流星群 2


 望美は陽の当たる縁側に座って、足を揺らしていた。
 彼女に与えられている部屋は、広い庭に面している。花木が多いわけではないが、熊野の自然を凝縮したような、緑の美しい庭だ。庭を一望できるその部屋は、ヒノエの邸の中でも、最上の部屋だ。
 季節は梅雨も終わりかけ、雨の日は少なくなってきている。今日は暑くも寒くもなく、湿度が高いわけでもなく、とても過ごしやすい陽気だ。けれどそんな中、望美はひとり暇を持て余していた。何もやることがないのだ。
 邸の掃除やこまごまとした雑事を手伝おうとしても女房たちに止められてしまう。文字が読めないわけではないが、和歌や漢詩の本は望美にとっては難しく、楽しんで読むことは出来ない。ヒノエがいたなら望美が退屈していることにすぐに気付いて、どこかへ連れて行ってくれたり、望美の気の引きそうなものを用意してくれるのだが、あいにくと彼は今いなかった。四国や九州のほうと交易をするために、船で出ているのだ。帰るのは数日後だという。
 ひとりで出歩けないこともないが、今日は市も開かれていないから、町のほうへ行っても特に目新しいものはないだろう。そして、あまり人の行かない山や森の中へは、決してひとりで行かないようにと、きつく言い付かっている。慣れない者が山道を行けばすぐに道に迷ってしまうし、崖や急流など危険な場所もある。熊野の自然は美しいだけではないのだ。それに、取り締まってはいるが、山賊だっていないとは言い切れない。それらの危険性は望美も十分に分かっているから、ヒノエや信頼できる者と一緒でないときは、勝手に山のほうへは行かないようにしている。けれどそうすると、ヒノエがいない今、望美が行ける場所がほとんどなくなってしまうのだ。
「あーあ、ヒノエ君いないと暇だなあ」
 望美の愚痴のような呟きを、傍にいた女房が耳にして笑う。
「まあ、望美様。他国との貿易になれば、頭領が数ヶ月熊野を離れることもあるんですよ。数日離れているだけでそんなこと言っていてどうするんですか。主がいない間、邸を守ってじっと待つのも女の仕事ですわよ」
「…………」
 女房の言葉を、望美は複雑な気持ちで聞いた。彼女が言うそれは、すでに妻の仕事だ。この女房はもうすっかり望美をヒノエの妻になるものと思っているようだ。
 ヒノエに想いを寄せている一部の若い娘などを除いて、まわりにいる女房や熊野の人々が、望美とヒノエの婚姻を望んでいることは、彼女自身も分かっていた。こうして婚姻を示唆するようなことを言われたり、好意をこめてヒノエとのことをからかわれたりすることは、よくあることだった。
 それはうれしいことではある。ヒノエとのことは置いておくとしても、望美の存在をみんなが認めてくれたということなのだから。
 それまではずっと、望美はただの『お客様』だった。あるいは『ヒノエの遊び相手のひとり』。いや、本当に『遊び相手』だったならよかったのかもしれない。そんな女は、この熊野にだって山のようにいるだろうから。しかし、ヒノエは望美をその他大勢とは同じように扱わなかった。だから望美は、みんなから歓迎されていない、厄介者だったのだ。
 ヒノエ自身が邸に招き、女房や小間使いたちに望美の世話をするようじきじきに言っていたから、あからさまな態度をとられることはなかったが、それでも、ヒノエが望美に本気のようなそぶりが見えると、それをみんな嫌がっていたように思う。それはそうだろう。何処の馬の骨とも知れない小娘が、熊野別当に特別に気に入られているなど、そうそう認められるものではない。
 ごく身近で世話をしてくれる何人かの女房たちとは打ち解けることが出来ても、それ以外の者たちや熊野の民からは、ずっとその存在を疎まれてきた。それは望美にとってつらいことだった。記憶のない望美にとって、他に行く当てなどあるはずもない。ここにいるしかないのに、ここにいることを疎まれるのだ。ヒノエはそんな望美をずっと気遣ってくれたが、そうやって気遣わせてしまうこと自体、心苦しかった。
 それが変わったのは、望美がここへ来て、一ヶ月とすこしが経ったころだ。
 春の終わり、変わりやすい天気に、突然の嵐が熊野を襲ったのだ。
 夏の台風が多く来る時期ならそれなりの備えも出来ていたが、季節外れのこのとき、みんな、なんの準備もなかったのだ。そのため、沖へ出ていた多くの船が嵐に見舞われた。ヒノエは水軍の長として、沖で遭難しかかっている船と船乗りたちを助けるために、船で沖へと出て行った。
 だが、それを見送った港では、多くの者達がどうすればいいのかも分からずに右往左往していた。それどころか、この嵐ではきっともうダメだと、みんなに諦めの雰囲気が広がりはじめていた。
 ヒノエを心配して港に来ていた望美は、そんな人々が許せなかった。この嵐の海の中、危険だと分かっていながら、仲間を助けるために命賭けでヒノエは海に出て行ったというのに。この人たちは一体何をやっているのだろう。激しい雨の中、荒れ狂う海を見つめているだけで、それがなんの役に立つというのだ!
 半ば切れた望美は、そこにいた人々を怒鳴りつけた。その声は、叩きつける雨音にも激しい風の音にもかき消されることなく、港に響き渡った。
「熊野水軍の一員だというのなら、ヒノエ君を信じなさい! ヒノエ君はみんなを助けて帰ってくる! 彼なら必ずやり遂げる! それは私なんかよりあなたたちのほうがよく分かっているでしょう!!」
 望美の声に打たれたように、何人かの人々がうなだれていた顔を上げた。ざわりとざわめきが広がる。その通りだ、頭領がこの程度の嵐にやられるはずがないと、あちこちから声が上がり始める。それはたちまち伝播していった。それを望美は見逃さなかった。
「それなら! ヒノエ君が帰って来るまでここを守り抜くよ!!」
 その声を合図に、港にいた人々は一斉に動き出した。
 港に土嚢を積んで、高波に崩れないように補強をした。あたりが暗くなりはじめ、帰ってくる船の標になるように、雨の中でも必死で火を焚いた。万が一怪我人が出たときのために、薬や手当ての用意もした。望美も、他の人々も、大雨の中を泥だらけになりながら走り回った。海上でヒノエも嵐と戦っていたのだろうが、陸上にいる望美たちにとっても戦いだった。
 明け方近くになって、ヒノエは多くの船を引き連れて港に帰ってきた。
 さすがにひとりの犠牲者も出さずに、というわけにはいかなかったが、多くの者は助けられ無事港に帰りついた。そして、もしも港が守られていなかったら、もっと多くの被害が出ていたと、みんな分かっていた。多くの命が助かったのは、ヒノエのおかげだけでなく、望美のおかげでもあるのだと。
「さすが、俺の姫君だな!」
 ヒノエはそんなことを言いながら人目もはばからずに望美を抱きしめた。顔を赤くして慌てる望美の姿を、みんな微笑ましく見守った。
 その一件を境に、熊野では望美に対する見方が大きく変わった。ただの可愛らしいだけの小娘ではないのだと、誰もがその存在を認めた。いちど偏見がなくなってしまえば、望美は持ち前の明るく分け隔てない性格で、すぐにみんなに受け入れられていった。
(そのことは、すごく嬉しいんだけど)
 熊野の人々と親しくなることに、望美にとって他意はなかった。だが、いつのまにか、周囲の人々はヒノエと望美の結婚を望むようになってしまった。それまでは、ヒノエが望美を邸に住まわせているということや他の女との付き合いがなくなったことを快く思わなかったのに、今ではそれが、それだけヒノエが望美に本気のなのだと、ますます結婚話を過熱させるような要因になっている。本人たちをよそに、周囲が盛り上がっているような状態だ。そのことに、望美は戸惑いを隠せない。
(別に……ヒノエ君が嫌いなわけじゃないんだよ)
 ヒノエは、とてもいいひとだと思う。それどころか、これ以上ないくらい素敵な人だ。見た目も中身も、あんなにいい男はそうそういないだろう。間近で見つめられ微笑まれるたび、耳元で囁かれるたび、心臓が跳ね上がりそうになる。いつもの挨拶や冗談だと受け流してしまえばいいのだろうが、時折その中に本気を見せられて、心臓を鷲掴みにされてしまう。
 ──それでも望美は、それをそのまま受け入れられないのだ。
 望美には記憶がない。望美が持っている自分の記憶は、熊野に来てから今までの、たった3ヶ月だけだ。本当は、自分は誰で、どんなふうに生きてきた、どんな人間なのか。自分ですら、自分がよく分からない状態なのだ。それなのに、婚姻などと言われても、すぐには受け入れられない。せめてもうすこし、時間が欲しいのだ。
 きっとヒノエは、そんな望美の気持ちを理解してくれている。まわりがどんなに騒いでも、ヒノエ自身が婚姻の話を口にしないのは、その気がないからではなく、望美の戸惑いを感じて、これ以上彼女を追い詰めないようにという気遣いなのだと、分かっている。自分がそれに甘えてしまっているということも。
(だけど)
 どうすればいいのか分からずに、望美は目の前の庭に目を向けた。たとえば、この木々の葉がすべて落ち、新しい葉が芽吹くころには、結論を見つけられるだろうか。ヒノエとの婚姻を受け入れられるだろうか。
「失礼いたします。望美様。敦盛様がお見えになられましたが、いかがいたしましょう」
 女房のひとりが傍へやってきて、恭しく頭を下げながら望美に告げた。それを聞いた途端に、彼女は笑顔になる。
「本当? すぐにお通しして。あ、あと、お茶を用意してもらえますか?」
「かしこまりました。ご一緒に、何か菓子もご用意させていただきますね」
「ありがとう!」
 敦盛はヒノエの幼馴染だ。もとは先の戦に破れた平氏の一門らしいのだが、今は熊野にいて、別当の仕事を手伝っている。彼は、望美にとって数少ない友と言ってもよい人物だった。熊野に来たばかりでみんなに疎まれていた頃も、敦盛は望美に優しく接してくれた。それがどんなに嬉しかっただろう。
 女房が下がってしばらくすると、穏やかな風貌の青年が部屋へとやってくる。廊下を歩くにも足音をほとんど立てない優雅な歩き方は、望美の憧れのひとつだ。
「神子。失礼する」
「敦盛さん。いらっしゃい」
 望美は笑顔で敦盛を迎える。望美の満開の笑顔に、敦盛もはにかむような笑顔で応えてくれる。
 何故か、彼はいつも望美を『神子』と呼ぶ。ヒノエに紹介されて初めて会ったときからそうだった。何故そう呼ぶのかと尋ねたとき、彼は曖昧に、そして哀しげに笑うだけだった。
『私は、理を外れた者だから……』
 それがどういう意味なのか、望美には分からない。けれど敦盛の哀しげな顔が心に焼き付いて、それ以上問いを重ねることは出来なかった。呼び名など、たいしたことではない。敦盛がそう呼びたいなら、それでいいのだ。
「敦盛さんが来てくれて嬉しいな。すごく退屈していたんですよ」
「ああ。私もヒノエに頼まれていた。きっと神子が退屈するだろうから、話し相手にでもなってくれと」
 望美が退屈することなど、ヒノエにはお見通しだったようだ。だが、敦盛に話し相手を頼んでいってくれたその心遣いが嬉しい。
「敦盛さん、庭でお話しませんか?」
 できるなら縁側で話したかったが、縁側には陽がさんさんと当たっている。何故かは分からないが、敦盛は日向を好まないのだ。かといって、このいい陽気に部屋の中に入って閉じこもってしまうのはもったいなかった。
 その点、庭には木々で木陰がたくさん出来ている。そして、所々に座るのにちょうどいい岩や木で出来た長椅子が用意されていた。そこで話すのがいいだろう。きっと風も気持ちいい。
 女房が用意してくれたお茶と菓子を持って、敦盛とふたりで庭に出る。
 敦盛の話は、いつも興味深かった。敦盛とヒノエの幼いころの話をしてくれることもあったし、和歌や漢詩の意味を分かりやすく教えてくれたりもする。きれいな笛の音を聞かせてくれることもあった。今日はこの熊野にあるいくつかの伝承を教えてくれた。書物に記されているような難しい解釈ではなく、要点を押さえつつも望美に分かりやすく噛み砕いて話してくれるのだ。
 敦盛の話に聞き入っていると、不意に、下草を踏んで近づく足音がした。敦盛もそれに気付いたようで、話を止めて音のしたほうに顔を向ける。
 そこには、望美の見たことのない、青い着物を着た男がいた。長い髪を後ろでひとつに束ねている。その髪はきれいな琥珀のような色をしていた。
「……おや、敦盛君ですか?」
「弁慶殿……」
 その男と敦盛は顔見知りのようだった。敦盛はその男が来たことに驚いているようだ。
(べんけい……?)
 その名前は、望美にも覚えがあった。先日ヒノエが言っていた、彼の叔父の名だ。叔父というからもっと年配の人を想像していたのに、思っていたよりもずっと若い。そして、湛快よりは、ヒノエに似ていると思った。
「もしかしてそちらのかたが……」
 その人物が、敦盛の隣にいる望美に視線を向ける。慌てて望美は立ち上がり、頭を下げた。
「はじめまして。ヒノエ君のところでお世話になっている望美と言います。えっと、ヒノエ君の叔父さんですよね」
「ええ。でも『おじさん』はやめてほしいかな」
 弁慶は望美に笑いかける。ヒノエは企む顔が似ているなどと言っていたけれど、こうして笑う顔も似ていると、望美は思った。
「噂以上に可愛らしいお嬢さんですね。僕は、武蔵坊弁慶と言います。突然庭に入ってきて申し訳ありません。ここに来るのも久しぶりなので、つい懐かしくなってしまって」
 どこか昔を思い出すような遠い目で、弁慶は庭を見渡す。望美もその視線を追った。
 この邸は、代々熊野別当が住んでいるのだという。だとすれば、先々代の別当──弁慶にとって父にあたる人物がここで暮らしていたころ、弁慶もここに住んでいたのではないだろうか。だとすれば、思い出が詰まっていて当然だ。ここは弁慶にとっても懐かしい、大切な庭だろう。
「あのっ。ヒノエ君は今出かけていて、帰ってくるのは数日後なんですけど、ゆっくりしていってください」
「ありがとうございます。でも今日のところは兄のところに挨拶に行かないといけないのでこれで失礼しますね。また後日、ゆっくりうかがわせていただきます」
「はい。お待ちしてますね」
 もう一度望美に微笑みかけ、敦盛に簡単に挨拶をすると、弁慶は現われたときと同じように、颯爽と去っていってしまった。あとには望美と敦盛だけが残される。
 望美は少々興奮気味に敦盛に向き直った。
「びっくりした〜。ヒノエ君の叔父さんが来るかもって話は聞いていたんだけど、こんな突然来るなんてびっくりだよ。それに、あんなに若い人だとは思わなかったよ。でもヒノエ君にちょっと似てるね」
「……ああ、そうだな」
「でもヒノエ君がちょうど出かけてるときで残念だったよね。ヒノエ君も帰ってきたら叔父さんが来てることに驚くかな」
 いろいろと言い募る望美を、敦盛はかすかに哀しげな瞳でじっと見ていた。そしてちいさく呟く。
「……やはり、思い出さないか……」
「え? 敦盛さん、なんですか?」
「いや……なんでもない」
 望美は首を傾げるが、敦盛はもうそれ以上何も言わなかった。それにつられて、望美の言葉も止まってしまう。風が吹いて、緑がざわめく。ただじっと、望美は揺れる緑を見つめた。



 夜半、弁慶は兄である湛快の邸に招かれて、酒を酌み交わしていた。上等な酒を、水のごとくに喉に流し込んでいく。上品な飲み方とは言えないが、荒々しい海の男にとってはこれが当たり前だった。
 頭領の地位を息子に譲って隠居生活を決め込んでいる湛快は、ヒノエの邸とは別に居を構えている。隠居の原因の一端は弁慶にもあるのだが、湛快はこの方が自由気ままでいいといつも笑っている。なにぶん年齢が離れていることと、弁慶が幼いころより比叡にいたせいで、共に育った時間は短いが、やはり頼りになる兄だった。
 酒の肴にお互いの近況などを話している途中、不意に湛快が言った。
「おい弁慶。湛増んところのお姫さんにはもう会ったか?」
「ええ、お会いしました。とても可愛らしいかたですね」
 昼間、ヒノエの邸に敦盛と共にいた少女を思い出す。長い髪の、愛らしい少女だった。
 熊野では、烏が言っていた通り、あちこちでヒノエと望美の婚姻の話が出ていた。京に住んでいて、滅多に熊野に来ない弁慶が来ているのを見かけるたびに、もしかして本格的に婚姻の話が進んだのかと、多くの者に尋ねられた。
「ヒノエの妻にという話が出ているのでしょう? ヒノエが落ち着いて、妻を娶ってくれるのなら、兄さんも一安心ですね」
 別当としての職務は文句なくこなしているヒノエだが、女遊びという点では誉められたものではなかった。湛快も弁慶も若いころはそれなりに遊んでいたから、それについてあまり強く言えることでもないが、後継ぎのこともあるし、ひとりの女性に落ち着いて妻を娶るというのなら喜ばしいことだ。さらに、それが民達からも歓迎されているというのなら、なおさら喜ばしい。
 しかし、同じように兄も喜んでいると思っていたのに、弁慶の向かいに座る湛快は渋い顔をしていた。眉根を寄せて、じっと手元の酒をなみなみと満たした杯を見つめている。
「どうかしましたか?」
「……いや……」
「兄さんは、彼女がヒノエの妻になることに反対なんですか?」
「いや、そんなことはねえ。あのお姫さんは、別当の妻にも相応しい女だと思っているさ。だがな……」
 いつも豪快で快活な兄がこんなふうに言い淀んだりするのはめずらしい。一体なんだと言うのだろう。弁慶は言葉の続きを待った。すると、湛快は急に勢いよく顔を上げた。
「なあ弁慶。湛増は俺のかわいい息子だが、おまえも俺のかわいい弟だ」
「は?」
 急に何を言い出すのかと、弁慶は湛快を見つめた。そうは見えないが、実はもう酔っ払っているのだろうか。
「できるなら、どっちにもしあわせになってほしいと思ってる。もちろん、あのお姫さんにもだ。だから俺は、どっちの味方もしねえ。その代わり、最後にどんなことになろうとも、どっちを責めたりもしねえ」
 真剣なまなざしで、弁慶を見つめながら湛快はそう言った。
 味方とか、責めるとか、兄は何を言っているのか弁慶には分からなかった。まるで、弁慶がヒノエと敵対するような言い方だ。源平の戦いの時分、弁慶は源氏方についていたから、もし熊野が平家についていたなら敵対することもあったかもしれないが、熊野は中立を保ち、もうすでに戦は終わった。敵対する要素はないはずだ。第一、何故望美の名まで出てくるのだ。それではまるで──。
「何を言っているんですか、兄さんは。言っている意味がわかりませんよ」
「分からなきゃ、分からねえでいいさ。ただ、俺がそう言ったことだけ覚えててくれ」
 手元の杯を一気に飲み干すと、湛快はそのまま畳の上に布団も敷かずに横になってしまった。弁慶に背を向けて、自分の腕を枕にしている。いくらも待たずに穏やかな寝息が聞こえてくる。気配からして、狸寝入りではなさそうだ。
 こんなすぐに寝てしまうということは、そう見えなくても随分と酔っていたのかもしれない。だから多分、さっきのは酔っ払いの戯言なのだ。意味なんて、特にないのだ。
 弁慶はひとりで、残っている酒を煽った。
 脳裏に、昼間見かけた少女の姿がちらつく。彼女はヒノエの妻になる少女だ。みんながそれを望んでいる。だから、弁慶もそれを祝ってやらないといけない。ヒノエが交易から戻ってきたら、からかいつつ、祝ってやろう。
 残っていた酒を一気に流し込むと、湛快に倣って弁慶もその場に転がった。たとえ掛け布がなくても、この陽気なら風邪を引くことはないだろう。このまま寝てしまおう。
 酒のおかげか、すぐにまぶたが重くなり、ゆっくりと意識が沈んでゆく。
(……………………)
 意識が沈む瞬間に思い出しかけた記憶は、眠りの淵に落とされて、また消えてしまった。


 To be continued.

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