流星群 3


 弁慶が目を覚ましたとき、向かい側で潰れていたはずの湛快はすでにいなかった。すがすがしい朝の光が差し込む部屋に、弁慶だけ置き去りにされていた。布団くらいかけていってくれてもバチはあたらないだろうに、ご丁寧にもそのまま放置されていた。まわりじゅうに転がった空の酒瓶までそのままだ。
 身を起こし、酒のせいですこし重い頭を振って眠気を払う。
 昨夜は少し呑み過ぎたようだ。ひさしぶりの故郷で、ひさしぶりに兄に会って、弁慶も思いのほか浮かれていたのかもしれない。あるいは、今までは源平の戦いに源氏の軍師として身を置いていて、いつも気を張り詰めさせていたのが、戦が終わりその重責から解放されて、気が緩んだのかもしれない。兄も随分と酔っていたようだ。
『できるなら、どっちにもしあわせになってほしいと思ってる。もちろん、あのお姫さんにもだ。だから俺は、どっちの味方もしねえ。その代わり、最後にどんなことになろうとも、どっちを責めたりもしねえ』
 不意に、昨日の酒の席での兄の言葉を思い出す。何故彼はあんなことを言ったのだろう。彼は一体何を考えているのだろう。
 弁慶はちいさく溜息をついた。その言葉の真意を聞こうと思っても、きっとはぐらかされて終わりだろう。湛快はそういう性格だ。弁慶も、無理に聞きたいとも思わない。あれは酔っ払いの戯言だ。そんなものに深い意味を求めてどうするというのだろう。
 湛快の言葉など忘れることにして、弁慶は顔を洗うために部屋を出た。
 勝手知ったる他人の家ということで弁慶が顔を洗って戻ってみると、小間使いたちが簡単に部屋を片付け、朝食を用意してくれていた。いちばん手近にいた者に湛快のことを尋ねれば、もうすでに邸を出てどこかに出かけたと言う。自分で隠居の身と言っているわりには、相変わらず元気で活動的な人だった。
 ひとりで朝食をとりながら今日一日どう過ごそうか考えて──弁慶の脳裏に浮かんできたのは昨日の少女だった。ヒノエの邸で敦盛と共にいた、長い髪の少女。彼女こそが、満ちた月の名を冠し、別当の妻にと噂されている張本人だ。
 熊野にいる間、弁慶にこれといった用事はない。ここにいるあいだに熊野でしか採れない薬草を取りに行こうとか、市を回って交易で入って来ためずらしい薬でもないか探そうという程度の予定があるだけで、何日に何をしなければならないと決めているわけではない。
 ──それなら、彼女に会いに行ってもいいはずだ。
 何も悪いことではない。もともと熊野へは熊野別当の妻にと噂されている少女を見に来たのだ。弁慶にとっても熊野は大事な故郷で、その別当の妻になるという少女がどんな人物か見極めるのは当たり前だ。昨日はひとことふたこと言葉を交わしただけで別れてしまった。もっときちんと会って人柄を確かめたっていいだろう。
 それに、あのヒノエが夢中になっている少女なのだ。ヒノエが出かけている間に弁慶が会っていたと知ったら、彼はどんな反応をするだろう。いつもの飄々とした態度を崩して怒るだろうか、歳相応に焼き餅でも焼いて見せるのだろうか。どちらにしろ、ヒノエをからかういい材料になるはずだ。
 弁慶はただ、可愛い甥っ子であるヒノエを、祝福しつつからかいたいのだ。だから望美に会いに行くのだ。
(彼女に、会いに行こう)
 そう決めると弁慶は手早く身支度を整えて、湛快の邸を出た。
 自分の行動に、必死に理由付けをしていることに、弁慶自身気付いていない。ただ自分が望美に会いたいのだと、自分で気付けない。



 弁慶がヒノエの邸に来て、望美に会いたいと告げると、古くから顔見知りの女房がすぐに望美の所に案内してくれた。
 案内途中、女房がちいさく笑いながら弁慶に告げる。
「弁慶殿、あまり頭領をからかわないでくださいませ」
 古くからこの邸に使えている年嵩の女房は弁慶のことをよく知っている。こうしてヒノエがいないあいだに望美に会っておいて、あとでヒノエをからかうつもりなのだと、分かっているのだ。それが、ひねくれ者の叔父と甥なりの交流であるということも。
「愛らしい花嫁をもらう男が、妬まれてからかわれるのは世の理ですよ」
「まあ」
 女房は嬉しそうに笑う。ヒノエが幼少の時分から邸にいるこの女房にとって、ヒノエは息子のようなものなのだろう。その彼と、望美の婚姻を、心待ちにしているのだとよく分かる。本当に、彼らが結ばれることはみんなに望まれているのだ。
 望美の部屋の前まで弁慶を案内すると、あとで茶を持ってくると言い置いて、女房はもと来た廊下を戻っていった。女性の部屋に男が一人で入るというのはあまり感心されないだろうが、望美の部屋は庭に面していて、陽気のよい今日は庭向きの窓は開け放たれている。そんな状況で間違いが起こるわけもないと思われているのだろう。
「こんにちは。お邪魔させていただいてもよろしいですか?」
「あっ。こんにちは、弁慶さん」
 弁慶が部屋に入ると、望美が笑顔で迎えてくれた。昨日初めて会ったばかりなのに、親しげな笑顔を向けてくれる。その花のような笑顔は、弁慶の心をあたたかくした。
 望美は部屋の一角に文机を出して、書き物をしていた。彼女のまわりには、書きかけの紙が積まれていた。
「どなたかへの文ですか?」
「違うんです。私、字を書いたり読んだりするのがすごく苦手で、だから練習していたところなんです」
 散らばる紙のひとつを手にとって見れば、たしかに流暢とは言いがたい文字が並んでいる。だが、文字の読み書きができない者のほうが多い中で、これだけできれば十分だろう。
「そうですね……筆を持つときに、力が入りすぎているのかもしれませんね。もうすこし軽く筆を持って、あまり力を込めずに書いたらいいのではないでしょうか」
「うーん。敦盛さんにもそう言われました。頭では分かっているんですけど、難しいです」
「たしかに、口で言われているだけでは分かりづらいかもしれませんね」
 弁慶は望美の傍に寄ると背後から手を回して、筆を持つ望美の手を上から包み込んだ。そのまま紙に筆を走らせる。
「こんな感じで、書いてみたらいいと思いますよ」
「えっと……あの、……はい……」
 彼女のほうを見やれば、弁慶の間近にある耳が、赤く染まっている。筆を持つために手を握られたことや、体が密着していることに照れているのだろう。
 それを弁慶は意外な気持ちで見つめた。この程度の触れ合いなど、ヒノエで慣れているかと思っていたのだ。普段ヒノエが女性にどんな態度で接しているか、弁慶はよく分かっている。手馴れた仕草で、甘い言葉と共に髪に口づけたり、熱を孕んだ視線で身体を抱き寄せたりするのだ。当然、望美もそんなヒノエの態度に慣れて、この程度では動じないかと思っていたのだ。だがそうではないらしい。
 あるいは、望美の態度から察するに、彼女はまだヒノエと契りさえ交わしていないのかもしれない。あのヒノエが、自分の邸に置き、熊野中で噂になるほど惚れ込んでいるというのに──それだけ、本気ということだろうか。それほどに、彼女が大切だということだろうか。
 彼女の様子に気付かない振りをして、弁慶は望美から離れた。
 望美は弁慶が書いた字を真似るように、その隣に筆を走らせている。けれど、あまり上手くはいっていないようだ。時折失敗して紙に墨がにじんで、それを見た彼女の眉根が寄せられる。望美が退屈していることは見て取れた。彼女は本来、こんなふうに家の中にこもることに向いていないひとだ。
「望美さん。もしよければ、一緒に薬草取りに行きませんか?」
「えっ、いいんですか?」
 弁慶の提案に、望美が子犬のように目を輝かせる。
「ええ、もちろんですよ」
 そんな望美を見て、弁慶も微笑んだ。
 ヒノエがこれほど大切にしている少女とふたりで薬草取りに行ったなどと知ったら、ヒノエはきっと悔しがるだろう。その顔を思い浮かべる。きっとからかいがいがあるだろう。
「では行きましょうか」
「はい!」
 女房に薬草取りに行くことを伝えて、ふたりで邸を出た。
 望美を連れて、人の少ない山の奥に入る。人が通るためにある程度整備された山道を外れ、獣道のような細い道をしばらく進むと、すこし拓けた場所に出る。
「わあ、こんなところがあったんですね!」
 望美が驚いた声を出す。
 そこは一面、緑の下草に覆われた広場のようになっている。ここには薬となる草が多く生えているのだ。道を外れた奥にあり、ほとんど人が来ないからこそ、踏み荒らされることもなく薬草もよく育っていた。おそらくは湛快も知らない、弁慶の秘密の場所だった。ここへ人を連れてきたのは、望美がはじめてだ。
「望美さん、これと同じ草を、この籠にとってもらえますか?」
「はい、分かりました!」
 比較的分かりやすい薬草を数種類渡すと、望美は渡された草と生えている草を見比べながら薬草を摘みはじめる。分かりやすい薬草を選んで頼んだとはいえ、慣れないと判別しにくい似た葉もいくつか生えている。けれど弁慶が見るかぎり、望美は間違えることもなく、きちんと薬草を摘んでいる。また、葉を傷つけないように丁寧に茎の根本から摘む手つきは、以前にも薬草取りをしたことがあるように見えた。
「これって、すりつぶして切り傷に塗るといいんですよね。こっちは……痛み止めになる草でしたっけ?」
「ええそうです。望美さんは、薬草のことをよくご存知ですね」
 弁慶はそれに感心する。基本的なものが多いが、それでも彼女は薬草についての知識がいくらかあるようだった。
「自分の名前もわからないのに、こういうことは覚えているみたいなんです」
 どこか自嘲するように、望美が笑う。
 その言葉と笑みに、この少女は以前の記憶がなかったのだと、弁慶はようやく思い出した。話には聞いていたものの、望美の様子があまりに普通なので、思わず忘れてしまっていた。
 記憶がないというのは、どんなものなのだろう。生まれてから今までの記憶がないとなったら、どうすればいいのだろう。弁慶には想像もつかない。父母のことを忘れ、幼い頃のことを忘れ、友人を忘れ、自分自身を忘れ、『自分』を確立する標をすべてなくしてしまうのだ。それはどんなに心細いだろう。
 それでも、きっと彼女は、ヒノエや世話をしてくれる女房の前では、気丈に笑って見せるのだろう。どんなに不安でもどんなに心細くても、心配をかけまいと、明るく振舞うのだろう。何故だかそう思った。
「無理はしなくていいんですよ」
 弁慶は望美の傍に行き、ちいさな子供をあやすように、望美の髪を撫でた。
「つらいときはつらいと言ってください。ひとりで苦しまないでください」
 哀しいことを飲み込んで、彼女が一人で苦しんでいると思うと、弁慶もつらかった。何もできなくても、せめてつらいときはつらいと、苦しいときは苦しいと言って欲しかった。
「……私、料理が下手なんです」
 不意に、望美が呟いた。
「それでね、私、甘い卵焼きが好きなんです。溶いた卵に蜂蜜をすこしだけ入れて焼いたのが、とっても好きなんです。今も時々、女房さんに頼んで、朝ご飯とかに作ってもらうんですよ」
 突然飛んだ話に、弁慶は不思議に思いつつも言葉を挟むのをやめた。先の言葉を待つ。
「蜂蜜を入れた甘い卵がおいしいって、私はちゃんと知っていたんです。ここに来てから知ったわけじゃなくて、そのことはちゃんと覚えていたんです。それって、昔誰かが私にそれを作ってくれたってことですよね。私は料理が下手で自分じゃ作れないんだから、誰かが私に、卵焼きを作ってくれたんです。でも私、それが誰か思い出せないんです。母かもしれない、姉かもしれない、友達かもしれない、でも、思い出せないんです」
 望美は籠から、薬草を一枚取り出して目の前にかざした。ちいさな緑の葉が、風に揺れる。彼女の視線は薬草に落とされているが、彼女はそれよりももっと遠くを見ていた。どこか、遠くを。
「この薬草の知識だって、誰かが教えてくれたものだと思うんです。でも、それが誰か思い出せないんです。家族かもしれない。友達かもしれない。恋人かもしれない。でも、たしかに、私にも大切な大好きなひとたちがいたはずなんです。でも私はそれをなにひとつ、思い出せないんです。すごくすごく、大切で、大好きだったはずなのに」
 望美の声が震える。泣きそうな顔を見られたくないのか、彼女はうつむいてしまう。長い髪が肩からこぼれて、彼女の表情を隠した。
「望美さん……」
 弁慶は望美を抱き寄せた。ちいさな肩はそのまま弁慶の胸に収まる。
 記憶がなくて、不安でないわけがないのだ。今の生活は保障されているとはいえ、それで不安がすべて消えるわけではない。
 記憶がないということは、分からないということだ。もしかしたら、彼女にも恋人がいたのかもしれない、いなかったかもしれない。それなのに、ヒノエとの結婚話などが持ち上がってしまっては、彼女が不安に思うのは当たり前だった。
 それなのにまわりばかりが盛り上がって、勝手に話が進んでいって、彼女はどんなに心細かっただろう。あれほど結婚を望んでいる様子の女房たちやヒノエ本人には、そんなことは言えなかったに違いない。ずっとひとりで苦しい想いを抱えていたのだろう。
「すみません、君の気持ちも考えずに、僕たちは……」
 腕の中で、望美がちいさく頭を振る。
「……ヒノエ君との、結婚の話が嫌なわけじゃないんです。熊野のみんなが私を認めてくれたってことだし、ヒノエ君は素敵な人だし。本当に、嫌ではないんです。ただ、私が踏ん切りがつかないだけで。もしかしたら、昔の私には、誰か他に大切な人がいたのかもしれないって思ってしまって……」
 望美の言葉に、彼女の背に回した弁慶の腕に、無意識のうちにかすかに力がこもる。何故だろう。彼女がヒノエとの婚姻を口にしたことが、わずかに弁慶の胸を痛ませる。
(どうして、僕は、そんな)
 望美が熊野別当の妻にと望まれていることは、はじめから分かっていたはずだ。だからこそ弁慶は望美を見に熊野へ来たのだ。かわいい甥っ子の婚姻話を、からかいつつ祝福するつもりだった。それなのに、一体何を考えているのだろう。
 それでも弁慶は、しばらく望美を離すことができずにいた。望美も弁慶の腕の中でずっとおとなしくしていた。



 すこしのんびりしすぎたようだ。薬草を取って、邸へ帰ろうとする頃には、あたりは暗くなっていた。薬草取りに行くことは告げてあるし、弁慶も一緒だからそう心配はされていないだろうが、望美をこんなに遅くまで連れまわしたと心配性の女房に怒られてしまうかもしれない。
「望美さん」
 歩きながら弁慶は、傍らの望美の手を取った。
「転んだりして、怪我でもしたら大変ですから」
 暗い山道を、手をつないで進んでいく。ふと、望美が空を見上げた。つられて弁慶も空を見上げる。木々の合い間に、無数の星が広がっている。
「弁慶さん、流星群って知ってますか?」
「流星群……たしか、星が一夜のうちにたくさん降る現象のことですよね」
「はい。弁慶さんはご存知なんですね」
 そういえば、それをどこで知ったのだろう。比叡か熊野で学んだのだろうか。りゅうせいぐん、というその不思議な響きを、教えてくれたのは誰だったろう。だがそれを弁慶は思い出せなかった。
「流星群は、秋か冬になったら、見えるそうなんです」
「それで、何かお願いごとをするんですか?」
「はい」
 そこに、なくした記憶の欠片が含まれていることにふたりとも気付かない。
「望美さんは、何をお願いするんですか?」
「私は……まだ分かりません」
 ほんの少し、弁慶の手を握る望美の力が強くなったような気がした。無意識に、弁慶もその手を握り返す。
 彼女は何を願うのだろう。記憶を取り戻したいと願うのか、それとも、過去を吹っ切ってヒノエとしあわせになれるようにと願うのか。
 流星群が見えたら、弁慶は何を願うだろう。
(僕は──)
 心に浮かんだ願いを、弁慶は握りつぶした。それは、願ってはならない願いだ。
「さ、すこし急ぎましょうか。あまり遅くなると、邸の者が心配しますから」
「はい」
 つないだ手は離さないまま、ふたりは暗い山道を歩いていった。


 To be continued.

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