流星群 4


 心地よい潮風が、紅い髪を揺らしていく。ヒノエは船の舳先に立って、段々と近づいてくる熊野の地を眺めていた。風向きも潮も順調で、この分なら問題なく、あと半刻後には港に帰り着けるだろう。
 今回の四国や九州との交易は上々だった。
 西国はもともと平家の影響の強い地だ。だが清盛が消え、生き残った平家も南の島へと渡ってしまい、西国諸国は寄る辺を失ったような状態だった。そこへ持ちかけられた熊野との交易の話に、その地の人々は喜んで乗ってきた。熊野が仲介となって各地と交易ができるなら、これほどありがたいことはない。戦で傷付いたこの地を復興するにしても、元手がなければどうしようもないのだ。さいわいにも、四国や九州ではそこでしか取れない特産品も多い。それを交易で売ることが出来れば、人々の生活も潤い、町も復興していくだろう。
 そんな理由のおかげで、いい品やめずらしい品を、安値で大量に買い付けることができた。もちろん不当に搾取する気はないが、だいぶいい条件で今後の取り引きを約束することもできた。航海の間中、天気にも恵まれ、予定していたよりも早く帰ってくることができた。いいこと尽くめだ。
 船は海を滑るように、どんどんと港に近づいていく。もう陸地は目の前だった。
(ん? あれは)
 ヒノエは、港にいる人影に目をとめた。
 それが誰かすぐに分かった。望美だ。たとえどんなに遠くても、どんなに人が溢れていたとしても、きっと彼女ならすぐに見つけられるだろう。彼女に贈った、鮮やかな柑子色の着物が風にはためいているのが見える。早船を出してもうすぐ到着することは伝えていたから、ヒノエを迎えにきてくれたのだろう。
 知らず、ヒノエの口に笑みが浮かぶ。こうして帰って来たときに、迎えてくれる人がいるというのはどんなに嬉しいことだろう。
「おや頭領、何かいいもんでも見えましたか?」
 近くにいた船員が、同じように港のほうを目を凝らして見つめる。
「お、望美様が迎えに来られてるんですね」
 船員も、港にいる望美の姿を見つけたのだろう。望美の名を聞いた途端に、近くにいた船員達がヒノエのまわりに集まってくる。
「かわいい嫁さんにお出迎えしてもらえるなんてうらやましいですねえ〜。うちの奴なんか、出迎えどころか、帰ったって邪魔だからまたさっさと航海に行けなんて言われちまいますよ」
「おまえんちの古女房と望美様を一緒にすんじゃねえよ」
「頭領、ひさしぶりに会うんですから、今夜はお楽しみですね。でも手加減してあげないと、望美様がかわいそうですよ」
 彼らは年若い頭領をからかうことが大好きなのだ。もちろん年下だからといってヒノエを侮るようなことはなく、その実力を認め尊敬の念と共に付き従っているのだが、そんな頭領に、はじめて本気になった女が現れたとなってはからかいたくなるのも人の道理だ。
「おまえら、無駄口叩いてる暇があるならさっさと上陸の準備をしろ!」
「へいへい、一刻も早く望美様に会いたいですからね」
 ヒノエの怒鳴り声も笑いながら軽くかわして、船員達はそれぞれ持ち場に戻っていく。ヒノエは紅い髪をガリガリとかいた。からかわれるのは悔しいが、彼らの言葉も否定できない。望美に関しては、最強の熊野水軍を率いる熊野別当も形無しだった。
 戻ってくる船の姿を見つけて、港には多くの人が集まってきていた。船員を迎えに来た家族や、積み荷を引き取りに来た商人、これから開かれるであろう市を目当てに来た町人など、様々な人であふれかえっていた。
 船が港に着くと、積み荷の処理などは部下に任せ、ヒノエは望美の姿を探した。彼女の姿はすぐに見つかった。望美もヒノエに気付いて、笑顔で走り寄ってくる。それに笑顔を返そうとして──けれど、その隣にいる男の姿を認めて、目を眇めた。
「おかえりなさい、ヒノエ君」
「ひさしぶりですね、ヒノエ。無事で何よりです」
 船から見ていたときには気付かなかったが、望美の傍には弁慶がいた。ヒノエが出かけている間に、京から熊野へ来たのだろう。烏を介して、そのうち訪ねるという連絡はもらっていたから、弁慶がここにいること自体は驚くことでもない。
 だが、彼らにとってはまだ出逢って数日であるだろうに、望美と弁慶が一緒にいることが、まるで自然に見えた。そのことが、ちいさくヒノエの胸を痛ませる。
「ただいま、望美」
 ヒノエはわざと弁慶を無視して望美にだけ答えた。近づいてきた彼女を抱き寄せて、その髪に口付けを落とす。そうしながらも、彼はそれに弁慶がどう反応するのか、注意深く見守っていた。けれど、そんな甥の行動を、弁慶はいつもの食えない笑みで見ているだけだ。表情からその胸の内を読むことはできない。その変わらない表情の下で、望美を抱きしめるヒノエを憎らしく思っているだろうか。それとも、本当に何も感じていないのだろうか。ヒノエには分からなかった。
 顔を赤くする望美を腕の中に抱きしめたまま、ヒノエは弁慶に視線を投げた。
「あんた、俺がいないあいだ、望美に何もしてねえだろうなあ」
「もちろん何もしていませんよ。一度、夜の逢瀬を楽しんだくらいですよね、望美さん」
「べ、弁慶さんっ。何言ってるんですか!」
 わざと誤解させるような弁慶の物言いに、望美が顔を赤くして慌てる。
 大方、真相は夜に偶然会ったとかその程度のことなのだろう。この叔父の性格をよく知っているヒノエは慌てることなどない。弁慶も、慌てる望美の姿を笑って見ている。
 そんな彼らの態度に、からかわれたのだと気付いて、彼女は頬を膨らませる。
「ヒノエ君も弁慶さんも、人のことからかって! もう知らないんだから!」
 拗ねた望美は二人を置いて、早速立ちはじめた市のほうへ行ってしまう。その後ろ姿を、並んで見送った。
「可愛らしいお嬢さんですね」
「ああ。でも、ただ守られてるだけの花じゃない」
 望美は、見た目の可憐さに反するように、凛々しく剣を持って戦いみんなを守りたいと堂々と言い切る強さも持っている。ただ摘み取られ、やがて枯れてゆく花とは違う。何度なぎ倒されてもまた芽吹く、しなやかな強さを持っている。
(それは、あんただって知っているだろう?)
 喉元まで出かけたその言葉を、ヒノエは飲み込む。今の弁慶は知らないのだ。彼は、望美のことを何も知らない。ただの、記憶を無くしヒノエに保護された、可愛らしい娘だと思っているはずだ。
 だが、意外にも弁慶は真剣な顔をしてヒノエを見て言った。
「ええ。彼女は強いでしょう。──ですが、強がって、ひとりで苦しみを抱えてしまうひとでもあります。強がっていますが、記憶がなくてとても不安なはずです。君がちゃんと望美さんを支えてあげないと」
 ヒノエはその言葉に驚いて、隣に立つ叔父を見つめた。
(──どうして、あんたが、そんなことを)
 なんにも覚えていないはずなのに。弁慶にとって望美はまだ会ったばかりのはずなのに。彼はまるで当たり前に、彼女の本質を見抜いている。記憶が戻ったというわけではないのだろう。それなら、弁慶が望美をそのままにしておくとは思えない。記憶はないままなのに、それでも。
「あんたに言われなくても、分かってるよ」
 苛立ちを隠しもせずに吐き捨てると、ヒノエは望美の後を追って市のほうへと向かった。



 航海で疲れたから、という理由で、邸に帰ったヒノエはひとりで早々に部屋に入った。
 それは口実だ。たしかに多少疲れているが、それほどでもない。本当なら、望美に交易で手に入れためずらしい品を見せたり、面白い土産話を聞かせてやろうと思っていた。
 だが、今彼女に会ったら、きっとひどいことを言ってしまうだろう。ひどいことをしてしまうだろう。今まで世話したことを盾に、無理矢理組み敷くくらいのことはしてしまうかもしれない。そんなことは、決してしたくはないのだ。彼女を傷付ける気など毛頭ない。ヒノエは、いつだって望美に笑っていて欲しいと思う。──だからこそ、今、彼女の傍にはいられなかった。
 いつか、もういちど弁慶と望美が出逢うことは、分かっていた。
 熊野は弁慶の故郷だ。今までだって数年に一度は湛快のところへ顔を出していた。望美が熊野にいるかぎり、いつかは出逢っただろう。それが、思っていたよりも早かっただけで。いや、望美を別当の妻にと噂されているこの状況で、彼が興味を持たないほうがおかしい。弁慶が望美に会いに来ることは、十分予想できていた。
 手元に用意していた酒を、一気に煽る。強い酒であるはずなのに、それでも今夜は酔いが回りそうにない。
「ヒノエ」
 穏やかな呼び声に顔を上げれば、音もなく襖をあけて、敦盛が部屋に入ってきた。何も言わずに、敦盛はヒノエの隣に腰掛ける。
「敦盛……」
 この幼馴染みは、数少ない秘密の共有者だ。彼もすべてを知っている。彼は、再び出逢った望美と弁慶を見て、何を思ったのだろう。
 そんなヒノエの思いを読んだように、敦盛は静かに話を切り出した。
「……私は、神子と弁慶殿が会ったら、記憶が戻るのではないかと期待していたのだが……それも無理のようだな」
「ああ。俺も、もしかしたらとは思っていたんだが、どっちも記憶が戻った様子はないな」
 望美も弁慶も、お互いを忘れたままだ。それを喜んでいるのか哀しんでいるのか、自分でも分からなかった。
「……それほど、伯父上の呪詛は強かったということだろう」
 深い溜息をつくように、敦盛は言葉を吐き出した。
 かつて望美が『白龍の神子』としてこの世界に召還され、『源氏の神子』として源平の戦に加わっていたことを覚えているのは、ヒノエと敦盛と湛快のたった三人だけだ。もしかしたらもとの世界に帰った譲は覚えているかもしれない。だが、たとえ彼が覚えていたとしても、次元の違う世界に暮らす彼にはもう何もできない。
 みんな、望美のことを忘れてしまっている。そして望美自身は記憶のすべてを失ってしまった。
 清盛の、呪詛だった。
『おのれ、べんけえええ! 白龍の神子お! 我をたばかったな!!』
 厳島の地で、弁慶の策略により割れた八咫鏡によって消滅させられようとしていたとき、清盛は最期の力で呪詛をかけた。その呪詛とは、黒龍の暴走だと思っていた。だが実際は違ったのだ。清盛の禍々しい呪詛の影響を受け、正気を失った黒龍が暴れたが、それが本当の呪詛ではなかったのだ。そのときは、誰もそれに気付けなかった。
 黒龍を鎮め、応龍が復活して、すべてが終わったと思っていた。戦の事後処理やこれからの頼朝の動きなど気にかかることはいくつかあったが、それでも戦は終わり、これからは平穏な日々がやってくるのだと、信じていた。
 異変は、譲がもとの世界に帰った直後に表れた。
 龍神は復活し、次元を超える力も取り戻したが、望美は弁慶の乞いに応えてこちらの世界に残ると決めて、将臣は行方知れずのままで、結局譲ひとりがもとの世界に帰ることになっていた。
 ヒノエは、事前に挨拶を済ませ、わざわざ見送りには行かなかった。譲とは、顔を付き合わせればいつも口喧嘩をしていたような間柄だったが、ヒノエは彼が嫌いではなかった。想いの表し方はだいぶ違ったが、ずっと同じ女を想っていた。譲にとっては長い間抱え続けた想いで、ヒノエにとってははじめての本気の想いだった。彼女は結局違う男を選んだが、それでも消えない想いを抱えていることはお互い分かっていた。振られた者同士の仲間意識とでもいうのだろうか。わざわざ口にすることはなかったが、多分譲も同じ気持ちを持っていた。
 譲が帰る日、ヒノエは六波羅の隠れ家でこまごまとした仕事をこなしていた。熊野別当として、やるべきことは山のようにあるのだ。忙しく働きながら、その合い間に、もう譲はもとの世界に戻っただろうかと神泉苑のほうを眺めていて──ヒノエは目を見張った。
(!?)
 神泉苑の方角に、雷が落ちたように見えた。いや、あれは雷だったのだろうか。黒い光が空を切り裂くように落ちたのだ。
(なんだ、今の黒い光は)
 方角や距離から考えて、光が落ちたのは神泉苑に間違いない。龍神が時空の穴をあけたにしては、禍々しすぎる光だった。おそらく、何かあったのだ。嫌な予感を覚え、ヒノエは仕事を放り出してすぐに神泉苑に向かった。神泉苑には譲の見送りのために、九郎たちや望美がいるはずだった。
 神泉苑に向かう途中で、ヒノエは通りの向こうから歩いてくる見知った人影を見つけた。九郎と景時と弁慶が共に歩いていたのだ。彼らには特に怪我なども見られないようだった。ひとまず胸をなでおろす。だが、一緒に望美がいないことが気になった。
「おや、ヒノエ。どうしたんですか。もう譲君は帰ってしまいましたよ」
 ヒノエに気付いた弁慶が声をかけてきた。その声は穏やかで、いつもと何ひとつ変わらない。隣にいる九郎と景時もいつもどおりの顔をしている。だがそれこそがおかしいと思った。近くであんなおかしな黒い光が落ちたのなら、もうすこし何かあってもいいはずだ。何かがずれている。
「おい、望美はどうしたんだ!?」
 ヒノエが問い掛けると、彼らは不思議そうに顔を見合わせた。彼の言っていることが分からない、というように。
「のぞみ? 誰だそれは?」
 眉をひそめながら尋ねる九郎にぞっとした。彼は嘘をついているのではない。弁慶や景時なら嘘をつくことも考えられるが、九郎がヒノエにばれないように嘘をつけるとは思えない。本当に、分からないのだ。彼らは、望美が誰か分からないのだ。
(何が起こっているんだ!?)
 ヒノエは不思議な顔をしている三人を置いて、神泉苑へ向かって走り出した。ともかく望美が心配だった。何が起こったか分からないものの、何か悪いことが起こったことだけは間違いがなかった。
「望美! 望美、大丈夫か!?」
「ヒノエ!」
 神泉苑に駆け込んだヒノエに応えたのは敦盛だった。
 敦盛は腕に、ぐったりとした望美を抱えていた。
「おい敦盛! 何があった!」
「それが私にも分からないのだ……譲殿がもとの世界に帰った直後、黒い稲妻のようなものが落ちてきて、気付いたら神子が倒れていた……」
 わずかな時間ではあるが敦盛も気を失っていて、彼が気付いたときには、他の八葉や朔はもうここにはいなかったのだという。倒れている望美を見つけ、抱き起こし呼んでみても彼女は目を覚まさず、どうすればいいのか戸惑っているところにヒノエが来たのだと敦盛は言った。
 訳も分からぬまま、とりあえずヒノエは敦盛と共に、意識のない望美を連れて熊野へ向かった。あのまま京にいたら、そのうち自分の記憶も何かに飲み込まれてしまいそうで怖かった。明らかに何かが起こり、何かがおかしかった。
 熊野に着いて、いくぶん冷静になったヒノエは、情報収集と状況把握をはじめた。そして分かったことは、みんなの記憶から、望美に関することが消えているということだった。弁慶をはじめとして、九郎も景時もリズヴァーンも朔も、みんな望美のことを忘れていた。先の源平の戦に『源氏の神子』などいないことになっていた。いるとしても、それは朔のことだとされていた。たとえば春の京で後白河法皇の前で舞ったのは誰だと問い掛ければ、記憶が曖昧になっていたり、別の誰かに置き換えられていた。八葉や京の人間だけではない。厳島では一緒に戦ったはずの熊野水軍の者たちも、望美のことを忘れていた。
 不幸中の幸いとも言えることは、ヒノエの他にもうひとり、敦盛は彼女のことを覚えていたことだ。他の者が覚えていないのに自分だけ覚えているというのは、実は自分が間違っているのではないかと、自分のほうが頭がおかしくなっているのではないかという気にさせられる。けれど、自分以外にもたしかに望美のことを覚えている者がいた。それは心強いことだった。
 そして、もうひとりだけ望美のことを覚えている者がいた。ヒノエの父親である湛快だった。
 ヒノエと敦盛から話を聞いた湛快は、おそらく呪詛だろうと言った。
「おそらく、清盛公が消えるときに、黒龍に呪詛をかけたんだろう。応龍に戻ったのち、人々から神子の記憶を消すように、という感じの呪詛だったんだろう」
「なんでそんな──」
「さあな。だが呪詛として、それがいちばんつらい試練になると思ったんじゃねえのか」
 消滅した清盛が本当は何を考えていたのかなど、分かるはずもない。だが、黄泉返った清盛は、将臣を本物の重盛と信じ、息子に忘れられてしまったと嘆いていた。憎む相手に同じつらさを味あわせようとしたのかもしれない。
「じゃあなんで、俺と敦盛とオヤジだけが、望美のことを覚えているんだ」
「ヒノエと湛快殿は分からないが……私はおそらく、すでにいちど滅している身だからだろう」
 敦盛が、すでにいちど死に、三種の神器の力によって黄泉返った身だということは、聞いていた。清盛が滅し、黒龍の逆鱗が壊されたときに他の怨霊は消えたのに、何故か敦盛だけはこの世に残った。
 人の理を外れている敦盛に呪詛は効かなかったのか。それとも、彼の身のうちに眠る三種の神器の力が彼を呪詛から守ったのか。
 敦盛のことはそれで説明できるとしても、ヒノエと湛快だけが覚えていることが不思議だった。首をひねるヒノエに、湛快は言った。
「俺は、熊野大権現の加護じゃないかと思ってる。俺とおまえの共通点なんて、そんなもんだろ?」
 たしかに、ヒノエは熊野大権現を祀る神職だ。そして湛快はその先代だ。熊野の神が、清盛の呪詛から守ってくれたのだろうか。
 それが本当かどうかはともかく、ヒノエが知るかぎり、この世界で望美を覚えているのはたった三人だけだった。弁慶さえ、望美を忘れてしまったのだ。
 そして、熊野で目を覚ました望美は、それまでの記憶を丸ごと失っていた。もとの世界で過ごした17年間のことも、源氏の神子として戦ったことも、自分の名前さえ思い出せなくなっていた。当然、弁慶のことも忘れていた。それも清盛の呪詛のせいなのか、何か違う要因があるのかは分からない。
 その記憶からひとりの少女の存在が消えていることを、ヒノエは弁慶や九郎たちに言わなかった。信じてもらえるとも思えなかったし、言ってもどうにもならないと思ったからだ。望美にも、彼女の過去は言わなかった。もとの世界やそこに暮らす家族を捨ててまでこの世界に残ることを選んだのに、その相手の男は彼女のことを忘れているなどと、伝えることはできなかった。
(──いや、違う)
 心のどこかで、ヒノエは思ったのだ。すべてを忘れているのなら──望美を手に入れることができるのではないかと。
『僕は、君が好きです。どうか僕とともにいてくれませんか』
『はい。私も弁慶さんとずっと一緒にいたいです』
 ヒノエはずっと望美が好きだった。厳島で、望美が弁慶の手を取ったとき、どんなに苦しかっただろう。それでも、それで彼女がしあわせになるのならと思っていた。だが弁慶も望美も、すべて忘れてしまったのだ。当然、彼らがこれからずっと一緒にいると交わした約束も、消えてしまった。
 記憶を失った望美を、ヒノエは熊野の自分の邸に置いた。ヒノエの行動に、敦盛も湛快も、何か口を出すことはなかった。記憶がなく、はじめは戸惑っているようだった望美も、だんだんと熊野に馴染んでいき、やがて熊野別当の妻にと噂されるようにまでなった。
 ──そうして、もういちど、弁慶と望美は出逢った。
「ヒノエ」
 敦盛が静かに問いかけた。
「これから、どうするつもりなんだ?」
 このまま、ヒノエが強く望めば、望美はヒノエのものになるだろう。戸惑いつつも、やがては婚姻の話に、首を縦に振ってくれるだろう。情に厚い彼女は、恩人であるヒノエや彼女を慕ってくれる熊野の民を、切り捨てることは出来ない。望美はヒノエの妻になる。それを、ずっと望んでいた。だが、本当に、そうしてしまってもいいのだろうか。
(望美、俺は)
 ヒノエは何も言わず、また酒を煽った。敦盛もそれ以上重ねて問いかけてはこない。
 ただ静かに、夜は過ぎていった。


 To be continued.

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