ポロメリア <8>


 コナンはベッドの上に身体を起こしたまま、ただぼんやりとしていた。
 その背中は、ベッドヘッドに枕を重ねてもたれさせている。もしその支えを取り払えば、彼は重力に従ってうしろへ倒れるだろう。軽く肩を押せば、押された方向に倒れるだろう。今の彼には、自分の身体を支えるだけの気力すらないのだ。
「工藤君」
 無駄だろうと分かっていながら、哀は呼びかけた。コナンは何も反応しない。
 まるで人形のようだと、哀は思った。綺麗な綺麗なお人形。これほど美しい人形など、よほどの腕を持つ職人でなければ、作れないだろう。
 その瞳はできの悪い硝子玉のようだ。鈍くくすんで、輝きもしない。何も見ていない。
 本当は、それは、どんな至上の宝石よりも、美しく輝くはずなのに。その透明さで、なにもかもを見透かすはずなのに。
 ここが病院ではなくてよかった。もしあの壁も床も天井も、白で埋め尽くされたあの空間だったなら、彼はその色に溶けて消えてしまっていたかもしれない。そんなことさえ、思わせた。
 ここは、都内にある、ある老舗ホテルの一室だった。
 コナンが襲撃され、平次がそれをかばって死んだという知らせを受けて、優作と有希子はすぐに日本に飛んできていた。彼らの手配によって、信頼のおけるホテルに極秘に部屋を借り、そこにコナンと哀はいた。組織の目から、逃れるためだ。
 逃げる相手は、組織だけでもない。平次が死んだとき一緒にいたコナンに話をきこうと、警察もマスコミも必死になって彼を探しているだろう。まあそちらは、優作の圧力によって、かなり抑えられている。話をきこうとしたところで、今の状態のコナンに、何がきけるということもないが。
 彼は、ずっとこうだった。
 ──服部平次が、目の前で、死んでしまってから。
 それはそうだろう。目の前で人が死ぬというだけでも精神的に大きなダメージになるのに、それが自分が愛していたひとで、自分をかばってというのなら、その衝撃は計り知れない。自分を見失って、放心状態になってしまうのも無理はなかった。
 軽いノックの音がして、部屋に優作と有希子が入ってくる。ふたりとも、目深に帽子をかぶりサングラスをかけ、もとの造作を隠すようなメイクをして、一目では工藤優作・有希子夫妻だとは分からないよう変装していた。
「おかえりなさい、工藤さん。マスコミのほうは大丈夫でした?」
「ああ。私達は変装の達人だからね。気付かれないですんだよ」
 言いながら、優作も有希子も変装をといてゆく。もとのよく知った工藤夫妻の姿が現われる。
「すまなかったね、哀君。新一を、みてもらっていて。……様子はどうだい?」
 様子など、彼らが出かけて行ったときと寸分変わらぬ姿勢のままで動かずにいるコナンを見れば、一目瞭然のはずだった。それでもわざわざ口に出して確かめるのは、なにかすこしでも変化があったのではないかというかすかな希望に頼ってのことだろう。
 それでも、彼らの希望を叶えるようなことは、なにひとつ起こっていなかった。
「駄目です。まだ、放心状態から戻りません」
「そうか……」
「新ちゃん……」
 有希子は涙目になりながらコナンのもとへ駆け寄る。彼女がいくら呼びかけても、強く抱きしめて頬ずりをしても、彼が反応を返すことはない。
 その姿を見ていると、せつなくなる。
 優作と哀は、ベッドからすこし離れたところにおかれているソファに移動して、向かい合わせに座った。
「それで、どうでしたか、警察のほうは」
「ああ。なんとかうまくごまかしているよ。こんなことなら、もっと早くちゃんとした『江戸川コナン』の戸籍を作っておくんだったよ」
 今日優作が出かけていた先は警察だった。ひとつは、平次射殺事件の経過を聞くため。もうひとつは、コナンのことをごまかすためであった。
 今のコナンの偽造された身元は、調べればすぐ架空と分かってしまう、簡単なものだった。警察に調べられ、そこを追求されたら、こちらもつらい。調べられてもかまわないくらいの『戸籍』を急いで用意しているが、それにはもうすこし時間がかかり、それまでの時間かせぎとごまかしが必要だった。
「それと、やはり服部君を撃ったのは、黒の組織のようだよ。まあ、実際狙われていたのは、新一だが」
「……組織にばれたんでしょうか。私達が、幼児化していること……」
「いや、それは大丈夫だろう。もしそうなら、新一や君を殺すような真似はしないだろう。言い方は悪いが、君らは大事な『サンプル』なんだからね。まず生きた状態で手にいれようとするだろう。あんな人前でいきなり撃つような真似は絶対しないよ」
 確かに優作の言うとおりで、哀は、組織に薬のことがばれたわけではないと知って安心する。彼らが薬の効果を知ったなら、総力をあげて哀とコナンを捕まえにくるだろう。そうしたら、手段を選ばぬ彼らから、逃げ切れる自信はない。
「じゃあ何故、組織は工藤君を……」
「新一は組織に近づきすぎていた。だから、その邪魔者の排除だろうね。『江戸川コナン』が人前で射殺されたとしても、架空の身元だということがばれれば、逆にこちらが警察に調べられる羽目になる。だから、白昼堂々と、撃つような真似をしたんだろう」
「あ……」
 優作に言われて、哀は納得する。
 組織に自分達の正体や幼児化のことがばれていなかったとしても、組織を潰そうと動いている『江戸川コナン』の存在や、それが架空の身元であることは、すでに組織に知られていたのだろう。
 コナンはすこしずつではあるが着実に、組織の壊滅へ動き出していた。最近では、キッドからもらった有力な情報とその協力によって、組織の末端ではあるがその一部を壊滅に追い込むこともできていた。もちろん、そんな末端のひとつが消えたからといって、強大な組織にはなんの痛手もない。壊滅などほど遠い。コナン自身もまわりの者達もそう思って、そのことをそんなに重要視していなかった。
 だが、組織のほうはそうではなかったらしい。
 自分達に刃向かい、そして末端とはいえその一部を壊滅させた者を、今はまだ些細な存在だが、放置しておけばやがて命取りになるかもしれないと、組織は思ったのだ。ある意味彼らは非常に正しかった。
 邪魔な芽は早いうちに摘んでおくにかぎる。あとになってあわてても遅いのだと、彼らはよく知っている。
 だから彼らは、その『敵』を探しはじめた。末端組織の壊滅に関わったと思われる者達を探し、調べた。

 そして彼らはやがて、『江戸川コナン』という存在にたどりついた。

 まさか彼が『工藤新一』の幼児化した姿であるとは、組織も気付いていなかった。だが、彼が正式な戸籍を持たない、架空の人間であることまでを突き止めた。あきらかに怪しい存在だった。
 まさか、小学生であるコナンが、自分達のような裏社会の中でもおおきな組織に立ち向かう張本人だとは思わなかった。ただ、刃向かってくる何者かの関係者ではあると、確信していたのだろう。

 だから彼らは、コナンを狙った。
 コナンの後ろにいると思われる、何者かへの警告のために。

 コナンが白昼堂々撃たれて死んだなら、もちろん警察もマスコミも動くだろう。けれどそうなれば、すぐにコナンの身元が架空のものであることがわかるだろう。そうなったら、痛手を追うのは、こちらのほうだ。
 だからこそ、彼らはわざわざ、白昼堂々人前で、コナンを狙ったのだ。
「……だが、彼らのそのもくろみははずれて、実際に死んだのは、新一をかばった服部君だった。これは、彼らにとっても大きな誤算だと思うよ」
 世間では服部平次の死は、ちょっとしたニュースになっていた。
 当然だろう。白昼堂々、『平和大国』の街中で、ひとりの人間が射殺されたのだ。しかもそれが、警察幹部の息子で、『西の名探偵』としてすこしは名の知られた男だというのなら、騒がぬわけがなかった。
 マスコミは警察への挑戦か何らかの事件かといろいろとまくしたて、警察もその威信にかけて犯人を捕まえようと、大々的に動いていた。
 組織だって莫迦じゃない。普通、一般のまったく関係ない人物を、堂々と殺すようなことなどしない。そんなことをすれば、自分達の存在を世間にさらし、壊滅のきっかけになりかねない。殺すなら、もっとひっそり殺す。コナンを堂々と狙ったのは、彼が架空の身元を持つ『一般人ではない』存在だったからだ。
 それなのに、代わりに『一般人』である平次が死に、マスコミや警察が動いていることに彼らも焦っているだろう。
「だからその誤算をこちらも利用させてもらう。マスコミと警察をもっと煽って、その力で組織を陽の元に引きずり出す。特にマスコミはね、うまく使えば、組織に決定的な打撃を与えてくれるだろう」
 警察でさえ手を出しかねていた組織だが、今度ばかりは動かないわけにはいかないだろう。たとえ組織が上の人間とつながっていて手を回したとしても、これだけマスコミに騒がれてしまえば、とめようがない。
 またマスコミ自身も、それぞれスクープを狙って、組織の情報をいろいろ暴いてくれるだろう。マスコミの情報収集力はすごい。どんなルートを使ったのか、警察ですらつかめない裏情報まで持ってくることがある。
 このふたつをうまく煽り、操れば、組織におおきなダメージを与えることができるだろう。
「……でも、そんなこと可能ですか? 彼らはマスコミにだって圧力をかけてくるだろうし……」
「『西の名探偵』に続いて『東の名探偵』まで組織に殺されたとなれば、警察もマスコミも、動かないわけがないだろう」
「…………!!」
 あっさりいわれた言葉に、哀は言葉を詰まらせる。
 優作は、哀の様子にすこし笑って、ほんのすこしだけ寂しそうに言葉を続けた。
「『工藤新一』を死んだことにするよ。今日はそのための準備と手配もしてきた。そうすることは、前から新一と相談していたんだ」
 それが書類上だけのことだと分かっていても、そうすることが最善だと分かっていても、親として『子供の死』はつらいのだろう。
「話は……聞いていましたけど……」
「それと、『江戸川コナン』の戸籍とパスポートが出来次第、新一をアメリカへ連れていく」
 はっきりと、優作は言いきった。
 そこには強い決意が込められていて、たとえ意識を取り戻したコナンが嫌がったとしても今回ばかりは、力尽くでも連れてゆくつもりなのだろう。
 今までは多少のリスクも承知でコナンの自由にさせてきたが、こんな事態になって、明らかに組織からも狙われているような状態で、ひとりにして置くことなど、親として決してできないのだろう。
「そうですね……きっと、それがいちばんいいと思います」
 組織の支部は世界各国に広がっているが、それでも、このままここにいるよりはずっと安全だろう。組織というのは縦のつながりは強くても、横のつながりはそうでもないのだ。妙ななわばり意識のようなものもある。だから、日本での情報が、他の国の地域にまで届いているということは少ないのだ。
 なにより、『工藤優作』という権力の庇護のもとにいれば、組織もそう簡単には手は出せないだろう。
 たぶん、そうすることが、いちばんいい。
 たとえ遠く離れてしまうことになっても。
「哀君。君の戸籍とパスポートも一緒に手配してあるから、君も私達と一緒に来てほしいんだが」
「え……?」
 優作の言葉に、哀は驚く。
 彼らと一緒に行くというのは、考えてもいないことだった。いや、今後の自分の身のふりかたなど、何も考えていなかった。
「でも、私は……」
 たとえば、解毒剤を開発できる可能性があるのなら、哀を手元に置いておくことは価値があるだろう。けれど、もう解毒剤は無理だと分かっている。
 それなら、もう哀に用はないはずだった。むしろ、元組織の人間であり、薬の開発者である、憎むべきはずの人間を、追い払いたがるのが普通ではないだろうか。
 ためらう哀の心情を全部読みとったかのように、優作は彼女に優しく微笑みかけた。
「新一は、君のことをとても心配していた。ひとりでどこかへ行ってしまうんじゃないかとね。だから、君の今後のことについてもいろいろ話し合っていたんだ。こんな事態にならなくても、君さえよければ養子になってもらおうと思っていたんだ」
「……工藤君が」
 彼がそんなことまで考えていたとは、思いもしなかった。

(おまえはここにいればいいんだ)

 欲しかった言葉だけでなく、実際にその場所を、彼は自分に与えてくれようとしていたのだ。
 本当は、自分のことだけでだって、手一杯のはずなのに。
 胸が締め付けられる。彼の、無条件で与えてくる優しさに。
「親類で、身よりのない『江戸川コナン』と『灰原哀』を、『ひとり息子を亡くした』僕らが養子として引き取る。設定として、無理はないだろう?」
「はい……」
 素直に、哀は頷いていた。
 うれしかった。自分に居場所が与えられることが。これからも彼の傍にいられることが。
 ──あとは、コナンが、意識を取り戻してくれれば。

「新ちゃん!?」

 不意に、有希子の叫ぶような声が聞こえた。
 反射的にふたりは視線をそちらに向ける。と同時にソファから立ち上がってベッドのほうへと駆け寄っていた。
「どうした有希子!?」
「新ちゃんが……新ちゃん!」
 何があったか、優作と哀にもすぐに分かった。
 コナンが、動いていた。
 ここが何処か分からないというように、何度もおおきくまばたきをしながら、きょろきょろと首を動かしていた。放心状態から目覚めたのだ。
「新ちゃん!」
「工藤君! 気が付いたの!?」
「新一、よかった。大丈夫かい?」
 うれしさのあまり、3人で口々に叫ぶように呼びかけて、彼に詰め寄った。
 有希子は涙を流しながらコナンを胸に抱きしめ、優作もその頬をてのひらで包み込んでなでていた。
「よかった工藤君……」
 哀もうれしさに思わず彼の手を強く握って、自分の頬に押し当てていた。
 けれど。

「……誰?」

(……え?)
 言われた言葉が分からずに、哀はコナンを見つめた。
 有希子も優作も同じように、驚いて、体を放してコナンを見つめた。
 彼は戸惑うような視線を、3人に投げかけていた。
「……新ちゃん? 何言ってるの? お母さんが分からないの?」
 震える声で、有希子が尋ねる。
 けれどコナンは、ますます戸惑うような表情をするだけだ。

(……まさか……)

 哀の胸に、ひやりと冷たいものが走る。
 つらい経験、衝撃的な経験をしたひとに、時折みられるという。自分を守るために。自分の心を守るために。そうなってしまうことがあるという。
 ひとは自衛本能で、自分の記憶を操作してしまうことがあるという。
「……君は、君の名前を、覚えているかい?」
 優作が、ゆっくりと、尋ねた。知らない人達に囲まれて怯えているような様子の彼を安心させるように、ことさら優しげな口調と声で。
 その質問に、ほんのすこし考えるように、彼は首を傾げた。
 祈るような気持ちで、優作も有希子も哀も、彼を見つめていた。
 それから、彼は無邪気な声で、告げた。『自分』の名前を。




「僕の名前は……『江戸川コナン』」





 To be continued.

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