流星群 1


「熊野別当が?」
 弁慶がその話を聞いたのは、梅雨も終わりかけた夏のはじめのころだった。
 この京でも夏に向けて、木々が緑を一斉に伸ばしている。彼の故郷である熊野では、さらに山々の緑が鮮やかになっていることだろう。弁慶は懐かしい故郷の美しい姿を脳裏に思い浮かべた。
「ええそうなんですよ、もう熊野はその話で持ちきりで。いよいよ頭領が北の方を迎えるのではないかと」
 その話を伝えた烏は、まるで自分のことのように嬉しそうに話す。その様子を、弁慶は驚いたまなざしで見つめた。
 弁慶は熊野とはつながりが深く、独自に動かせる烏を何人か持っている。また、烏を直接動かすことはできなくても、頼めば情報や品物を流してもらえる程度の権限は持っていた。今日も顔見知りの烏に、必要な情報と熊野が交易で手に入れた特別な薬草を五条の小屋まで届けてもらったのだ。そのときに、何か熊野で変わったことはなかったかと尋ねたら、その話を聞いたのだ。
 普段はヒノエと名乗っている現熊野別当は、弁慶にとっては甥にあたり、よく見知っている人物だ。彼はまだ年若いけれど、父の跡を継いで立派に別当としての勤めを果たしていた。明晰な頭脳と的確な判断力、そして何より、父親と同じく、人を惹きつける力を持っていると思う。だからこそ、荒々しい海の男達の集団である熊野をまとめることができるのだろう。
 そして、ヒノエの人を惹きつける力というものは、若い女性に対しても大いに働くようで、華やかな噂がいつも絶えなかった。それでも、『別当』という立場の彼は、どの女性にも本気になることはなかった。そのどれも、一夜限りか、割り切った関係ばかりだった。
 ヒノエが遊びではなく本気で女性と付き合おうと思えば、最終的には婚姻という話になり、それは『熊野別当の細君』という立場になる。たとえ正式な婚姻を結ばずに愛妾にするとしても、熊野別当の相手であるというだけで、それ相応の影響力を持つことになる。熊野別当の奥方に、適当な女を据えるわけにはいかない。それに相応しい者でなければいけない。誰よりもそう思っているのはヒノエ自身で、だからこそ彼は、どの女性にも本気になることはなかった。
(それなのに)
 そのヒノエに、結婚話が持ち上がっているのだという。しかも相手は、身寄りも記憶もない、どこの馬の骨とも知れない娘だというのだ。弁慶にとっては驚かずにはいられない。
 弁慶の兄にあたる前別当の妻は、源氏から嫁いできた女性だ。二人は仲睦まじくよき夫婦として過ごしているが、その婚姻は源氏と熊野の結びつきを強くするための政略的なものだった。だから、先代と同じように、現別当が有力貴族や武家の娘を妻に迎えるというのなら分かるが、身寄りのない娘を別当の妻にするということは、その娘の身分や後ろ盾ではなく、その娘自身の性格や資質において、別当の妻に相応しいと、そういうことなのだろう。
 しかも、烏の話し振りを聞くかぎり、熊野の民は、その娘がヒノエの──つまり熊野別当の妻になることを歓迎しているようにみえる。烏だって熊野の民だってバカではない。自分たちの頭領の妻というものがどんな立場かちゃんと分かっている。それでもなお妻にと望むということは、よほどの娘なのだろう。
(一体、どんな女性なんでしょうね)
 その娘に関するいくつかの噂なら、すでに弁慶の耳にも届いている。いちばん最初に話を耳にしたのは、雪解けの途中の春のことだっただろうか。熊野別当が、身寄りも記憶もない娘を自分の邸に引き取ったという話を聞いたのだ。娘といっても幼い子供ではなく、彼と同じくらいの年頃の娘なのだという。それ自体は別に驚くことでもない。彼は女に溺れることはないが、それなりに遊んでいる。気に入った娘に行くあてがないというのなら、住居を世話してやるくらいのことはするだろう。
 そのときは、ただそれだけのことだと思っていた。ちょうど源平の戦が終わったばかりで、戦で身内を亡くして身寄りのない者など巷にいくらでもあふれている。戦で怪我を負った者も多い。記憶をなくすというのはめずらしいが、ありえないことでもないだろう。その娘もそんなひとりで、ヒノエの気まぐれな遊び相手なのだろうと思っていた。
 それが、それからわずか3ヶ月足らずで婚姻にまで話がおよび、しかも民たちからこんなにも歓迎されるとは、思いもしなかった。
「よほど素晴らしい姫君なんでしょうね」
「ええ、そりゃあもう! 頭領も姫君にご執心で、もう他の女には目もくれないんですよ」
「へえ、それはまた」
 あの甥が夢中になるほどの姫君とは一体どのような娘なのだろう。まして、別当の妻にと望まれるということは、ただ見た目が美しいだけではないのだろう。
 その存在は、否が応でも弁慶の興味を引いた。そこまで言われれば、その娘を一目見てみたくなるのは当然のことだ。
「そうだな……ひさしぶりに熊野に帰ってみようかな」
 顎に細い指を当て、すこし考えながら弁慶は呟いた。
 弁慶は今、京の五条で薬師を営んでいる。貧しい者も分け隔てなく看てくれる弁慶のところに来る患者は多い。だが最近は疫病も落ち着いていて、弁慶がしばらく留守にしても差し支えはないだろう。
 それに、甥とはいっても割合年の近いヒノエは、弁慶にとっては可愛い弟のようなものだ。婚姻の話があるというのなら、ぜひ会って、冷やかしの言葉とともに祝ってやりたい。
「別当と、前別当に伝えていただけますか。近いうちに熊野にうかがわせて頂くと」
「承知いたしました」
 烏は軽く一礼して、その場を去ろうとした。だが弁慶はふと気付いて、烏を呼び止める。
「そういえば、その女性の名前は、なんと言うのですか?」
「望美様です」
「望美……満ちた月の名ですね」
 再び軽く一礼すると、今度こそ烏は去っていった。間者なだけあって、すぐにその姿は見えなくなってしまう。
(のぞみ)
 弁慶は胸の中で、ちいさくその名を呟いてみる。それは、なんとなく、懐かしいような響きだ。いつか昔にも、その名を呼んだことがあるような気がする。それともそれは、ただの気のせいだろうか。
 月の名を冠す、熊野別当の奥方にと望まれている、美しい少女。それはどんな少女なのだろう。
 弁慶は開け放たれた障子の向こうの外に目をやった。ひさしぶりの梅雨の晴れ間で、青空が広がっている。その鮮やかな青の中に、ぽつりと置き去りにされたような、半分の白い月が浮かんでいる。やがて陽が沈めばその月も輝きだすのだろうが、今は青に掻き消されてしまいそうに儚い。
「望美」
 今度は声に出してその名を呟いてみる。その響きは、弁慶の心を掻き乱す。何故だろう。かつてそんな名の女性にでも出会っていたのだろうか。こう言ってはなんだが、若いころの弁慶はそれなりに遊んでいた。その中に、そんな名の女性でもいたのだろうか。
「弁慶先生いるかい? 佐吉んのところのババアが腰痛めて、看てもらいてえんだが」
 不意に外から聞こえた声に、弁慶は現実に引き戻される。
「はい、いますよ。ちょっと待っていてください。薬を用意しますから」
「ああ、ありがてえ。どうも畑で転んだらしくてよ」
 弁慶は手早く薬を用意すると、外で待っている男について怪我人のところへ向かった。いつもの忙しい日常が戻ってくる。
 空には相変わらず、儚い白い月が浮かんでいる。けれどもう弁慶がそれを見上げることはなかった。



 熊野は、梅雨の晴れ間の快晴に恵まれていた。雨のおかげで空気が洗われ、いっそう空気が澄んでいる。
 空は晴れていても、足元の道はまだぬかるんだままだ。望美は泥に足を取られないよう気をつけながら、港からの帰り道を歩いていた。このあいだ、雨の日に出かけたら滑って転んで、服も髪も泥まみれにしてしまったのだ。泥で真っ黒になった姿で邸に帰り着いた望美を見たときの、世話係の女房の悲鳴は今でも耳に残っている。さすがにあんなことはもうごめんだった。
 すこし大きな通りに出ると、道の両側に所狭しと色々な品物が並べられ、市が開かれていた。雨の間は客足が遠のいてしまう分、この晴れ間は書き入れ時だ。客たちも、雨の中出かけるよりは、晴れている間に買い物を済ませてしまおうと、多くの者が買い出しにきているのだろう。通りには人があふれ、活気に満ちていた。
 望美が市の間を通ると、あちこちから声をかけられる。
「望美ちゃん、お使いかい?」
「はい、港のほうに届け物があったんです」
「この魚、今朝捕れたばかりなんだよ。よければ持っていくかい?」
「いいの? ありがとう!」
「心を込めて料理して、頭領に食べさせてやってくれよ。しっかり精をつけないといけないだろうしな」
「精をつけるんだったら望美ちゃんのほうだろう? あの頭領の相手じゃ、望美ちゃんの身体が持たないだろうよ」
「もう! おじさんもおばさんも! 私とヒノエ君はそういうんじゃないんだってば!」
 からかうような言葉に、望美は顔を赤くして否定する。だがそんな初々しい反応を、市の人々はかわいらしいと笑うだけだ。熊野の人々に悪気があるわけではなく、むしろ好意を持たれているからこそだとは分かっているのだが、時々困ってしまう。
 ヒノエはことあるごとに望美に艶っぽい言葉をかけてくるが、恋人というわけではない。あれはヒノエの挨拶のようなもので、いちいち本気にしていたら、望美の心臓が持たないだろう。本当に、望美とヒノエはそういう関係ではないのだ。──少なくとも、今は、まだ。
 一見軽く見えるヒノエだが、本当は誠実で真摯な人だと知っている。特に望美に対して、不誠実なことをしたことなどない。囁かれる口説き文句の奥に、本気が潜んでいることにも気付いている。けれど、望美はまだそれをちゃんと受け止められないのだ。
 他にも声をかけられながら、市を抜けて邸まで戻ってくると、邸には朝から出かけていたヒノエが戻ってきていた。
「望美! 悪かったな、使いなんか頼んじまって」
「これくらいおやすい御用だよ。それにお世話になりっぱなしじゃ悪いしね」
 このヒノエの邸において、望美は客人扱いを受けている。他の女房や小間使いのように、掃除などを手伝おうと思うのだが、いつもそんなことをする必要はないととめられてしまうのだ。
 望美がこの邸に来たのは3ヶ月ほど前のことだ。
 望美には過去の記憶がない。望美自身詳しいことは分からないのだが、望美は高熱を出して倒れているところを偶然ヒノエに助けられ、熊野に連れてこられたのだという。望美が気付いたときは熊野の邸で、そのときにはすでにそれ以前の記憶がなかった。自分が誰で、何処にいて、どんな暮らしをしていたのか、何ひとつ分からなかった。自分の名前すらわからない状態で、今名乗っている望美というのも、ヒノエに与えられた名だ。
 記憶がなく行くあてもなく、不安がる望美に、ヒノエは自分に任せろと言ってくれた。
『何も心配しなくていい。おまえは俺が守る。このまま熊野にいればいい』
 そのまま、望美はヒノエの邸の一室を借りて住んでいる。ヒノエはその言葉通り、望美が暮らしていくのに何ひとつ不自由がないように取り計らってくれた。今こうして望美が笑って暮らしていられるのは彼のおかげだ。
 もしもヒノエに助けられなかったら、一体どうなっていただろう。自分の名さえ分からないような状態で、一人でまともに生きていけたとは思えない。どこかで野垂れ死ぬか、よくて花街に売り飛ばされるか、そんなところだったろう。そう考えると、ヒノエにはいくら感謝しても足りないくらいだ。
「頭領」
 部屋でくつろいでいるヒノエの元に烏が足早にやってきて、何かを耳打ちする。内容は聞こえないが、それを聞いたヒノエの片眉が跳ね上がった。
 何か悪い知らせだったのだろうかと心配になる。熊野別当の本職は熊野三山を祭る神職だが、同時に熊野水軍を束ねる頭領でもあるのだ。ついこの間まで行われていた源氏と平氏の争いでも、熊野がどちらにつくかで戦局が決まるとまで言われていたらしい。結局熊野は中立を保ち続け、戦も終わったのだが、いつまた争いに巻き込まれないとも限らない。
 心配げに眉根を寄せる望美に気付いて、ヒノエは安心させるように笑いかけてくる。
「姫君に心配させちまったかな。今のは悪い話や内密の話じゃないさ。そんな話を姫君の前でするような無粋な奴は熊野にはいないよ」
 たしかにそんな話なら、よっぽどの緊急事態でない限り、望美のいないところで交わすだろう。
 ヒノエは自分の赤い髪に手をやって、一瞬迷うような顔をした後、望美に話し出した。
「……俺の叔父貴にあたる奴が京にいるんだけどな、そいつがそのうちこっちに顔出すって伝言してきたんだ」
「そうなんだ。じゃあヒノエくん、ひさしぶりに叔父さんに会えるんだね」
「別に俺は嬉しくも何ともないけどな。……そいつの名前、弁慶って言うんだ」
「べんけいさん」
 その言葉を、望美は繰り返してみる。どこかでその名を聞いたことがあるような気がした。ヒノエの叔父だというのだから、女房や烏たちが話している中で、その名を耳にしたことがあるのかもしれない。
「そのひと、ヒノエ君に似ているのかな」
「さあな。何か企んでるときの笑い方がそっくりだなんてことはよく言われたけど」
「そうなんだ」
 ヒノエの父親である湛快には会ったことがあるが、その叔父という人物には会ったことがない。ヒノエの邸に世話になっているのだから、きっと望美もその叔父に一度くらい会う機会があるだろう。
 湛快とヒノエは、その赤い髪や雰囲気は似ていたが、体格や顔立ちはそんなに似ていないように見えた。企む顔がそっくりという叔父は、どんな人なのだろう。やはりヒノエに似ているのだろうか、それとも湛快に似ているのだろうか。想像してみるけれど、その姿をうまく思い浮かべることが出来なかった。
 あれこれ考えているときに、望美は不意に、自分の脇に置いたままの包みを思い出した。ヒノエとの話に夢中になってすっかり忘れていた。
「あ、そうだ。これ、市の人にお魚もらったの。炊事場に届けてくるね」
「へえ、新鮮で美味そうだな」
「うん。夕飯に楽しみにしててね」
 すぐに腐ってしまうということはないだろうが、早く調理したほうが新鮮でいいに決まっている。せっかくもらった魚だ。早く炊事場に届けようと望美は足早に部屋を出て行った。
 だから望美は、ヒノエが部屋にひとりになって、つらそうにちいさく顔を歪めたことに、気付かなかった。


 To be continued.

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