confidence game [5]


 熊野から紀の国を回って京へ帰りついたとき、町はすでに秋の様相を呈していた。春の京は桜に彩られ美しかったが、秋の京も紅葉に彩られ春に劣らぬ美しさだった。京邸の庭の木々も、それぞれ紅葉しはじめ、春の頃とは違った美しさを見せている。譲が手入れしている草花も、秋咲きの花が咲きはじめ、庭の美しさを引き立たせていた。
 だが望美には、紅葉の美しさに見とれている暇はなかった。いちど時空を遡った望美は、この先に起こることをすでに知っている。このあとすぐに和議を結ぶと見せかけた福原での戦いが待っているのだ。最近九郎や景時があわただしく動いているのも、おそらくはその和議に関する話が頼朝や後白河院からまわってきているからなのだろう。
 前の運命では、その戦いによってリズヴァーンを失ってしまった。そして、福原での勝利に勢い付いた平家に京を焼かれ、みんなを失ってしまった。その運命は、なんとしてでも変えなければならない。
(たしか福原では、一の谷の奇襲作戦が読まれていて、そこを攻められたせいで負けちゃったんだよね。とりあえず、奇襲をとめればいいのかな……?)
 京邸の縁側にひとり座りながら、望美は前の運命を振り返った。
 これから起こることを知っていても、かつてリズヴァーンに言われたとおり、実際に運命を変えるのは難しい。たとえ頼朝が和議を結ばず奇襲をかけろと命令してくると分かっていても、今の望美にそれをとめる力はないのだ。福原で戦が起こることは避けられない。
 だとしたら、戦に勝つ方法を考えなければならないが、どうしたら勝てるのかも分からないのだ。一の谷の奇襲が読まれていたことが敗因の一つではあるが、それさえ避ければ勝てるのだろうか。他に敗因はないのだろうか。一の谷を上手くやり過ごしたとしても、もしかしたら平家は他にも罠を仕掛けているかもしれない。何をどこまですればいいのか、何をどこまでできるのか、考え出したらキリがない。
 かといって、それを誰かに相談することもできない。未来を知っていると──時空を超えて戻ってきたなどと言って、誰が信じてくれるだろう。三草山では、立石の偽の陣を見破ったのは神子としての力だなどと言ってごまかしたが、そんなことが何度も通用するとは思えない。むしろ、そんなふうに作戦を見破っているのは平家と通じているのではないかと疑われるのではないだろうか。
(どうしたら、いいんだろう……)
 望美は大きくため息をついた。
 未来を知っていれば簡単に運命を変えられるのではないかと思っていたが、そう簡単にはいかないようだ。望美ひとりの力では、歴史の大きな流れは変えられない。それでも、小さな変化を積み重ねていくことで未来は変わると信じたかった。大切なひとたちを助けられると信じたかった。
「望美さん」
 物思いにふけっていた望美は、不意にかけられた声に、大きく肩を震わせた。急に声をかけられて驚いたのではない。振り向く前から、それが誰かは声で分かっている。その人に声をかけられて驚いたのだ。
 壊れてさび付いた人形のように、ゆっくりとぎこちなく望美は振り向く。振り向いた先には当然のように、黒い法衣に身を包んだ男が立っていた。
「……弁慶さん……」
 答える声がこわばってしまうのも、仕方のないことだ。
 紀の国からずっと、望美は弁慶を避けていた。できる限り近づかないように。必要があって近づくときも、できるだけ遠くに。望美自身はさりげなくしているつもりでも、聡い彼は避けられていることくらいすぐに気付いていただろう。
「どうしたんですか、そんなところで物憂げに溜息なんかついて」
 優しい笑顔で近づいてくる男に、望美の警戒心は急激に高まる。もしも彼女が猫なら、全身の毛が逆立っていただろう。
 この笑顔が曲者なのだ。この笑顔に、だまされたり丸め込まれたりしてはいけない。
「いえ、別に。えっと……ちょっとぼんやりしていただけです」
 それだけ言うと望美は座り込んでいた縁側からさっさと立ち上がって、弁慶を置いて部屋の中へ逃げ込んだ。そして部屋の襖をぴたりと閉めてしまう。
 閉めた襖に背をつけて、望美はその場に座り込んだ。
(私、何やってるんだろう……)
 いくらなんでも、今の避け方はあまりにもあからさまだった。今までだって避けていることに気付かれていないとは思わないけれど、それにしたって今のはあからさますぎる。
 弁慶との仲を悪くしたいわけではないのだ。これから福原の戦いに向けて、前の運命を辿らないためにも、軍師である彼の知恵を借りなければならないことは多くあるだろう。そうであるなら、こんなふうに避けたりせず、前のようになんでもない顔をして普通に接するべきなのだ。そう頭では分かってはいるのだが、感情がついていかない。
(そりゃあ別に、弁慶さんばっかりが悪いってわけではないけど)
 そもそも抱いて欲しいなどと言い出したのは望美のほうなのだ。弁慶はその願いを叶えたに過ぎない。ただ、その必要はないと知っていたにもかかわらず、それを言わなかっただけで。
(知っていたなら、言ってくれればよかったのに)
 弁慶は弁慶の事情があるのだろうから、そう簡単に熊野別当とのつながりを言うわけにはいかなかったのかもしれない。でも、それならそれで何か別の理由をつけてでも、断ってくれればよかったのだ。口のうまい彼のことだ。適当な理由で望美を納得させることなど造作もなかったはずだろう。
 一体彼は、どんな気持ちで望美を抱いたのだろう。若い娘が自ら抱いてくれと部屋に忍び込んできて、据え膳とばかりにいただかれてしまったのだろうか。望美を抱きながら、愚かな娘だと内心笑われていたのだろうか。そう考えると、涙が滲んできてしまう。
『後悔しているんですか?』
 勝浦の浜辺で問いかけられてた声が脳裏によみがえる。
 弁慶に抱かれたことを、後悔はしていない。その気持ちは変わらない。弁慶が好きだという気持ちも消えていない。でも、その気持ちを踏みにじられていたかもしれないことが、哀しいのだ。
「望美さん」
 襖越しに背後からかけられた声に、望美は大きく肩を震わせた。もうとっくにどこかへ行ってしまったかと思っていた弁慶は、まだそこにいたらしい。気配を読んでか、望美が襖のすぐ向こうにいると分かっているのだろう。
 この時代の部屋は、もとの世界のようにしっかりとした鍵があるわけではない。それも、鍵がついているのは特殊な部屋や重要な部屋に限られ、普通の部屋は鍵などついていない。望美がいる部屋だって当然鍵などはなく、ただ襖を閉めただけだ。弁慶が開けようと思えば、何の苦もなく開けられてしまうだろう。
 襖を開けられてしまうのではないかと、望美は怯えた。今、弁慶に会いたくなかった。
 望美はいつ襖が開けられるのかと身構えたが、しばらく経っても開けられることはなかった。かといって、弁慶が立ち去る足音もしない。おそらく彼はまだ襖の向こう側にいるのだろう。
「望美さん」
 もういちど、弁慶の声が望美を呼んだ。いくぶん、ためらいがちに。
 それから何か言われるかと思っていたのに、静かな沈黙が落ちて、やがて何も言わないまま弁慶の去っていく足音が聞こえた。足音は静かに遠くなって、もう聞こえない。弁慶はそこから去ってしまったのだろう。何も、言わないまま。
 望美はゆっくりと、詰めていた息を吐いた。高まっていた緊張が一気にほぐれる。けれど同時に、言いようのない寂しさにも切なさにも似た気持ちがあふれてきた。望美は自分の足を引き寄せて、膝に顔を埋める。
 弁慶は、何も言わずに去ってしまった。
 言い訳を、すればいいのだ。弁慶なら、望美を丸め込むことくらい、わけもないだろう。何か適当なことを言って、ごまかしてしまえばいいのだ。勝浦の海岸でのように、甘い言葉でも囁いて望美を翻弄して、そのままうやむやにしてしまえばよかったのだ。
 なのに、あんなふうに何も言わないのはずるい。だますなら、最初から最後までだませばいいのに。どうして。
(──やめよう。今は、考えるのよそう)
 望美は無理矢理自分の思考を打ち切った。今は、そんなことを考えている場合ではない。もうすぐ福原の戦いがあるのだ。それに集中するべきだ。弁慶のことに気を取られて、みんなを助けるといういちばん大事なことが出来なくなってはどうしようもない。
 明日からはまた、なんでもないように弁慶と普通に接しよう。なんだったら、忘れてしまえばいいのだ、弁慶に抱かれたことなど。
(うん、そうしよう)
 望美は自分の意識の中から弁慶を追い出して、次の福原の戦いでのことに、思いをはせた。



 望美は自分に与えられている部屋の寝床で、ちいさく寝返りを打った。
 この世界の夜は、音もなく静まり返っている。電気もテレビもなく、わずかな月明かりだけが頼りだ。この世界に来たばかりのころは、この静けさと暗さに慣れることが出来ずに、なかなか寝付くことが出来なかった。今はここでの生活にもそれなりに慣れ、眠れないなんてことはなくなっていたのに、今日はなかなか寝付くことが出来なかった。
 思い出してしまうからだ。弁慶に抱かれた、あの夜のことを。忘れてしまおうと決めたのに、そのときのことが繰り返し浮かんでしまう。
(だって)
 ほてる頬を押さえ、望美は言い訳をするように心の中で呟いた。
 望美の部屋には、窓から淡い月明かりが差し込んでいる。半月を過ぎ、けれど満月には満たないほどの月。──あの夜と、同じ月だ。ここ数日曇っていたせいで月が見えず気付かなかったが、今夜月を目にした途端、あの夜のことが浮かんで離れなくなってしまった。
 あれから、ちょうどひと月が経ったのだ。ひと月前の夜、時間にしたら今頃だろうか、望美は朔が眠ったのを見計らって弁慶の部屋へ行ったのだ。静かな廊下を、同じ月が照らしていた。ヒノエが頭領だとはまだ知らなくて、自分から弁慶に抱いて欲しいなどと言ってしまった。弁慶はその言葉に驚いていたようだったけれど、望美の手を優しく引いて奥の部屋へ──。
(でも、弁慶さんは)
 彼はちゃんと知っていたのだ。抱いてほしいと言った望美の行動が、必要ないものであると。
 そこまで考えて、急速に自分の熱が引いていくのを望美は感じていた。
(考えるのやめよう。もう寝てしまおう)
 窓から入る月明かりが目に入らないように、望美は掛け布団を引き上げて頭までかぶった。昼間に決めたとおり、あれはもう忘れてしまうのだ。大丈夫、朝になれば月も沈んで、またもとのように弁慶と接することが出来る。だから、今は何も考えずに眠ってしまおう。
 布団を頭からかぶってしまえば、目を開けていても閉じていても変わらないくらい暗い。それでも望美はきつく目を閉じた。早く眠りの波が訪れるようにと願いながら。
「──望美さん」
 不意に、かすかな声が望美を呼んだ。
 その声に、望美は目を見開いて体を硬くする。一瞬、幻聴かと思った。望美の願望が、記憶にある声を聞かせているのかと。
「望美さん、起きていますか?」
 もういちど、声は望美を呼んだ。幻聴などではないそれは、間違いなく弁慶の声だ。襖の向こうから、彼女を呼んでいる。望美はそっと体を起こしてそちらを見た。静かに閉ざされた襖の向こうに、弁慶がいるのだ。
 ちょうどひと月前と逆だ。あのときは望美が弁慶の部屋を訪ねた。けれど今は彼が彼女の部屋の前へ来ている。あのときたったいちどのちいさな呼びかけで彼は扉を開けてくれたけれど、今望美は動くことができずにいた。布団をきつく握り締める。
 弁慶がどんな意図でここへ来たのかは分からない。何か戦のことで話があって来たのかもしれない。龍神に関して何か話があるのかもしれない。もうすぐ福原の戦いがある。ありえないことではない。源氏の神子あるいは龍神の神子としては、返事をして彼の話を聞くべきなのだろう。それでも今夜は弁慶に会いたくなかった。あの夜と同じ月の今夜は。このまま寝た振りをしてやり過ごしてしまおうかと考える。襖には鍵も何もないけれど、昼間と同じように、弁慶は返事もないのに開けることはきっとしないだろう。
 明日──明日になったら、また前のように弁慶と接するから。
(だから、今夜は)
 望美がそう思った瞬間、音もなく、襖が開けられた。淡い光に照らされた弁慶がそこにいる。
「やはり、起きていましたね」
「……なんで……」
 何故襖を開けたのか。何故ここへ来たのか。望美は布団をきつく握り締めて、弁慶を見つめた。
 弁慶はそれには答えずに静かな動作で部屋に入ると、後ろ手でまた音もなく襖を閉めた。
 薄暗い部屋の中に、弁慶と望美のふたりきりだ。あたりは音もなく、みな寝静まっている。その状況に、望美は身を起こしていた布団から出ようとした。けれどそうするより先に、弁慶が彼女の傍らへ来て、その手を取った。それだけで、もう望美は動けなくなってしまう。強く掴まれたわけでも、押さえつけられたわけでもないのに。あのときと、同じだ。
「あの夜と、同じ月ですね」
 弁慶の言葉に、望美はちいさく肩を震わせた。
 そんなことを言い出すということは、彼はこれから起こるであろう戦についての話し合いなどに来たのではないのだろう。それなら一体何を話しに来たのか。何をしに来たのか。分からないというよりも、考えたくなかった。
「望美さん」
 もういちど名を呼ばれた瞬間に、望美はバネ仕掛けの人形のように弁慶の手を振り払って、そこから逃げようとした。けれどまた、そうするより先に、弁慶の腕が望美の体を抱きしめた。
 抱きしめられて、熱が伝わる。弁慶の香りや吐息も伝わってくる。まざまざと、はっきりした感触を伴って、弁慶に抱かれたあの夜のことが望美の脳裏によみがえってくる。
「離して。離してください」
 弁慶の腕の中から逃れようと、ちいさく望美はもがく。けれど弁慶の腕は決してゆるまない。
「なんでこんなことするんですか。なんで──なんであのとき──」
 言うつもりのなかったことが、不意に口をついてこぼれてしまった。それでも、いちど発してしまった言葉は消せない。
 おそらくは弁慶も、望美の言いたいことは分かっているのだろう。頭がよく、情報収集も得意な彼のことだ。ヒノエが熊野別当であり、弁慶がその叔父であると望美が知ったことくらい、とっくに気付いているだろう。
 それでも望美を抱きしめたまま、弁慶は何も言わない。その腕もゆるまない。
(ずるい)
 言い訳を、すればいいのだ。嘘でいいから、甘い睦言でごまかしていいから、言い訳をすればいい。そうすれば望美は、それを信じるのに。こんなふうにぬくもりだけ与えて、何も言わないのはずるい。どうすればいいのか、分からなくなってしまう。
「望美さん──」
 弁慶に、くちづけられる。
 望美は、触れられて逃れられない自分を、愚かだと思った。もっと触れて欲しいと思ってしまう自分は、救いようのない馬鹿だと思った。それでも体は心に正直で、くちびるを浅く開いて、自ら弁慶の舌を受け入れる。もっと求めるように、腕を弁慶の背に回す。
 そして、弁慶の手がそっと着物の合わせに触れるのを、黙って受け入れた。


 To be continued.

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