられる。
「ほら。こんな冷となっとるやん」
 そのままコナンを腕の中に閉じこめて、平次は自分ごとブランケットを羽織る。その腕はあたたかくて、コナンは自分の体が冷えていたことに気付いた。
 それでも、平次はコナンを窓辺から引き離すような真似はしない。もうすこしここで月を眺めていたいというコナンの気持ちを分かって、尊重してくれる。
「なんや。工藤はあの怪盗がおらんようになって、寂しいんか?」
「バーロ。別に……寂しくなんてねーよ」
 マスコミも警察も世間も、いつ怪盗キッドが再び現われるかと待っているようだったが、彼はもう現われないことを、コナンは知っていた。
 彼は、コナンにだけは、別れを言いに来てくれたから。



「もうここにはいられないんだ」
 快斗は、そう言った。
 あの白いスーツは着ていたけれど、モノクルもシルクハットもはずして素顔をさらした、無防備な姿だった。けれど別に彼の素顔を見たのははじめてでもない。彼の素顔も本名も素性も、ずいぶんと前から知っていた。
 そして向こうも、コナンの本当の名前も素性も知っていた。
 お互いが巨大な組織に狙われていることを知って、もしかしたら同じ組織ではないかと思って、お互いの素性を事情を明かしたのだ。もっとも、快斗のほうは、明かす前からコナンが工藤新一であると、気付いていたようだったが。
 追っている組織が同じなら共同戦線を張ることができると期待していたのだが、調べた結果、結局、コナンの追っている組織と快斗の追っている組織は別物だった。組織は巨大だし、裏社会は複雑だから、どこかで関わっていたり重なっていたりするのかもしれないけれど、直接的には違うものだった。
 それでも、似たような境遇であることは変わらないし、手にいれた裏の情報が、何処かで相手の組織に関わっているかもしれない。それからふたりは情報交換をしたり、お互いのサポートをしたりするようになった。もちろんコナンがキッドとしての盗みの仕事に荷担することはなかったが。
 はじめはそれだけのつきあいだったのだが、知り合ってしまえば、快斗とは自分でも驚くくらい気が合って仲良くなった。やがて、組織がらみのことだけでなく、個人的にも会ったりするようになっていた。もちろん、お互い事情があるため、真昼間に堂々と会うようなことはできなかったけれど。
 その快斗が、コナンに、そう告げた。なんにもない、夜の廃ビルの屋上だった。ライトもなくネオンさえ届かないその場所に、満月の光だけが降り注いでいた。
「俺の追ってるほうの組織の本拠地がわかりそうなんだ。もちろん、だからってすぐに潰せるわけないけど、とりあえず近くに行って、調べようと思う」
「そっか……」
「もう、片手間じゃ無理だ。だから……『黒羽快斗』は、いなくなる」
「快斗……っ」
 コナンは言葉を失って、ただ、そこにいるもとの自分に似た顔を見つめた。
 快斗が、『黒羽快斗』をどうするのか、正確には分からない。行方不明になったことにでもするのか、事故か何かで死んでしまったことにするのか。
 でもどちらにしろ、快斗は今あるすべてを失うのだ。あたりまえにそこにある『日常』を。『黒羽快斗』の居場所を。
 彼は、これから本当に、ひとりきりで、戦ってゆくのだ──。
 コナンには、味方が何人もいる。平次も、哀も、両親も、博士も。自分の正体さえばれないように気を付ければ、警察に頼ることもできる。

 けれど、快斗はひとりきりだった。
 たったひとりで、戦っていた。
 そしてこれから、ほんとうの、ひとりになる──。

 追っている組織が同じだったなら、どんなによかっただろうと、何度も思った。
 そうだったなら、今だって、ひとりで行かせたりなんかしなくてすむのに。一緒に戦えたのに。
「そんな顔すんなよ。『新一』」
 ぽんと、やさしい手が、コナンの頭に乗せられた。手袋に覆われていないその手は、とてもきれいでやさしい。
「おまえと違って、俺は、ぜんぶ自分の意志で決めたことだから、後悔なんてしてないし、しない。だから、大丈夫だ」
 快斗の声は明るく、迷いも未練もないように感じられた。けれどコナンはその声に、さらに深くうつむいてしまう。
 自分で決めたことだからといって、居場所を失うつらさは変わらない。いや、むしろ、そのほうが、つらいかもしれない。
 コナンも『工藤新一』に戻れないかもしれない──その場所を失うかもしれない状況になっている。だからそのつらさは分かる。ただ失うだけでもつらいのに、快斗は自らの手で、それを捨てなければならないのだ。大切な、『自分自身』を。自分の、手で。どれほどつらいだろう。どれほど勇気と覚悟がいるだろう。
 そうやって明るい声で告げられるようになるまでに、どれほどに悩み苦しんだのだろう。
 けれどコナンは、快斗に何もしてあげられない。これから先、一緒に戦うことさえできない。コナンにはコナンの戦いがあるから。
「快斗。ごめんな……」
「だから、新一が謝るようなことは、なんにもないだろ?」
 快斗はやさしく笑った。いつもはひとをからかうようなことや気障なことばかり言うのに、こんなときには、痛いくらいやさしい。そういうひとだった。
「じゃあ、俺、もう行くよ」
 再びモノクルとシルクハットを付けて、快斗は立ち上がった。ハンググライダーで飛び立つために、屋上を囲う柵にふわりと飛び乗る。夜風にマントがおおきくひるがえる。
 別れの言葉をなんと言えばいいのか分からなくて、コナンは黙ってその姿を見上げた。 どんな言葉も、安っぽく意味のないことのような気がして。
 快斗はしばらく、柵の上に立ったまま動かずにいた。風に乗るタイミングを計っているのかと思ったが、少し何か考えているようだった。
 それから、彼はゆっくりと、コナンを振り返った。
「なあ新一……。いつになるか分からないけど……どれくらいかかるか分からないけど……、全部終わったら、俺、おまえに会いに行ってもいいか?」
 快斗がまっすぐにコナンを見つめて、問いかけた。
 いつもの不敵な瞳でも、明るいおどけたような瞳でもなかった。
 そこに込められた意味を……願いを、コナンは感じとった。だからコナンも、すこしもそらすことなくまっすぐに快斗を見つめて、答えた。
「ああ。待ってるよ、『快斗』……」
 コナンの答えに、快斗はふわりと笑った。
 次に風が吹いてきた瞬間、快斗は乗っていた柵を蹴った。ハンググライダーを広げて、風を捕まえる。
「じゃあな、新一──」
 遠くなる白い影から、かすかな声が届いた。

 そうして、それが、怪盗キッドを──快斗を見た、最後だった。



 あれから……コナンの前からも、世間からもキッドが消えて数カ月経つが、快斗からなんの連絡もない。おそらくは、本当にすべてが終わるまで、連絡しないつもりなのだろう。
 けれど、彼はすべてが終わったら会いに来ると、そして自分もそれを待っていると、そう、約束した。それがいつになるか……5年先か10年先かまだ分からない。ひとりの力で組織を潰すには、どれほどかかるのか……。
 でも、それで十分だった。
 あの怪盗と自分は、とても似ていた。
 容姿ではなく、『自分』を隠して生きなければならない境遇が。
『工藤新一』は『江戸川コナン』として。
『黒羽快斗』は『怪盗キッド』として生きなければならない。
 多分、自分にとっての服部と、キッドにとっての自分は、同じなのだ。
 服部が『工藤』と呼んでくれるから、コナンが『工藤新一』でいられるように、おそらくキッドも、コナンに『黒羽快斗』と呼ばれることで、本当の自分を取り戻せるのだろう。
 だから交わした約束。
 すべてが終わったとき、彼が『怪盗キッド』から『黒羽快斗』に戻れるように。
(俺が、おまえの名前を呼んでやるから)
 月を見上げた。それは、彼によく似ている。面影を重ねて、心の中でそっと語りかける。
(だから、無事に帰ってこいよ? 俺に、会いにこいよ?)
 どこかにいる、ひとりで戦う彼に、届くようにと祈りながら。
 不意に、抱きしめられる腕の力が強まった。擦り寄せるように、平次がコナンのちいさな肩にあごを乗せてくる。
「服部?」
「なんやキッドに妬いてまうわ。そんな顔して俺以外のやつのこと考えんといてや〜」
 こんなおおきな図体をして、小学生のコナンに甘えてくる。その姿にコナンは苦笑する。
「バーロ。そんなんじゃねえよ」
「じゃ、なんやねん」
「うーん。言葉で説明すんのは難しいな……」
「言えないような関係なんか!?」
「ちげーよ、バーロ!」
 自分の肩に乗せられている平次の頭をばこっと殴る。平次はそれを大げさに痛がってみせる。
 ……本当は、平次にも分かっているのだろう。コナンとキッドの、その微妙でけれど確かな関係を。ただ、コナンがすこし寂しそうだから、それをなぐさめようとしてくれているのだ。さりげない、優しさ。伸ばされる腕。
「……ありがと、な」
 平次にも聞こえないくらいのちいさな声でつぶやいた。けれどそれは聞こえていたらしい。
 やわらかく、頬にくちびるが押しあてられる。
「大丈夫や。俺はずーっと工藤の傍におるからな」
 くちびるは頬にふれさせたまま、ささやかれる。
 その優しさに、何かがまたひとつ、胸にふりそそいで、コナンは自分から振り向いて平次にキスをした。
 抱きしめられた腕があたたかくて、しあわせだった。
 このまま『工藤新一』に戻れなくて、『江戸川コナン』のままだったとしても、このしあわせは、このまま変わらずに続くのだと信じていた。
 ……信じていた。
 この手の中から、それを、失ってしまうまで。


 To be continued.

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