流星群 5


 望美が熱を出して倒れたのは、ヒノエが航海から帰ってきた数日後のことだった。
 すこし早い夏風邪というよりは、慣れない熊野の気候に体がついていかなかったのだろう。熊野の気候は変化が激しく厳しい。ほんのすこし前までは梅雨の最中で肌寒く感じることもあったのに、ここ数日は急に気温が上がり汗ばむほどだった。その変化に対応できるだけの体調管理ができていなかったのだ。
(情けないな……)
 布団に横たわったまま、望美はひとりごちた。
 今回望美が倒れたのは、熊野の気候に慣れていなかったとはいえ、ひとえに体調管理ができなかった彼女自身の責任だ。それなのに、多くの人に心配も迷惑もかけてしまった。
 望美付きの世話係の女房は、望美が熱を出したのは自分がちゃんとお世話できなかったせいだと、望美とヒノエに頭を下げた。それに驚いて、望美は慌てて女房の頭を上げさせようとしたけれど、彼女は頑なに頭を下げ続けた。ヒノエは望美を気遣って、いつもより早く仕事を切り上げて帰ってくる。四国との交易も一段落し、そう忙しくない時期とはいっても、普段から別当の仕事はそれなりに多くあるのだ。ヒノエやそのまわりの人たちに無理をさせてしまっているのではないだろうか。そう考えると本当に申し訳ない。今望美にできることは、一刻も早く体調を回復して、元気な姿をみんなに見せることだけだ。
 額にのせられた濡れ布は、すでにぬるくなっている。もう熱を吸い取る役目を果たしていないそれを、脇に置かれた桶へとどかした。
 まだ夕刻前の早い時間だが、望美が眠れるようにと、今はまわりに誰もいない。女房たちも、下がってもらっている。こんなときはぐっすり眠ってしまうのが、いちばんいい。だが、時間が早いせいもあるのか、頭は熱でぼんやりするのに、なかなか眠りは訪れなかった。
(静かだな)
 今日は風もなく、木々の揺れる音さえしない。わずかに鳥の声が遠くで響くだけだ。広い部屋にひとりで寝かされ、世界に自分ひとりだけになったような錯覚さえ感じる。
 体が弱くなると、それに引きずられて心も弱くなってしまう。特にこんなときは、普段は考えないことまで考えてしまう。いつもは心の奥底に閉じ込めてある思いが、浮かび上がってきてしまう。
(──私は、どうしてここにいるのだろう)
 ここが嫌いなのではない。ヒノエは望美に優しいし、最初の頃は疎まれていたが、今では他のみんなも親切にしてくれる。ここでの暮らしは何不自由もなく、楽しい。熊野は厳しくも美しい自然に囲まれた、素敵な場所だと思う。
 それでも、なくした記憶の欠片が叫ぶのだ。ここではない、と。その意味を、望美自身理解できない。生まれ育った場所がここではないという意味なのか、何か別の意味があるのか。ここではないと思っても、他に行く当てなどないというのに。
 覚えていない過去など捨てて、今ある現実だけを受け入れてしまえば簡単なのだ。この熊野を新しい故郷として、ヒノエの気持ちを受け入れて、ここで暮らしていけば、きっとしあわせになれる。何ひとつ不自由なく、ヒノエは望美を大切にしてくれるだろう。まわりのみんなも祝福してくれる。そうわかっているのに、こんなにも、心が騒ぐのは──。
「望美さん、起きていらっしゃいますか」
 抑えられたちいさな声が、襖の向こうから聞こえた。望美が寝ているかもしれない可能性を気遣ってのことだろう。望美は首だけ動かして襖のほうを見た。
「弁慶さん?」
「起こしてしまいましたか?」
 襖越しに声が返ってくる。
「いいえ、眠ったほうがいいのは分かっているんですが、なんだか眠れなくて──」
「そうですか。薬湯を持ってきたんですが、入ってもいいでしょうか」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
 望美が返事をすると、そっと襖が開かれた。碗を持った弁慶が入ってくる。望美は布団の上に身を起こした。
「これをどうぞ。僕が調合した薬湯です。夏風邪と疲労回復によく効きます」
 差し出された碗の中身は、底が見えないくらいの濃緑色だ。薬草独特の青臭い匂いもする。碗を受け取ってはみたものの、それに望美は眉をしかめた。
 良薬口に苦しとは言うものの、苦いと分かっているものを喜んで口にすることはできない。むしろ薬のまずさで体調を崩してしまうのではないかと思われるほどだ。けれど、弁慶の薬がよく効くことはちゃんと分かっている。前に倒れたときも、弁慶の薬を飲んで一晩寝たら、すぐによくなった。薬師としての腕は確かなのだ。一刻も早く治りたい今、どんなに苦くてまずいと分かっていても、飲まないわけにはいかない。
(えいっ!)
 望美は勢いをつけて、碗を一気に傾けた。えもいわれぬ苦さとまずさをともなった液体が、喉を通っていく。薬の苦さに気を取られて、望美は気付かない。弁慶の薬がよく効くと知っていることに──かつて弁慶の薬を飲んだことがあるという、その事実に。
 途中むせそうになりながらも、望美は何とか碗の中の薬を飲み干した。あまりの苦さに薬を飲むだけでぐったりと疲れてしまった。
「よく頑張りましたね」
 ちいさな子供にするように、望美の頭を弁慶は撫でる。
「もう、弁慶さんはいつもそうやって私を子供扱いする……」
「そんなつもりはないんですが」
 拗ねるように睨みつけても、弁慶は笑ってかわすだけだ。
「さ、薬は飲んだんですから、もう横になったほうがいいですよ」
 弁慶に促され、望美は布団に身体を横たえた。薬湯の中に、眠りを誘う成分も含まれていたのだろう。だんだんとまぶたが重くなる。
 熱をはかるためか、弁慶の手が額に触れる。熱があるせいか、冷たく感じるその手が心地よかった。望美は目を閉じる。優しい手だ。薙刀を握るからすこし骨ばった、けれどきれいな指。
 夢と現の狭間で、またなくした記憶の欠片が何かを叫びだす。あるいは、脳ではなく、体が覚えている記憶が、何かを伝えようと叫んでいるのかもしれない。けれど望美はそれを正しく聞き取ることが出来ない。
「弁慶さん……」
「なんですか?」
 眠りの淵に引き込まれながら、望美は無意識に呟いていた。
「……傍に、いてください……」
 なくした記憶の欠片が、胸を締め付ける。
『私も───と一緒にいたいです』
 そうだ、約束したのだ。ずっと一緒にいると。他のすべてを捨ててでも、これからずっと一緒に生きていこうと。もう離れることなんてないと思っていたのに。それなのに。
(どうして、私は)
 なくした記憶が叫んでいる。
 けれどそのまま望美は眠りの淵へ落ちていった。



「望美さん?」
 弁慶が呼びかけても、望美から返事は返ってこない。穏やかな寝息が聞こえるだけだ。薬が効いて、眠ったのだろう。顔色もそう悪くない。この分なら、明日には熱も下がっているだろう。
 熱をはかるために触れていた額から手を滑らせて、なめらかな頬に触れる。望美が起きる気配はまったくない。まるで無防備に、すこし幼げな顔で眠っている。たとえば今、弁慶がその首を絞めたとしても、くちびるに触れたとしても、きっと彼女は気付かないだろう。
(僕は、何を馬鹿なことを)
 ちいさく溜め息をつくと、弁慶はそっと望美から手を離した。布団の端をそっと直してやると、音を立てないように気をつけながら望美の部屋を出た。
 部屋を出ると、廊下の柱にもたれるようにヒノエが立っていた。弁慶は彼の気配に気付いていたので驚くこともない。彼は手によい香りのする色鮮やかな花を持っていた。望美への贈り物だろう。
「望美は?」
「薬を飲んで、今眠ったところです。明日には熱も下がっているでしょう」
「そうか」
 ヒノエは安心したように息を吐く。
 望美に薬湯を届けるよう頼んできたのはヒノエだ。食えない叔父に頼み事をすることは彼にとって好ましいことではないのだろうが、彼が知る中でもっとも優秀な薬師が弁慶であり、それが望美のためとあらば、背は腹に変えられなかったのだろう。もちろん弁慶だって、かわいい甥の頼みを断るはずがない。
「彼女が熱を出したのは、季節の変わり目で、気候に体調がついていかなかったということもあると思いますが、同時に、精神的な疲労が出たのだと思います」
 望美が熊野に来てから3ヶ月。今までは、記憶がないことも含め、だいぶ神経を張り詰めさせていただろう。明るく気丈にふるまう裏で、やはりつらいことや大変なことも多かっただろう。そして、ようやくここでの生活に慣れてきて気が緩み、それまでの疲れが一気に出たのだ。
 今はゆっくり休ませることが大切だが、それ以上に、彼女の精神的負担を取り除いてやることが大切だ。
「大事にしてあげてくださいね」
「あんたに言われるまでもなく、俺は望美が大事だよ」
 ヒノエは、真剣な顔をして言った。熊野に関わること以外で彼がそんな顔をしたことなど、弁慶は今まで見たことがなかった。
 生まれたときから次期熊野別当として育てられたヒノエは、何をおいても熊野を第一に考えるようになっていた。彼にとってすべては熊野に損か得かという、ただそれだけの価値しかなかったのだ。『熊野別当』としては、これ以上ないくらいの人材だろう。だが、一個人の人間としては、どうなのだろう。叔父として弁慶なりにずっとヒノエを心配していた。だがそのヒノエに、熊野と同じくらい大切に想う相手ができたのだ。それは、叔父として喜ばしいことだった。
「ヒノエが望美さんを娶ってくれれば、兄さんも安心でしょうし、熊野も安泰ですね」
 笑顔で言う弁慶を、ヒノエはその赤い瞳でじっと見ていた。何かを言いたげに。
「ヒノエ?」
「なんでもない。悪かったな、面倒なこと頼んじまって」
 それだけを言うと、ヒノエは弁慶を置いて、望美の部屋へ入っていった。それでも弁慶は何故だか立ち去れず、その場にとどまっていた。
 閉ざされた襖の向こうでは、望美が眠っている。眠っている彼女を見て、ヒノエは何を思うのだろう。彼は、彼女の傍らにいて、眠る彼女に口づけを落としたりするのだろうか。
『傍に、いてください』
 眠りにつく寸前、うわごとのように呟かれた言葉。
 そうできたらどんなにいいだろう。だがあれは、熱で浮かされて出た言葉だ。弁慶に言った言葉ではない。病にかかると心が弱くなって、誰かに傍にいてほしくなるものだ。ただ、それだけの言葉。そして彼女の傍にはヒノエがついている。だから大丈夫だ。弁慶は、必要ないのだ。
「弁慶殿」
 不意に呼ばれた声に顔を上げた。見れば、敦盛がこちらへ歩いてくるところだった。この少年は気配が薄くて、存在を察知しにくい。それが、彼がすでに死人であるからなのか、もともとの性質なのかは分からない。
 敦盛は、手に瓜を持っていた。おそらくは彼も望美の見舞いに来たのだろう。
「望美さんのお見舞いですか?」
「ああ。ちょうど市でおいしそうな瓜を見つけたので、神子にと思って……」
「そうですか。ですが、ちょうど今眠ったところなので、お見舞いなら、明日のほうがいいかもしれませんね」
「そうか……」
 ほんのすこし残念そうに敦盛は肩を落とす。ヒノエだけでなく、この元平家の少年まで望美にひとかたならない想いを抱いているらしい。彼がそんなふうに誰かに執着するのは珍しいことだった。
 敦盛も幼少の頃、一時期熊野にいた。弁慶は比叡にいたので顔を合わせる機会はそう多くなかったが、それでも昔から知っている相手だ。先の源平の戦いでは、平家一門でありながら、源氏方について共に戦った。だが敦盛は、いつもどこか一線を引いた人付き合いをしていた。もともとの性質に加え、自分が怨霊であるということが、彼を人から遠ざけてしまうのだろう。
「あの……弁慶殿」
「はい?」
「弁慶殿は神子を──どう思う?」
「どう、とは?」
 質問の意図がつかめずに、弁慶は尋ね返した。どう説明すればいいのか困ったように、敦盛が眉根を寄せる。
「私は、神子のしあわせを祈っている。そのためになら、なんでもするつもりだ」
 いつも控えめな敦盛にしてはめずらしく、はっきりとした口調で言った。けれどそのすぐあとで、またうつむいてしまう。
「ただ……私には分からないのだ。何が神子のしあわせで、何がしあわせではないのか」
 難しい問いかけだ。しあわせなど、みんな等しく一辺倒に量れるものではない。それでも。
「ヒノエならきっと、彼女をしあわせにしてくれますよ」
「弁慶殿がそう言うのなら……きっとそうなのだろう」
 敦盛は、どこか寂しそうに笑った。
 持って来た瓜は炊事場に預けて、今日はもう帰ると言う敦盛の背中を見つめながら、弁慶は思う。
(何が彼女のしあわせで、何がそうではないのか)
 その問いかけを、心の中で繰り返す。
 ヒノエと結婚すれば、彼女はしあわせになれるだろう。そうだ。それがきっといちばんいいのだ。
 熊野別当の妻という立場は大変なこともあるかもしれないが、彼女ならきっとそれを立派に果たすだろう。ヒノエも、彼女をしっかり守るだろう。
 彼女はきっと、しあわせになれる。
(────だから)
 願ってはいけないのだ。
 謀をめぐらせてでも、彼女が欲しいなどと。


 To be continued.

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