流星群 6


 ヒノエが京に隠れ家を持っているように、弁慶も熊野にいくつか自由に使える小屋を持っている。この熊野滞在中、弁慶は湛快の邸に程近い小屋のひとつで寝泊まりをしていた。あばら家とも言えるような粗末な小屋だが、弁慶ひとりが寝泊まりするには不自由はない。湛快は自分の邸に泊まるよう勧めてくれたが、ひとりのほうが何かと気楽だからとそれを辞退した。もともと女房や小間使いに囲まれて暮らすのは性に合わないのだ。
 弁慶は、狭い小屋の板間に所狭しと薬草を並べて、薬草の仕分けをしていた。一口に薬草と言っても、精製方法は様々だ。根だけを乾燥させてすりつぶして粉薬にするものもあれば、葉を煎じて薬湯にするものもある。様々な草から薬として必要な部分を選別し、それぞれに見合った精製方法と保存方法を施していく。更に必要ならそれらを適切な比率で混ぜ合わせなければならない。薬作りは根気と手間暇のかかる作業だった。
 ここ数日は、一日中その作業に没頭している。薬作りをしないときは、薬草を摘みに行くか、市へ舶来物の薬を買いに行くかのどちらかだ。だがそれをつらいとは欠片も思わなかった。今は何も考えず、何かに没頭していたほうが楽だった。
 薬草を磨り潰す手をいったん止めて、弁慶は額に浮かぶ汗をぬぐった。窓は開け放たれていて、そこからわずかな風が入ってきているが、初夏の熊野はすでに暑かった。重労働をしているわけでもないのに汗ばんでしまう。もうすぐ本格的な夏がやってくるだろう。
(夏の熊野……か)
 去年の夏も、熊野で過ごした。去年も熊野はうだるような暑さだった。弁慶はそのときのことを思い出す。
 あのときはまだ戦中で、熊野水軍に源氏への助力を願うために来ていた。熊野別当であるヒノエは何食わぬ顔で一行に混ざっているというのに、そうとは知らない九郎や景時に合わせて、『熊野別当に会うために』わざわざ本宮まで向かうことになった。まああれは、熊野別当であるヒノエが、九郎や景時の人柄や、源氏の内情を見極めるために、どうしても必要な茶番だった。熊野を守る義務がある熊野別当の事情は弁慶も十分理解しているから、その茶番に黙って付き合った。
 けれど、本宮までの道のりは思った以上に大変だった。険しい山道と夏の照りつけるような暑さに加え、神山であるというのにあちこちに怨霊が出て、行く手を阻んでいた。その上、一番近い本宮までの道が通れなくて勝浦を回ったりと、散々苦労させられた。
(そう、本当に大変だった。本宮へ行くのにわざわざ勝浦を回って、さらに熊野川が怨霊のせいで増水していて足止めされて、本宮にたどり着くだけで1ヶ月近くかかってしまった。けれど、その怨霊も『龍神の神子』である朔殿の力で鎮めて、本宮に行くことができて……?)
 弁慶は、どことなく自分の記憶に違和感を覚える。何もおかしいことなどないはずなのに、何か違っているような気がする。何か足りないような気がする。あのとき、他に何かあっただろうか。けれどいくら考えても、その答えを見つけることはできなかった。
 ふと、近づいてくる人の気配を感じて、弁慶は意識を現実に引き戻して戸口に視線を向けた。うかがうように軽く戸が叩かれたあと、明るい声とともに戸が開かれた。
「こんにちは、弁慶さん」
「望美さん?」
 戸から望美が顔を覗かせる。弁慶はそれにわずかに驚く。
「どうしてここに?」
「湛快さんから、弁慶さんはここにいるって聞いたんです。お邪魔でしたか?」
「いいえ、そんなことはありませんよ。散らかっていますが、こちらへどうぞ」
 あちこちに置かれている薬草を手早くどけて、彼女が座れるくらいの場所を作ってやる。
 望美が熱を出し、薬湯を届けたのは数日前だ。何日分かの薬を邸の女房に渡し、弁慶はそれ以後彼女のもとを訪れていなかった。だが数日前とは違い、望美は顔色もよく元気そうだ。もう具合はよくなったのだろう。それに安堵する。
「弁慶さん、このあいだはお薬ありがとうございました」
 望美は弁慶に向かって律儀に頭を下げる。彼女は弁慶のもとまでわざわざお礼を言いに来てくれたらしい。
「元気になられたようでよかったです。熊野は気候の変化が激しいですから、体調には気をつけてくださいね」
「はい。でも弁慶さんの薬、本当にすごいですね! あの薬飲んだら、次の日にはすぐ熱も下がって元気になったんですよ。でも、病み上がりだからって女房さんたちがなかなか家から出してくれなくて、お礼に来るのが遅くなっちゃいました」
 無邪気な望美の物言いに、弁慶は小さく苦笑する。彼女は何故そんなにも女房たちが望美の体調を気遣うのか、分かってないのだろう。せいぜい、みんな心配性で過保護なのだと思っているのだろう。
 彼女自身はあまり自覚していないようだが、女房たちにとってみれば、彼女はすでに未来の『熊野別当の奥方』だ。つまり、次代の別当を産む女性だと思われている。もちろん望美自身を心配してもいるのだろうが、ヒノエの子を産む大切な身体に何かあってはいけないと、女房たちは気遣っているのだ。
(────)
 ちいさく弁慶の胸が痛む。望美がヒノエの妻にと望まれていることなど、熊野に来る前からわかっていたことだというのに。
「薬を作っていたんですか? すごい量ですね」
 板間に広げられた薬草の山を、望美が興味深げに覗きこむ。
「ええ。京に帰るので、その前に、薬にできるものはしてしまおうと思いまして」
「え?」
 弁慶の言葉に、望美が驚いたような顔を向けた。
 ここ数日の薬作りは、京へ帰るための準備だった。この地で採ったり交易で手に入れた薬草を京にそのまま持って帰るのではあまりに荷物が多くなってしまう。ここですぐ精製できるものは精製して、荷をかさばらせないようにする必要があった。
「弁慶さん、帰ってしまうんですか?」
「京には僕の帰りを待っていてくれる患者さんがたくさんいますからね。あまり熊野に長居もできないんですよ」
「そうですか……」
 残念そうに、望美は肩を落とす。
 望美に告げたことは、半分嘘だった。当初は、弁慶はもうしばらく熊野で過ごす予定だった。そのつもりで、京の馴染みの患者たちには多めに薬を渡してきていた。だが帰京の予定を急遽早めたのだ。
 弁慶は目の前にいる望美を見つめた。これ以上、彼女の傍にいてはいけない。今ならまだ間に合うから。今なら、その手を離せる。だから。
 不意に、視線を床に落としていた望美が勢いよく顔を上げて、弁慶を見つめた。
「あのっ! 弁慶さんはまた熊野に来ますか? また会えますか?」
「そうですね、君とヒノエの祝言のときには、必ず出席させていただきますよ」
「……!」
 望美はまるで弁慶の言葉に傷付いたような顔をする。眉を歪ませて、何かを堪えるようにくちびるを引き結んで、弁慶を見つめている。そんな姿は、いやでも弁慶の心を揺り動かす。
「そんな顔を、しないでください」
 弁慶は望美に手を伸ばした。頬を軽くなで、肩からこぼれる髪を一房すくう。
「そんな顔をされたら、謀をしたくなってしまう。君をヒノエから奪って、僕のものにしてしまう謀を……」
 望美がちいさく息を飲むのが分かった。弁慶を見つめる瞳が、戸惑うように揺れている。その言葉が冗談なのか真意なのか、はかりかねているのだろう。だから弁慶は望美に、ことさら優しく微笑んでみせる。
「……嘘ですよ」
「弁慶さん……」
「さ、もう帰ったほうがいいですね。いくらヒノエの叔父とはいえ、他の男のところに長くいたら、きっとみんなが心配しますから」
 弁慶は望美の手を取って立ち上がった。優しく、けれど有無を言わせぬ強さで、何か言いたげな様子の望美を戸口へ連れて行く。
「あのっ、弁慶さん」
「ヒノエに、よろしく伝えてください。では」
「弁慶さん!」
 望美を戸口の外へ出すと、弁慶は彼女の言葉など聞かずに扉を閉ざした。すべてを拒絶するように。
 追い払われるように外へ出された望美は、しばらくは戸口の前に立ちすくんでいたようだが、弁慶が再び扉を開くことはないと悟ってあきらめたのか、帰しばらくすると帰っていった。気配が遠ざかる。
(これでいいんですよ)
 遠ざかる彼女の気配をたどりながら、弁慶は扉にもたれて額をつける。そう、これでいいのだ。弁慶は京へ帰る。そして彼女はヒノエと結婚する。それを祝ってやればいい。きっとしあわせになれるだろう。熊野も安泰だ。だから、これでいいのだ。これで。
 そうれでも、望美の気配が遠ざかって完全に消えても、弁慶はしばらくそこから動けずにいた。



 熊野の山の中には、清流がいくつも走っている。山から湧き出る澄んだ水が、森の恵みを与えながらちいさな流れをいくつも作り、やがて合流し大きな流れとなり海に注いでいくのだ。
 望美は敦盛に連れられて、本宮近くの小川に来た。熊野川の支流にあたる、森の中のちいさなせせらぎだ。川の上流にあたるため、大きめの岩がいくつもあり、そのあいだを澄んだ水が流れてゆく。川の水に、周囲の空気が冷やされて気持ちがいい。照りつけるような陽射しも、川沿いの木立がさえぎってくれる。
「やっぱり外は気持ちがいいですね」
 両腕を伸ばして、望美は爽やかな空気を胸一杯に吸い込む。澄んだ空気に、体内から浄化されていくようだ。この大自然の前では、澱んでいた心も吹き飛ばされてしまいそうだ。
「ああ。熊野の自然は厳しいことも多いが、こういうところに来ると、やはり心が落ち着く」
「ありがとうございます、敦盛さん。ここに連れてきてくれて」
「いや……私はただ……少しでも神子が元気になってくれればと……」
 敦盛は、望美の笑顔に少し照れたように笑い返す。
 普段、特に日中はあまり外に出たがらない敦盛が、わざわざ望美をここへ連れてきたのは彼女を元気付けるためだと、望美自身分かっていた。
 この数日、望美はずっとふさぎがちだった。みんなに心配をかけないよう、できる限り明るく振る舞っていたつもりだが、勘のいいヒノエや、常に近くに控えている女房たちには、望美に元気がないことなどすっかりばれているだろう。それが、体調の悪さから来るものではなく、精神的なものだということも。
 ヒノエも、よく教育された女房たちも、面と向かって望美に理由を問い詰めるようなことはしないが、それでも心配げに様子をうかがい、何とか彼女を元気付けようと色々と気を回してくれていた。心を穏やかにするという香を焚いてくれたり、望美の喜びそうな甘い水菓子を用意してくれた。その心遣いを本当に嬉しく思いながらも、望美の心は晴れずにいた。
 心を重くしている原因は、わかっている。
(──弁慶さん)
 望美の脳裏に、淡い色彩の髪の男の姿が浮かぶ。彼がもうすぐ京に帰ると聞いてから、望美の心は靄がかかったように晴れずにいた。
 おそらくあと数日で、弁慶は京に帰ってしまうだろう。彼には彼の仕事がある。望美にそれを止める権利などない。──いや、引き止めてどうするというのだろう。引き止めてどうしたいのだろう。自分自身でも分からない。それでもただ、思ってしまうのだ。弁慶に京へ帰って欲しくないと。
 弁慶が京に帰ってしまったら、もう会えなくなってしまう。もちろんもう二度と会えないということはないだろうが、京と熊野はそう簡単に行き来できる距離ではない。まして、望美が京へ出向くことは無理だろう。
『そんな顔を、しないでください。そんな顔をされたら、謀をしたくなってしまう。君をヒノエから奪って、僕のものにしてしまう謀を……』
 あれはただの戯れ言だ。ヒノエもよく口にするような、ただの甘言だ。本気になんてしてはいけない。
 それなのに──どうしてこんなに、心が痛いのだろう。
 望美は川べりにしゃがんで、せせらぎに手を沈めた。水の冷たさが気持ちいい。水を掬ったりちいさく弾いたりして遊ぶ望美の傍らに、敦盛も並んでしゃがんだ。しばらくは黙って望美の手遊びを見ていた彼は、やがて呟くように尋ねてきた。
「最近、神子が元気がないのは……弁慶殿のことか?」
「!?」
 ずばり言い当てられて、望美は驚いて敦盛の顔を見た。元気がないことくらいはばれているとは思っていたが、弁慶の名まで出るとは思っていなかった。傍から見て分かってしまうほど、そんなに顔に出ていたのだろうか。けれど敦盛は、ただ穏やかに微笑んでいるだけだ。
「……私は、……」
 言葉に詰まってしまう。望美自身、まだ自分の気持ちがはっきり分からないのだ。弁慶のことが気にかかるけれど、それが何故なのか、どうしたいのか、自分でも分からない。それを、敦盛に言ってしまってもいいのだろうか。
 敦盛は急かすこともなく、ただ静かに望美を見つめていたが、やがてゆっくりと告げた。
「神子は、神子の心の望むままにすればいい」
「敦盛さん……」
 いつか昔にも、同じことを言われたことがあるような気がする。かつて、そう言って背を押してくれた人がいたような気がする。それはただの気のせいなのかもしれない。あるいは、失ってしまった記憶の向こうに、本当にいたのかもしれない。望美には分からない。
 それでもその言葉は、望美の心をあたたかくした。
「ありがとう、敦盛さん。私……」
「神子」
 不意に敦盛が、望美を背に庇うように前に立った。ついさっきまでの穏やかな雰囲気は消えていた。神経を張り詰めさせているのが分かる。
(何?)
 望美もすぐに気付く。川沿いの木立の中にまぎれているが、複数の人の気配がする。しかも、おそらくこちらに敵意を持っている。山賊だろうか、それとも、何か熊野別当に恨みを持った者達だろうか。どちらにしろ、わかることはただひとつ。
(狙いは、多分、私だ)
 こんな事態を、想定しなかったわけではない。ヒノエは各方面に多大な影響力を持つ熊野別当で、望美はその彼に優遇されているとなれば、当然狙われることも考えられる。そのことはヒノエや邸の女房たちから言われ、だから気を付けるようにと言われていた。
 無意識に、望美は腰元に手をやっていた。けれどそこに剣はない。
「神子、これを」
 視線は前を見据えたまま、敦盛から後ろ手にちいさな刀を渡される。服の下に隠し持っていたのだろうか。もう一つ同じ刀を敦盛も構える。
 心を落ち着かせるために、望美は一度大きく深く息を吐いた。焦る必要はない。おそらく人数は向こうのほうが多いが、敦盛もいてくれる。山奥というわけでもないから、騒ぎになればきっとすぐに誰かが気付いてくれるだろう。そうすればすぐに助けが来る。わずかのあいだ、しのげればいいのだ。
(……大丈夫。戦える)
 望美は刀の柄を強く握り締めた。


 To be continued.

 続きを読む