confidence game [3]


 弁慶に抱かれたことは他の皆には知られないように、と思っていた望美だったが、結局のところ、朔にはあっさりと知られてしまうこととなった。
 陽が昇る前に彼の部屋から自分の部屋へと望美が戻ったとき、幸いにも朔はまだぐっすりと眠っており、望美が抜け出したことに気付いた様子もなかった。気配にはなかなかに聡いはずの朔だが、おそらくは彼女も連日の熊野の山道歩きに疲れていたのだろう。それに感謝しながら、望美は朔の隣に敷かれている自分の布団の中にもぐりこんだ。
 布団に身を横たえて一息ついてみれば、様々な感情が一気に押し寄せてきた。昨夜の出来事に対する羞恥の他にも、好きなひとに優しく抱かれたという幸福感や、数日後には熊野別当にあんなふうに抱かれなければならないかもしれないという不安が、ない交ぜになって望美の中を埋め尽くした。
(弁慶さん)
 きつく目をつぶって、望美は弁慶の姿を脳裏に思い浮かべた。
 たとえ別当に身体を差し出すことになったとしても、きっと大丈夫だ。弁慶に優しく抱かれたことを思い出せば、きっと乗り越えられる。
(大丈夫。大丈夫。大丈夫)
 自分に言い聞かせるように、胸の中で繰り返す。みんなを助けるためならと覚悟したことでも、怖くないわけはないのだ。望美は自分の身体を抱きしめるように、身体をちいさく丸めた。弁慶に優しく触れられた感触は、まだこの体に残っている。痛みがなかったわけではない。むしろ、痛みのほうが大きかった。──それでも、それ以上のものが、肌を満たした。
(だから、だいじょうぶ)
 初めて抱かれた体は、肉体的疲労というよりは、極度の緊張による精神的疲労のほうが大きかったのだろう。いつしか望美は、そのまま眠り込んでしまった。
 目を覚ましたのは、完全に陽が昇ったあとだ。先に起きた朔に肩を揺り動かされて目を覚ました。
「望美。もうすぐ朝食ができるわ。起きて」
「ん……朔?」
 望美が目を開けると、明るい陽射しと朔の顔が視界に入る。朔はすでに着替えも身支度も済んでいた。望美も緩慢な動作で布団から出る。
 いつものように着替えようと、朔に背を向けて単を脱ぐと、朔からちいさく驚いたような声が上がった。
「望美、それ──」
「え?」
 その声に望美が振り向くと、朔は目を丸くして、驚いたように口元に手をあてて望美を凝視していた。何故彼女がそんな顔をしているのか分からず、望美は自分の肩口に目を落として──その理由を知った。一瞬で、顔が赤く染まる。肩から上腕部にかけて、二個三個と、赤い痕がついていた。慌てて脱ぎかけていた単を肩まで戻す。
 おそるおそる視線を下に落とせば、胸や腹にも、同じように赤い痕がいくつもある。少なくとも意識のあるあいだはそんなふうに触れられた覚えがないはずの、腿や内股にまで痕は散らばっていた。このぶんでは、もしかしたら肩だけでなく背中のほうにも同じように痕をつけられているのかもしれない。ただ、さすがと言うべきか、いつもの小袖とスカートを着て見える範囲には、痕はひとつもない。脇に置かれた鏡をちらりと見れば、首元や、戦闘時などに袖がまくれて見える肘より下、普段からさらされている膝付近は、白いままだ。
(弁慶さん──!!)
 心の中で、この痕をつけた張本人を大声で罵る。そりゃあ、痕を付けるなとは言わないが、限度というものがあるだろう。首筋や胸元にひとつふたつならごまかしようもあるが、これほどの数をあちこちにつけられては言い訳のしようがない。朔も、短いあいだとはいえ黒龍と夫婦として契りを結んでいる。この痕が何か、分からぬわけもないだろう。
 相手が誰かまでは分からないだろうが、昨夜誰かに抱かれたことを、朔に知られてしまった。朔に背を向けて、単の襟元を握り締めたまま、望美は固まってしまっていた。恥ずかしくて、彼女にどういう顔を向ければいいのか分からない。痕を見つけられたときに何でもないふりをしてしまえばよかったのかもしれないが、これほど挙動不審な態度をとってしまったあとでは、いまさら取り繕えない。
「望美」
 声をかけられて、望美は背をこわばらせた。
 だが朔は、いたわるようにそっと望美の肩に触れてきた。
「身体は、大丈夫?」
「う、うん……」
「朝食はどうする? ここへ持ってきてもいいけど」
 望美は、傍らにいる親友を見つめた。朔は穏やかな優しい瞳で望美を見ている。
 多くを語らずとも、多分朔には分かったのだ。望美の対であり、親友である彼女には。別当に身体を差し出すことも厭わないと言った望美の決意が本気であるということも。それでもせめてと昨夜望美が愛しいひとのもとへ行ったということも。そうして、望美の身体を気遣ってくれている。それに気付いてじんわりと心があたたかくなった。
 望美は朔のほうへ向き直り、向かい合わせに座って手をつないで、額を付きあわせる。まるで自然に、そうしていた。握り合った手があたたかい。こうしていると、まさしくお互いが対なのだと感じる。
「朔……私……」
「別当のところに行くって話、本気なのね」
「うん……」
 朔は愚かな女性ではない。彼女だって、軍奉行である景時の妹として、ずっと戦の片鱗を見てきた。どんなに納得できないことでも、つらいことでも、そうしなければならないこともあるのだと、分かっているだろう。大切な何かを守るために、それ以外を切り捨てなければならないことがあることも。
 そして、心配することと、誰かの決意をないがしろにすることは、別物だ。死ぬと分かっていても、誰かのために何かのために戦地へ赴く者を、愚かだと嘲笑うことはできないように。
 朔のほうがよほどつらそうに、痛みをこらえるように目を伏せる。彼女にそんな顔をさせてしまうことが苦しかった。
「そんな顔しないで、朔。私は本当に、大丈夫だから。怖くないって言ったら嘘になるけど、でも大丈夫」
「望美……」
 朔を安心させるように、笑ってみせた。
 実際、昨日までならそれはただの強がりでしかなかっただろう。でも今は、怖いことには変わりなくても、きっと大丈夫だという気持ちは強くなっていた。優しく抱いてくれた弁慶のぬくもりが、望美を強くしてくれている。
「望美、きれいになったわね」
「えっ!?」
 突然言われた言葉に、望美は驚いて顔を赤くする。
 もとの世界で読んだ雑誌や少女漫画の中では、初体験したらきれいになったなどと書かれていたけれど、それはただのもののたとえだと思っていた。実際にそういうことがあるとしても、自分に当てはまっているとは思えない。一晩で何かが変わるとも思えないし、今は髪も梳かしておらず、寝起きのままだ。
「もう、朔、なに言うの。そんなことあるわけないよ」
「ふふっ、自分では気付かないものよ」
 静かに笑う朔は、望美とひとつしか歳が違わないはずなのに、ひどく大人びて見える。彼女も初めて黒龍に抱かれたときは自分のようだったのだろうかと、ぼんやりと思った。
「望美」
 額を合わせたまま、きつく手を握られる。それと同じ強さで、望美もしっかりと手を握り返した。
「私はいつだってあなたの味方よ。あなたのしあわせを願ってる」
「うん……うん、ありがとう」
 たとえ無理矢理違う世界に飛ばされ望まぬ戦に巻き込まれたのだとしても、朔をはじめとする大切な仲間に出会えたことだけは、本当によかったと思う。彼らを守るために、望美はここにいるのだ。
 なかなか起きてこない二人を心配して譲が呼びに来るまで、二人はずっとそうして寄り添っていた。



 熊野川を増水させていた怨霊を無事封印し本宮まで行ったものの、別当は速玉大社にいると言われてまた勝浦に舞い戻るという多少の無駄足は踏みつつも、いよいよ別当と面会する日がやってきた。
 望美は、以前朔と共に選んだ衣装を身に着けて、宿近くの勝浦の町をひとり歩いていた。海で冷やされた風が、熱い空気をわずかにやわらげてくれる。けれどその心地よさを味わっている余裕は望美にはなかった。
 これから別当に会うことを思えば、いやでも緊張する。ここでどうにかして熊野の協力を取り付けなければ、またみんなを失う運命を辿ってしまうのかもしれないのだ。このあとは、福原での戦いが待っている。三草山で平家の偽の陣を見破り完全な敗走を回避したのと同じように、ここが歴史の重要な分岐点のひとつに違いないのだ。
(なんとしても、熊野の協力を──)
 別当との面会に付いて行くと言い張った望美に、九郎と景時は大反対をした。特に九郎は、望美に宿に残れと大声で叱りつけてきた。言い方は乱暴だが、それが望美を心配してのことだと十分分かっている。九郎にとって頼朝は絶対的な存在だ。その兄の命である、熊野の協力を取り付けることが難しくなるとしても、望美に望まぬ夜伽などすることはないと言ってくれているのだ。そんな九郎の気持ちが分かっても、それでも望美も引けなかった。
 お互い一歩も引かない九郎と望美の言い争いを仲裁したのは、弁慶だった。いつもの穏やかな口調で九郎を言いくるめて、最終的には望美の同行を許可させた。誘導尋問のように九郎から言質を取っていく様は見事なあざやかさだった。
 あまりに緊張している望美を見かねて、外の空気を吸ってくるよう勧めてくれたのも弁慶だ。
(弁慶さん……)
 あれから、弁慶はまるで何事もなかったかのように望美に接してくる。すこし寂しい気がしないでもないが、それは仕方のないことだ。あれは望美が無理に頼んだだけのことであって、ふたりは恋人になったわけでもなんでもないのだ。むしろ、弁慶が普通に接してくれるおかげで、他のみんなには何もばれていない。朔も相手が弁慶だとは気付いていないようだ。それはありがたいことだった。
 望美はいちど、大きく息を吸って吐き出した。着物の胸元をきつく握り締める。
(大丈夫)
 弁慶に身体中につけられた痕は、もう消えてしまった。けれど、優しく触れられた感触と記憶は、ちゃんと残っている。
 これから別当に会って、そのあとどうなるかは正直分からない。別当との仲介役をしてくれているヒノエは、別当に夜伽を迫られるとか、そんな心配はしなくていいと言ってくれた。けれど望美としては、むしろ夜伽を迫られたほうがいいとさえ思っていた。夜伽を迫られるということは、それに応じれば協力をしてもらえる可能性が高いということなのだから。最悪の場合は、彼女のほうから身体を引き換えに、協力を求めることも考えている。
「おいあの娘……」
「ああ、あの身なりなら、多分どこかのお姫さんだろう……」
 物思いにふける望美の背後で、怪しい影が彼女を見ていた。
 ここが戦場なら、望美も近づいてくる怪しい気配にすぐに気付いただろう。だが、ここが熊野である安心感と、別当に会う緊張と、これからのことを考えることに没頭しすぎていて、気付くことができなかった。
「──あっ!」
 不意に当て身を食らわされ気を失い、望美は海賊にさらわれてしまった。
 彼女が次に気付いたときには、見知らぬ船の上だった。船の上には彼女の他に、三人の男がいた。粘つくような、下卑た笑みを浮かべている。まわりを見渡せば、船はまだ岸からそう遠く離れていない。陽の高さから考えても、さらわれてからそう時間がたっていないことは分かった。
 愚かな男たちは、望美を人質に、身代金を手に入れるつもりだったらしい。その浅はかさにあきれ返る。だがその短慮が今は好都合だ。望美をか弱い姫と信じ、動きを拘束することもなく、そのままにしておいてくれるのだから。
「こんなことをして、ただで済むと思っているの?」
 自分をさらった男たちを睨みつけながら、望美はそっと腰のあたりに手をやった。海賊にさらわれることは想定していなかったが、怨霊が出ることは考えて、着物の下に剣は忍ばせてある。一対三でも負けるつもりはない。集団で術を使いながら襲ってくる怨霊に比べれば、海賊などかわいいものだ。
 こんなところで時間を食っているわけにはいかないのだ。今日を逃がして、また後日、別当に会えるか分からない。別当は神出鬼没な人らしく、今日の面会だってやっと取り付けたのだ。こんな海賊どもはさっさとのして勝浦に戻って、別当に会わなければいけない。きっとみんなも心配しているだろう。
 望美が剣を取り出して振ろうとする寸前、船が大きくかしいだ。
「きゃっ!」
「うわあ!?」
 激しい揺れに、望美も海賊たちも立っていられず、膝や尻をついてしまう。
 大きな船が音もなく近づいてきて、望美たちの乗る船のすぐ横にとまったのだ。
「望美! 無事か!?」
「ヒノエ君!?」
 よく見知った赤い髪の少年が、船から飛び移ってくる。それに続くように、屈強そうな男たちが次々とこちらへやってくる。何が起こったのか、望美には理解できなかった。望美の傍らまで来たヒノエは、海賊から彼女を守るように腕の中に抱き込んだ。
「な、なんだてめえは!!」
 海賊の一人が、ヒノエと居並ぶ男たちに怯みつつも、噛み付くように叫んだ。その問いに、ヒノエは片眉を跳ね上げる。
「へえ、俺を知らないなんて、熊野の男とは思えないね」
 そうして、望美をその腕に抱えたまま、ヒノエは高らかに叫んだのだ。

「俺は熊野別当、藤原湛増!!」

「────え?」
 望美はこれ以上ないほど、大きく目を見開いた。


 To be continued.

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