ポロメリア <6>


「ごめんなさい、工藤君。呼び出してしまって」
 そう言った哀の表情は、暗かった。
 阿笠邸の地下室は、『地下室』という言葉が似合わないほど、照明も多くあり、雰囲気も明るくできている。それでも、今日のその場所の雰囲気は、暗かった。
 コナンは哀と向かい合わせに椅子に座る。
「このあいだもちょっと言ったから、なんの話かはもう分かっていると思うけど……」
 これからされるのがどんな内容の話かは、コナンにも分かっていた。覚悟ももう決めていた。
 哀は、それでもすこし言葉にすることをためらうように間を置いて、それから言葉を吐き出した。
「……APTX4869の解毒剤を作ることは、無理だわ……」
 それは、以前にも言われたことだった。ただ、そのときはまだ確定形ではなかった。いや……彼女が確定ではないにしろ、そんなことをもらした時点で、それは確定と同じことだと分かっていた。
 哀も、APTX4869のデータが手に入ったなら、どうにかなるかも知れないと思って研究を続けていたが、研究の結果分かったのは、たとえ完全なデータが手に入ったとしても、解毒剤を作ることは無理だということだった。
「あれはもともと未完成なうえ、幼児化する薬でもないものが、何らかの不確定要素でこんなふうに作用してしまった。だから、『解毒剤』というのは、もともと無理なのよ。以前あなたに渡した薬を、解毒剤の試薬、と言ったけれど、正確にはあれも解毒剤ではないの」
 哀は手に持っていた書類をコナンに渡す。そこには以前試薬として飲まされたあの薬のデータが書かれているのだろうが、専門知識のないコナンには半分も分からない。それを補足するように哀は言葉を続ける。
「APTX4869が体の細胞を退化させたように、あの薬は、細胞を急成長させるものなの。『元に戻す』薬ではなく、『変化させる』薬なの。一時的になら、体を元の年齢くらいに変化させることはできるわ。でもそれを定着させることはできない。定着させようとすれば……ほら」
 ケージを差し出され、コナンは中をのぞき込んだ。中ではラットが倒れていた。動かない腹。あきらかに死んでいた。
 おそらくは、試薬を実験投与したラットなのだろう。
「それに、一時的に戻ることも、体におおきな負担をかけるわ。それを一度やるたびに、細胞が壊れてゆく。何度も繰り返せば、このラットと同じことになるわ」
「……つまり、どっちにしろ、俺達がもとの体に戻るのは無理みてーだってことだな」
 コナンは書類をデスクにほおりなげた。束ねられた紙がばさりと無機質な音を立てる。
「……ごめんなさい……」
「謝んなよ。おまえのせいじゃないって、何度も言ってるだろ?」
「でも……」
 コナンはいつもそう言ってくれる。けれど、おまえのせいじゃないと言われても、素直にそれを飲み込めなかった。
 どんないきさつがあったにしろ、それは哀の罪だ。解毒剤を開発し、彼を元に戻すことが償いのはずだった。それができないのなら、哀がここにいる意味はない。
「戻れないって決まったなら、さっさと父さんに連絡して、いろいろ手続きしねーとな」
「え?」
 コナンの言葉に、哀はうつむいていた顔をあげた。コナンはいたずらでもたくらむかのような顔で笑っていた。
「『工藤新一』に戻れねーんだったら、ちゃんとに『江戸川コナン』の戸籍つくらねーといけねーだろ。あと『灰原哀』のも」
 以前に言われたときから、考えていたことだった。
 これからもこの姿のままで生きるのなら、ちゃんとした身元が必要だ。適当に架空の書類を偽造するのではなく、もっと確かな後ろだてが必要になってくる。
 そのことはすでに優作にも話していて、もうその準備を進めているはずだった。彼の力を持ってすれば、それは可能だろう。
 そしてもうひとつ。戸籍の偽造とともに、やらなければならないことがあった。
 本当に、もう戻れないのなら。
「……それから、『工藤新一』を死んだことにするから、その準備もしねーと」
「工藤君!?」
 哀は、コナンの言ったことに、思わず悲鳴のような声をあげてしまった。
「いいの、そんなことして……」
 確かに、もう戻れないのなら、生死不明のままの『工藤新一』は邪魔だ。すっぱりと死んでしまったことにしたほうが、これから『江戸川コナン』として生きていくうえでは、都合がいいだろう。
 けれどそれでは本当に『工藤新一』は世間から抹消される。存在しないものとして扱われる。彼は、そこにいるのに。
 それでいいのだろうか。つらくないのだろうか。苦しくないのだろうか。
「俺は、平気だ」
 強い声で、コナンははっきりと言った。
「『工藤新一』が死んだことになっても、他の誰が俺を『江戸川コナン』だと思っても、俺は俺だからな。だから平気だ」
 そのまっすぐな瞳に、嘘も強がりはない。
 こんな状況だというのに、彼はまっすぐに立って笑っていた。
「……あなたは、強いのね」
 ぽつりと、つぶやいた。
 哀のその言葉に、コナンはすこし照れたように笑った。
「違うよ。俺はそんなに強くない。ただ……あいつがいるから。あいつが、俺のことちゃんと分かってくれるから」
 それが、誰のことを指しているかなんて、哀にも分かっていた。
 なんて綺麗な顔をして、そのひとのことを語るのだろう。
「……うらやましいわね」
「なんだよ。おまえだって、大丈夫だよ。俺がおまえのこと『宮野志保』だって、ちゃんとわかっててやるから」
「違うわよ。私は別にいいのよ。『宮野志保』に戻れなくたって……」
 哀は別に、このまま『灰原哀』として生きることに、そこまで強い抵抗はなかった。姉や、両親とのつながりを切ってしまうようで、すこしは胸も痛むが、それ以外ではあまり『宮野志保』に執着はなかった。
 最初は、ちいさくなってしまった自分の姿に違和感をおぼえ、どうにかもとの体に戻りたいと願っていたけれど、ここで暮らしていくうちに、そんな感情はいつのまにか薄れていった。
『宮野志保』は、あまりいい人生ではなかった。両親を早くに亡くし、幼い頃からその頭脳を組織のために使うことを命じられ、自由なんてものとは遠い場所で生きてきた。光を知らずに、そこが暗闇であることさえ気づけないまま、ただ生きていた。そして気付けば、人を殺す道具を作らされ、たったひとりの姉さえ死なせてしまった。
 けれど、『灰原哀』はどうだろう。組織にいつ見つかるかと怯えることはあるけれど、それでも、光のなかで、やさしいひと達に囲まれて、自由にしあわせに生きている。まるで、奪われていた子供時代をやり直すかのように、ただの子供として学校に行って友達と遊んでたわいないことで笑って……。
 本当に、もういちどこのまま人生をやり直せたらと、そう思うのだ。

 ただ、うらやましいのは服部平次だ。
 コナンに……新一に愛され、必要とされる、唯一無二のひと。

 薬で子供になってしまってから、逆に哀は多くのものを手にいれた。たくさんの、しあわせを。けれどそれだけは、どんなに願っても、手にいれることはできそうになかった。
 昔は、何かを手にいれたいと願うことすらなかったのに、今の自分はずいぶんわがままになったものだと思う。そう変わった……変われた自分も、嫌いではないが。
 散らばった書類を片づけようと哀が立ち上がったとき、不意に、コナンが哀の手を掴んだ。びっくりして、哀はコナンを振りかえる。
 コナンは思いもかけないくらい真剣な顔で、哀を見つめていた。
「灰原。おまえ、解毒剤作れないからって、ひとりでどこかに消えたりすんなよ」
 心のどこかにあったことを見透かされたようで、哀はそのまま立ちすくむ。
 ぬくもりの伝わる、握られた手だけが、自分のものではないようだ。
「おまえはここにいればいいんだからな」
 哀は立ちすくむ。動けない。今何かを伝えたいのにどうすればいいのかわからない。ただ必死で、その手を握り返した。
(工藤君……)
 ここに、彼の隣にいられるのなら。それを許してもらえるのなら。望んだままの形ではなくても。彼の心は決して手に入らないとしても。
 それでも隣にいられるのなら。それだけで、いいと思った。
 それだけで、哀は、しあわせだった。



 夕方の街を、コナンは平次と手をつないで歩く。端から見たら、仲のいい年の離れた兄弟にでも見えるのだろう。向かう先は、駅だ。
 はじめのころは平次に無理矢理つながされていたのだが、こうして帰る平次を送っていくときは、いつのまにかそうすることがあたりまえになってしまっていた。
「またしばらく会えんな」
 名残惜しそうに、平次がつぶやいた。
 今日は日曜で、明日からはまた学校だ。まだ学生である彼は、どうしても大阪に帰らなければならない。
 本当なら、もっとずっとコナンの傍にいたいのに。特に元の身体に戻れないことが決定的になってしまった今は。すこしでもコナンに哀しみの影が見えたら、抱きしめて、名前を呼んで、なぐさめたいのに。
 そんなことすら自由にできない自分の身を、すこし疎ましく思う。
「帰ったら電話するし、また来週も来るからな」
「バーロ。金の無駄だろ。そんな暇あるなら、大学絶対落ちないように、しっかり勉強しやがれ」
 口では強がりを言いながら、それでも、自然、駅に向かう歩みは遅くなってしまう。
 そんなことをしても、新幹線の発車時刻は変わらない。一緒にいられる時間が伸びるわけでもないのに。
 コナンは、隣を歩く、同い年のはずの男を見上げた。
 いつかこの身長差も年齢差もなくなると思っていたのに、それは無理となってしまった。身長差がなくなるとしても、それはあと10年はかかるだろう。年齢差は、もう二度と縮まらない。コナンはこれからも『コナン』のままで。
 次に会うときは、『工藤新一』はすでに死んだことになっているかもしれない。この世界には、もう存在しないことになっているかもしれない。
「ん? なんや工藤。俺の顔になんかついとるか?」
 それでも、彼はそう呼んでくれるのだろう。まるで当たり前に。
 ……だからいいのだ。それだけで、まっすぐに、歩いて行けるから。
「なんでもねーよ」
 コナンはそっぽを向いて、けれどすこしだけ、つないだ手に力を込めた。

 駅までの道は、いつもとなんら変わらなかった。
 ……変わらない、はずだった。

 コナンと平次は、またたわいない話をしながら、駅へと向かって歩いていた。
 そのとき、遠くで、なにかがキラリと光った。遠くの、ビルの、上。
 平次だけが、それに気付いた。身長差のため、コナンには見えなかったのだ。
 それがなにかを正確に認識したわけではなかった。ただ勝手に身体が動いた。動いていた。本能と、反射のようなものだった。

「工藤っ!!」

 すべてからコナンを庇うように、平次はコナンに覆いかぶさった。そのちいさな身体をきつく抱きしめる。
「え?」
 コナンは、何が起きたのか、まったく分かっていなかった。



 数回の、なにかが破裂するような音と、砕けて欠片を飛ばす足下の舗装。




「…………え…………?」




 コナンは、動けずにいた。きつく抱きしめられて身動きがとれないということもあるけれど、起こったことに理解ができずに、立ちすくんでいた。
 ぐらりと、平次の身体がかしいだ。
 コナンを抱きしめたまま、コナンを下敷きにするような形で、道路に倒れる。道路に押しつけられるように倒れた衝撃で、コナンの息が一瞬詰まる。
 何が起こったのか、コナンは分かっていなかった。
 近くを歩いていた中年女性が切り裂くような悲鳴をあげる。異変に気付いた通行人達が、口々に何か叫びながら、集まってくる。
 それでもコナンは何が起こったのか分からずに、ただぼんやりと自分を抱きしめたまま倒れた男を見やった。
「服部?」
 自分に覆いかぶさっている体を揺すってみる。
「服部?」
 服部が重くて、息ができない。いつもそうやって抱きしめるときは、決してコナンに負担がかからないよう、彼は体重をかけてこないのに。
 こめかみのあたりに押し当てられた頬。いつもなら、吐息がかすめてくすぐったいのに。

 どうして、今日は、違うの?

「服部。起きろよ、おい」
 背中に回した腕が、濡れた感触を掴む。なまあたたかくて、どろりとした感触。コナンは、その手を自分の目の前にかざしてみた。べっとりと、紅い……。
 重いにおいが鼻をつく。それにかすかに混じった、焦げたにおい。それが何か、どういうことか、コナンには分かっていた。でも分かりたくなくて、必死に服部を呼ぶ。
「おい服部。重いだろ? さっさとどけよ。俺を潰す気か?」
 コナンは必死に願った。
 彼が『すまん、重かったやろ』と言って起きあがってくれることを。『大丈夫か? 怪我ないか?』と自分を心配そうにのぞき込むことを。
 そうしたら、素直じゃない自分は、重かったとか、これくらい平気だとか、可愛くないこと言って、それでも平次はまたやさしく笑ってくれるのだ。
 だからコナンは必死に平次を呼んだ。
「服部……服部……服部……」
 何度も繰り返す。喉が痛くなるくらい。うまく呼吸もできなくなるくらい。何度も何度も。何度も何度も。
 それでも平次は動かない。
「はっと、り……」

(『くどう』って)

(よんで。なまえを)

(はっとり)

 流れ落ちてゆく、紅い液体。
 力無く、自分の上に倒れている身体。
 感じられない、呼吸。

 それは……。




(はっとり……)





「うわああああああああああああああああ!!!!」






 To be continued.

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